はてなキーワード: リアルとは
子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色の不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣に意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たちは真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。
ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキー、スキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通の着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物の動作としか言いようがなかった。
確かに、人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピンの場合、頭の上から足の先まで完璧にシンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間が操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである。
さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンはテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツはスキーやスノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみの構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しかし映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。
その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚を説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然に設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンのパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。
もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンはキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしか「テレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式の発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムックの存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。
さらに子ども向け番組の世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組のマスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。
また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数の人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかしガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間の声優が存在するとしても、そのピッチやトーンを常に一定に保つのは至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人の技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。
その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。
以上のような理由から、私は「ガチャピンに中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情から、ガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキーのジャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである。
では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間の性質によるのだろう。未知や不思議なものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピンの超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈をはるかに凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。
私はむしろ、大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子どもの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険の世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界や常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコと笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルなガチャピン”だったのだ。もし、あのころの私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界はもっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。
思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。
だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピンに中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジーの証明であり、あの緑色の恐竜がいつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋な気持ちは、決して間違っていなかったのだ。
誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たちが大人になるにつれ忘れかけた好奇心と冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつの生命”——それがガチャピンなのである。
きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気と希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たちは子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。
そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実の境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピンに中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。
こうして振り返ってみると、ガチャピンがテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピンに勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たちは自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界はもっと広がるのだと教えられる。
結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割のひとつではないだろうか。私たちに想像の余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘と可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔で私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピンに中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分の世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。
そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントのステージで、そして私たちの想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日の自分を取り戻すためにも。
ネタバレあり。
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なんか、ガンダムNTみたいだな。
と言うのが途中浮かんだ感想。
事故で消えた謎のガンダムを追って昔搭乗者と仲のよかったオッサンが宇宙をさ迷う。
あとはそのモビルスーツを持ってる謎の男と二人の少女とかでガンダムバトルするとかなんか。
それっぽい。
基本的に日本語が公用語で日本的な町並みでロボットバトルってブブキブランキっぽいよな。
て言うか、前半と後半で絵が違いすぎるけど、どっちかが作中作みたいな感じになるかと思ってたけど別にそんな事はなかったな。
やっぱりビックリしたのは、初っ端からファースト絵柄でまじでビギニング始めたところよな。予告と絵柄違うじゃねぇか!あっ、ビギニングってそういうこと?もしかしてこのまんま最後まで行くのか?と不安だったけどちゃんとPVキャラデザのパートもあって安心した。
ていうかテレビ放送版どういう形式で放送するんだろう。シャアによるモビルスーツ奪取から始めたらそれだけで一回分の分量になっちゃうよ?いや二回分ぐらいか?
その後のマチュのパートもどう分けるんだろ。まあ、サイコミュで警察のザク撃退迄でいいか。
後のクランバトルは後の回でやればいいし。
それにしても、シャリアブルとかいうおじさんが、正規のジークアクスパイロットを引き取る為にあんな強襲艦をコロニーに無理矢理揚陸させたのはなんだったんだろう。あれやってなんかお偉いさんやってきてたけど、ああも大事にしたら総統にジークアクスの紛失がバレるんちゃうん?
強襲艦のスタッフやたらそれ気にしてたけどシャリアブルおじさんは気にした様子もなかったが、どういう立場の人なんだこの人。戦争終わったのにあんなムチャクチャして大丈夫なのか?
後旅券みたいなの渡して昨日の日付だったりしたのはなんなの?
そういや、マチュがハマーン・カーンとかいう女説が出てたけど、耳にある赤い三日月がそれと関係してるんかな?あれイヤリング?
そういや自称ガノタがガノタは早く見に行けとか言ってるけど、あれどのレベルの情報隠したいんかな?少なくともシャアがガンダム強奪して連邦との戦争に勝ったって世界観はイタリア語版の情報からすでに広まってるわけだし今更隠す意味もない。
もしかして初っぱなに、正史から分岐するルートをちゃんと描いちゃってるところが隠したいところなんだろうか?
