はてなキーワード: 児童書とは
1話から禁止魔法で母親が石になるところから物語が始まるまあまあ重い、映像が美しいアニメ。
で、2話に入ると、この世界の魔法がどういうものなのかが語られる。
魔法とは元来だれにでも使える身近なものだった。しかし悪用する者が増えたため、後世には「限られた者だけが使えるもの」として伝えられ、今に至る。
というのがこの作中における「魔法」の扱いなのだが、そんなことは可能なのかね?
途中から人々の認識をそこまで塗り変えることが果たしてできるのか?
歴史には残るだろうし、記録をさかのぼれば誰にだってわかることだろうに。
古文書とか、石碑とか、日記とか、伝記好きの好事家とか、絶対どこかから漏れるだろうし。
一度広まってしまったものに対して、そんな都合の良い(と思えてしまうような)隠蔽工作が、何世代にもわたって通用するものなのか。
…と科学が発展した現代人の嫌らしい目でみてしまうのは、たぶんよくないんだろうけど。
児童書ならアリかなーって思うけど。
子供が俺の裾を引っ張って、「パパ、あれ気持ち悪い……」って小声で言ってきたんだよね。
指差した先を見たら、胸が異常に膨らんだ、もはや奇形にしか見えない女キャラが男を挑発してるみたいな特大ポスター。
正気かよ。
「表現の自由」とか喚いてる連中に言いたいんだけどさ、自由ってのは何をしてもいい、何を見せてもいいって意味じゃないだろ。
「ゾーニングは表現の自由を奪う規制だ!」とかキレるアホがいるけど、逆だろ。
むしろ、一般人の目に触れない場所に隔離して販売を禁止することが、その界隈の表現を守ってやるための共存の知恵なんじゃないの?
描いてもいいけど公表するなよ。
それを「規制だ!」って拒絶して一般エリアに侵食してくるから、こうやって嫌悪感持たれるんだわ。
子供が直感的に「気持ち悪い」って感じるものを、大人が「自由だ」とか言って正当化して見せつけるの、マジで教育に悪いし有害。
当たり前のマナーだろ。
刺激が少ないものを見るのがいいよ
同じような状態だった時、Amazonプライムビデオで内村さまぁ〜ずをシーズン1から最新話まで見て、それからまたシーズン1に戻って繰り返し見たりしていた
水曜どうでしょうもいい
フルハウスもいい
長く続いてる、ゆるいシリーズをぼんやりと見て時間を潰したり、寝たり、少し体力がある時はその場足踏みとかでいいから少し運動や体操をして体をほぐしたり
そういう風に過ごすといい
シルヴァスタインやエリック・カール、韓国の「すいかのプール」なんかもよかった
収入がなくても図書館なら無料で借りれるし他の館から取り寄せもできるぞ
夜眠れないならラジオのゆるい番組やPodcasを聞くのがいい
自分が鬱だったころは放送大学を聞きながら寝ていた(何時間も眠れなくても少しは勉強になるから自己嫌悪が減らせた)が、今はラジオ放送がないんだよ
PodcastならTempleMorningRadioがよかったな
司会が静かな話し方なのと、後半のお経でよく眠れた
ご自愛せえよ
僕は元来知識を求めるのが好きで、月に10冊ほどのペースで読み続けている。大学に入ってからずっと記録しているのだが、このペースはほとんど崩れていない。記録の一部は2020年以降カテゴリ[読書]でまとめている(ただし別の方のも記事もある)。御覧の通り、文学、自然科学、社会学、歴史学と、ジャンルにこだわりはない。
だが、ここ数か月、知識を増やすことに対する関心が途絶えてかけている。というか、何か新しい知識を得ることに対してうんざりするような感じが出てきた。閉塞感というか、「これ以上何かを知ってどうするんだ?」という懐疑の念だ。
仕方がないので、昨年の年末からは頭を切り替えるために十代にハマった「指輪物語」の原書を読んでしのいでいた。実際、頭の別の場所を使っている実感があり、非常に楽しかったのだが、読み終わった今でも次の知識をどんどん増やそうという熱意が昔ほど出てこない。アファーマティブ・アクションや社会活動についての新書を読もうとしていたのだが、どうもドキドキワクワクしてこない。一応「独学大全」を買って積んであるが、読むかはわからない。
知的な読書をしたいと意識をしてから20年以上経過していて、これだけ続いてきた習慣が変わろうとしているのは、自分の身に何か大きな変化が起きようとしている兆候の可能性がある。まったく読めなくなるというのは大げさだが、明らかにペースダウンしている。
原因を知りたいため、いくつかの仮説を立てて、それぞれを検討してみたい。
実際に真冬には気力が落ちる体質で、特に日の出の時間が遅くなる時期は睡眠時間が延びて布団から出るのに苦労する。弱い季節性感情障害の傾向もある。ただし、読書そのものは継続できているので、冬ゆえのデバフがかかっているにせよ意欲の低下の一因でしかないし、仕事はちゃんとできている。というか、春になっても(最初に原因を考え始めたのは真冬だがこれを書いているのは3月)読書の意欲は完全回復していない。
