はてなキーワード: 母親とは
今週末はアーティゾン美術館。来週は埼玉県立近代美術館で、その次は国立科学博物館。もうマジで勘弁してほしい。なんなんだよ。
うちは毎週末、ほぼ欠かさずどこかの美術館か博物館に行っている。俺、妻、小1の子ども。
つらい。本気でつらくなってきた。
展示室に入って10分で飽きるんだよ美術館なんて。小学一年生ってのはそう言う年齢だろ。
ピカソの青の時代を、マインクラフトとポケモンに夢中な彼にどう説明すればいいのか。
チケット売り場にはベビーカー抱えた家族連れの列いた時は正気を疑ったわ。赤ん坊に展示物見せてどうするねん。
うちの家庭以外も、展示室で「シーッ!」と注意されながら走り回る子どもと、それを無表情に追う親。知性のテーマパークだね。ある種社会科見学だけど、楽しくはないわ。イライラするわ。
週末、妻は「今日はアーティゾンにしようかな」「来週は科博の企画展がいいかも」とノリノリ。お前、7歳でアーティゾン美術館はねえだろうよと思う。(都度都度ちゃんと言ってるけど聞いてくれん)
いや、違う。美術館の場所が問題なんじゃない。ていうか博物館でも嫌だ。県立近代美術館行こうと言われても、困る。現在進行形で予定に入ってるから困っていリングなんだが。そういう意味じゃない。
ていうか行ったわ。うらわ美術館とかも先週。あそこならクソガキでも、とまあ思わんでもない。許容範囲。でもゴミだよね。週末としては。
展示は現代アート寄りで、小1の息子には難解すぎ。例によって速攻で「ねえ、まだ?」「これ、なに?」を繰り返す息子と、「ちゃんと観なさい!」とかガミガミする妻。これが文化資本溢れる家庭の姿か?
パリのカルティエ現代美術財団行って彫刻見たし、ベルリンではシャルロッテンブルク宮殿の庭園でボッティチェリの線に思いを馳せたりしてましたよ。
ナビ派展とか友達連中と行きましたよ。でもそういういうのって、多分大学生レベルでの話じゃん。ガキ連れてってどうすんだよ。まだポケカの大会連れてってやった方が勉強になるわ。
原因がわかってる。
最近、妻が『知的な家庭のつくりかた』だとか『子どもの未来を変える「文化資本」の話』みたいなの仕入れてるっぽいんだよな、どこかで。多分増田みたいなゴミカスサイトとかで。
SNSにも「週末は〇〇美術館。こどもと感性を育てるひととき」なんて投稿してるっぽい。(たぶん、育っているのは文化的なキラキラ家庭を演じる能力だけなんやけどなブヘヘ)
美術館に行くと、同じような家族連れが目に入るのが、また一層、嫌さを引き立てる。ていうか俺家族連れ嫌いなんだよな。美術館とか博物館にドヤ顔で来てるようなやつら。俺もその一員なんだけど。
夫婦+子ども1〜2人。親はスマホで写真、子は床に座り込む。会話は減り、展示室に溢れるのは「行動履歴の提出」のような空気。
みんな、「よさそうなこと」を一通りやって帰る。消費された知性の残り香だけが漂っている。なんなんだお前ら。マジで。もうちょい絵とか展示物見てやれよ。見るってのはちゃんと、本気で見るってことな。
妻がそういう、ザコモブの一人なのが辛い。俺もか。家族でキラキラ文化資本家庭なぞってるのが本気で辛い。
まあ、大変なのはわかるよ。ネットや周囲のママ友が作り出す“文化的で理想的な家庭像”に、一生無言のプレッシャーをかけられてんだろうな。
その通りに振る舞うことで、ちゃんとした母親とか、意識の高い家庭的なアレを保っているのかもしれない。
近所のママ友も、最近はみんな「博物館行ってきた!」「科学館で知育!」と投稿しているらしく、それが普通になっているようだ。SNS教育受けてくれ頼むから。
誰かが始めた「文化的な週末」のテンプレが、静かに、でも確実に妻の中で義務になっている。そして彼女は、それを「自分で選んでやっている」と思っている。死んだ方が良い人間になりつつある。いやだなあ。
だから、美術館も博物館も、家族の誰も楽しんでいない。科学館行って「科学好きな子になってほしくて」と言いながら、自分は展示文を一切読まないのキツイってやっぱ。
少なくとも、子どもは展示より自販機のジュースのほうにテンションが上がる。
妻も、混雑と子どものぐずりで表情が硬い。
俺は俺で、ワークショップでキショイ笑い顔浮かべながら、「なんで俺、レンブラントの前でキッズ用ぬりえに付き合ってるんだろう」とぼんやり思っている。
子どもが楽しそうだったのは、正直、川口のイオンでトミカのイベントに行ったときとか、北浦和公園でザリガニ釣った日のほうなんだよな。
家でマインクラフトやってる方が、正直よっぽど文化的で創造的だと思うんだよな。
正直増田とかブクマカにいるようなマジョリティの主婦層が、「文化資本」とかいう意味わからん虚像に踊らされまくってるせいでうちの家庭が迷惑している。
どうしたら、もうちょいまともな感性の妻になってくれるのか、誰か教えて欲しい。
はい注目。
この眼鏡。
開発途中。
なんと無料!どうぞお試しあれ
え?無差別じゃなくなる?
「なにあの客お金払われたくな~いw」と隙あらば大声で愚痴りまくる土産屋店員?
被災者や震災ボランティア参加者のためのゲスト出演として登場させた力士を指さして侮蔑しまくる女子大生?
ストレス解消でパチンコ玉を赤ん坊に飲ませまくってるのに警察に逮捕されてない母親・・・
う~ん
なかなかですね
例えば性格の悪い引きこもりオタクが2人偶然外出してるとします。
周囲に人がいない空間に二人を並ばせて、赤色じゃなくなるのは、より人生での献血回数が多いほうです。
おおっと「性格の悪い引きこもりオタクに献血させるな!」みたいなことを思ってる人が真っ先に一番真っ赤っかになりました
まるでおサルのお尻です!さあ!あの人です!あなた様の衝動をぶつけてください!