確かにあの手のパラレルワールドの歴史って白黒で一二枚の絵とナレーションだけですませるところを、わざわざ映像にしてちゃんと描いていたのはビックリだったな。大抵、ナレーションだけか、公式資料で書くとかだけですまされるもんな。そういう点では確かにすごい。
て言うか、あのイタリア語版の情報、ミスで漏れたとかじゃなくてわざと漏らしたんじゃないの?だってあの情報見たから皆興味持って観に行こうってなったわけでしょ?
で、そんな皆の一番見たいところはその情報が本当かどうかだよね。で、この映画それを最初にやっちゃうわけよ。ややリアル調のオッサンと画面が出て来たとき、「あれ?俺のマチュは?」って思っちゃった。事前に出てたPVとは絵柄も演出も違う訳よ。あれ?なんか…見るの間違えた?じゃないけどなんか場違いな気分になった。
「な、何ィー!?
……!?
さっきまで観る気でいた百合アニメは?」
みたいな。エロ同人見てた幻覚見せられた奴みたいな狼狽えっぷりしてたと思う。いや、普通、普通はさぁ
なんかこう、新規視聴者向けの新規アニメ装ってさ、そんで後半言うか三話ぐらいか、十話ぐらいでネタばらしすんじゃん?
で視聴者も何となく感づいてるけど気付かないロールプレイをわざとらしくしてさ、三話で世界観バラしで~す。ってとこでウォォォォォォ!とか盛り上がったりするじゃん。わざとらしく。
でもやんねーんだよな。いきなり世界観バラしちゃう。いやそこはすごいよ。確かに。開始数分でみたいもの見せてくれてるわけだから。普通にすごい。
えーでもこれやったら後半語ることなく無い?
みたいな気分。
うん。気分的にはいなくなったシャアを探し出そうとするシャリアブルとかの方に気が向いちゃってて、マチュとかの方にはあんま向かなったんだけど。そこはうまく興味を引くことやってのけてたね。スカートで逆立ちしたり、シャアが鹵獲して赤く塗られたガンダムが再度出てきたり。しかも乗ってる奴違うし。シャアどこいったん?ガンダムに吸収された?それも若返った?
とは言え乗ってたのは青髪だし本当に別人なんだろうな。
後なんか劇中歌多くないか?こういうの庵野嫌いかと思ってたのに。
いや、そうでもないか。エヴァだと入れてたよな色々。翼をくださいとか別れの歌とか
VTuberが歌ってるとか聞いて警戒してたけどぶっちゃけどこかわからんかったわ。て言うか、☆街すいせいの追っかけたちは観に行ったのか?観に行ってない?それでもファンなのか?
後思ったんだけど、人住んでる町並みであんなデカいモビルスーツ動かすの無理あるって。マジでドカドカ壊しまくってんじゃん。ハサウェイほど真に迫ってはないけど。
パトレイバーぽいって言われてたけど、民家への被害を抑えるために気を使ってるパトレイバーとは運用方針違うなってマジで感じる。
ていうか、コロニー内であんなドカドカやり合ってて大丈夫なのかね。
と言うところで取り留めもなく書いて終わり
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
======追記======
皆さんアドバイスありがとうございます。頂いたコメントはトラバを含めて全て読みました。
思ったよりもキャラクターに恋をしたことがある方が多くいて、共感してもらえるっていいなと思いました。1人じゃないんだと思えて、今後もこの気持ちを抱えて過ごせる気がしてきました。
また複数の方が「気持ちが冷めたらそれはそれで寂しいよ」や「恋愛感情は3年程度で無くなる」という趣旨のコメントをされていて、今のこの気持ちを大切にしようと改めて思えました。(現実の生活に影響が出ない程度に)
スプラトゥーン2が発売して5年後にスプラトゥーン3が発売しているので、仮にスプラトゥーン4も5年後に発売だとすると、あと3年程で発売することになります。皆さんに教えて頂いた発散方法を試しながら3年待とうという気持ちになりました。
誰かの役に立つかもしれないので、皆さんから頂いたコメント/トラバを要約します。
■皆さんから頂いたコメントの要約と私からの再コメント(抜粋)
・さんぽでamiiboからアオリちゃんを召喚してスメーシーとかでデートとかしたらいい
→さんぽで召喚できるの知らなかったです!