仕事の内容に変化が少なく、日々を単調に感じている。だから今までの習慣にしがみつくのが嫌になっている。今までの行動パターンと変わったことがしたくなる。実際、土産物を買うために職場近くの駅で和菓子屋を探したときや、会社を早退して美術展に向った時、または食器を買うために乗換駅で下りたときは、頭がすっきりしているし、翌日の仕事のやる気は増えている。
これは中年とはあまり関係ないかもしれない。ルーチン的な日常が好きな割に、一か月に一度は降りたことがない駅で下りたいという願望が元からある。そんな中、今までの読書という時間をかけてきた趣味・ルーチンが相対化され始めており、風穴を開けようとしているか。
パートナーを見つけて引っ越したが、それの伴うゴタゴタや生活の疲れが数か月遅れで出てきた。実際、結婚や転居はストレス指数が高く、仮説としては十分に有効。ただし、日常的な家事や仕事は普通にできており、知識欲だけがピンポイントで失われる理由がわからない。
ただ知識を増やすのはあまり意味がないとうんざりし始めている。多少知りたい分野はまだあるものの、若いころのような焦燥感はない。映画や漫画を大量に読みたいとも思えない。
20代30代は、何者でもない自分を守るため、そして混沌として暴力的にも見える世界を理解するため、あらゆる知識を必死になって吸収しようとしてきた。
今はそこまで鎧で武装しなくても生きていけると実感できるようになった。パートナーがいて、自分の生活をきちんと組み立てている。人間関係が良好になってきて、抽象的な知識よりも生きた人間のほうが面白くなってきている。
社会の不正義に対する感覚も、恐怖や怒りから、人間の弱さへの共感に変わってきた気がする。
確かに趣味に対する関心の消失はうつ病の主要な症状だが、仕事や生活ができない状態ではないし、かなりのエネルギーを使う英語の読解はできている。メンタルの調子をモニタリングするのは大事だが、可能性としては高くない。
徒に知識を集めるだけではなく、昔読んだものを振り返り、より深く読解したくなっているのだろうか。それこそ若いうちには気づかなかった暗示や、知識が不足していた頃には知りえなかった作者の意図がわかるようになる。これは実際に「指輪物語」の原文を読んで感じたことだ。母語でない言語で読むことでペースが強制的に落とされ、精読を強いられる(余談だが、面白いことに、英語で長文を読んだ後、日本語の小説を読むことを考えると、いくばくか気が重くなった)。
人生後半戦、再読を中心に行うことになるだろうか。ただ、「ノスタルジーに浸っているだけってどうなのか」とは思う。だが、再読だけに浸ることもないだろう。ドストエフスキーのように感情を揺さぶるものを好む度合いは減っている。
音楽の趣味にしたって、最新の曲には全然心動かされず、クラシックやオペラのアリア、僕が生まれる前のロックと保守的である。そう、歌詞のない(または理解できない言語の)音楽は、言語に疲れた僕を癒してくれる。あるいは、幼い頃の思い出と結びついた言語の情報は、感情の層に素直に届く(幼少のころ英国に住んでいたのだ)。
「脳の言語と異なるエリアを使いたい」というのは芸術でもそうで、相対的に言語化が容易なタイプの現代アートやマグリットのような言語実験よりは、異質な文化の未知の造形や、インスタレーションのように空間を演出するタイプの作品に関心が向かっている。
ドイツ語をやって、昔読んだ児童書を原文で読みたくなっている。
このドイツ語に関してだが、やってみて今のところ調子がいい。実は今年の目標は①「指輪物語」の原文読破、②ドイツ語の開始だった。①は成功したので②を3月15日(日)から始めているのだが、久しぶりに暗記の勉強をしていると、明確な目標が与えられた気がしてとても気持ちがいい。
それに、大学時代に1年間だけ学習したため、文法は少々覚えている。なので、単語帳と例文を照らし合わせて読解するときも、調べる量が少なくて済む。まだ初歩の初歩だからかもしれないが楽しい。昼休みに小説を読むよりも、単語帳に定冠詞と複数形を書き込んでいるほうが生き生きしている。自由時間をずっと読書にあてるという行動に変化が起きているので楽しんでいる面もあるだろう。
知識を増やすことそのものに対する忌避は、ドイツ語をやっている時には出てこない。あとは未知の都市を歩くことに憧れがあり、春か夏に行こうと持っている場所のガイドブックも読めている。知識というよりもデータベースに近いからかも。つまり、書籍でいろんな知識を学ぶときのように、直接人間が出てこないので、感情を動かさなくて済む。逆に言えば、こういう単純な知識を記憶するときは、哲学や社会学のように新しい概念を頭に入れる必要がない。それを面倒くさがっている面もあるだろう。
(そういう意味では自分の資産の管理方法や医療保険についてもちゃんと勉強したいのだが、実利と程遠いことのほうがやる気が出るのはなぜだろう?)
