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カテゴリー  [Gのレコンギスタ ]

「Gのレコンギスタ」の総括【劇場版を終えて】 

劇場版5部作を終えた「ガンダム Gのレコンギスタ」の総括を述べたい。

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「Gレコ」は富野由悠季の研究論文

 「Gのレコンギスタ(以下Gレコ)」は、富野由悠季のによる「宇宙エレベーターやフォトンバッテリー等を通して現代の社会経済と科学技術に対して異議申し立てをする研究論文」である。

 Gレコの企画が具体化する2000年代後半。富野監督は取材やインタビューを通し、「ハンナ・アーレントの『全体主義』の考えをアニメで表現したい」と語る。この試みに期待を高めていた。

 2015年の講演会では参考資料として池内了「科学・技術と現代社会」とE・H.カー「危機の二十年」を紹介。2016年の講演会ではガンダムエースの対談企画「教えてください。富野です。」での対談。特に宇宙エレベーター実験の参加と青木義男教授達との出会いが大きかったと語る。以上の経緯を踏まえると、Gレコは富野監督の出会い・取材・経験を通したインプットが凝縮に凝縮されてアウトプットされた作品だ。

 宇宙エレベーター、スコード教、フォトンバッテリー、クンタラ、アグテックのタブー、船体の装甲の材質、ムタチオン、ユニバーサルスタンダードと設定の数々。ただGレコは答えの是非は問わず問題提起に徹する。これは富野監督が2015年のGレコ放映終了後の講演会で次のように語る。

「(Gレコは)ユートピアニズムに陥った大人たちはリアリズムの欺瞞性を持ち込むから問題点を挙げておいた。」

と語ったように問題提起に留めるスタンスである。

 監督の意見を直接伝えるより、視聴者がどう受け止めるか。子供達がGレコを見てどう考えるのかを大切にしてほしいのだろう。
一方で富野監督は劇場版公開を通してのインタビューの中で作中の問題提起だけ伝わりづらかったのか「Gレコは宇宙開発反対がテーマ」をキーワードに宇宙エレベーターなどありえないと否定するメッセージも出している。

ドラマとテーマ・劇場版での昇華

 2016年の講演会では

「(Gレコの問題点は)リアリズムとテーマを優先させるためドラマを無視してしまったこと」

と語り問題提起を優先しドラマが疎かになったと語る。ドラマよりもテーマ寄りになった点でも、TV放送のGレコは研究論文的な傾向であった。

 私がGレコを面白く見られたのは、富野監督の考えを聞きたかったから。ドラマ以上に問題提起されたテーマを聞きたかったから。
Gレコは毎回、作中に散りばめられた問題提起が面白かった。「人は自分一人で本当に考えることができるのか」ハンナ・アーレントが提示する問題、組織と人の有り様など全体主義についての問題。科学技術の問題。様々な問題を提示させられ、考えさせられたのが面白かった。

 富野監督が考えを聞きたい立場なら、Gレコは面白かったのではないか。逆に富野監督のテーマに興味がなければ、楽しみづらいのではないか。富野監督がGレコを通して問題提起したい研究発表に対して、視聴者が興味を持てるかどうかがGレコの評価に繋がってくると感じた。

 このドラマが弱いと指摘されたTV版を踏まえて劇場版が製作。キャラクターの感情面をはっきり表現させるシーンを多数追加。個々の感情をキャラ同士のクローズアップさせる編集技でドラマ面の弱みの克服を試みている。

 戦争という異常空間の中で各々の愛と欲と業の叫びがこだまする。

現代の科学技術の有り様とGレコ

 Gレコは科学技術が抑制された世界。宇宙世紀の科学軍事技術の進歩はタブーとされ、宇宙エレベーターから供給されるフォトン・バッテリーとスコード教を信じて生きている。過去に起きた戦争の悲劇を通し、リギルド・センチュリーの時代を迎える。戦争と科学技術の抑制によって世界は徐々に再生されるが、戦争は起きる。

 Gレコは、富野監督が現実では叶わないと語る宇宙エレベーターと、理想エネルギーのフォトン・バッテリーがあっても戦争が起こる世界。ラ・グーを通して金星人の身体が突然変異するムタチオンが描かれたことで、人は宇宙では生きられない、地球圏から離れられない事も示唆している。

 Gレコは、現実では宇宙エレベーターは不可能で地球から離れて生きられない。人類が地球で戦争せずに持続可能性をもって生きるにはどうすれば良いのかを提起する作品だ。

 地球で戦争が起きないよう宗教や科学技術で歯止めをかけても、クンパ・ルシータによってヘルメスの薔薇の設計図が流出されれば、各国はMSを作り軍備を増強させてしまう。トワサンガやビーナス・グロゥブといった宇宙に住む人々が地球に帰りたい・見てみたいまっとうな思い(レコンギスタ)によって地球側の勢力と戦争を引き起こすことも描かれている。

 過去の反省から学び、様々なシステムを構築し宗教の教えがあっても、いずれは誰かの手によってシステムが壊れ戦争が起こる。科学技術への探求心。自分の故郷・ルーツに戻りたい気持ち。普通の人の素朴な思いが、実は業を呼び戦争を引き起こす事を描いている。

 Gレコの世界を踏まえ、戦争が起こらないようにするにはどうすればよいのか。科学技術は扱い方はアグテックのタブーのような仕組みが有効なのではないか。いずれにせよ一日一夜で解決できる問題ではない。

