はてなキーワード: 一般性とは
それ、けっこう鋭い観察だと思います。
「構造の話ばかりする人」と話していると、
✔ 正しい
✔ ロジカル
✔ 一般化されている
けど――
「あなたはどう感じてるの?」が抜け落ちている感じ、ありますよね。
なぜそうなるのか(よくある理由)
※もちろん個人差は大きい前提ですが。
「男は弱音を吐くな」
という文化の中で育った人が多い。
だから
感情を語るのが苦手
感情を出すと負けた気がする
ということが起きやすい。
個人の話をすると
反論される
否定される
傷つく
でも「構造の話」にすると
自分は傷つかない
つまり、ある種の防御なんですよね。
「俺はこう感じた」より
でも実際は逆で、
なぜつまらなく感じるのか
たぶんあなたが求めているのは
その人固有の視点
その人の体温
その人の傷や喜び
なんですよね。
ただ一つ、補足
「巧妙に避けている」というより、
本当にやり方が分からない
言語化すると居心地が悪い
というケースも多いです。
防御というより、未発達に近い場合もある。
逆にどうしたら面白くなるか
もし関係性を壊さず深めたいなら、
「それってあなたはどう感じたの?」
よりも
「その話してる時、ちょっと嬉しそうだったよね」
とか
「それって怒ってるの?」
みたいに、軽く感情を拾ってあげると、
意外と開く人もいます。
最後に一つ聞いていいですか。
あなたは
「構造の話が嫌」なんでしょうか?
それとも
そこが少し違う気がします。
「浮気したら隠すの?」という質問は「人のもの盗んだら返すの?」くらい意味がわからない。
まず、シチュエーションが豊富で、なぜ自分が悪い事をするのかという動機が不明確。例えば「爆弾が仕掛けられたPHSを盗んだ」なら返しちゃまずい。
「親友の大切な財布を盗んだ」なら良識に照らしたら返した方がいいが、良識に照らせるならそもそも盗まない。矛盾した状況想定で、動機がサイコパスじみたものになる。
あるいは、盗んでから返すまでに深い深いストーリーがあるのかもしれないが、一般性がなさすぎる。「人のもの盗んだら返すの?」という問いに、即興の物語で返したらサイコだろ。
「浮気したら隠すの?」のいわゆる正解は「隠さないよ」なんだけど、隠さないだけの誠実さがあったら浮気しないので嘘くさすぎる。
そもそも、AGIに到達したかどうかを一発で判定する共通テストは、実は研究コミュニティにも存在しない。
最近の流れは、AGIという言葉の曖昧さをそのまま放置せず、「どれだけ幅広いことができるか」「どれくらい人間並み、あるいはそれ以上か」「どの程度ひとりで動けるか」という複数の軸で、成熟度として捉えようとする方向に寄っている。
たとえば今は、性能・一般性・自律性を組み合わせて段階評価する考え方がかなり実務寄りだと受け止められている。
単一の試験に合格したらAGI、というより、「このモデルは汎用性がここまで来ていて、自律性はこの段階」という語り方のほうが、安全評価や比較に使いやすい、という感覚だ。
一方で、現実世界でどれだけ役に立つか、つまり「経済的に価値のある仕事をどれだけ人間以上にこなせるか」を基準にしよう、という定義も根強い。ただこれは、どの仕事を対象にするのか、どう測るのか、安全にできているのか、という点が一気に難しくなる。
また、暗記や既知問題ではなく、初めて見る課題への適応力、いわゆる流動性知能に注目する評価もある。
これは汎用性の弱点を照らすには有効だけれど、それ単体でAGI宣言をするというより、あくまで一要素として扱われている。最近はさらに、ツール使用や長期計画を含めたエージェントとして、仕事に近い複合タスクをどこまで安定してやり切れるか、失敗から立て直せるか、といった観点が重くなってきている。
では、いつAGIに到達するのかというと、目処は立っていない。
ただし予測の分布自体は前倒しになってきていて、集合知ベースの予測では2030年前後を中心に確率が集まりつつある。