わたくしめが決して
ァ決してムダにはしませんのでもう少々お待ちください!
#GQuuuuuuX 第7話を見てアンチになったので宣戦布告 #ジークアクス - 玖足手帖-アニメブログ-
ヌ・リョウグ・ダの宣戦布告 :https://notebooklm.google.com/notebook/64bb91cb-674e-4366-ae64-b3cae49e5f68/audio
本ドキュメントは、ブロガー「ヌ・リョウグ・ダ」氏によるブログ記事「黒歴史襲来!ジークアクス、潰すべし」の分析に基づいています。
この記事は、主に機動戦士ガンダムシリーズの新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(以下、ジークアクス)」第7話に対する強い否定的な感想と、
記事全体に警告や危険を示す言葉が散りばめられており、筆者の極めて個人的で攻撃的なトーンが特徴です。
筆者はジークアクス第7話に対し「つまらなかった」「吐き気がする」と明確な敵意を表明しており、
作品の演出、脚本、キャラクター描写、戦争描写など多岐にわたって批判を展開しています。
特に過去のガンダム作品や庵野秀明監督作品の手法を安易に模倣した「パッチワーク」「コピー品」であると断じています。
記事の大部分は、筆者自身の個人的な経験、特に母親の自殺、祖父母の複雑な背景、過労死寸前の経験、
精神的な不安定さ、そしてそれをガンダムやその他の作品と結びつけた独特の自己認識について語られています。
これらの経験が、彼の作品評価や世界観に深く影響を与えていることが示唆されます。
筆者は富野由悠季監督のガンダム作品に命を救われた経験があると述べ、
その深い思い入れがあるからこそ、今回のジークアクスに対して強い失望と怒りを感じているようです。
筆者は、過去のガンダム作品において「戦後」が十分に描かれていないと感じており、
しかし、ジークアクスは戦争の混乱や残虐さを描かず、安全でポップなエンターテインメントに終始していると批判し、その欠如に失望しています。
自身の壮絶な家庭環境や祖父母の背景(戦争犯罪者、淫売、戸籍捏造など)が現在にも影響を及ぼしていることへの苦悩を吐露しています。
筆者は自身を「精神障害者(2級)」「無敵の人」「異端者」「転生者」などと自称し、
このブログ空間内での「万能の発言力」を持ち、外部の常識や倫理とは異なる独自の論理で語っています。
SNSアカウントを持つ著名人(安田朗氏など)に対しても攻撃的な言動が見られます。
また、自身の思想をグノーシス主義と主張するなど、独特の思想体系を持っています。
・ジークアクス第7話は筆者にとって極めて「つまらない」ものであり、強い敵意の対象である。「今回のGQuuuuuuX第7話は、つまらないアニメを見た時の状態でした。」 「つまらないアニメを見ると、鬱になる。最悪の気分になって、途中で再生を止めて「クソッ!」と吐き捨て、見るのをやめるか…」 「ジークアクス君に期待していたのは「戦後の描写」だったのだ…やっぱりいつもの株式会社BANDAI SPIRITS ホビー事業部のプラモデル販売CMフィルムでしたね。」
・筆者の作品評価は、彼自身の壮絶な人生経験と精神状態に深く根ざしている。「僕はアニメを目ではなく心で見ている。アニメは視聴覚芸術文化なのに心で見ているというのは出崎統版ベルサイユのばらのオリジナルキャラクターみたいで変な言い方だが、とにかく精神で見ているのだ。」 「個人的な話なんだが、僕は前述のように母親を自殺で亡くしている。」 「というわけで、それ以来、僕にはメインのスタンドの脳内妹だけでなく、背後霊というか岸辺露伴に取りついたチープトリックみたいなものが「お母さんが亡くなってしまった」と常に言い続けている。」 「僕の人生の皮膚感覚としては、人は偶然ランダムに死ぬものであってドラマ性も特になく、ただ単に殺されたり事故にあったら死ぬって感じなのでドラマチックに整理された戦闘や死よりガンダムとかイデオンとかジョジョの奇妙な冒険とかクトゥルフ神話TRPGみたいにサイコロの目でランダムにすぐ死ぬアニメの方が僕の感覚に近くて馴染む、馴染むぞ!」
・筆者は富野由悠季監督に深い敬意と複雑な感情を抱いているが、同時に「裏切られた」経験や喧嘩も公言している。「ある意味、ガンダムのおかげで命拾いをしたという経験がある。一種の強化人間かもしれん。」 「僕も富野監督から「貴兄」と呼ばれて、「やっぱり僕は脳内妹のお兄ちゃんだと富野監督にも認められたんだ」と喜んだ。」 「監督に書かれた文は「推し活はいったん区切りにしませう」というわけで、離縁状なんだけどな。」 「僕のようにオタク活動を長くやっていると普通に富野監督に裏切られた人のことも知っているし、それはまだ表に出さずに交渉カードとして温存しているよ。富野監督レベルの人の人格がまともなわけないやん。普通に喧嘩もしているよ。」
・筆者のブログは、彼にとって外界から隔絶された独自の「固有結界」であり、そこで彼は「王」として振る舞う。「このブログは固有結界。22年の歳月と数千万文字の言葉と記事によって紡がれし王国であり城。」 「このブログの王国の中での彼は管理者権限を持つ王として、株式会社はてなの倫理的規定に抵触しない限り、万能の発言力を持つ。」
・筆者は、自身を「クズの孫」と称し、祖父母や両親の背景にある「戦中戦後のクソ倫理観」や「戦争」が自身の存在や現在にも影響を与えていると強く認識している。「祖父が陸軍中野学校卒の従軍憲兵として成り上がり、戦後は戦争犯罪を揉み消すために名前を変えて戸籍を捏造し戦後は公安幹部として叙勲されたこと、祖母が淫売で母親は私生児だったことを公言してはばからないほど、戦争に対する非常に深い憎しみとそれを超える狂気の持ち主です。」 「そういう男と女の間に生まれた淫売と戦争犯罪者の孫なんだ!」
「俺の戦争は終わってない!戦争で狂ったクソどもの生殖本能が俺を生み出した!」
この記事は、ジークアクス第7話に対する個人的で激しい批判を軸としつつも、筆者自身の壮絶な人生経験、精神状態、そして血縁と歴史(特に戦中戦後)からの影響について深く掘り下げた内容となっています。
作品批評というよりは、筆者の内面の吐露、あるいは一種のパフォーマンスアートとして解釈するのが適切かもしれません。
記事全体に漂う強い攻撃性や自己開示は、筆者の精神的な不安定さと、過去や血縁から逃れられない苦悩の表れと考えられます。
記事の末尾は、妹を名乗る人物による筆者の状態の説明と代筆という形で締めくくられており、記事の特異性を際立たせています。
その場は割り勘にしておくけど、後から男がこっそりお金を渡す、これがスタンダードになるだけだと思うで
今奢らせてる女は、奢りじゃなくなれば単に男と会わなくなるだけで何も困らない
女が男のリソース奪うとか言ってるけど、あくまでセックスとそれに伴うリスクへの対価、育児の対価としてなんだから
男がリソース出すことが犯罪になったら女はセックスしないし子どもも産まず平和に暮らすよ。
リソース自分から出す男だけがセックスできて子孫残せる、そういうことよ
(追記)
あとアンフェが騒ぎがちな女の犯罪傾向で「子どもの連れ去り」ってのがあるじゃん?