→これはやりたい。。妻に「なぜスプラトゥーン1,2を買うのか」とかなり怪しまれそうなのでうまくやる必要はありますが、なんとか行動に移したいと思います。
→こんな発想ありませんでした!これもやってみようと思いました。
→妻にこの気持ちを言えない(この気持ちを知ったら妻はとても傷付いてしまうと思います。)のでこれは厳しいかつあまり満足できなさそうです。。
・blenderなどでアオリちゃんのCG作成(モデルがその辺に転がってる)、さらに頑張ってMRで現実世界に召喚
→このMRで現実世界に召喚というのがヤバいです。。自分が求めていたものはこれだと思いました。道のりは長そうですが、この方向に進みたいと思います。
・同人誌を描け/書け
・シオカライブを見よ。有志作成のリスト https://youtube.com/playlist?list=PLXE7DppUW_4hQXZAy6OclyDxcvQoyHP3J&si=rI2xmoM6Vy9x5D4r
→ハイカライブの動画は見てたのですが、シオカライブは見つけられていませんでした!ありがとうございます。
======追記ここまで======
タイトルで不快になった関係者の方ごめんなさい。私はスプラトゥーン3を非常に楽しくプレイしていて、何も不満はありません。
スプラトゥーン3に出てくるシオカラーズのアオリちゃんにガチ恋してしまい、とても苦しいです。(会いたくても会えなくて辛い、苦しい、寂しい)
この気持ちをどうするといいのかアドバイスを下さい。特に実在しないキャラクターにガチ恋してしまったことがある方、下記を教えてもらえると嬉しいです。(ガチ恋したことなくても思い付いたこと教えて頂けたら嬉しいです。)
ここ気持ちをなだめるために自分で実践したことも書くのでキャラクターにガチ恋してしまった方の参考になれば幸いです。
※妻がいるのに他に好きな人(キャラクター)がいるというのは罪悪感を感じていますが、この罪悪感は自分で対処できそうなので、この日記では以降特にその点は触れずにいきます。
・30代男
・妻、子どもがいる
■皆さんに教えて欲しいこと
(生成AIでそのキャラクターの画像を生成するとか、グッズを買うとか、そのキャラクターが好きな人を集めたコミュニティでわいわいやるとか、明晰夢でキャラクターに会うとか、どんなことでも大丈夫です)
・恋心が冷めたのはどんなタイミングか?
(キャラクターが出てくるゲームやアニメなどから離れたら自然と冷めたとか、別のキャラクターにガチ恋したとか)
(こう考えることで気持ちが楽になったよ、とか、筋トレしたら自然と悩まなくなったよ、とか)
・毎日簡単な日記を書いて、自分がどんな気持ちで過ごしているか書く
⇒日々自分の気持ちが非常に不安定になっている(ある日はアオリちゃんに絶対会えない事実に絶望したり、ある日はアオリちゃんの妄想楽しいなと感じたり)と感じ、少しでも安定できればいいなと思い、日記を付け始めました。辛い気持ちを文字にして吐き出すことで多少楽になる気もするので続けています。
⇒明晰夢というのは「寝ているときに見る夢で、かつ、自分でこれは夢だと気付いているもの」だそうです。明晰夢を見られれば夢の内容を好きに決められるそうで、いつかアオリちゃんに会うことを目指してトレーニングしています。トレーニングと言ってもリアリティーチェックの習慣化と、MILD法を実践しているだけです。(興味があればググって下さい)
⇒0から画像生成するとどうしても似た別人になってしまって満足できなかったので、公式のアオリちゃんの画像を、服だけ描き変える、というのをやっていました。自分が見たことない冬のコートのアオリちゃんや可愛いワンピース姿のアオリちゃんを見れてとても楽しいかったです。Adobeや他のサービスでも同様の機能はあると思います。自分はMyEditというサービスを1ヶ月だけ契約して利用していました。