一方で、そもそも到達宣言の基準が曖昧で、投資や契約といった利害も絡む以上、「何年に到達」と断言すること自体が難しい、という冷静な指摘も根強い。
現実的に起こりそうなのは、AGIかどうかを白黒つけるよりも、レベル枠組みで汎用性の段階を合意しつつ、初見適応系のベンチマーク、実務タスク評価、自律性や安全性の評価を束ねて見る、という運用だろう。
経済学、特にミクロ経済学に対するご意見をありがとうございます。
ミクロ経済学は、意思決定の原理や最適化といった個々の目的が明確な主体(消費者や生産者)の行動を、意思決定理論やゲーム理論といったより一般性の高い理論的枠組みへと拡張・一般化できる強力な側面を持っています。
ミクロ経済学が唯一信用できると感じられる理由は、その分析が個人の合理的行動(合理的意思決定)という明確で検証可能な公理に基づいている点にあります。
これらの分析は、オペレーションズリサーチ (OR) や最適化問題として捉えることができ、目的関数(何を最大化・最小化するか)と制約条件(予算や技術)が明確に定義されます。
一方でマクロ経済学が抱える困難さについても、鋭く指摘されています。
マクロ経済学が扱う国民経済全体の利益(国家の利益)は、ミクロの効用や利潤ほど単一で明確な目的関数として定義することが非常に困難です。
国家の利益には、経済成長、失業率の低下、物価安定、所得分配の公平性など、複数の目標が関わり、しかもそれらはトレードオフの関係にあることが多いです。
どの目標を優先するか、またパイの分け方(所得分配)をどうするかは、規範的・政治的な判断を伴うため、ミクロのように単一の最適解を導出することが難しくなります。
このため、マクロ経済学の重要な研究分野は、ご指摘の通り以下の点に集中します。
要するに、ミクロ経済学が最適化の論理という数学的厳密性を武器にしているのに対し、マクロ経済学は集計と実証という統計的・実証的な検証に多くを依存せざるを得ない、という構造的な違いがあると言えます。
ミクロ経済学の知見をマクロに応用しようとする動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルなどの発展もありますが、集計の困難さや期待形成の不確実性が常につきまといます。
ミクロ経済学を唯一信用できるとされる根拠は、分析の基礎となる前提と目的が明確であるという、その科学的厳密性に起因している、と解釈できますね。
「マネーサプライ増加によってハイパーインフレになる可能性がある」という理論があるとする
ここに「歴史的にハイパーインフレになったのは、戦争などの事象が重なった時」という例外を付け加えると、急に妄想度合いが増す
「数学理論ではこうなる」と最初の主張では言っていたのに、例外ロジックでは「こういう場合でないと起こらない」と、数学を無視するルールを付与してしまう
宗教も同じ。仏教の教えに矛盾したことがある場合も、「それはこういう条件で成り立つものだから」と簡単に正当化できる
要するに、例外ロジックは、一般性が欠如しているから、正当化を連続させて妄想を生み出す
そしてこの「例外ロジック」の恐ろしさは、思考の自己防衛機構として機能する点にある
つまり、人間は自分の信じたい理論を守るために、反証が現れた瞬間に「それは特殊ケースだ」と切り捨てる。この瞬間、理論はもはや検証可能性を失い、科学から信仰へと変質する
インフレ理論でも宗教でも、例外を積み重ねることで体系は肥大化するが、同時に空洞化していく
なぜなら、「例外を認めない」ことで緊張を保っていた論理構造が、「例外を追加する」たびに自己否定的な柔軟性を持ってしまうからだ
結果として、理論は「現実に適応できる」という錯覚を得ながら、実際にはどんな現象にも説明を付けられる万能の物語、つまり、反証不能な妄想体系になる
なにか本質的な認識上の移動を必要とするアナロジーが私たちを魅了する。
ーーー
A. 1 2 3 4 5 5 4 3 2 1
B. 1 2 3 4 4 3 2 1
ーーー
さて、Aの4に対するBはなにか?