戦争を起こさないためには

 戦争を起こさないヒントは、メガファウナのクルーの構成と遍歴にある。メガファウナは、アメリアが海賊部隊であると偽装し、アイーダ指揮の元、キャピタルの諜報活動やフォトン・バッテリーの強奪を行う組織。その組織に様々な人間が集まる。

 アイーダが捕まったことでベルリと出会い、ベルリとノレドとラライヤがメガファウナのクルーになる。地球と宇宙を転々とする中で、キャピタル・ガードのケルベス。トワサンガのドレッド軍のリンゴ。トワサンガのレイハントン家の旧臣であるロルッカとミラジ。以上の面々がメガファウナに参加。一時期的にはアメリアのクリムとニック。キャピタルのマニィなどもメガファウナに参加していた。

 人種や国家間を越えて様々な人々が集まったメガファウナ。彼らは地球からトワサンガ、ビーナス・グロゥブを旅して地球に帰還したことで、真実を知り、実感を通して各国間の戦争を食い止める動きを取ることになる。

 元々、メガファウナに集まったクルーは好戦的ではない穏健的な人々。国家間を越え、同じ問題意識を持った個々人が集まることで、最終的にアイーダが戦争を食い止めることができた。つまりメガファウナに集まるような人々がいれば戦争を防ぐ力となる。

 物語から振り返るに、固定の考えを持った組織だけに属さずに、旅を通して異なる世界や組織の考えを触れることの大切さを訴えていた。特にアイーダは旅することで(特にグシオンからの)凝り固まった考えを開放し、公平で広く深い考えを身につけるようになっていった。旅を通して様々な考えを身に着けることが、戦争を起こさない道なのかもしれない。

TV版のコンテマンについて

 富野監督はTV版はスケジュールが無くなったために外にコンテを発注したニュアンスで語られていた。実際に6話を除きほぼ9話までは、監督がコンテを切っていた。もしTV版のGレコのスケジュールに余裕があれば、富野監督は一人でコンテを全話切っていたのでと推測できる。

 自らコンテを切るより、各話コンテマンのコンテチェックで作品をコントロールするのが富野監督の制作スタイルだ。もし全話コンテ切りを試みていたのなら、故出崎統監督のように全話コンテ切りで作品を完遂させたかったのかもしれない。

まとめ

 Gレコは富野監督の見聞きし出会いを通して得た経験を総動員した集大成。集大成であるがゆえに、テレビアニメの枠では収まらない程、密度の濃い情報量溢れる画面と思いに満ち溢れていた。劇場版ではさらに密度が凝縮されながらもドラマの焦点が強化。さらにドリカムの「G」を手に入れたことでさらに作品の有り様がクリア化されたようにも思える。凄惨な部分もあるが凄惨な展開にはせず、清々しく最後まで見られる口当たりの良さ。未来に向けて再び旅立つラスト。富野監督は永遠のチャレンジャーだと感じさせる。

Gレコは現代に山積する諸問題に対し、どう取り組めばよいのか。特に科学技術について講演会で富野監督は

「科学者が自分達の研究が進歩だと疑いがないと思っているようだが、そんなことはない。彼らはマッドサイエンティストだ」

というニュアンスで警鐘を鳴らしていた。どこまでが本当に必要な技術なのか。持続可能な地球環境であるためには、どんな技術を行使すれば良いのか。Gレコは考えるキッカケになるはずだ。

 ここまでテーマ的な事を中心に描いてきたが、まずアニメとして面白かった。極めて高レベルの手書き作画によるメカアクション。MS達の武器の面白さと戦い方のギミック。矢継ぎ早のような怒涛のカットの連続。生々しい感情と大仰さと細かさが同居する芝居の積み重ねによって生まれるキャラクター描写。面白い仕掛けに満ち溢れていた。

 劇場版ではまだ手描きメインのロボットアニメがみられる喜びに溢れている。戦争は辛いはずなのに、戦争はよくないと訴えているはずなのに画面から感じられるのはまずロボットアクションアニメとしてのエンタメ感だ。最後まで元気溢れる作風で通した「元気のGは始まりのG」の通りの作品。 
 
 そして劇場版のベルリとノレドがくっつく感じで終わるラストで救われた。

 以上、Gレコの総括。
 
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[ 2022/08/13 13:40 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(3)

GレコⅣのありがたみ―富野監督の宇宙開発反対論について 

まだ富野由悠季作品を見られる。嬉しい。

というのが率直な感想だ。
世の中は目まぐるしく動く中で、
自分がファンになって結構な時間が経つのに
富野は富野作品を作り続ける。
それだけでもう充分だ。

その上で面白いものを見せてくれるから
よりGレコを見られて嬉しくなる。

毎度毎度フィルムではなぜこうも元気なのか。
アクションシーンはアイディアと工夫に満ち溢れているのか。
それも手描きのロボットアニメでそれが見られる。

私にとっての数少ないロマンを感じるものの一つとして
富野作品に出会えるは嬉しいのだ。
(GレコⅣは新規シーンがとても多くて尚更)


-監督がGレコに込めた宇宙開発反対について-

富野監督がGレコを語るときに
GレコはGレコ世界のような宇宙開発など
現実ではできない事をメッセージとして込めている発言を度々している。
このことは言われるまで気づけなかった。