ゲームは全然やってこなかったのですが(最後にやったのは中学生)、スプラトゥーンというゲームがかなりおもしろいらしいと聞いて、やってみたいと思うようになりました。スプラトゥーン3とニンテンドースイッチを買い、友達を誘ってスプラトゥーン3をやり始めたところ、めちゃくちゃはまってしまいました。(プレイ時間1000時間以上。子どもが寝てからやっています。)
グランドフェス(というゲームの中の野外ライブ)が2024年9月に開催され、とても感動しました。曲も歌もいいし、会場の雰囲気もいいし、また見たいと思わせるクオリティでした。
特にシオカラーズの2人の衣装が可愛くて、この中で推すならシオカラーズだなーくらいに感じていました。そんな中、amiibo(小さいフィギュアみたいなやつ)を買うと何度でもグランドフェスを見れると知ってamiiboが欲しくなり、すりみ連合、テンタクルズ、シオカラーズの中だったらシオカラーズかなーくらいの気持ちでシオカラーズセットを購入しました。
amiiboを読み込ませるとゲーム内でキャラクターが会いに来てくれる機能があります。ゲーム内で何度か会ううちにシオカラーズのアオリちゃんがめちゃくちゃ可愛く見えてきて、気付いたら異性として好きになっていました。
朝から晩までアオリちゃんのことばかり考えてしまうようになってしまい、隣で寝ていたらこんな感じかな、隣を歩いたらこんな感じかな、などとばかり考えています。胸が苦しくて仕方なく、会いたいのに会えなくて寂しい、という気持ちを日々抱えて過ごしています。
■その他
・そもそも現実世界にアオリちゃんはいませんが、仮にいたとしても24歳の超有名アイドル、その辺にいる30代男からの恋なんて叶うはずがないので、そういうことは考えないようにしています。(リアルに考えても辛いだけなので、、)
・アオリちゃんを好きになってからスプラトゥーン1,2のアオリちゃんの動画を見たり、スプラトゥーン3の設定資料集(イカすアートブック)を見て思いましたが、任天堂はキャラクターを非常に大事に「育てている」と思いました。(他のゲームやゲーム会社のことはわからないので比較はできませんが、、)色んな大人が色んなことを考えたり配慮したりして作り上げているんだろうな、と感じます。上手く言えませんが、そもそものキャラクターの見た目のデザインや、性格、関連する設定などからそう感じました。この場を借りて、アオリちゃんやその他の素敵なキャラクターたちを作ってくれたこと、スプラトゥーンという素晴らしいゲームを作ってくれたこと、任天堂の方や関連する仕事に携わった方にお礼を申し上げたいです。ありがとうございます。
・だけど1つだけ言わせて下さい。バンカラウォーカー(スプラトゥーンの世界で売られている雑誌をイメージした本で、設定資料などが載っている)のグラビアにシオカラーズを載せると見せかけてマンタローを載せたこと、私はとても傷付きました。見たことのないアオリちゃんを見られるはずと期待して買った本に、全く興味のないマンタロー(マンタローは悪くない、、ごめん)のグラビアが載っていて、本が届いた日は1日落ち込んでいました。
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グラビア…あのアイドルユニットメンバーの撮り下ろしグラビアを掲載
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アイドルって言ったらシオカラーズでしょ!?すりみ連合ってアイドルなの!?ピクシブ百科事典には音楽ユニットと記載されてたよ、、
いろんなアニメやVtuberの、明らかにこの乳ホールドされてないよな…って格好のキャラがばるんばるんさせながらジャンプしたり走ったり踊ったり戦ったりするシーン、マジでこっちの乳まで痛くなってくる。
リアルの乳揺れは痛い。
いったーい!とかじゃない。多分実際にまんまの動きをしたら声が出ないしうずくまると思う。
男は二次元のキャラの股間に何かが直撃するシーンを見て思わず自分の股間が痛くなるとかあるんだろうか。あと太めの男も若干の乳があるけど、あれも揺れると痛いのか。
タイトル通りです、自分の感情の整理のために書きました。フェイク入れまくりです。