一番ありそうなのは3だ。根拠は、たぶん、4がAの中心の対(5 5)の直前にあって、3がBの中心の対(4 4)の直前にあるといったところ。
Aの構造を記述せよと言われたら、たぶん、答えは「1から5へ順次上がって、次に5から1に下がり、半分同士が鏡像対象になっているアーチ状の数列」といったぐあい。
ーーー
1 2 3 4 5-5 4 3 2 1
ーーー
と見えているはず。
ーーー
C. 1 2 3 4 5 7 7 5 4 3 2 1
ーーー
Aの4はCでは?
私にいわせれば、答えは6。「6?そんな数ない!」ごもっとも。だが、存在しないからこそ、6が目立つのである。
Aの4は、文字面だけでなく、数値的にも5の直前の数なのだ。Aの5は、Aの最大数でありかつ中心の対を作る。どちらの役割も、Cでは7が演じている。
ーーー
D. 6 9 7 3 9 4 1 6 6
E. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 7 8 9 6 5 4 3 2 1
ーーー
Dでは、Aの中の2個の4の相互関係が問題になる。これをAにおける4の役割といえないことはない。たしかに、二つの4の関係はこれだけではないが。
Aのうち、4以外の数を伏せてしまえば、こんなイメージが得られる。
x x x 4 x x 4 x x x
Aの二つの4にこうした見方をすると、Dのどれがこれに対応するだろう?二回顔を出して、間に二つ数が入っているのは9だけだ。
Dのうち、9以外を伏せてしまうと、
x 9 x x 9 x x x x
これが、Aの4に当たるものとして、Dの9を選ぶ十分な理由になるかもしれないし、ならないかもしれない。
見た目には、次のような再構成が起こる。
ーーー
1 2 3 4 5 6 7-8-9 7-8-9 6 5 4 3 2 1
ーーー
答えは、6だ、と思えよう。だが待てよ、中心の対だけでなく、全体を三つ組のかたまりに分解できるのだ。
ーーー
1-2-3 4-5-6 7-8-9 7-8-9 6-5-4 3-2-1
ーーー
ーーー
F. 1 2 3 4 4 4 5 6 7 8 9 8 7 6 5 4 4 4 4 3 2 1
G. 1 1 1 2 3 4 3 2 1 1
ーーー
7は二つあるが、どうも顕著な役割を演じている様子がない。しかし、7はA'の中では特別である。よく見ると、A'の最大の特長は4が目立って多いこと。
実に「7個」の多さ。つまり、7は数字としてではなく、数えるための機能を発揮して、特別の役割を演じているのである。これをGに移動できるか?
まず、移動可能な形で7が数えたものを、性格づけしなくてはいけない。「4の個数」というのでは、あまりにも近視眼的だ。
A'で一番多くて目立つ7は、Gでは1が演じている。7の対応物は、B'における1の個数、つまり5。またもGに現れない数が答えになった。
ーーー
「abc」が「abd」になったなら、「pqrs」は何になるか?
ーーー
a-b-c-dだからp-q-r-s-tでpqrt?
aとb以外が全部dになるからdddd?
ーーー
ーーー
巡回して「xya」?
◦◦◦
ーーー
もしアナロジーを作る機構が進化的な選択を受けたとすれば、むろんアナロジーはある程度までは好みの問題にすぎないが、「エレガンス」「簡潔さ」「一般性」というものがアナロジーに対しても意味をもつ。要するに、生存に役立つ。pqrsがddddになると判断した人は、実人生で苦労するかもしれない。
ーーー
アナロジーを作る人は、提示された解の洗練度を評価しようとするが、結局は現実世界における運用が、その成否を決定するのである。
ーーー
ーーー
追記:もし「eqe」が「qeq」になったとしたら、「eqg」はなにになる?