あれがいまいち盛り上がらないのって、非モテ男ってどうしても父親に感情移入するのが難しくて、母親が必死で守ろうとして「連れ去りられる」子どものほうに感情移入しやすいってのがあるんじゃないかと思う。
そりゃそうだろ、子どものほうに感情移入した場合、DV家庭から母親が一人で逃げ出すほうが恐怖じゃん。連れ去りを犯罪化して起こる事態ってそれだから。
Aルート
「バスクきた!」「サイコガンダム!」「来週毒ガスだろこれ!」「コロニーぶっ壊れるんじゃね」「Zも予習しなきゃね…」「暴走して母親殺しそう」
~放送後~
「バスクアホなん」「ビルすら破壊できないクソザコナメクジ」「Z見る必要あった?」「主人公戦闘しねぇのかよ」
Bルート
「乃木坂だこれ」「2014年やり直し説」「AKB0048」「ドゥーってハロプロ?」「サイコガンダムも乃木坂の衣装じゃん」
~放送後~
「やっぱハロプロだから1話で死んだな」「マチュが不祥事で炎上してニャアンがセンターって予想通り」「次庵野だから乃木坂ないじゃんつまんねーな」
結婚もしないし、ましてや子どもなんて絶対に産まない!と決意してた。が、あっさり結婚出産して、いまは母親として生きている。
結婚するに至った話はこっち。毒親育ちについても軽く書いてる。
https://anond.hatelabo.jp/20221022014901
.
毒親育ちで子を持った善し悪しを残しておきたい。同世代には毒親()育ちが多そうなので誰かのためになれば幸い。
.
.
.
・まず、最低限の生活だけで忙しく、“親の機嫌”という余計なことを考える時間がなくなった。
・とにかくやることが多くて時間が足りないので、両親の機嫌取りの優先順位が下がり、いつの間にか放置できるようになった。
・親がブチ切れたり、病んだりしても、またやってんな〜と適当に流せるようになった。(子を持つまでは毎回悩まされて不眠や体調不良になってた。)
・変えられない過去について思い悩んで生きてきたが、子どもに関連する全ては「未来」のことなので、今は常に先のことを考えるようになった。
・週末はどこへ行こう、夏になったら、3歳になったら、、、楽しみなことを計画するのは楽しいね。
・子どもは不思議なもので、私なんぞを必要としてくれる。のが嬉しくて、申し訳なくて、できる限りのことをさせていただきます精神から逆にポジティブになった。
・自称マトモに育てられてないので、とりあえず一般的な親を知るため育児本を読み漁った。出るわ出るわ悪い例に私の親かな?事例。生きづらいのは私のせいじゃなかったんだと号泣。
・『子どもが幸せになることば』『高学歴親という病』の2冊は気づきが多かった。読んでなかったら、子どもに無意識にやってしまうところだったよ。危ない。
・『毒になる親』は序盤で苦しくなってリタイアした。過去と向き合うことは保留ということで。
.
・覚えてることはもちろん、ついさっきまでスッカリ忘れていた嫌な記憶がふと蘇る。子育てしてると突然キッカケが現れる。子どもがいなきゃ、これはなかった。
・両親の仲が良好な環境で育つの羨ましい。まあ未来は分からんけど。
・他にもたくさん、私が得られなかった色々をこの先得ていくのかと思うとね。
・金銭面も人手面も、両親を頼れない。義両親も同じく。周りで家の頭金を出してもらったとか、近所に住んでいて育児手伝ってくれるとか聞くと惨めになっちゃう。
・頼れるのは己だけ。熱が出ようが、動けなかろうが、気合でやるのみ。まじでしんどい。行政とか福祉とか、いろ〜んな頼れそうな先は全部、条件的に使えそうにない。
・変わらず仲は良いし、育児も5:5くらいでやっており、状況は最高。
・ただ、お互いがお互いのことを優先順位No.1から、今は子どもがNo.1になったことで、気軽に甘えたり、頼れなくなった。自分のことは自分で、当たり前なんだけどね。
・要は寂しい。そんな自分がキモイ。もちろん母親としてクソな感情なので誰にも言わん。
・子どもといると、常に「母親」として正解の言動ができているか?ともう1人の私が監視している。しんど。
・精一杯やってるつもりだった育児について夫から「子ども自身をしっかり見てあげてほしい」と言われて死。やはりマトモに育ってない私は、頑張っても無理なのかもしれない。自己肯定感を失った。
・今は通勤電車がゆいいつの落ち着ける場所。誰でもない私でボケーッと過ごせる。
・ホントに子ども嫌い。うるさいし自由だし、何をしても許されると思ってる。泣けば願いが叶うと思ってる。全部私になかったものだ。そう、嫉妬です。
・この感情はもれなく我が子にも適用される。我が子だけは超可愛い〜♡にはならんかった。
・動物園とか子どものプレイランドとか行くわけですが、もう子子子子子で死にそう。子なし人生を選択すれば、こんなこと来なくてすんだのにね。
・小学生くらいまでの子に特に嫉妬するので、我が子が早く中学生くらいにならんかな、と思いながら育児してる。
.