続きはトラバに。
都心の中でも一握りてのはその通りだと思う
意図してやってるかわからないがってところは、だから何ってわけでもないんだけども「教育に金をかけてもらえる子たちが当たり前のように存在してるんだよなー」て感じをそのまま書いたよ
電車でSAPIXのテキスト読んでたり、小学生が英語の児童書みたいなの読んでたり、すげ〜なあと思う
公立校も近くにあるし庶民的な家庭の子たちももちろんいるんだろうけど、バイリンガル教育も含めて、やっぱ教育熱とエリートの割合が地方の比ではないよね…
丁寧に育てられてんなあと思う
あとダイエーとイオンはバカにしたつもりなかったんだけど、エリート的な人々の着てるものと比べて卑下はしたのでそれはごめん
市の一番南にある図書館はまだ行ったことが無かった。葬儀場を通り過ぎて川に大きな橋がかかっていた。そばにあった道にある建物が図書館だった。中には人が少ない、児童書のコーナーは図鑑や絵本や歴史の漫画までがひとつの部屋みたいなのに集められており、靴をふたつきちんと並べて
部屋に私は足を踏み入れた。
作者がもうこの世にいないことを真っ先に思い出してしまう本もあった。昔、読んだ本を開いて見ると中の誰もが記憶のまま私の知ってるように
怒っていたり、泣いていたり、喧嘩していたり、
笑っていたりした。どうしてか傷だらけの手がふと浮かんで私はそっと本を閉じた。
もう帰ろうと思った時に一冊の絵本を読んだ
子供がまず宿題とか学校とか考えることから始まって最後には正義まで考え出す絵本だった。
その中にあった自分ってなんだろうというので
手を止めた。最近はそんなこと考える余裕も無かったので、そのまま考えてみた
わからなかった
ほんとうに、ほんとうにわからなかった
そして本を棚に置いて、私は泣き出してしまった
表自問題で叩かれている表自女オタクたち、俺が見てきた人たちは8年以上前から男女向け問わず表現規制に対して異を唱えていたから、今叩かれているのはかわいそうだと思う。某女オタクが表自男オタクを「お前らは私たちがいなければズリネタの自由戦士でしかない」という名台詞を吐いた際にも、否定的なコメントをきちんと出していた。
が、彼女たちですら男性向け表現を暖簾の外に出そうとまでは言わなかったし、仮に当時言っていたとしてもお気持ち要素ゼロのガンギマリ表自ガチ勢にしか支持されず、多数派にはやんわりと反対の目を向けられていただろうと思う。男性向け表現の解放を主張/賛同していなかったこと自体は、若い世代には当たり前となってしまっているので仕方がない。そもそもそれを表明する男オタク自体が希少種だったし、あまり叩く気にならない。
だがしかし、その前提がある限りBLを暖簾の中に押し込むことに反対することは差別を支持することであり、BL表現への規制に反対することはできない。少なくとも、男性向け表現と同等程度になるまでは焼かれるのを黙って見ていなければ差別主義者になってしまう。8年以上の活動をしてきたからこそ、今まで男性向け表現の解放を主張していなかったことが、自らの主張に制限をかける。残念だが、君たちには焼かれて貰うしかない。
しかし、彼女たちに全ての責があるわけではない。男オタクも悪いのだ。男性向け表現の解放を謳い、エロマンガを暖簾の外に出し、堂々と児童書の隣に置くことを主張すべきであった。しかし、他ならぬ男オタク自身がそれをしなかった。した者はいたが、「一般的な市民感覚」を持つオタクたちからは怪訝な目で見られており、あまり支持されていなかった。
そりゃそうだ。児童が過剰にポルノに暴露される事は発達に影響を与えることを示唆する研究はある(念の為言っておくが純粋培養も同様の傾向である)。それを知らなくても、直観的にもそういう考えになる。普段は視界に入らないが、その気になれば手に取れる。暖簾の中に隔離されるというのは、公共の福祉を踏まえると程よい距離感であるのはその通りであるのだ。若い世代にとってはそれが当たり前になってしまった。当の男オタクが望まない主張を、女オタクがすべきであったとするのは、いささか他責が過ぎるだろう。
だが残念なことに、だからこそ女性向け表現は焼かれる対象になる。一般向けからコーナーから排除され、暖簾の奥に押し込まれ、禁断の領域に足を踏み入れる居心地の悪さを感じてもらうことになる。BLだけではない。過激な少女漫画やレディコミも、全て焼かれて貰う。そうでなければ筋が通らない。