なにか本質的な認識上の移動を必要とするアナロジーが私たちを魅了する。
ーーー
A. 1 2 3 4 5 5 4 3 2 1
B. 1 2 3 4 4 3 2 1
ーーー
さて、Aの4に対するBはなにか?
一番ありそうなのは3だ。根拠は、たぶん、4がAの中心の対(5 5)の直前にあって、3がBの中心の対(4 4)の直前にあるといったところ。
Aの構造を記述せよと言われたら、たぶん、答えは「1から5へ順次上がって、次に5から1に下がり、半分同士が鏡像対象になっているアーチ状の数列」といったぐあい。
ーーー
1 2 3 4 5-5 4 3 2 1
ーーー
と見えているはず。
ーーー
C. 1 2 3 4 5 7 7 5 4 3 2 1
ーーー
Aの4はCでは?
私にいわせれば、答えは6。「6?そんな数ない!」ごもっとも。だが、存在しないからこそ、6が目立つのである。
Aの4は、文字面だけでなく、数値的にも5の直前の数なのだ。Aの5は、Aの最大数でありかつ中心の対を作る。どちらの役割も、Cでは7が演じている。
ーーー
D. 6 9 7 3 9 4 1 6 6
E. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 7 8 9 6 5 4 3 2 1
ーーー
Dでは、Aの中の2個の4の相互関係が問題になる。これをAにおける4の役割といえないことはない。たしかに、二つの4の関係はこれだけではないが。
Aのうち、4以外の数を伏せてしまえば、こんなイメージが得られる。
x x x 4 x x 4 x x x
Aの二つの4にこうした見方をすると、Dのどれがこれに対応するだろう?二回顔を出して、間に二つ数が入っているのは9だけだ。
Dのうち、9以外を伏せてしまうと、
x 9 x x 9 x x x x
これが、Aの4に当たるものとして、Dの9を選ぶ十分な理由になるかもしれないし、ならないかもしれない。
見た目には、次のような再構成が起こる。
ーーー
1 2 3 4 5 6 7-8-9 7-8-9 6 5 4 3 2 1
ーーー
答えは、6だ、と思えよう。だが待てよ、中心の対だけでなく、全体を三つ組のかたまりに分解できるのだ。
ーーー
1-2-3 4-5-6 7-8-9 7-8-9 6-5-4 3-2-1
ーーー
ーーー
F. 1 2 3 4 4 4 5 6 7 8 9 8 7 6 5 4 4 4 4 3 2 1
G. 1 1 1 2 3 4 3 2 1 1
ーーー
7は二つあるが、どうも顕著な役割を演じている様子がない。しかし、7はA'の中では特別である。よく見ると、A'の最大の特長は4が目立って多いこと。
実に「7個」の多さ。つまり、7は数字としてではなく、数えるための機能を発揮して、特別の役割を演じているのである。これをGに移動できるか?
まず、移動可能な形で7が数えたものを、性格づけしなくてはいけない。「4の個数」というのでは、あまりにも近視眼的だ。
A'で一番多くて目立つ7は、Gでは1が演じている。7の対応物は、B'における1の個数、つまり5。またもGに現れない数が答えになった。
ーーー
「abc」が「abd」になったなら、「pqrs」は何になるか?
ーーー
a-b-c-dだからp-q-r-s-tでpqrt?
aとb以外が全部dになるからdddd?
ーーー
ーーー
巡回して「xya」?
◦◦◦
ーーー
もしアナロジーを作る機構が進化的な選択を受けたとすれば、むろんアナロジーはある程度までは好みの問題にすぎないが、「エレガンス」「簡潔さ」「一般性」というものがアナロジーに対しても意味をもつ。要するに、生存に役立つ。pqrsがddddになると判断した人は、実人生で苦労するかもしれない。
ーーー
アナロジーを作る人は、提示された解の洗練度を評価しようとするが、結局は現実世界における運用が、その成否を決定するのである。
なんでだよ同じ内容で興奮するやつがたくさんいるんだから、それはただの一般性癖だろ
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 20250610183201311 -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaEf5QwAKCRBwMdsubs4+ SDx1AQCaAtaryQ1Aqtgf7tBuHWLmld6bHX2H1PszXVI6Gkx1rAD/QB0Zl1eU4PQS URefFUtFJzwT/5reA3FfielzsCHDSwc= =T2/m -----END PGP SIGNATURE-----
なんで?