まあまあ楽しい。
いま、良かった~!とか言ってる連中の大半は、犠牲者が少なく済んだことではなく、
マチュの母親を含むネームドキャラクターが死なずに済んだことに安堵してるだけなわけ。
それはガンダムとしては非常にグロテスクな態度なんじゃないの?と俺は思うんだが、お前は思わないんですねそうですかってだけの話。
ジェンダーフリーは子供の健全な人格を破壊し、結婚離れを加速させる。そうなれば、家族が崩壊するだけでなく、社会の崩壊にも直結する。
http://www.seisaku-center.net/node/286
むしろ母性神話による母親への育児負担こそ虐待を引き起こしてしまうことがある
江戸時代は父親が育児したし、三歳児神話は1960年代に広まったものである
本当かどうか、男女共同着替えは問題があると思うが、男の色とか女の色を否定することが悪い・・という論は関係がない
男の色とか女の色ををやめたところで人間が出産されなくなるわけではない
自信が持てない原因になるのではないだろうか?
そもそも性別固定的役割分自体歴史が浅い。専業主婦だって主流になったのは100年未満の話である
「母性」「父性」を説いたところで親との自覚を持たない人間には届かないのでは?
歴史的に見ても男女の役割が変化したことが踏まえられておらず、高度経済成長期以降の専業主婦とか三歳児神話的なイメージから脱却できていない。
だからおそらく父親が育児していた江戸時代も、夫婦共働きが普通だった高度経済成長期より前の時代も考慮されていない。
日本人は長らくめちゃくちゃな家庭環境、家族間で生きてきたのだろうか?そうではないだろう
日本人の歴史でも性別に関わるところは変化しているがそれでもそこで大きな混乱はなかったのだから、ジェンダーフリーがそこまで悪影響である根拠は希薄である。
ある時代の男女の役割は昔の時代の男女の役割の否定でもあるのだから。
まるで古代から日本人は(または人類は)母親が育児して父親が外で働いていたかのように主張する印象
現に「「母性は社会的・文化的に作られたもので、高々百年の歴史しかない」という論には批判的に取り上げられている
その一方で、関わりを通じて築かれる家族愛が過少に評価されてしまっている。
自分の子を育てる母性や自分の子を教育する父性がないとダメなら里親制度とか養子縁組制度とか機能しないだろうし、きょうだいとの繋がりも説明は付かなくなるだろうと思う。
男の色や女の色が否定されたところで生殖できなくなるわけではない。
---
http://www.seisaku-center.net/node/304
いずれにせよ、今の日本では「三歳児神話」などと批判される「三歳までは母の手で」という日本の伝統的子育て文化が、男女平等の「先進国」ノルウェーでは国家によって保障されているわけだ(中には父親が育児に専念する場合もある)。
同じ筆者かは分からないが「三歳までは母の手で」という日本の伝統的子育て文化と書かれている。
https://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1998/dl/04.pdf
三歳児神話は,欧米における母子研究などの影響を受け,いわゆる「母性」役割が強調される中で,育
児書などでも強調され,1960年代に広まったといわれる。そして,「母親は子育てに専念するもの,す
べきもの,少なくとも,せめて三歳ぐらいまでは母親は自らの手で子どもを育てることに専念すべきで
ある」ことが強調され続けた。
では、日本政策研究センターの次の箇所
次に、「大綱」は小中学生の「放課後対策の充実」を掲げている。子供の世話は社会が見るから、安心して働きなさいというわけだが、これまた子供の「最善の利益」を考慮したものとは言い難い。「いつも同じ家に帰ると同じ人がいて同じように迎えてくれる、それが子供の心の安定につながります」(深谷和子東京成徳大教授)との指摘に違わず、多くの子供たちは学校から帰れば母親が迎えてくれることを望んでいるからだ。都内の小学校高学年を対象とした調査では、四十%余の子供が「家で家族の世話をするお母さん(専業主婦)」を望み、「外で働くお母さん」を望んだ子供は二十三%にとどまったことが確認されている。
母親が迎えて来るか来ないかで質問したらそういうデータになるのは仕方ないと思う
しかしこの役割は父親でも良いのである。母親が働いて父親が家に入ったら解決する。
夫婦共働きが素晴らしいかはともかくその下の箇所、父親の育児休業を批判する必要はどこにもない
さらに、「大綱」は育児休業制度の取組を、男性の取得率十%、女性の取得率八十%を目標に推進すると言う。父親に育児休業をとらせ、保育をさせようというわけだ。しかし、これについては、「乳幼児の世話を父親が主としてやれば、当然母乳育児は不可能になる」「育児休業は母親が取ってこそ子供のためになる」(林道義氏)との的を射た批判がある。父親の育児休業奨励策が、果たして子供たちの「最善の利益」に合致するのか甚だ疑問である。
そこまで母乳を与えなければならないかはともかく、要するに母乳さえ与えられたら良いのである。
父親の育休を批判する根拠にも乳幼児の世話を父親が主としてやることを批判する根拠にもならない。
また乳児期の授乳が終わったら子育てにおける父親と母親の性差は完全と言っていいほどに無くなる。
そもそも育児って夫婦のうち誰かが100%背負わなければいけないのだろうか?そうではないし、誰かが育児を抱える、母親が一人で育児を抱えるのは伝統的な子育てではないはずだ。
不倫してもあんまり干されないというか戻ってくる人だな〜という印象しかなかったんだけどパンツ被り明けの三度目の殺人の母親役がめっちゃ良くてびっくりしたの思い出した
朝5時には起きて家事してた、寝るのは23時、昼寝はたまにしてた
俺は朝がすごく苦手だったので、朝早く活動するの偉すぎるーと思ってたんだけど
あれか、年かこれは
なお親父は19時に就寝して、2時くらいに起きてた
老人になるとああなるのか
俺もなるんだろうな
俺の知ってる例だと、
母親が離婚する時に“自分の弁護士から”全財産を夫に引き渡すように言われた、という無茶苦茶嘘くさい話に、
制度上そんなことはあり得ないんじゃないのと当然のツッコミが入っても、
財産分与は必ず行われるわけではない!と言い張ってた超ド級のクソバカ嘘松太郎がいた。
(無条件に行われるはずの財産分与がないということは自分から権利を放棄することになるわけだが、自分の弁護士がそんなことを薦める理由が1ミリもない)
筆者は腐向け文化に疎く、オメガバースに関しても各種webページで調べた程度の知識です。そのため、文章中に各種誤りがある可能性がございます。申し訳ありませんが、その旨をご認識の上で本文はお読みいただけますよう、お願い申し上げます。
また、本文は特定の人物同士の関係性を深く掘り下げる意図は含んでおらず、あくまで思考実験としての範疇を出ない領域となります。そのため逆カプなどの解釈違いが発生する可能性がございますが、そういったものを擁する・排する目的はございません。こちらもあらかじめご了承ください。
改めてとなりますが、最初に記してあるよう「なんでも許せる人」となっております。あらゆる解釈に対し否定・批判の意図は一切含んでいないということを踏まえた上でお読みください。叩かないで…!ゆるして…!