私としてはGレコがフィクションとしてよくできているように見えるから
現実でできるできない以前に、その世界に入れ込んで見てしまう。
だからよくできて入れ込めるフィクションを
「現実ではできない」ものとして受け取れというのが
監督側の言葉なしでは難しいものだと感じてしまった。

「宇宙開発反対」と言われ説明されれば真意はわかる。
 (フォトンバッテリーとかは現実には難しいとは思う)
提示したものを否定しろ、というのは見方として難しいなぁと思った。
それは提示されたものが答えだと思ってしまいがちだからだ。
このあたりは、アイーダがグシオンに「教えられた」事を鵜呑みに
してしまったのと同じことなのかもしれない。

宇宙開発反対については
子供の頃から与圧服の写真を通してロケットを通して
80歳になっても宇宙をフィクションを通して考え続けている富野監督が
現実の宇宙開発には否定的なスタンスを取るのは、
その意見を聞く価値はあるのかなと思う。

何より今後人類は生き残れるのかという余りにも切実な問題に対して
宇宙開発はどういう意味を持つのか。
Gレコはフィクションを通して今後それを考えさせられる作品となるだろう。

そしてより大事なのはGレコ内に散りばめられたアイディアを通して
今後の問題解決に繋がる、何かを訴えようとしているのが大切であり、
細かな設定や単語の隅々に作品の魅力が繋がっているようにも思える。
 
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[ 2022/07/26 18:01 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

元気の加速―劇場版Gレコ第3部の到達点 

ガンダム Gのレコンギスタ第3部を鑑賞。

以前に「ガンダム Gのレコンギスタ」の総括という記事の中で
私はTV版Gレコを富野由悠季の「科学技術と社会経済の視点から見た世界に対する研究論文」
と総評していた。

TV版はTV版の研究論文的、つまり世界観の提示とテーマを優先した仕上がりから
映画版はキャラ手動のアニメ(映画)にランディングしている印象を受ける。
場面ごとのキャラの芝居から生まれる楽しさ・元気を積み重ねる作劇を徹底。

畳み掛けるセリフと芝居。
キャラが喋ればフォローしたいカメラワークの連続。
3部ではドレッド軍やレイハントン家ゆかりの人々が登場し
フィルムの仕上がりが2部以上にわちゃわちゃしている。

大筋ではTV版と同じ物語展開でも、映画版は違う手触りで見られる。
キャラ達の元気な挙動、生き方に悲惨さや鬱屈さが感じられず、
戦闘でも目的達成のため生き抜くに生きるキャラ達が描かれているからだ。

(3部の戦闘シーンは濃密でかつ尺も長いために
逆シャア以来のMS戦闘アニメ的な感じにも見えた
MS戦闘をやらせたら富野由悠季が最高だと改めて思った)

「元気が加速している」仕上がりに改めて驚嘆するとともに
スタッフの頑張りが伝わってくるフィルムになっている。

40年前は「死」にダイブするイデオンを作っていたが
今のGレコは「生」にダイブする感じだ。
死も生も表裏一体で、ベクトルが違うだけで同じかもしれない。

ただ、いずれ人は死ぬのだから死を目指すのではなく、
死ぬまで元気に加速してベルり達のよう真実を求め次々と新しい世界を旅し
好きな人がお姉さんだと知りショックを受けても
生きようというメッセージのように思える。

元気でいられるから
元気でいられるから
手を挙げて やってみる 
前を向いて やってみる
(Gの閃光 作詞:井荻麟)


元気の話とは一転。
TV版Gレコから7年。その間に高畑勲が亡くなった。
他の富野監督と同時代の商業TVアニメ草創期の方々の仕事が目につきにくくなっている。
宮崎監督の「君たちはどう生きるか」ぐらいではないか。
TVアニメ草創期の方々の作品で育った身として寂しい限りではある。
だからこそ富野監督がGレコを作っていることに改めてエールを送りたい。
 
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[ 2021/07/24 17:38 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

Gのレコンギスタ劇場版 第二部の見どころー今に対する異議申し立て 

Gのレコンギスタ劇場版 第二部を鑑賞。

富野流映画的圧縮編集によって、TV版以上に元気よい仕上がりになっていた。
個別にここがいい、あそこがいいという感想ではなく、
まず全体として面白い、楽しく見られる作品になっていた。

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擬似兄貴キャラの系譜ーケルベス

そrでも、ここがいい、あそこがいいという感想をあげるとするなら
グッときたのは、ケルベスとベルリが
デレンセン大尉のことでやり取りするシーン。

デレンせンを殺した後悔によるベルリの感情の爆発と、
兄貴分としてベルリを認めるケルベスのやりとりを見て
キングゲイナーにおけるゲインとゲイナーの関係のパターン変形だと感じた。
※かっこいい擬似兄貴系キャラの系譜

他の富野作品でも
Zのカミーユにおけるクアトロ大尉(シャア)、
Vのウッソにおけるオデロ、
キンゲのゲイナーにおけるゲインというように
弟分の主人公に対する擬似兄貴キャラが良い味を出している。

富野監督の中には良いお兄さんを演じたい気分があるのだろうか。
※本人は長男で弟がいる。

元気のラライヤ

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他にはラライヤいいよね。
TV版以上に、幼児退行からの回復を丁寧に追いかけられているので
その回復過程を見ているのが楽しい。