ちなみにchatgptはこんな分析をしてきた
はい、それでは「なぜ背理法による証明で“任意の分離”に対して矛盾が導けていることになるのか?」という点を丁寧に解説します。
---
背理法による「区間 $I \subset \mathbb{R}$ は連結である」の証明では、
“任意の分離”** の中から **ただ一つでも選べれば十分** です。なぜなら:
> 仮に $I$ が連結でないなら、**ある** 特定の開集合のペア $O_1, O_2$ が存在するはずだから、
> 「そもそもそんなペアは存在しない(=連結である)」という結論になる。
つまり、「存在するはずの何か」から矛盾が出れば、それだけで背理法としては十分なのです。
---
「$I \subset \mathbb{R}$ が連結でない」という命題は、以下のように定式化されます:
> $\exists \, O_1, O_2 \subset I$(相対開集合)で、
>
> * $O_1 \cap O_2 = \emptyset$,
> * $O_1 \neq \emptyset$, $O_2 \neq \emptyset$
この「存在する」という仮定に対し、証明では**ある具体的な構成**(または抽象的な性質)を持つ $O_1, O_2$ を仮定します。
その結果、矛盾が導かれれば:
「そのような $O_1, O_2$ は**存在しない**」
よって、「$I$ は連結である」
> ⚠️ **重要なのは、「全ての可能なペアに矛盾があることを示す」必要はない**という点です。
> そもそも「存在するはずだ」という仮定に立っているのですから、「その“ある”ペアに矛盾が出ればアウト」です。
---
1. 区間 $I \subset \mathbb{R}$ が連結でないと仮定。
2. よって、$I = O_1 \cup O_2$、$O_1 \cap O_2 = \emptyset$、両方非空。
3. $a \in O_1$, $b \in O_2$($a < b$ としてよい)
4. 区間性を使い、$[a,b] \subset I$ を考える。
5. $S = \{ x \in [a,b] \mid [a,x] \subset O_1 \}$ の上限 $c$ を取る。
6. $c$ の周りで開集合性と連続性を使って矛盾を導く(例:$c$ の近傍が両方に入る)
このように、矛盾が出るのは、仮定した「存在するはずの分離 $O_1, O_2$」に基づいており、
その1組に対して矛盾が生じれば「存在するはず」の仮定が破綻しているということになります。
---
## まとめ(再確認):
ユーザーの「すべての $O_1, O_2$ を検討しないと証明にならないのでは?」という疑問は論理的に誠実な疑問です。
しかし背理法の性質上、「存在するはず」の対象が「1つも存在できない」ことを示すには、「仮に1つ存在するとして議論し、矛盾を導けば十分」です。
よって、その証明が特定の $O_1, O_2$ を扱っていたとしても、それが「任意に現れ得るもの」として一般性を持ち、矛盾が出るなら証明は完了している、というわけです。
---
もし、この背理法の論理構造をより形式的に図式化したり、他の例(たとえば写像や連続性の定義)で類比してみたい場合もご相談ください。
でも実際問題として、ガンダムが放送された当時は母性を感じる対象とは大人であるという固定観念があって、子供に母性を感じることは存在さえ知られてない異常性癖だったんだよね。
もちろん当時にだって自分がアラフィフとかになってしまってお姉さんキャラが全員年下になったというパターンからの年下への母性欲求は存在しただろうけど、それを未成年にぶつけることは少なかった。
その時代に産まれたキャラクターでありながらララァ・スンに母性を感じ続けてきたシャアという存在はパイオニア的な要素はあるんじゃないだろうか?