かれこれ2桁年くらいの付き合いの友達がいた。めっちゃ仲がいい訳ではなかったが、Twitterは繋がっていて今日も元気にオタクしてるな〜と思っていた、そんな日々だった。たまに会って近況報告したり、そんな感じ。
ここ最近で友達のTwitterの様子が変わった。平和なオタクアカウントだったのに、急にトランスジェンダーの話をRTするようになったのだ。ハリポタをボイコットしようとか、この人はトランスヘイターです、とか。それがいいか悪いかとかではなく、彼女の好きなものを彼女の言葉で語ってくれなくなったことが、私は一番悲しかった。この作品・作者はこういう問題に対してこういう立場だからダメ、とか、この人はヘイターだから関わらないようにしようとか。正しいか正しくないかを語るようになった。テンプレートのような言葉ばかり呟くようになった。賛同しない人を攻撃するようになった。その界隈で反応をもらうことに生き甲斐を感じているようだった。
正しい正しくないではなく、自分の好きな気持ちを大切にしていてほしかった。
明らかにリアルの関わりが希薄になって(人のことは言えないが)、代わりにSNSに傾倒しているのを感じるようになった。仕事とか色々上手くいかないストレスを、SNSで脚光を浴びることで発散してたのだろうか。
そんな中、老婆心ながら行き過ぎじゃないか..という趣旨の連絡をしてしまって、そこから議論に発展してしまって、私とは違う世界に行ってしまったことを思い知った。ヘイターだと言われた。言っている言葉の意味が全く分からなくて、その世界の聖書の言葉をそのまま述べているだけのようだった。
私もヒートアップしてしまった。好きな作品の私なりの解釈を伝えたら、その見方は間違っていると否定されたのだ。それが許せなかった。
そんな訳で絶縁状態になりました。友達が陰謀論者になった人ってこんな気持ちなのかな〜と思いました。
久々に彼女のアカウントを覗いたら、友人と切れてほっとしたというツイートがあって、それは恐らく私のことだろうな。
もしこの声がまた届くなら、お願いだからSNSから一度離れてみてください。もっと目の前の生活を大切にしてあげてください。そして、自分の言葉で語ってください。私のことはトランスヘイターだと思ってもらって全然構わないので、それでも、目を輝かせて好きなものを語っていた頃のあなたに、また会いたいのです。
(追記)
女オタクだけど我々は腐女子ではなかったです。ちょっと特殊な狭いジャンルにいました。
ヘイター認定されたことは全くショックじゃなくて(過去女装男にトイレで遭遇して怖い思いをしてから警戒するようになったので、その界隈からそう認定されるのは自然だと思ってます)、それよりも友達が自分の言葉で好きなものを語ってくれなくなったことに一番ショックを受けていたんだな、と改めて気付くことができました。
リアルでもネットでも、一番大事なのは「狂った人や嫌なやつ、時間の無駄なやつといかに関わらないか」だと思う
多くの人と関わると、中には地雷みたいな人が混ざっていて、そのマイナスは他の人がもたらすプラスを帳消しにしてしまう
悪・即・斬(タチの悪い人間関係は、即座に判断して、斬っていく)。
それがおれたちのただ一つ共有できる真の知恵ではなかったか。
どこから触り始めてどう愛撫して・・・というのを反芻しているといつの間にか眠れる
ただ、妻と同じベッドで寝るとリアルで再現したくなってついセックスしてしまうので、
ソファで寝ると体が痛くなるので、昨日は妻のいるベッドに行ったらやっぱりセックスしてしまった
「眠れないときどうしてる?」と妻に聞くと、
「セックスのことを思い出してる」と言われた
私がコミケに来たのは、コミケでは道にエロ本が敷き詰められていると聞いたからでした。
まず第1に、コミケにはエロ本など敷かれてはいないということ。
次に、そもそもエロ本は必ずしも自分の好きなジャンルではないこと。
そして最後に気付いたのは、自分の好きなジャンルのエロ本を作るという役目は私に課せられているのだということでした。
エロから、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。