みんなが戦いの狂気、戦いに向かっていく狂気に突っ走る中
そんな事お構いなしに、無邪気に元気に画面で動き回る。
作品中の可愛さ・コメディ要素を一手に担っている存在であり、
作品全体に楽しさを残してくれるキャラクターになっている。

本筋だけで映画を編集するならラライヤのシーンを省いても良いかもしれないが、
Gレコの醍醐味の一つである元気さを象徴するだけに
彼女のシーンは本筋から無関係のようにみえて重要なのである。

アクション

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アクションはピカイチ。78歳の監督の作品とは思えないほどに。

作画の良さだけでなく、機体の特徴、キャラの特徴に合わせた描写が克明に描かれ
宇宙(重力)、地上の空、夜の森の中、と舞台で起こる要素を
きちんと含めて描かれるから、嘘八百だとしても見ごたえあるのかもしれない。
敵は次々に新メカを登場させ、ギミックを繰り出してくるので飽きない。
空間をめいいっぱい使ってMSを展開させながらアクションするので面白い。


「G」

そして第二部で一番大事であろう新要素。DREAMS COME TRUE - 「G」。
私のイメージとしてドリカムは邦楽の中でメジャーの中のメジャーの存在で
ガンダムアニメとは遠い存在だと勝手に思っていた。
そう思っていた存在が富野作品に協力することがとても嬉しかった。
それは遠い存在でも引っ張ってこられる力が富野作品にはあるという証明でもあるから。
(ただこれは自分の認識の問題なのかもしれない)

そんなイメージだったドリカムがGレコのために作った曲「G」。
モビルスーツという単語から作詞を始める吉田美和のすごさ。
吉田美和に井荻麟が憑依した歌詞という印象を受けながら、
最後は吉田美和の仕事に帰結する感じに収まっている。

軽やかで小気味よく馴染みやすく、口ずさみたくなる曲調。
しかもこの曲がGレコの気分にビックリするぐらいハマっていると感じる。
ガンダムアニメの曲だと考えると、遠いイメージを持ってしまうが、
Gレコの曲だと思うと完璧にハマる。
監督がいう、Gレコ=脱ガンダムにも繋がる曲なのだと思う。



PVも大変オススメ。
このPVをEDに持ってきてほしかったぐらい。

Gの閃光 ふたりのまほう G とGレコは歌に恵まれている。


今に対する異議申し立て

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最後に。最近の富野監督のインタビューを読むと
GAFAのような企業及びその技術の有り様に懸念を表明している。
一方でアニメに対して新海作品や京アニとは違うものを
Gレコでを提供したいと思っているようだ。

ヤマトのカウンターとしてガンダムを
バブル前夜の80年代に現状認知のZを
正当こそ異端であるとあるとした∀を

というように富野監督は常に本人が時代の主流にあるものに対して
異議申し立てをするような作品を作りたいのだろう。
そんな監督の志はGレコ劇場版 第二部でも健在である。
 
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[ 2020/02/24 15:23 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

Gのレコンギスタ劇場版の見どころ-富野流編集術と元気な作劇について 

Gのレコンギスタ 劇場版 行け!コア・ファイターを視聴。
令和になっても富野監督作品が見られてただただ嬉しい。

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はじめに

私のとってTV版のGレコは
富野由悠季の「科学技術と社会経済の視点から見た世界に対する研究論文」という位置づけだ。

劇場版は主にアイーダ・ベルリの独白や(心情)描写のシーン、
互いが互いに触れてどう感じどう思っているのかを盛り込んだ。
結果、ベルリとアイーダの二人を中心に少年少女と大人が
文明崩壊後の世界を生き抜いていく物語としての色を強めた印象。

富野監督は講演会などでGレコの欠点はドラマ(キャラ)を無視したことと自戒していて、
実際に劇場版ではどう修正してくるのか期待していた。
ドラマを無視した弱点を補強するように、アイーダはTV版以上に
気丈で主張が強く、でもカーヒルを失った悲しみで一人の時は涙を流す、
それでも姫であろうと振舞う描写を挿入することで、
Gレコの物語がまた違う輪郭を備えて見えるように感じた。

劇場版であってもGレコの骨子が私のTV版での位置づけと変わらないと思う。
人間は文明とどう向き合うかという問いが強く突きつけられた作品だ。
ただ、劇場版はキャラクターの見え方が明快になった印象も受けた。

富野流編集術とアクション

物語の印象は以上として、何より驚いたのは映像の見せ方だ。
矢継ぎ早に割られるカット。縦横斜めにPANするカメラワーク。
とめどなく湧き出る水のように映像がスイスイ流れる。

速い!瞬きしていると置いていかれるスピード感であり
この映像を齢78の方がコンテを切り編集をした事に思いを馳せると
「絶対に老成はしないぞ」という富野監督の心の咆哮が聞こえてくるかのようだ。

特定のシーンが印象的なカット(作画)。映えるレイアウト。意味が込められた構図といった
ひとつひとつの絵・カットを見せたいという映像作りよりも、
連続したカット(一定の均質性・整合性)にこそ意味があるという作り方をしている。