オメガバースとは、主に二次創作に用いられる架空の性別と社会構造を持つ設定である。登場人物はアルファ・ベータ・オメガの三性に分類され、オメガは性別に関係なく妊娠が可能であり、発情期(ヒート)といった独自の生理現象を持つ。番(つがい)と呼ばれる運命的な絆や、支配・被支配の関係性が描かれやすく、特にBL作品で人気を集めているが、近年は異性愛や百合にも広がっている。
結論から述べるが、マチュが「アルファ」であり、ニャアンが「よくできたベータ」、シュウジとガンダム・クアックス(以下クアックス)が「オメガ」である。
まず、六話までの話を通じ、それぞれのポジションは現状こうなっていると予想する
これらの要素から、ジークアクスという物語は、オメガの側を求めるアルファと、気の利かないベータの三角関係の物語であると考える。
シュウジだけ、またはジークアクスだけをオメガとしないのはなぜか?
シュウジの隣に居られれば良いというわけでもなく、ジークアクスに乗れれば良いというわけでもなく、「シュウジのマヴ(=ジークアクスに乗った、パイロットとしてのパートナー)」というポジションに居られるということが、彼女たちにとってのオメガであると考える。
オメガサイコミュを持つ、「特別なモビルスーツ」である。現状、このオメガサイコミュを機動させられたのはマチュ、ニャアンの2名のみである。エグザべにできず彼女たちにできたのは「感情の強さ(覚悟の差、とも言える)」の違いではないかと考える。ここはアルファ・オメガというよりもティーンエイジであることが大きい。
現状、シュウジのマヴという「居場所のオメガ」を構築する最大の要素=戦闘力であり、「てシュウジとともに戦いの中でキラキラを追いかける」という行動をするために絶対不可欠なものである。それゆえに、これもまたアルファを狂わせる一つの要素として、オメガではないかと捉えている。
アルファとオメガだけが通じあえる共通言語が「キラキラ」であると考える。いわゆる「アルファを引き付けるフェロモン」であり、オメガを追いかける理由こそが本作におけるニュータイプ性=キラキラを見られる感受性ではないかと考えている。
「キラキラ」は現状、ニュータイプならびにそれに近しいものにしか感じ取ることのできない要素であり、常人には理解できない。この特別性もまたオメガバースとしての特異性ではないかと思う。
恵まれた家庭に生まれ、両親(現状母親しか姿は見えないが)の期待を一身に受けて育った一方で、先天的ニュータイプ性から地軸とのズレやコロニーの閉塞感というものを感じており、「自由」というものへの強い憧れがある(本編中、「宇宙って、自由ですか」と発言もある)
進路に関しても、おそらく彼女自身に「ほんとうにやりたいこと」などないのだろうが、回りや親からのすすめもあり、焦りやいらだちというものを感じていたのではないかと思われる
その最中に出会ってしまった、マチュとクアックスという「オメガ」によって、彼女の人生は大きく狂わされ、そしてまたそのオメガに強く執着を示しているように思える
戦争難民であり、両親も(おそらく)居ない。軍警と過去にやり合ったりしていることから、おそらく身分は存在するのだろうが、相当に迫害されているものと思われる。ただし、こうした出自に対して彼女自身は驚くほどに落ち着いているように見られ、受け入れているか諦めているかのどちらかではないかと考えられる。
また、ニャアンが見たものは「キラキラ」ではないのか?という点についてだが、諸説あると思うが本文(6話終了時点・7話開始前)では「キラキラではない」と定義する。あくまで高い感情の昂りによりそれに類似するものを見た、ないし入口に到達した程度であり、ニュータイプとして覚醒したとはいいづらいのではないかと思っている
マチュは「私の居場所を奪わないで!」と本編で叫んだことから、自由な場所を強く切望している。だが、5話でニャアンが取った行動は、マチュからは侵略的な行いに見えた。ニャアンはおそらく、みんなの居場所を守りたいという気持ちだけだったのではないかと思う。
そしてシュウジはおそらく「なにも考えていない」。ガンダムが言っているように、彼は求められるがままに動いているにすぎないのだ。
このいびつな三角関係が7話、そしてそれ以降でどうなるかで、このオメガバース論がどうなるかが決定づけられると考える
「赤いガンダムって型番アルファで、ガンダム・クアックスって型番オメガなんだぜ。あれ、なんかアルファとオメガって同人文化であったよな」というだけの出発点です。知人に話したところ、オメガバースの知識による補強を受け、上記のような結論に至りました。笑ってください。
ここがおかしい!とかあそこが間違ってる!とかあれば、各自で激論を展開していただいて構いません。なぜなら、この話事態があまりにも荒唐無稽な与太話なのですから…
こどおじです
10年くらい前から柴犬を飼い始めて、今や4匹まで増えました(すべて柴犬)
4匹目を飼い始めてから、やはり犬が多すぎるのか五月蠅くなった
犬同士が同士討ちするのが先か
母親が犬を殺すのが先か
「女は男のおかげで生きていけるのだから無条件で男に感謝して奉仕すべき」という思想の上に性欲だけは強者男性並みにあるから、男が女に選ばれる為にアプローチ等の労力を払うの拒絶し、「非モテだけど素材のいい()若い女が髪や顔やウエストや脚線やプリプリおっぱいを磨いて整えてチー牛男に擦り寄り媚びるべき」という現実離れした発想になる
そのような思考の人間が結婚した途端に女に尽くすわけないんですよね
女がヘアメイクや体型を必死に磨いて、何もしない男の元にいそいそと会いに来るのが当たり前であり、男のアプローチを断るのは許されないという価値観になる