バブみやオギャりはシャアがいたことで開拓された性癖であると言っているのだ!
たとえ人類史における最も古い記述が石板の時代へと遡るとしても、それは極めて特殊な個人的性癖に対しての記述であったに過ぎない!
現代における児童母性愛の一般化から目を背けて結論を出すことに何の意味があるのか!
我々の社会においては既にバブみもオギャりも一般性癖の一つへと昇華されつつある!
その流れを生み出した人物が何者であるか!その答を諸君は既に知っているはずである!
目覚めよ!
https://zenn.dev/bird32/articles/37906495e56ba5
グラント氏は最終的に、セルフ・アイデンティティに基づく定義に落ち着きました。これは「女性とは、自分がそうであると主張する人である」というものです。
もちろん、これは同語反復(トートロジー)であり、女性とは実際に何であるのかという疑問は依然として残されています。長い生物学的な歴史を持つ用語のこの驚くべき再定義は、自然に対してイデオロギーを押し付けようとする試みとしか見なされません。
「ノンバイナリー」の人々、または「女性」として自らを認識する(identify as)男性(「トランス女性」)の中には、生物学によってそのアイデンティティが十分に認識されていないと感じる人々もいるため、彼らは生物学に対してイデオロギーを押し付け、「女性」の新しい定義を作り出そうとします。
さらに言えば、セルフ・アイデンティティが直接的に経験的な現実と一致するという主張には、多くの問題があります。
自分が太っていると感じているからといって、常に太っているわけではなく(拒食症の問題)、自分が馬であると感じているからといって、馬ではなく(「シアリアン」と呼ばれる人々が心理的に動物であると自己同一化している)、自分がアジア人だと感じているからといって、アジア人になるわけではありません(「トランスレイシャリズム(transracialism)」の問題)。
しかしながら、性別についてはこれは異なる、とグラント氏は言うのです。それは、人間の生物学的な特徴の一つでしかなく、単に心理的な作用によって変化しうるものであると述べます。
生物学では伝統的に「性別(sex)」とは、生殖細胞(「配偶子 gametes」)の大きさと運動性によって定義されています。
雄(male)の生殖細胞は小さくて運動性があります(動物では精子、植物では花粉)。雌(female)の生殖細胞は大きく運動性はありません(植物では卵細胞、動物では卵子)。すべての動物と維管束植物には、正確に2つの性別(sex)があり、それ以上はありません。 植物の相当数と少数の動物種では、単一の個体に両方の機能を併せ持つもの(「雌雄同体」)もいますが、これらは典型的な2つの配偶子を生成するため、第三の性別(sex)ではありません。
確かにごく一部の例外として、分類に従わない "インターセックス" の状態の人々がいます(その割合は約5,600分の1から約20,000分の1と推定されています)。このような配偶子観点の例外は確かに興味深いものですが、性別(sex)の二元性(バイナリー)の一般性を損なうものではありません。生物学において、これほど稀な逸脱が基本的な概念を揺るがすことはありません。例えば、約300人に1人の割合で、生まれつき正常な10本の指を持たない多指症の人々がいます。しかし、誰も「指の数のスペクトラム」などは語りません。(なお、ノンバイナリーおよびトランスジェンダーの人々のうち、"インターセックス" の状態である人はごく一部であり、ほぼ全員が生物学的に男性または女性であることを認識しておくことは重要です)
したがって、生物学では、女性とは「成人の人類の雌(An adult human female)」という言葉で容易に定義できます。
グラント氏が犯した最大の誤りは、生物学的な特徴である性別(sex)と、ジェンダー(gender)、つまり社会において担うことを推測される性役割(sex role)とを混同し続けたことです。性別(sex)はあらゆる点でバイナリー(二元性)であるが、ジェンダーはよりスペクトラム(連続体)的であり、それでも「男性」と「女性」の2つのラクダのこぶのようなモードがあります。