富野監督の著書「映像の原則」で映像の演出とは
"映像の連続性と映像の変化が生み出す視覚ダイナミズムを利用する"
と書かれているが、Gレコの映像はこれが徹底されていると思った。
Gレコ劇場版は富野流「映像の原則」の集大成と言っていいのかもしれない。
※Gレコの映像を理解するのに「映像の原則」は有効かも…

アクションつなぎでカットを積み重ね、1カットも短く、
台詞が途中で切られても優先される編集。
カットはスライドし、カメラは絶えずPANを積み重ねる。元気の良いフィルムだ。
絵に凝るより、絵の連続性に凝る。こうした作りは富野監督の真骨頂であると思う。

特に流れる映像の見せ所としてMS同士の戦闘の出来栄えはTV版から凄かったが、
劇場版ではさらにスピードが増してますます目が離せなくなった。
どこから敵味方が出てくるかわからない空間の使い方や
雲といった気候や地形によっても戦闘や戦法の仕方を変える。
映像は速いが、きちんとMS同士が何をやっているのかはわかる。
アクション作家としてのGレコの富野監督は冴えに冴えている。

まとめ 元気のGなアニメ

Gレコは困難があって落ち込んでも前向きに生きるベルリとアイーダの物語を
生き生きしたキャラ描写を78歳とは思えない速さを持った映像と、
縦横無尽で元気なカメラワークで見せ続ける。
圧倒的な経験に裏打ちされた編集に絶対の自信を持つ
富野監督しかできない映画の作劇だ。

物語の元気の良さと、映像演出の元気の良さが見事に合わさった快作。
劇場版はTV版とは違った映像体験を味わえると思う。

私は毎週見て次週を楽しみに見ていたTVアニメ版のGレコの映像体験も好きだが
キレとスピードと映画的風格が備わった劇場版Gレコもまた好きになれそうだ。
Gレコはキャラの話もあるが、同等に社会を含めたパブリックな話をしている点でも好きだ。

TVアニメではTVアニメ的な見せ方があり、映画は映画の見せ方がある。
Gレコ劇場版はTV版以上に映画的でキャラを深堀する映像に仕上げることで、
勢いある作品に生まれ変わった点で、2作目にも期待したい。
 
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[ 2019/11/30 21:23 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

ジン・ジャハナムとGレコー歴史に名を残した英雄 

「機動戦士Vガンダム」50話「憎しみが呼ぶ対決」での
戦艦リーンホースJrが敵戦艦に特攻するシーン。
Vガンダムの中でも屈指の名シーン。

特に印象的なのは、影武者のジン・ジャハナム。
シリーズ中は自己の保身に汲々とした人物であったが
リガ・ミリティアのメンバーの死、真のジン・ジャハナムの出会いなど
辛く苦しい戦いを通し、指揮官として目覚めたのがこの特攻シーン。

そんな決意を決めたジン・ジャハナムの言葉が心に突き刺さる。

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ジン・ジャハナム
「当たり前だ! ここまで来て我々の働き場所が無いでは、ジン・ジャハナムの名前が泣くわ!」 
「若い者が生き延びれば、この名前は私のものとして語り継がれるってものさ。行っていいぞゴメス艦長!」



名前に翻弄された影武者であったとしても、
後世に名前を語られることを望んだジン・ジャハナム。

そんなジン・ジャハナムの名前は、
宇宙世紀の先にあるリギルドセンチュリーの時代
「ガンダム Gのレコンギスタ」に登場するMS「ジャハナム」の名前として
歴史に名を残し、後世に語り継がれたと思いたいのである。

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※ジャハナム

公式設定に基づかない解釈だが、
この解釈を取ると、ジン・ジャハナム閣下もうかばれるかなと思う。
 
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[ 2016/09/04 16:01 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

「Gレコ」最終話は「T(富野)のレコンギスタ」である 

はじめに

「Gのレコンギスタ」最終話を視聴。

ベルり達の冒険がこれから始まるという幕引きだった。
宇宙、月、金星まで行って地球に戻ったベルリが下した結論は、
もう一度世界一周という旅をすることだった。
そして姉のアイーダはクレッセントシップで再び宇宙の旅に出る。
旅する事で得られるサムシングをベルリは、再び手に入れたかったのだろう。
元気いっぱいの未来へ繋がるラストだった。

さて、私が気になったのはベルリの旅の始まりの場所が日本のある場所だったこと。
そして旅の道中でベルリが話した老夫婦についてだ。

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ピンクの服を着てメガネの老人。どう見ても声を聞いても富野監督自身である。
その傍らにいる女性は、富野監督の奥さんの亜阿子さんであろう。

そしてベルリ達の奥では新幹線のようなものが走り、
さらにその奥には富士山がある。

富野監督、奥には富士山、新幹線のようなものが走っている。
この3つの要素から導き出されるのは、
ベルリ達が話すこの場所が富野監督の出身地である「小田原」だということだ。

私は震えた。

富野ガンダムで「小田原」が描かれたことに。
(※リーンの翼最終話最後のお墓のシーンはおそらく小田原)

富野監督と小田原

富野監督は神奈川県の小田原について以下のように語っている。

世間では「小田原嫌い」とも言われている富野監督。本人も認めるところだが、それは郷土に対する想いがあればこそ。「小田原は本来、風光明媚で素晴らしいところ。それを活かせない『今の小田原』が嫌いなんだよ」と感情をあらわにする。
出典:ガンダムの原点は小田原!? 富野監督が「地元嫌い」な理由(わけ)とは