なので婚活に固執するし、初対面の婚活女に断られたら「次に行こう」とならずに「自分に釣り合う女を選ばない高望みクズ女」とリンチするし、自分が婚活業者に「低身長男性は普通の人より不利」「デオケアしろ」と言われたら相手を消すまで殴り続ける
だからブスだけどスタイルのいい女性や若い女性、昔美人だったおばあちゃんですら、婚活で女を待ち続ける無能男の元には回ってこない
女余りと言われている結婚相談所で女下方婚や年の差婚は皆無なのを見てもわかる
■清潔感のあるフツメン〜ややイケメンですら若く可愛い女や昔美人だったおばさんとの結婚は不可能
https://anond.hatelabo.jp/20250517144030
実際、女下方婚とか極端な年の差婚とか男有利な結婚は自由恋愛(不倫含む)に集中して婚活では無理
リアルの関係性や周囲からの評価で男に価値があるとを錯覚させる
知らないおっさんに会いに行く婚活は男に求めるハードルが高くなるのは当たり前
さんまとしのぶの息子の二千翔(芸能界で会社を経営しており金持ち)が親が持ってきたアイドルとの見合いを続けてたけど、女からは「自分で相手を探さず斡旋してもらう頼りない男」と判断されて振られ続け、手遅れの40歳になる前にアプリに駆け込み必死に相手を探して見つけたんだよな
泥臭く働く無数のエッセンシャルワーカーや兼業主婦を故意に無視して、女をキラキラOLかキラキラ専業主婦やパパ活風俗女の3種類しかいないと声高に主張するのもそう
根拠もなく「女は男のおかげでキラキラフワフワ生きているから男に感謝して無償奉仕しろ」と言う思考になり、上下関係を押し付けたがる
楠桂の冴えない旦那や林真理子の夫など、妻の方が高収入でも一切家事を手伝わず「専業主婦を養う夫」として振る舞うのも当たり前なんだよ(楠桂旦那は親の介護も楠桂に丸投げ)
「女相手に感謝したり非を認める」と「愚かで無能で足手まといの女を養う分、無償奉仕させる」という上下関係を手放す羽目になり負けだから
「男のおかげで女は生きていけるので女は男に無償奉仕しろ、従わない女は無条件で制裁する」という強権的な主従関係を求めるが、女自身や子供の困窮や事故や被害や病気や障害は全て女の責任だが、目先の欲や利益や小娘に貢いでリターンがなく殺害したり、金や女や名誉目的で芸能界ホモ枕する可哀想な男は女が母親のように庇護しろと主張する
おっさんがヤリモクで20歳の後ろ盾のない孤児に貢いでリターンがないから惨殺しても「加害者の男を可哀想な無垢な少年のような被害者として扱え」となり、未成年女性が性加害に遭うと「危機感と男を見る目のない女の自己責任」となる
20歳前の知り合いですらない親のいないvtuber女にヤリモクで貢いでリターンがないから惨殺、ホモセクハラ暴露本が多数流通する事務所に履歴書を送り、金と地位目的でホビット老人にしゃぶらせても本人には一切責任はない
一方で未成年の女の性被害や暴行被害は全て男を見る目のない女の自己責任
ネットを見ればわかるが、リアルでは冴えないヲタク男は女相手だけでなく、自分でも勝てそうな男相手、なおかつ自分の方が多数派だとわかると嫌がらせやつきまといに歯止めが掛からず暴走し続けるだろ
Colaboや堀口、恒心教、精神障害のあるYouTuberなど
検索しても、チー牛やホビットやオタクの体臭煽りは男のアカウントばかり
男同士でも俺は他のキモヲタとは違うと差別化やマウンティングしたがる
風俗や女性的魅力で商売する女への「チンポが好きでやってくるくせに金取って偉そうに文句を言うな」という異常な増悪(上前を跳ねて儲けてる女衒は男なので無視)
婚活やアプリで自分の告白を断った初対面の女、若く小綺麗なだけの女を「俺を選ばずいい気になって生きている」と殺意と増悪を抱き、ネットで嫌がらせは当たり前、定期的にリアルで凶行に及ぶ
女は過去にアプリや婚活でお断りされた相手の男や知らないもしくは関係性のないイケメンやイケショタに「私を選ばなかった」と殺意や憎悪を抱かないし、アイドルやホスト等ブスやババア相手に儲けてる男を見ても「まんこが好きでたまらないくせに金取って偉そうにするな」と嫌がらせしないだろ
自分は小学2年生~小学5年生の時に、ピアノ教室で通ってピアノを習っていた。
ピアノ教室は、週1で水曜日の30分のレッスンだったはずで、月に何回か忘れたが毎週か隔週に通っていたと思う。
個人宅の一戸建ての1部屋をピアノ教室にしたような所で、自分と歳が近そうな息子がいる主婦な女性の先生だった。
ピアノ教室に通って1~2年間は、1回のレッスンで1曲をクリアしていくペースだった。教材がまだ簡単だったせいか、家であんまり練習しなくても6割程度を通しで弾けたと思う。
しかし、通って3年目頃から弾く曲がちょっとずつ難しくなるとつまづく事が多くなり、達成感も無くなり、モチベーションが下がっていった。なんで弾きたいかもよく分からなくなっていたと思う。
惰性でピアノ教室を通うようになっていって、ちょっとずつピアノ教室が楽しくなくなっていった。
小2からピアノ教室を始めたが、自宅にピアノとかまともな楽器が無かったので(お下がりの鍵盤ハーモニカやリコーダーや、あっても父親が昔の若い頃に使っていた置物状態の錆びかけたクラシックギターしかない)、小3の頃に父親からもらったお年玉で1~2万円程度のCASIOの電子キーボードを買ってもらった。(関係ない余談だが、ゲーム音楽を弾いてる芸人の「こまつ」が2000年代頃に所持していた電子キーボードとほぼ同じ種類の電子キーボードだった。)
しかしその電子キーボードは、5オクターブ(61鍵とか)程度しかないキーボードで、それでピアノの練習をするという、何だか今思うとおかしいというかケチった初期投資や環境だった。
電子キーボード購入当時はお金を気にしてか、なぜか電子ピアノを購入する発想にならなかった。自分も親も電子キーボードでピアノの代用ができると薄っすら思っていたようだった。