しかし、俺達も悪い。俺達が現状に甘んじ、男性向け表現が規制されていることを受け入れてしまったからこうなっているのだ。フェミ共の言う公共の福祉の議論に乗ってしまったからだ。表現の自由は児童がポルノに暴露されることに寄る悪影響よりも重要である。児童への影響は受忍限度の範囲内だ。そう主張するべきであった。しかし、当時はフェミの勢力が強かったことを踏まえても、流石に分が悪い主張であったことは疑いようがない。我々は大人であり、強者であり、児童は弱者で庇護対象だ。児童の利益が優先されるのは何ら違和感のある主張ではない。だが、だとしても、それを主張するべきであった。
当時それを強く主張していれば、ガンギマリ表自女オタクたちもそれに乗ってくれたかもしれない。表現の自由戦士で世論を動かし、フェミやダブスタ腐女子を叩けたかもしれない。8年越しの今、ダブスタ腐女子を黙らせ、オタクたちは手を取り合ってフェミやリベラルや保守、あらゆる勢力に一致団結して立ち向かえたかもしれない。
だが、残念ながらそうはならなかった。男オタクは日和った。女オタクは現状維持した。表現の自由は専守防衛であり、抑圧からの解放を是としなかった。結果、BLが焼かれることに反対する根拠を失ってしまった。オタクたち全員がこの結果を作った。
表自女オタクよ、すまない。俺達が規制に抗うべきであった。しかし表自女オタクよ、君たちは男性向け表現が児童書の隣に並ぶことを是と心得ることができるかね?母親になっても、娘を持っても、それを続けることができるかね?
「ここで団結せねばいずれ男性向け表現も焼かれる!」と言うのはいいが、それを言うには君たちの仲間はヘイトを買いすぎた。表現を守ると謳いながら、男性向け表現を焼くという裏切りがあまりにも多すぎた。君たちがそうではないというのは俺がよく知っている。だが、その立場を取るのであれば、君たちの仲間の裏切りを強く焼くべきだったのだ。君たちの仲間が無能すぎたのは同情するが、焼かれ続けた男オタクの怒りを鎮めるには、君たちの声は少し足りなかったようだ。
ここで君たちを見捨てれば、我々は二ーメラーの警句の通りになるかもしれない。しかし時代を遡れば、君たちが二ーメラーの警句通りの裁きを受けている。俺は当時まだ生まれたばかりだったが、90年代の表現規制の際に反対しておけば、2010年代に「昔はこんな不自由な社会ではなかった」と若い男オタクの目を覚ませていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。もし君たちが当時幼すぎたならどうしようもないが、しかし人の気持ちとはそういうものだ。
BL表現を焼くことは、間違いなく表現の自由の後退を意味する。だが、我々がそれを防ぐには選択肢を間違えすぎた。時代も悪い。男女平等教育を受けた若い世代の目がキマっているのも運が悪かった。男らしく、表現の自由を守るためなら多少の不自由は引き受けようとする、器のある男はもう少数派だ。
まず前提を書いておこう。
私は腐女子である。一般的な腐女子ではないかもしれないが、歴としたBL文化を好む腐女子だ。無論二次創作もしている。
何がどうあれ、それは事実だ。
それから事の発端は皆さんもご存知だろうが「いちばん美味しいゴミだけ食べさせて」というSteamのゲームである。
私がこのゲームのことを知ったのはXの電ファミニコゲーマーのポストだ。それを見た時におもしろそうなゲームだな、と思うと同時に不味いなとも思った。
さて私の立ち位置を明確にしよう。
どのような内容であれきちんとR指定などをしているのならば現状は問題ないはずである。
だが不適切な場所での性的なWeb広告などには反対をしていきたい。それはきちんと線引きができていないからだ。今はその話ではない。ゲームである。
だが考えてみて欲しい。このゲームはまだ発売していないのだ。発売していないゲームの中身なんて、誰にも本当のところは分からない。
このゲームを本当に評価するなら、買って遊んで中身を確かめてから然るべき批評をすべきだ。
だってこのゲームに出てくるラブリィドールとやらにゴミを食べさせて賢くなったらそのラブリィドールが今度はプレイヤー(人間?多分、知らないけど)と立場を入れ替えて今度は人間に美味しそうな残飯料理を振る舞うようになるかもしれない。
それならこのゲームは知能を持つことやその存在との関係性の構築に対するカウンターとして機能することになる。
このあらすじだけではゲームの全貌は分かりっこない。