中学生が、仲間たちと危険を分かち合いながら河原のエロ本を拾い戦利品を回し読む。
そんなことはもうなくなった。
これからのオナニーは、安全で静かで、物憂い個室にいてパソコンやタブレットを前にひとり座る。
インターネットに1つ2つのキーワードを入力すればAIがどんなエロ動画でもエロアニメでも瞬時に作ってくれる。
これから先に起こるエロは、リアルの女性を誰ひとり必要とする事がないだろう。
やがて、AIは大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるようなオナニーの為のシステムを産み出すことになる。
人類は、初めて自分だけで全てのエロコンテンツを完結させることが出来る道具を手に入れた。
こんな奴もいるんだよという性の話をさせてくれ。10年前の自分に読ませたいと思って書いたら長くなってしまった。
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俺は30歳男で独身。
俺の恋愛対象は女性である。大学の同級生にガチ恋して付き合ったり、出張先でお世話になった女性に一目惚れしたりしている。そして幸せなことに今もかわいい彼女がいる。遠距離だが幸せにやりとりしているし、信頼して色々なことを相談しているし、会うたびに楽しくデートもしている。大好き。今の彼女と結婚したい。なんなら子供もできたらいいな。
しかし、とても厄介な事実がある。俺の性的対象はたぶん、男なのだ。
正直自分ではあまり認めたくないのだが、街中ですれ違う短髪筋肉質な男性にはついつい目を向けてしまうし、普通に銭湯に行っていいガタイの男がいたら見つめてしまう。男子高校出身だったということが関係しているのかもしれないが、なぜかそんなことになってしまった。嗚呼。
中学生の時は普通の男女もののAVを見て抜いていた。が、主に見ているのは男優の体とちんぽだということに気づいたのは高校くらいの時だった。最初は躊躇していたが、次第にゲイビデオを見て抜くことも増えていった。18を超えた頃に興味と性欲から発展場に行ってみたが、男の体とちんぽに欲情する自分を再確認してしまい、以来ときどき通っている(怖いのでバニラまでしかしたことはないが。バニラの意味が分からないやつはググれ)。そういう場で出会ったゲイの友人とは匿名のまま仲良くなり、定期的に会って抜きあったりもしている。ゲイ向けマッチングアプリも使っている。でもそこに恋愛感情は一切ない。付き合おうと思ったことはない。
そして無論、このセクシャリティをリアルの知り合い(彼女含む)にカミングアウトしたことはない。発展場で会った匿名の男から「お前それはゲイだよ、認めて男と付き合ってしまったほうが楽だよ」と言われても、「俺はノンケ寄りのバイだから…」と言葉を濁していた。
実際面白いことに、身近な友人や仕事仲間など日常生活で知り合う男性には全く欲情しないのである。実生活で俺にゲイだとカムアウトしてくる友人は数人いたが、彼らにもカミングアウトはしたくないし、彼らを好きになることもなかった。おそらく、自分がホモであることを認めるのが怖く、家族や実生活の知り合いにバレるのも怖く、理性のリミッターが強くかかっているのだと思う。良い身体だな〜タイプだな〜と思うリアル友人♂はいるが、その彼とどうこうなりたいとは思わない。
だから俺は、ノンケでもゲイでもバイでもない成り損ないの状態だった。この歪んだ性的指向に俺はずっと悩み続けていた。
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さて、賢明な読者諸君であればお気づきだと思うが、俺には、とても困る場面がある。
彼女は18歳の時から数えて今まで5人ほどいたが、俺から手を出したことはなかった。
仲間内では女に困っていないヤリチンキャラを作っていたものだから、付き合った彼女にしてみたら意外でもあったろう。あるいは童貞だと思われたかもしれないが、確かに挿入したことない童貞だったのは間違いない。ちんぽはしっかりしゃぶってきたのにな!