近場の家電量販店で電子キーボードを選んで購入時には気付かなかったが、使っていく内に弾き押した感覚がピアノと全く違う事に気付いた(鍵盤を押した重さやピアノの音色や響きや音質など、電子キーボードでは差がありすぎた)。とにかく漠然と「コレジャナイ」というのが頭のどこかの隅にありながら練習をしていた。「ピアノの感覚で弾きたいのに…」と地味に不満に思ってて、モチベーションが下がっていった地味に要因の一つだったと思う。
しかも自分が知らない間に、父親が何となくリビングに電子キーボードを設置してくれたが、自分はリビングで弾くのが恥ずかしかった(自分が弾いてる姿も)。どちらかというと自室とかにこもって独りで弾きたかった。恥ずかしさや迷惑さで親にも相談できなかった。そんな事もあってリビングに誰もいない時を狙って隠れて弾くため練習頻度が下がった。
友達にも「ピアノ教室に通ってるけど、何の曲を弾いてるの?」と聞かれたが、弾いてる曲も子供向けの曲(曲名も無名な曲)で恥ずかしくて、濁すしかなかった。
小5の頃には、練習をかなりサボるようになったりして先生の前で弾けなかったり、ピアノ教室に行く事をグズったり遅刻したりしていて、次男から「辞めろよピアノ教室」と軽蔑気味に言われて(※自分は末っ子)、ピアノ教室の日が来る度に内心苦しく困ったままで通って、妥協しながらやり過ごしていた。
先生から特にサボってる程の練習量について何も言われなかった。自分の動機とか音楽の好みとか自宅の練習環境とか理解されてなかったと思う。先生とも音楽の好みが合わなかったと思う。
小5の頃には、先生も教え方が余所余所しくなり、「躓いてるけど、自分で反復練習するものだから」と素っ気なくなっていた。
(自分は人見知りな事もあって、先生と打ち解けた事はほぼ無くて、レッスン中に「先生がトイレに行ってるから何か弾いててもいい」と言われたが、恥ずかしくて自分は何も弾けずに無音状態で待っていたら、トイレから戻った先生から「また静かだった」と言われて戸惑った程に人見知り。)
小5の頃からなぜか自分は勘繰りが起こるようになり「先生の教え方が手抜きになってないか?」「手抜きなのに親に月謝を払ってもらっている、つまり自分は鴨になっているのではないか?」と疑心が生まれて「どうせ自分へのレッスンは金蔓なんだろうな」という偏見や感情が芽生えていた。
元々自分は幼稚園生の頃からゲーム音楽が好きでDDRとかbeatmania(5鍵)やギタドラ初期などの音ゲーとかにも興味があって「楽譜を読めるようになりたい」とかで漠然なまま「音楽を習ってみるか」となってたが、レッスンを受けると訳分からない童謡みたいな子供向けの曲を弾かされて、演奏する曲の殆どがそもそも自分の好みの曲ではなかったし、好みでない曲はフラストレーションの要因でしかなかった。
当時は自覚していなかったが、どちらかというと自分は座学がやりたかった。座学はあったが30分のレッスン時間の内の10分間程度の座学で、座学だけをやるような選択はなく、座学には重点が置かれていなかった(「座学と実践」の割合は、3:7ぐらいだったと思う)。今ならコード進行とか学びたかった。
(一応、学習指導向けのピアノテキスト教本で、それに沿って演奏して実技が身に付くような教え方はされた。他には「バーナムピアノテクニック」の教本に沿って実技をしていた記憶がある。)
レッスンを受ける意義も分からなくなり、自分が好きな曲を弾きたいという動機は薄っすら残っていて、小5の時に「ゲーム音楽を弾きたい」とようやく相談して、自分が小4の頃に器楽クラブの顧問から運良く頂けた「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を、ピアノ教室の先生に見せたら何故かスルーされて、先生が所持してる楽譜の中から弾けるゲーム音楽を選ぶ事になった。
しかし今よりゲーム音楽は有名でないせいか、選べるゲーム音楽の楽譜が少なく、ドラクエ序曲のマーチアレンジ(子供向けな編曲)やFF10の「ザナルカンドにて (終末的な悲しい曲)」のピアノ楽譜があって自分としてはどちらかというと本望ではないが、それらをレッスンで弾く曲に選ばせてもらって弾いたが、なぜか楽しくなかった。どちらかというと恥ずかしさとか気まずさが強く、弾いてて感情移入してる感じがしなかった。
小5の時に同級生が、近所におじさんが教えてるパソコン教室があって、そこに通っている事を知った、それを母親に相談して自分もパソコン教室にも通わせてくれる頃に、自分はピアノ教室を辞めたいような意思になって辞める方向になった。
これまで送り迎えだけだった母と一緒にピアノ教室の部屋に入り、母親が先生に受講を辞める相談をしていってる最中に自分は、なぜか目から涙が流れてしまい止まらず、かなり気まずい雰囲気になってしまった。惨めや悔しさの涙だったと思う。
そもそもピアノ教室に通うようになった経緯は、「楽譜の読み方が知りたかった」とか「ピアノのドの鍵盤ってどこ?」というような素朴な疑問が動機で、それを母親に話したら適当なピアノ教室を勧められて、どういうピアノ教室か分からず吟味せずに何となくでピアノ教室を選んでしまっていた。
(ピアノ教室受講した後に知ったが、近所にも似たようなピアノ教室があったのに、なぜか近所から少し離れた町のそのピアノ教室が選ばれてしまって、親による送迎の負担が増えただけだった。まだ機会費用的に近所のピアノ教室の方が良かったのになんで?と思う。)
今思うと「インターネットで楽譜の読み方を知る」というのが「顧客が本当に必要だったもの」だったように思えた。(当時、親はIT関連に疎くPC購入やネット開通もかなり消極的だった。)
実は「ドラムがやりたかった」「まだピアノよりドラムの方がまだ才能が伸びていたのではないか?」という懐疑がある。