仮に本当にあらすじからそのまま連想されるような女性蔑視的な視点が含まれていたとしても、別にそれは悪いことでは無い。
それなら世の中のそう言った生き物(男性/女性/動物/有機物/無機物を問わず、命あるもの全て)を物扱い(この場合、ラブリィドールは物だから別に物扱いしても構わないとも思うが)して性的搾取していると思われる作品は全て検閲対象にせねばならない。
道徳的に問題のある作品の全てがダメなのなら、その前に規制や検閲を受けるべき作品など山ほどある。
現状そんなルールは存在しないのでその方向でこのゲームを取り沙汰するのはどうにもおかしなように思う。
それから純粋に、アルジャーノンに花束をからインスピレーションを得たとするこの設定は挑戦的でおもしろそうなことは間違いない。私はSteamのウィッシュリストに放り込んだ。閑話休題。
そしてBLだ。
私はいつも近所の本屋に行くと、その本屋では児童書コーナーの奥まった場所にBLコーナーがある、それを見る度にせめて場所を変えてくれないかと思っていた。
男性向けR指定コーナーと同じにすると女性が性的被害を受けるので現状は難しい、と言うのなら今後は男性と女性それぞれのR指定コーナーを設ける、と言うことを検討してもいいと思う。
児童書コーナーの奥よりはマシだ。
それをすると腐男子の方々がBLを購入するのに差し障りがあるかもしれない。まあ私も男性向けのR指定本を買う時に困るが……現状世の中には通販と言うものもある。
なんなら全てを通販で済ませても良い、と思う時もあるが本屋には総覧性という素晴らしい利点と思い立った時に手にすることが出来るという通販では得られない即時性もある。
ならば現状を維持する為に男性向けも女性向けもR指定の権利と表現の自由を主張するべきだろう。
それが筋というものだ。
エロの表現のきれいさとか性的搾取が無い作品だとか、そんなものは男性向けにもあるし女性向けにだって強姦表現やとても口に出すのは憚られるようなものもある。数の問題では無い。表現の内容を全てを一纏めに語るのは暴論だし、そうなったらどちらも規制である。
あと私は男性向けとか女性向けとかそんな括りは関係無く全ての作品が読みたいし、全ての表現を尊重したい。
ちなみに個人的な考えを言うと作品の倫理観は時に読み手とナラティブに呼応し、時に逆照射されて読み手に倫理的に働きかける(その逆もある)というのならば読み手と書き手は両者共に倫理的に成長すべきだし、その営みを守ることに対して声を上げたいと思う。
AFEE エンターテインメント表現の自由の会 のホームページにて「ゲーム配信プラットフォームにおける検閲・配信停止問題について声明」が掲載された。
steam等ゲーム配信プラットフォームにおけるアダルトゲーム含むコンテンツの削除、に対する意見書で
クリエイター保護やユーザーの権利を守ってくれ、と言いたいこと自体は概ね同意できるしこういう意見書を出す必要性も理解できる。
が、
Steamやitch.ioは年齢確認・フィルタリングによるゾーニングを整備し、ユーザーが安心してコンテンツを選べる環境を築いてきました。
成人向けコンテンツ等を明確にゾーニングし、安全に流通させる仕組みは、ユーザーの選択権とクリエイターの表現の自由を両立することにも資すると理解しています。
各プラットフォームのこうした制度整備の努力に感謝し敬意を表します。(コピペ終)
この適切なゾーニングを許容する部分は今までこの団体及び会員が説明してきた理念、及び行動とかけ離れている。
表現の自由を掲げるこの会は、ゾーニングの追加・強化は表現規制だとし、性的描写があるBL本を区分することに反対していた。
それが男性向けの書籍なら確実に18禁になっていたであろうものでもだ。
それが表現の自由を守ることだと、この団体は言ってこなかったか?
今回、ゾーニングの整備は必要でその努力に感謝と敬意を、とこの団体は言っている。
同じことをBL本の時になぜ言わない。
児童書の近くに性的描写のあるBL本が置かれる書店が存在してしまうのは、売上やスペースを理由に適切なゾーニングを出版社及び作家が怠ってきたからだ。
児童保護の名目での法的表現規制強化をされかねないだろこの現状は。
「成人向けコンテンツ等を明確にゾーニングし、安全に流通させる仕組み」とは、性的BL本を男性向け同様に暖簾の奥に区分することだ。
ゲームプラットホームのそれには賛同するんだろ、BL本は何が違うの?