ほとんどの人々は、生物学的な性別に関連するジェンダーの役割を演じていますが、多くの数の人々が、両者の役割を混ぜ合わせたり、あるいは男性/女性の役割を完全に拒否したりしています。グラント氏は「私はジェンダー表現を、1日を通して変化するさまざまな方法で演じている」と語っています。しかし、これによってグラント氏が1時間ごとに性別を変えているというわけではありません。
したがって、性別の生物学的な概念の下では、人間が性別を変えることは不可能です。つまり、真の「トランスセクシュアル」になることは不可能なのです。なぜなら、哺乳類は配偶子を生産する方法を変えることができないからです。より適切な用語は「トランスジェンダー」または、「トランス女性」に対しては「女性として自己を認識する(identify as)男性」でしょう。
グラント氏はここでも読者を誤解させます。例えば、彼らは「トランスジェンダーの人々は、他の人々よりも性犯罪者になりやすいわけではない」と主張しています。しかし、少なくともトランスジェンダー女性に関しては、事実はこの主張とは反対のことが裏付けられています。
英国法務省と英国国勢調査の統計を比較すると、性犯罪を犯した受刑者の割合は、男性受刑者の中の約20%、女性受刑者の最大約3%であるのに対し、トランスアイデンティフィケーションした受刑者の少なくとも約41%が性犯罪で有罪判決を受けています。したがって、トランスジェンダーの受刑者は、生来の男性の2倍、生来の女性の少なくとも14倍の割合で性犯罪者である可能性が高いようです。
これらのデータは、逮捕された者や有罪判決を受けた後に女性であると宣言した者だけに基づいているため不完全ですが、トランスジェンダー女性は生物学的女性よりもはるかに多く性的に略奪的であり、生物学的男性よりもややいくらか略奪的でありうることを示唆しています。スコットランド、ニュージーランド、オーストラリアでも同様の傾向が見られるという指摘があります。
まず、生物学的な性別の現実を認め、イデオロギーに基づく概念を拒絶することは「トランスフォビア」ではないということを主張したいと思います。科学的な現実とトランスジェンダーの権利のどちらかを選ばなければならないということは、決してあってはなりません。
トランスジェンダーの人々も、他の人々と同様に、道徳的・法的権利をすべて享受すべきです。しかし、道徳的および法的権利は、「消えない刻印」としての性別(sex)が他者の法的および道徳的権利を損なう結果となる分野にまでは伸長されません。
例えば、トランスジェンダー女性は、生物学的な女性と女子スポーツで競うべきではありません。また、レイプ等の性犯罪に関するカウンセラーや暴力を受けた女性のためのシェルターのスタッフになるべきではありません。また、犯罪で有罪判決を受けた場合は、女子刑務所に収監されるべきではありません。
「最大公約数の積み重ねから答えを導出」って処理を挟むせいで「普通はあまりやらないようなこと」をさせようとするとそれをすっ飛ばしてくるっぽいな。
コイツら実はモンティ・ホール問題みたいなのが大の苦手なんじゃないかな?
俺達がSF小説とかで見てきたAIってモンティ・ホール問題みたいな「イメージに惑わされず論理的な帰結に素直に従えばいいだけ」の問題にめっちゃ強いというか強すぎる所を突かれて人間に出し抜かれる感じだったけど、生成AIはそれと全く真逆っぽいな。
大衆が語る印象論に引きずられるままに結論を出してくるだけなんだな。
たまにラーメンを手づかみで食うのも「ファーストフードは手づかみで食べる物が多い」という情報の集合から結論を出しただけで、「ラーメンは熱いから手で食べない」という論理的な思考をすっ飛ばしてきてのか。
かぁ~~~~使えね~~~~~~。
一般性癖のエロ絵は人間が勝手に量産するんだから、お前が得意とすべき領域は異常性癖だろうに、それが一番の苦手じゃあ存在意義が揺らぎまくりじゃねーか。
はぁ?