あとは「もしピアノ教室の先生がゲーム音楽や電子音楽に興味があったらまだ変わっていたのではないか?」と思う。もし当時の小学生時代にKraftwerkとかYMOとか勧められて知っていたら多分今より音楽の知識が身に付いていたと思う。(YMOが自分に刺さったきっかけは中2の頃に見たYouTubeのMV動画だったと思う。ちなみにJ-POPとか邦楽の流行歌には興味がない。)
(ちなみに器楽クラブの顧問も女性の教師で、たまたま「スーパーマリオブラザーズ(地上面)」の楽譜を教師が偶然に持っていただけで、ゲーム音楽や電子音楽には興味無いようだった。)
当時から言語化できないような無自覚的なフラストレーションや水面下な問題が溜まってたばかりで、今でも地続きで機会損失が大きくなってると思うと、今は後悔でしかない。黒歴史。
小4の時に小学校のクラブ活動で、グループに分かれて合奏をするような器楽クラブに入ったが、自分だけが落ちこぼれでクラブは女子しかいなくて女子と打ち解けれないし助けを求められず割と浮いてて孤独で、上級生だけでなく同学年の女子も普通に楽譜通りスラスラ楽器が弾ける人ばかりだった。
自分はピアノを習っていて楽譜が読めていたと思っていたはずが、弾きながらも楽譜が読めない・まず大体を暗譜しないと読めない状況で(オーケストラ用の楽譜で見慣れない程に楽譜も小さくどこのパートの楽譜か迷子になったり、ヘ音記号の楽譜なのにト音記号の楽譜であると思い違いして読み間違えにしばらく気付かなかったり)、
その弱点に気付かず能力の無さに内心焦りながら、自分の雰囲気だけは皆と演奏してやってるという感じを醸したクラブ活動をしていて、クラブ活動も尻込みになった。
学校でそういうさり気ない悩みがあっても、器楽クラブに入ってる事をピアノ教室の先生に言えてない、親も自分が器楽クラブに入ってる事を知っていないと思う。
(ちなみに小5からは科学部(科学クラブ)に入った。ほぼ遊びみたいで楽しかった。小6になって別のクラブに入ったけど。あと、その頃に受講を始めたパソコン教室は最終的には円満的に通い切った。) (中学生時代の部活はほぼ3年間は帰宅部。器楽クラブの影響で、地味に部活動というのがトラウマや無力感になってると思う。)
「才能が無い自分のせい」と言われればそれまでだが、マッチング的に「自分の嗜好や動機などを理解されず能力のようなものを引き出せられなかった周囲も残念な環境だったのでは」と思う。巡り合わせの問題とか。
自分は歳を重ねるに連れて自分が好きだった音楽を耳にする度に「絶対音感の能力があれば…」ぐらいの無念さ劣等感が大きくなってくる。「絶対音感があれば、好きな音楽の耳コピとか分析が高精度で確実にできて、人生が変わっていただろうな」と。好きなはずなのに馬の耳に念仏で溜息しか出ない。山月記みたいになりそう。
自分は本当に音楽が好きなんだろうか…。単純接触効果的な大きな勘違いでなければいいが…。
余談だが、音ゲーについての自分の腕前は、家庭用IIDX HAPPY SKYの段位認定10段をアナコンでクリアしたのが限界で、高1がピークだったと思う。高2の頃からほとんど音ゲーには触ってない。自分は音ゲーやゲームも才能が無いと強く気付き始めていったのはその頃だった。
自分は音ゲーの楽曲についての話をピアノ教室やクラブ活動などでも話す機会は一切無く、幼小から自分が好きだった音楽は誰にも繋がらず糧にもならなかったのであった。
ドゥー・ムラサメが次回死ぬのはほぼ確定として、問題はそれがマチュにどういう影響を与えるかの方が問題だよね。視聴者にはもちろん影響は出る。
サイコガンダムとの戦闘の結果、母親は死ぬだろうけど、それもショックを受けた描写の次にはもうシュウジとガンダムのことで頭いっぱいになってそうなのが予想できる。
今更Zガンダムのフォウみたく、街中でマチュとドゥーの触れ合いやっても、マチュには響かないだろうし
そうなると、元々ニャアンかシュウジがドゥーの知り合いで、そのドゥーを殺したことにより、関係が決裂するとかした方が面白い。
一番ありそうなのはニャアンでこれは名前の連想から、ニャアンが被験体1号(アン)で、2号のドゥーとムラサメ研究所で知り合いだったという関係。
だが、そうなるとニャアンもキラキラが元々見えていないといけないはず。しかしニャアンは5話で初めてキラキラを体験している。
ということは被験体である可能性が低くなる。あるいは、集められた段階で逃げ出していたか。もしかしたら難民時代の仲間かもしれないがそうなると名前の関連性が薄くなる。
そもそもニャアンとの関係は6話時点で決裂してるからあえてこれ以上悪くする意義もないように思える。
あるいはこれが決定打になって完全に敵対するようになるのかもしれない。
ただ、マチュへのダメージとすると若干のインパクト不足だろう。
ここで注目すべきはあの落書きだ。キラキラを可視化したあの落書きは、ニュータイプが見ることができる印だ。
例えばシュウジに生き別れの妹がいたとして、シュウジ同様ニュータイプであるならばあの印の意味に気づける。
そう、彼は生き別れた家族を探すためにあの落書きをしていたんだ。そうに違いない。あれであれば自分がここにいるってことを知らせることができる。
しかし残念なことにその家族は宇宙ではなく地球にいた。そして、彼はそのことに気づいたから地球行きを渇望している。
後は多分、戦闘中に相手が知ってる奴だと気づいたシュウジが話しかけるが相手は忘れてしまっていて相手に気づかない。
そしてキラキラを使って強制的に相互理解させることによって記憶を取り戻すが、そこに切れたマチュが突撃。
ドゥー死亡。
そしてシュウジの願いは砕け散ってしまい、マチュとの決裂が決定的なものになる。
という感じでどうだろうか?