私は本を読むのが好きな子供だったけど、物語に溺れる系だった。
ライトノベルや児童書を快楽的に読み耽る。現実から物語に逃げ込む。それらを楽しむための語彙力や、王道を楽しむための土台についてはとても積極的に学んでいた。
いまは小説家になろうだとかカクヨムで十分事足りている。ときどきちゃんとした作品を読まないとな、と紙の話題作をよむのだが、ちゃんとストレスがかかる。とても面白いと感じると同時に、疲れる。面白い作品は負荷がかかるのだ。その負荷も何度も楽しめば鍛えられるとわかっているけど、もういい歳なので鍛えられに行きたがらない。
さて、私がこのように自堕落なものだから、子どももそうかというと、そんなことはない。
食にも大変親しんでいるので、心持ちのふくよかさと、独善的なところはあるものの、将来はダンスの選手になりたいという程度に運動にも親しんでいる。そして物語にドラえもんの漫画から、図鑑、石の本など多様に読んでいる。
先日、子供が好きそうな本があって(生き物の豆知識的な)、表紙に書かれているキャッチーな「イソギンチャクはくちとこうもんがおなじなんやって」と話しながら進めると、子供はすげなく「しってるよ、ほかのほんさがしにいこう」と別の本棚に進んで行った
小学生になってから親の知らない本を学校や学童で大量に読むようになった。
https://x.com/kurubushi_rm/status/1921397861519941732?t=jiYWNmiJV9Uy2M1PhvGfmg&s=19
初めに言うと、ポスト主に落ち度があるわけではない。個人のイライラを言葉にしたくここに書いておきます。
意見の中身自体に特に異論はない。そもそもトランプ支持者を説得しようとして書いたわけではないだろうし。
「中学生にわかるように書」いたポストを読んで、これは自分に向けて書いたものだと思う人は実質いないのでは。中学生はXにほとんどいないだろうから一旦置いておくとして、これを大人が読んだとして、この意見に賛成の人はそうだそうだ、中学生にもわかる理屈だと溜飲を下げ、反対の人、もしくは特に意見がない人は単に馬鹿にされたと思うだけでは。少なくとも自分はどこか厭味ったらしいと思った。
厭味ったらしいと思った原因は、持って回ったようなタメ口、不自然な口語調の文体にもある気がする。例えば池上彰はそれこそ中学生にもわかるように解説はするが、聞き手をバカにしたような感じはしない。これはかなり話し方や文体が影響している気がする。
この文体、多分児童書などを参考にしてるのかもしれないけど、それをSNS上で使われるとかなり不自然に思う。(段上から)あなたの段階に降りてきて、同じ目線で話してあげますよ~という風に聞こえる。自分と異なる意見の人に君無知だから教えてあげるね〜みたいな。あるいは単に一昔前のラノベっぽくて気持ち悪い。
当時、コレ!というタイトルは浮かばないものの、少し前にごくせんとかクローズとかが流行っていたこともあってか「暴走族の姫になってめちゃくちゃ愛される」みたいなのが多かった
何を読んでいたのかは忘れたが友達と貸し借りして暴走族の姫ものの携帯小説を読みまくっていた
どう考えても堀北真希みたいな主人公がどう考えても亀梨和也みたいなヒーローとどう考えても赤西仁みたいなヒーローに取り合われたりしていた(垂れ目枠、可愛い枠も大体いた。暴走族は人数が多いのでいろんなイケメンを出しやすかったのかもしれない)
最近、本屋に行ってふと児童書コーナーを見たら子供向けの携帯小説(青い鳥文庫携帯小説バージョンみたいなやつ)があって、今そんなんあるんだ…とびっくりした
なんか懐かしくなってそのまま携帯小説コーナーをのぞいてみた
今ってどんなのがあるのかなと思って数冊手に取ってみたら、暴走族になってめちゃくちゃ愛される内容のものがいっぱいあった
令和の若者は暴走族には憧れないとばかり思っていたのでびっくりした
でも、暴走族のチーム名が私の頃は「愚零賦風流雨襲(グレープフルーツ)」みたいな、画数!当て字!みたいな感じだったのに最近のは「Blue Dragon」とかだった
茶髪!赤メッシュ!学校には来ない!みたいなヒーローが多かった気がするけど、一見優等生で真面目…でも実は裏では!みたいなヒーローが多い気がした
いきなり大人向け(?)の長編から入るんじゃなくて、子どもが絵本の次に読むような短い小説から入ってみては?