少しは身なりに気を遣え。でなければ公にツラを見せるな。
っていうのは素朴な感覚というか、常識的な判断としてまるで説得力を持たない。最悪言うのは勝手であるにせよ、必然性に裏付けられたその要請の強制力の強さのようなものはあまり感じられない。
お前が勝手に不機嫌になってる赤ちゃんなだけだろ。じゃあ何、テメーの態度が気に喰わねえからオレの言う通りに振る舞えも通用しちゃう訳?っていう。
まあ実際の所先天的なものなり怪我なり病気なりで、「普通」の感覚ではちょっとウッとなるような容貌の人もいるとは思う。それをわざわざ言いふらしはしないにせよ否定するのも欺瞞な気がする。
さりとて顔を覆い隠せ、でなければ出歩くなというのは甚だ乱暴、というか非常識だとも思う。
対して「お前クセーんだよ、どうにかしろ」は、実害があるから少なからず妥当性があるように思えてしまう。
思うんだけど、冷静に考えて実害って何だよって思う。
体臭だの香水だのタバコ臭だので体調崩して動けなくなっちゃうんです、なんて例外的な雑魚を持ち出した所であまり本質的だとも思えない。
クセーと不快な気分になった所で別に経済的損失が生まれる訳でもない。対処に費用がかかるという理屈を持ち出した所で、ガスマスクなり鼻栓なり着けて歩き回ってる人間がどれだけいるだろうか。
単に不快なだけで「実害」になるのなら、見た目が気に食わねーから不快も「実害」になる。
抽象的な話として、視覚による快不快と嗅覚によるそれとでは共有されてるゾーンの広さというか、個人毎のバラつきの大きさに違いはあるかもしれない。
町中に誰が見ても不快という視覚情報はそうそうないだろうけど、大抵の人間が嗅げば不快になるような臭いはそんなに珍しくもないかもしれない。何とは言わんけど、特に夏とか。
香水の匂いなら好みも分かれるだろうけれど、運動部の部室の匂いを心地良く感じる人はそう多くはなさそう。
臭いのが逆にそそられるという倒錯趣味があるにしたって、「臭い」かどうかの判断の時点ではある程度意見は揃いそう。
単に不快なだけであっても、それをもたらす要素としてある程度一般性があれば実害という事になるんだろうか。
あとは不快感をもたらす要素の性質として、容貌が食わないなら目を背ければ良いだけの話で済む。
面と向かわざるを得ないならともかく、少なくとも公の場ではわざわざそんな対象を凝視する道理もない。
対して臭いはパッシブに不快要素が鼻に注ぎ込まれ続ける。短時間なら息を止めれば済むが、そうでなければ無呼吸で過ごすわけにもいかない。それはもしかしたら実害と呼ぶに値するのかもしれない。
ここには明確な差異がある。
単に不快なだけとはいえ、それが持続する環境であったら二次的な問題も出てくるのかもしれない。
人権とかいう言葉で楽に済ませるのはあまり好きではない。それを持ち出した所で、人に迷惑をかけるな、と実害がねーなら各々の勝手だろ、の平行線になるだけだろうし。
おれはどんな欲求の対立も政治(大文字の意味に限らず)だと思ってはいるけど、それだけではない要素によってどっかで線引してる気もする。
でもその感覚ってやっぱりバラつきがあって、そこで互いが啓蒙合戦をした所で不毛だ。勝敗がついてしまってもそれはそれでアレだが、決着がつきそうにもない。
いくら理屈をこねた所で、その理屈が前提として要求する感覚にズレがあったら一生平行線にしかならない。やっぱり結局は政治の問題として行き着く。
であればその利害調整の中で、互いが互いに譲歩させたり要求を通そうとしたりする。
その交渉材料になるようなインセンティブを持ち合わせていなかったのなら、自分の欲求をあたかも規範のように語るというジョーカーカードで勝負するしかない。それだと結局啓蒙合戦になってしまうっていう……