無論、年頃の男女のこと、一緒に寝て向こうから迫られることも多々あった。俺もやったるぞ!!という気持ちで頑張ろうとするのだが、しかし興奮しない。否、興奮しないだけならまだ良い。勃たないのだ。
人並みに女性の身体を愛撫し、指を入れてみる。でもあんまり興奮しない。俺のちんぽは基本的に無反応なのだ。彼女に触ってもらったり舐めてもらったりしても反応はない。汚い男にしゃぶられてきた自分の経験を思い出すと、その罪悪感もあり、余計勃たなくなる。
勃たないちんこに用は無い。俺は自分がインポであると装い、抱きしめながら寝るしかなかった。
(ちなみに風俗もピンサロも行ったことはあるが、勃たない。女体に対する嫌悪感が増すばかりだった。)
俺が手を出さなかったことも理由だっただろう、過去の彼女はかくして俺の元を去っていった。俺はすまんなと思いつつどうしようもできなかった。
好きな彼女に興奮せず、一方で世の中から隠れて男と抜きあう俺がいる。こんな状況にモヤりつつ、悩むので大事な時に余計勃たないという悪循環に陥り、どうすることもできないまま時間が経っていた。そして30歳になったのである。
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さて。今の彼女と付き合って1年ほどになる。セックス以外は全て順調な交際である。
この年末、彼女と数泊の温泉旅行に行った。初めてのお泊まりである。
最初の夜に、彼女を抱きしめながら寝たが、勃たないことがやはり怖く、興奮もしなかったので手を出さなかった。すると次の夜、シクシクと泣かれた。言葉に出してはくれなかったが、温泉にまで来て一緒に寝ておいて、ちんぽも挿れてくれないとやはり悲しくなるのだろう。俺もそのくらいの想像力はある。
さすがに好きな彼女に泣かれたら俺も悲しい。頑張ってみるかと奮い立ち、服を脱いでみる。
でもやっぱりちんこが勃たない。緊張して・・・と言いつつ、心から情けなくなり、不貞寝した。愛する彼女はどこまでも優しく、俺の頭を撫でてくれていた。
翌朝目覚めた俺は、自分の下半身が朝勃ちしているのを感じた。ただの生理現象で勃っていただけだが、今だと思った。半分寝ている彼女を急いで愛撫し、愛撫中に萎えかけたちんぽを急いで突っ込んでみる。ちなみにこれは自慢だが、俺は亀頭が大きめなので(多数のちんぽを見て比較してきたのでよく分かる)、ぶっちゃけ割と挿入しにくい。半分柔らかくなっていたちんこの先っぽを、どうにかこうにか押し込めた。中は暖かかった。
動いていると身体的快感もあり、しっかり勃起してきた。俺はとても安心した。そして大きいと言われて興奮した。俺のは他の男より大きいんだぞと言いかけたが、なんで知っているか聞かれると困るので言わなかった。
女性に対して腰を振る自分を、AV男優に重ね合わせて興奮し、そしてMAX勃起になった。奥まで挿入して突いている時、ふと変わる彼女の表情が最高に可愛く、吐息がとてもエロかった。その時初めて、女性に性的興奮を覚えた。愛する彼女とのセックスは本当に最高なんだな。セクシャリティどうこうじゃないわ。最高に可愛いわ。本当に。最高すぎた。結婚したい。ずっと挿入していたい(童貞感)
次の夜は、なんと、普通に勃った。俺は彼女に興奮していた。涙が出るほど嬉しかった。なんのことはない、女性に興奮しない、ちんぽが勃たないというのは、自分で思い込んでただけだったのだ。かくして俺は童貞を捨てることができた。
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その経験をしてめっちゃ安心したのだろう。そこでなんか性欲のリミッターが外れた。彼女との旅行から帰ってきた俺は、いてもたってもいられず、なぜかまず9monstersを開いていた。増田にいる人はよくご存知だろう、ゲイ向けマッチングアプリである。
俺はホモではない()ので絶対に顔は出さないと決めている。というか万が一でも流出したら彼女にバレてしまう。それは困るので、俺は自分の体の写真と性器の写真を登録している。亀頭が大きい俺のちんぽは人気である。ゲイ向けアプリ、こういうところは即物的で大変に使いやすい。
「秘密厳守」と書いているアカウントを見つけた。深夜に声をかけたその男からすぐに返信があり、やり取りを始めて30分後、俺は彼の家で全裸になり、ちんぽをしゃぶられ快感に喘いでいた。俺のちんこは嘘みたいにビンビンだった。