途中挿絵が多いようなのもいいと思う。
小説を読む人が読めるのは、だいたい小さいころから自然と訓練していて小説を読めるほどのレベルに到達しているから。
増田も義務教育で国語の授業を受けており、その手の訓練がまったくないわけじゃないから読めるような気がするんだと思う。
でも実際に「こころ」をひっかかりなく読めるほどの訓練の質・量には到達しておらず、スキルレベルが足りていないんだと思う。
というわけで、まだそういう「読む」訓練を始めたばかりの子ども向けに書かれた本を読んでスキルを積むといい。
子供向けと侮るなかれ、話自体はワクワクドキドキで大人が読んでも楽しめるものがたくさんある。
今の自分には「エルマーとりゅう」シリーズぐらいしか思いつかんけど、
実際に図書館に行って司書に「絵本は卒業したけどまだ長い小説は読めない子ども向けの、短めの本でおすすめはありませんか」とか聞いてみるのもいいかもしれない。
ジュリアン・ムーア(64)がおよそ20年前に発表した児童書が、トランプ政権により発禁処分となったという。『フレックルフェイス・ストロベリー』が国防総省の運営する学校で禁止となったことに、ジュリアンは驚きを表している。
自身も国防総省下の学校出身で、ベトナム戦争も経験した軍人の父を持つジュリアンはインスタグラムにこう綴っている。「私の処女作『フレックルフェイス・ストロベリー』が、トランプ政権によって国防総省の運営する学校で禁止とされたことに大きなショックを受けています。『フレックルフェイス・ストロベリー』は、自分のそばかすが大嫌いで仕方のない7歳の少女が、人はそれぞれ違うのだということに気づき、受け入れていく姿を描いた半自伝的物語です」「これは誰もが苦しむことはあるけど、人間性とコミュニティによって結束しているということを私の子供や他の子供たちに思い出してもらうために書いた本です」「私は当時国防省が運営していたドイツのフランクフルトにあるフランクフルト・アメリカン・ハイスクールの誇り高き卒業者なので、今回のことになおさら驚いています。私はベトナム戦争を経験し、米軍にずっと従事していた父の元育ちました。父と母国への父の貢献はこれ以上ないほどに誇りに思っています」「軍人の親の元で育って国防省の学校に通う私のような子供たちが、同じような経験をした人物による著作を手にすることが許されないということはとても悔しいことです」
この前児童書コーナー行ったらおまじないの本がごっそり無くなっててびっくりした。
いや完全になくなったわけじゃない。けどかなり減ってる。代わりにあるのはお子様向け美容法、綺麗な字の書き方、クラスで愛されキャラになる方法、ノートの取り方、時間の使い方、話し方、メンタルの扱い方なんかもある。社会人か??
占いの本とお菓子作り、手芸、心理テストなんかはずっとあるみたい。
まぁ確かにいらんよな。女児のおまじないとか一番役に立たん。綺麗な字を書くとかおどおどしない話し方とかの方が役に立つよ。
古い鍵を使った好きな人の心の扉を開くおまじないとか、紙粘土で白蛇のお守りを作って金運を上げるおまじないとか、友達とクシを交換して友情を永遠にするおまじないとかいらんよな。
でもあのバカみたいな、子供騙しそのものなおまじないも楽しかったよ。
細々と生き続けてくれよな。
80年代生まれだけど、赤は女の子の色のイメージが強かった、キティちゃんとかの印象
戦隊レッドとかウルトラマンの赤ラインは男児にとって非現実的な別枠という感じ
男児服は、ワンポイントの赤ならいいけと全部赤の服は幼稚園児まで、小学生以降で着てるのほぼ見なかった記憶
青グレー黒緑が主流で、たまにカーチャンがお洒落な奴が紫を着せられてたけど、からかわれがちだった
女子は茶色含め基本好きな色着てたが、高学年になるとピンクが危険色になる(環境による)
「大人っぽく」ダークトーンやグレーを着るのがかっこいいとされ、ブライトトーンやペールトーンはガキ臭い、親に着たい服の自己主張できないヘタレとバカにされる社会圧ががかる(環境による)
タイトルの通り。
面白い話でも無いけれど、同じ興味関心を持つ誰かの好奇心を満たせればいいと思う。下ネタというよりもただの昔話として、誰かに聞いてほしいという気持ちもある。
園庭の遊具であるすべり台の柵(手すり?)に跨がって遊んでいたのがきっかけだった。最初は本当に何の気なしの遊びで、たぶんホウキに跨がって魔女ごっこするくらいのつもりで柵に乗ったんだと思う。足を床から離したところで下腹部に体重がかかり、その刺激が癖になってしまったのである。以来、たびたびそのすべり台で自慰をするようになった。
もちろん当時は自慰などというものは知らなかったし、性的な知識もごく少なかった。むやみに股間をいじってはいけないというのは教えられていたので、他の幼児や先生の目の前ではしないようにしていたと思うけれど、幼稚園でしてはいけないことだとまでは思っていなかった。