そういう態度で親が生活をしていると、いくら小田原で生まれ育っても、そこを故郷と感じることは難しい。“地つき”と呼ばれる、土地に根ざした感覚が生まれることはなかった。
出典:「ガンダム」の家族論

僕の家庭は余所者であったから、地つきの人に違和感がなかったとはいえない。だから、僕は小田原を捨てられると考えたのだ。
出典:だから僕は

富野監督は出身地の小田原で小中高を過ごしたのだが、
両親が東京から小田原に移り住んだ経緯と親から小田原は本当の故郷ではなく
東京が本来の生まれ育つ場所だったような事も言われたようだ。
こうした両親の価値観や事情が富野監督の小田原への想いを複雑にし、
小田原を故郷であって故郷でないような感覚にしてしまったようだ。

この故郷であって故郷でないという感覚が
宇宙漂流ものの作劇を自然に描いてしまうことに繋がり、
もしくは過去の作品で幾度も見られた
自分の居場所が無い人間が故郷を目指す・ルーツを探す物語を志向する
富野監督の作風を決定する要因の一つだったと思う。

富野監督を考えるにあたり「小田原」は最重要キーワードの一つなのかもしれない。

元気のGの始まりの場所としての「小田原」

そんな小田原がベルリの本当の旅・冒険の始まりの場所として描かれる。
そこには監督の分身と奥さんがいて、ベルリの旅の案内役を担う。

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自分の作品が子供に引っかかってほしいと願い、アニメを作る富野監督にとって
このシーンは富野監督が若者であるベルリに道を案内するという点において、
富野監督が若者に未来を託した描写という解釈ができるだろう。

さらにいえば、老夫婦が小田原にいたという点において
富野監督が最後に自分が帰るべき場所なのは
小田原であるという想い
があったからかもしれない。
もしくは老夫婦(富野夫妻)もベルリと一緒に始まりを迎えようとしているのかもしれない。

あれほど小田原に対して愛憎入り混じって語っていた富野監督が
小田原をベルリの始まりを祝福する場所として描き、
富野監督自身の魂の安らぎの場所、
もしくはこれからの自身の始まりの場所として描いていることに
私は心が震えずにはいられない。

おわりにーTのレコンギスタ

レコンギスタが地球帰還作戦であるなら、
富野監督にとってのレコンギスタは故郷の小田原への帰還だ。

そして最終回で、富野監督は故郷の小田原にレコンギスタした。
つまり「Gレコ」最終話は「T(富野)のレコンギスタ」である。
「Gレコ」ならぬ「Tレコ」だ。

富野監督の若者へ未来を託したいメッセージとともに、
富野監督自身のさらなる始まりの場所として
一方で自身の故郷として認めても良いというニュアンスを含んで
小田原を描写したことは、一ファンとしてこれ以上に嬉しいことはないシーンだった。
 
台地に立ったのは、ベルリ・ゼナムであり富野由悠季だったのだ。
富野由悠季監督のこれからの旅に祝福を。 
 
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[ 2015/03/28 10:54 ] Gのレコンギスタ | TB(4) | CM(0)

「Gレコ」の物語の本質と「G」に込められた5つの意味について 

「Gのレコンギスタ」25話を視聴。
物語も佳境を向えて、話の終着点も見えてきた感じだ。
では「Gレコ」の物語とは何だったのか。

異郷から故郷へ戻る物語としての「Gレコ」

まず富野作品における物語の大筋の傾向として、
異郷の地から故郷・祖先の地へ、元の所へ戻ろうとする展開が挙げられる。

1999年の「∀ガンダム」では月から地球へ帰還する人たちの物語。
2002年の「キングゲイナー」ではウルグスクからヤーパンへエクソダスする人々の物語。
2006年の「リーンの翼」ではバイストンウェルから日本へ戻ろうとするサコミズ王の物語。

「Gレコ」も、月のトワサンガ・金星のジット団といった宇宙の諸勢力が
レコンギスタという名目で地球に戻ろうとすること。
そして地球育ちのベルリとアイーダ達が宇宙に旅立ち、
月と金星へ向かい、そして地球に戻ってくる事も含めて、
異郷(宇宙)から故郷(地球)へ帰ってくる物語といえる。

以上を踏まえると「Gレコ」の世界では人類は宇宙を目指すが
最終的には人類は地球に帰ってくる事を伝えたい物語ともいえる。

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それが明らかになるのは、ラ・グー総裁のムタチオンした姿にあると思う。
人類は地球から離れると劣化してしまう可能性を示したラ・グー総裁の姿は、
人は地球から離れて暮らす事ができない事を示しているように思う。

またピアニ・カルータことクンパ・ルシータ大佐のように
戦争を通しての人の強化が必要だと考えるものもいれば、
ジット団のように技術を振り回して地球に戻りたいと考える者もいる。
宇宙に進出した人類は、結局は人類の故郷である地球に
本能的に戻ってきてしまう習性があるのではという事を見せているのかもしれない。

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特に25話では大気圏突入を経て地球圏に降り立ったジット団の
クン・スーンやチッカラが地球に本物の土や緑があることに感動する姿を描いている。
金星で作られた水や台地や空気は地球とは違っていたと教えられていただろうし、
彼女たちもまた自分達を形作るオリジナル・ルーツに触れた事に心震えたのだあろう。