彼も自分のことをバイだと言っていた。なぜバイだと思うのか聞くと、彼はあっけらかんと言った。「男の方が好きだけど、やっぱ結婚したいし」。そうか〜そうだよな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。そんなもんか。意外に俺と同じようなやつ多いじゃん。女ともできるのか聞くと、まあ勃つからね、と言われた。そうだよな。俺もそうなれたよ。ありがとう。
でもしゃぶられている際に気づいたことがある。こいつのフェラ、うますぎる。なんでこんなにうまいんだよ。聞くと、彼は「最近は男としかやってないから上手くなった。女の子とのセックス忘れたわ〜」と言っていた。なんだこいつ、ホモじゃないか。なお俺はホモではない。
ということで、俺は結構深刻に悩んでたけど、同じ境遇の人は割と少なくないっぽい。ノンケでもゲイでもバイでもない成り損ないの状態とか思ってたけど、まあ彼女とも普通にセックスできるようになったし、全然悩むことなかったよ。むしろ普通のノンケと違って、俺は、みんなが知らない世界(=男のちんこ)が見えていると思うと少し誇らしい。秘密結社に所属しているみたいなドキドキ感もあるしね。
ふと、
まあNIKKEのコラボ企画が次にエヴァがくるのねって私の中の認識で
見たことはないけれどなにか耳にはしたり目にしたりはするじゃない。
それで思ったの。
かなりこれNIKKEで言うところの人類の敵であるラプチャーはどっからやってくるの?ってのがNIKKEの作中でもどうやら分かってないみたいだし、
それに通ずる私の大好きな『ステラーブレイド』も人類の敵である「ネイティブ」というのは当初どこから現れるのか謎だったけど。
先に言っておくと『ステラーブレイド』の人類の敵である「ネイティブ」は物語の最後に出所は一応解き明かされるの。
一応は発生源はあんのよね。
NIKKEは分かんないみたいだし、
ふとそう思うと
もちろん何かの検索をチラッと検索したら黒き月と白き月とで黒木メイサさんは全然関係ないみたいだけれど、
そういったのがきっかけになって私はその黒き月と白き月のその話はなんだかよく分からないの。
そんな設定があるみたいなの。
でもさ、
これら挙げた3作品以外にもそういう敵を倒す系の話っていわば典型的な器じゃない。
今やってるドラゴンクエストIIIだって
敵ってどっから来るの?
なんかそれはどっかから星人が各地からやってくるってのみたいで、
にしても地球に集結しすぎじゃない?って思うけど。
そういう創作物物語はもちろんゲームなんかに一応の敵を倒していく!ってのが話の柱としてあるじゃない。
それらの敵ってどっから来るの?って
まあそんなことを真剣に考え出すことすら事態野暮なことなのかも知れないけれど、
突き詰めていったらでもそう言うことになるじゃない?
そんなこと言いだしたら
あの世界感なに?って
そうなると、
説明できない設定は踏み入れてはいけない領域としてそういうもんだと思って世界を楽しむしかないのねって。
いや楽しむ分にはいいのよ。
楽しみ突き詰めていくと、
宇宙の外側はどうなってるの?って疑問に
なんでもそもそもとして宇宙の外側のことは考えてはいけないみたいな空気すら流れているその物語の外側。
気になりだしたら気になるわよね。
レトロゲームなんかグラフィックが表現力が低いからまだ隠し通せそうなものだけど、
うーん、
なんか欲なんて言って良いのか分からないけれど。
そんなこと言いだしたら、
スプラトゥーンでバトルしたあとあれ誰がインク塗ったの綺麗に元通りに掃除してるの?って
いや、
それはさすがに野暮すぎるでしょ?って
だれもスプラトゥーンのバトルの後のインクを消すことを一所懸命考えている人なんていないんじゃない?
そう言うことか。
なんか腑に落ちないけれど、
そう落とし所はそう考えるしかないのよね。
あまりにも
NIKKEがレヴェル200超えしたとは言え
敵が強すぎてサクサク先に進めなくて
放置して物資を貯めては回収しているだけの作業に飽き足らなくなって、
いろいろな思想を張り巡らすのよ。
要はNIKKEやることなくって暇!つーことで余計なこと考えがちって
ついついなんか課金しちゃっても良いんじゃないかってノリの気持ちになっちゃうけど
危ない危ない!
『ステラーブレイド』とのコラボ企画で「NIKKEにイヴがやってくるまでしないんだ!」って確固たる意志で括弧でくくって強く言うほどそう思っているんだしね。
暇になると
NIKKEはしばらく放置よ!
うふふ。
いつも朝に沸いてある70℃設定のホッツウォーラーは
梅をつぶしてふーふーして飲んで
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!