自宅でも同じことができないかと思い、手すりを探して、自分のベッドのフッドボードに跨がるようになった。自室で一人遊びに耽るようになったことから、専業主婦で家にいた母親に怪しまれ、兄弟を追い出して一人きりで遊ぶのはよくないと少し叱られた。今になって思えば完全に気付かれていたと思う。兄弟も見ていたはずだが、お互い幼い時のことなので今も覚えているかは分からない。
親に叱られたので、できるだけ親には気付かれないように気を付けるようになったが、家の外では相変わらずだった。
そのうち少し背が伸びて、フッドボードでは高さが足りなくなった。他に跨がれる場所を探した。
まずは机の角。家の学習机で感覚を掴み、教室の机でもするようになった。次に、机と似た高さの角なら使えそうだと思って、家の据え付けのカウンターの角や、学校のトイレの手洗い場の角でもするようになった。
いわゆる角オナなのだが、その手のシチュでよく見る直接擦り付ける形ではなくて、角に両手を乗せ、その親指の付け根の骨の上に陰部を乗せるような姿勢だった。この方法で何度も角に押し付けられた親指の付け根には厚いタコができて、高校生になる頃まで消えることが無かった。
鉄棒も使うようになったが、跨がるのではなくいわゆるつばめの姿勢で手に押し付けていた。なんで跨がる形をやめたのかは忘れたけど、人に見られても目立たないからだったんじゃないかと思う。
跨がりを完全にやめたわけではなく、机の端から伸びるような形にリコーダーを置いて、それに跨がって押し付けることもしていた。クラスメイトの悪ガキ(女子)に見られて「股女」と罵られたことが一回だけあったが、それ以外には特に何も言われなかった。
低学年くらいまでは、性的な理由で興奮していたわけではなく、ただの習慣だった。頭が痒くなったら掻くくらいの感覚で、下腹部が疼いたら自慰をしていた。
幼児自慰について、他に楽しいことが無いと手持ち無沙汰でしてしまうから興味を逸らすのがいいとよく言われている。だが、私の場合は幼稚園の頃からかなりの読書好きで、自慰の他にすることが無い、という感じではなかった。小さい頃はストレスもほぼなかったので、不安を紛らわすためにしていた訳でもないと思う。早いうちに習慣として染み付きすぎてしまったのだろう、としか理由が説明できない。
10歳くらいになってくると、ほんのり性に興味が出てくる。とは言ってもモロ成人向けのコンテンツなんて身の回りに無いので、子供向けアニメの恋愛シーンを見て照れるとか、せいぜい好きな児童書のキャラクターの裸体をぼんやりイメージしたりする程度である。照れた時に陰部の疼きが強くなるような傾向は出てきたが、それもこの時はまだ性欲に直結する欲求ではなくて、照れというある種の緊張状態に反応しているだけだったと思う。たぶん、神経が昂ると性器がむずむずするように、体がそうなってしまっていた。
5年生の頃に、子供向けの性教育の本などで男性の自慰を知ったことで、もしや……?と思うようになる。それからある日、親が持っていた小説(『悪の経典』)を開いてみたらベッドシーンがあり、読んでいるうちに下腹部が疼いてきた。この時に、幼少期からの癖が"自慰"と繋がった。
それでようやく、人が見ている前では自慰をしないようになっていった。人がいないトイレなどではたまに我慢できずにしていたが。
また、家具の角ではなく自分の手で疼きを発散できる可能性に気が付いた。とはいえ、押し付ける形の刺激に慣れすぎてしまっていたので、手で達せるようになるのはしばらく後のことである。角を使わなくなるのは、先述の通り中学校生活の後半くらいになってからだった。
ということで、私の幼児自慰は治らないまま、シームレスに大人の自慰に移行した。何年か前に幼児自慰というものを知り、結構よくあることなんだと知ったが、治らないままだという話はそれほど多くは出てこない(過去のダイアリーに1件あった)。ならば自分が参考に書き残そうと思って、ここに書いてみた。
今ではただ自慰歴が長いだけの健全な成人だけど、精神的な原因で性器に疼きを感じる癖は残ってしまった。高校生・大学生の間は、やらなければいけない宿題の締め切りが近くて焦っている時にむずむずすることが多かった。社会人になり、初めての職場でデスクに座っている時にもむずむずがすごかった。1ヶ月後には収まったので、あれ緊張のせいだったんだな~と思っている。寝付けない夜にとりあえずでやってしまうことも多いが、これはネットでもよく聞く話なのでそこまで気にしていない。治した方がいいとは思っている。
みなさんのコメントを拝見して捕捉。
「直した方がいいとは思っている」のは、自慰そのものではなく、睡眠導入のためにとりあえずで自慰をしてしまうことです。
興奮してきてから処理すべき、らしい。