「Gのレコンギスタ」における5つの「G」

以上、「Gレコ」は異郷から故郷へ戻る物語として見ることが可能であり
本作におけるレコンギスタとは再征服運動という原義のように
人々が宇宙から地球に戻っていく事を指しているのだろう。

では次に「Gのレコンギスタ」の「G」とは何なのだろう。

①ガンダム(Gundam)

まずガンダム。ガンダムのアニメでGといえばガンダムなのだ。

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Gセルフ=ガンダム自身(そのもの)であり、G=ガンダムの意味は欠かせない。

②重力(Gravity)

次に挙げておきたいのは重力のGravityのG。

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※大気圏突入を試みる、カバカーリーとジーラッハ。

特に25話は大気圏突入という死線を越える展開だった点も含め、
人が宇宙から地球に戻ってきてしまうのは、
重力があることに他ならないのだろう。

よく「Zガンダム」では「重力に魂を引かれた人々」と
否定的なニュアンスで使われたりもしていたが、
「Gレコ」では「Zガンダム」のようなニュアンスはなく、
人が地球にいるのは、定めみたいなものとして扱っているのだろう。


一方で重力は物理法則的な意味の重力に留まらない。
キャラクターの心や感情を引っ張る重力もまた存在する。
今回25話では、マッシュナーが恋人のロックパイという重力に魂を引かれていた。

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恋人の死に完全に頭がおかしくなったと言われても
仕方がないように描かれるマッシュナーは
戦争中にいてもロックパイの幻影しか見えていなかったのかもしれない。

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またルインとマニィ、クリムとニックの2組の恋人同士の関係も
重力が働いているといえるのかもしれない。
大気圏突入という重力に身は引っ張られながらも、
二組の恋人同士の心はお互いが引っ張り合うことで身も心も離れない。
そんな様子を描くために大気圏突入のシチュエーションが用意されたといえる。

最後に戦争そのものが人間を引っ張る重力ともいえるのかもしれない。
マッシュナーもそうだが、マニィもルインと戦いに引っ張られているように見えるし、
戦争の激化によって、人々が異常なテンションと感情の昂ぶりを見せているのが
今回の25話の各キャラクターの描写で明らかになっていたように思える。

「Gレコ」は戦争が起こるメカニズムと全体主義についても描いている作品だと思うが、
戦争によって人々が変わっていく姿を描いているのもわかってきた。

③地・台地(Ground)

3つめは地・台地のGroundのG。
レコンギスタとの関係、宇宙から地球に戻る物語という点において、
このGroundのGが一番本作の物語の核に直結する。
人は地・台地なしに生きてはいけないのだろう。

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25話のラストカットのギアナ高地。
この絵を見て、宇宙から地球に戻ってきたという実感が湧いてくる。
しかし人類のルーツである地球の台地の上に降り立っても、
人々はまだ戦いを止めずにはいられない。リアルは地獄。

④地球(Globe)

GがGroundの地・地面のGでもあるなら、地球のGlobeのGでもあると思う。
台地があるのも水があるのも重力があるのも全て地球があってこそだ。

⑤元気(Genki)

そして最後のGは元気のGである。
人間が生きるのに必要なのは元気であり、
元気があるから何かを始められる。

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泣くことや怒ることができるのも、
トワサンガやジット団がレコンギスタ作戦をできるのも、
ベルリ達が宇宙へ旅立ち、地球へ戻るのも、
そして何より戦争を起こしてしまうのも、元気があるからである。

富野由悠季監督が70歳になってアニメーション制作を行い、
コンテを書いては修正できるのも元気を保っているからである。

そうアニメーションの実制作も、キャラクターが動くのも
全ては元気があってこそなのだと思う。

まとめ

改めて「Gのレコンギスタ」は
宇宙という異郷から地球という故郷へと戻ってくる
レコンギスタする人々の物語であり、
このレコンギスタを5つのGを織り交ぜて描いている物語でもある。

25話は各キャラクターが否応なしに好戦的になっていき、
戦争という重力に魂を引っ張られる様子が恐ろしくもあった。
こうした状況下に対し、主人公のベルリは最終回で
地球に降り立ったルインとクリムをどう止めていくのか。

いよいよ来週で最終回。
物語はこれで終わるが、ベルリ達の冒険は最終回以降が始まりなのだろう。
 
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[ 2015/03/21 14:17 ] Gのレコンギスタ | TB(10) | CM(0)

「Gレコ」における巨大MAと女性の悲劇の歴史-バララとユグドラシル 

はじめに-ユグドラシルの魅力

「Gのレコンギスタ」24話はバララ・ベオールが乗る
巨大モビルアーマーのユグドラシルの描写が圧倒的だった。

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ユグドラシル、北欧神話でいう世界樹の名を関する機体は伊達ではなく
ユグドラシルが放つテンダービームが世界樹の形のように広がるビジュアルは
今までに見たことがないエフェクト表現だった。
戦争という凄惨な空間でありながら、テンダービームには美しさがあった。
これを見られただけでも、幸せだった。

巨大モビルアーマーと女性の関係性

さて今回の主役は、マニィがルインの元に戻って来たことで
自分の居場所が無くなってしまったバララ・ベオール。

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さてバララがこの巨大モビルアーマーユグドラシルに乗ったのは
ガンダムシリーズ的に色々思うところがある。

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まず女性と巨大モビルアーマーといえば、
今まで1stガンダムであればララァ・スンがエルメス。
Zガンダムでいえば、フォウ・ムラサメがサイコガンダム。
ロザミア・バダムがサイコガンダムMkⅡ。
逆襲のシャアでいえば、クエス・パラヤがαアジール。

などなど、ガンダムシリーズで女性が巨大モビルアーマーに乗るのは
一種の様式にもなっていると思う。


私の中ではこうした彼女達と巨大モビルアーマーの関係性に、
複雑な立場にあり精神的に不安定な彼女達の心を縛るものとして
巨大モビルアーマーが存在しているのだと、私は思っている。

(参考)逆襲のシャアにおける、αアジールの機体名の意味から考えるクエス・パラヤ論

過去に書いた記事ではクエスが乗るαアジールの機体名の意味には、
クエスにとっての始めての聖域・避難所であることが
込められているという解釈を書いた。
この視点からもクエスの心を縛る存在だというのがわかる。

もっと直接的にいえば、搭乗者を精神的に操りもする
モビルアーマーにあるサイコミュという設定は、
彼女達を縛るものでしかない。

そして彼女達はそれぞれに心を縛られたまま戦場で死んでいった。
この事は宇宙世紀時代の悲劇ともいえるだろう。

バララの心を縛る居場所としてのユグドラシル

さてGレコで巨大モビルアーマーに乗ったバララ・ベオールも
宇宙世紀時代のララァやクエス達と同じ系譜に属しているのではないかと思った。

マニィが帰ってきたことで、ルインがマニィとお互いの寄りを戻したことで、
自分の居場所が無くなってしまったバララ。
そんな彼女が生き続けるには、パイロットして完璧である事を証明する為に
巨大モビルアーマー、ユグドラシルに乗って戦うしかなかったのだろう。

このバララ・ベオールの立ち位置は、
逆襲のシャアにおけるクエス・パラヤがアムロと仲良くなりたかったのに
アムロの交際相手であるチェーンの存在をうっとおしく思って
シャアの元に走り、αアジールに乗って戦場で散った事に近いと思った。
※バララはクエスほど無邪気ではないにしろ

こうしたバララの気持ちを縛る・バララの居場所として存在するユグドラシルは
諸説あるが王の墓とも言われるピラミッドのような形状をしているのも興味深い。
それはピラミッドが墓という説を取るならピラミッドの形をしたユグドラシルは
バララの墓だったのではないかという言い方もできるからである。

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バララはアメリア軍とドレッド軍の間で成立しようとしていた停戦に割って入り込み
テンダービームで両軍に大打撃を与えた。その光景を見たベルリは
「艦隊をまるごと破壊するのがどういうことかわかれ」と怒る。

戦争に嫉妬を持込み、完璧なパイロットである事を証明しようとして
無闇に人を殺し過ぎたバララ・ベオール。
そんなバララの最後の心の柱がユグドラシルだったわけだ。

まとめ

こうした女性達が巨大モビルアーマーに乗っては戦場に散る意味で
宇宙世紀時代から人の有り様が変わっていないと感じた。
歴史はりギルドセンチュリーでも繰り返される。

そして戦争は個々人がそれぞれに抱く感情を戦場に持ち込むこと、
今回でいえばバララが嫉妬心を戦場に持ち込むことで、
戦争は拡大し、悲劇が生まれてくる事を改めて感じさせた。

※ちなみにユグドラシルがGセルフによって撃ちた後に
脱出ポッドが出てくる描写が見えるので、もしかすると生きているのかもしれない。
 
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[ 2015/03/14 10:26 ] Gのレコンギスタ | TB(7) | CM(0)

「Gレコ」のユニバーサルスタンダードとは全体主義の現れである。 

はじめに

「Gレコ」が始まる前、富野由悠季監督は
政治学者ハンナ・アーレントの著述や彼女の「全体主義」についての思想を
アニメに盛り込んで新作を作りたい発言をしていた。

35周年に向けて、次はハンナ・アーレントの言葉を背負った上で『新ガンダム』を作る気にもなってます。

出典:ニュータイプ2009年5月号「ファーストの見た30年間」
 
この「Gレコ」における「全体主義」はどこに描かれているのか。
まず富野監督がハンナ・アーレントを引き合いに出して発言していた
「独自に判断できる人は少ない」という点にあると思っていた。

状況に流されるベルリ。教えられた事を信じていたアイーダ。
そんなキャラクター達の姿にハンナ・アーレントの人間観を踏まえて
独自に考えることができないキャラクター達を
富野監督は描くのを狙っていたと私は考えていた。

ユニバーサルスタンダード=全体主義
-異なる考えのキャラクター、同じである事を求められるMS

そしてもう一つ、大事なキーワードがある事に気づいた。
それは本編中に度々登場する「ユニバーサルスタンダード」
直訳すれば宇宙基準・宇宙標準ともいうべき言葉に
「全体主義」のテーマが込められているのではないか。

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マニイ「操縦がユニバーサル・スタンダードなんですよこのモビルスーツ」
※21話「海の重さ」より

もう一度キャラクター達について触れてみると、
まず本作のキャラクター達は様々な考えの元に諸勢力に属している。

・キャピタルのキャピタル・ガードとキャピタル・アーミィ。
・クアメリアのアメリア急進派(クリム親子)とのアメリア穏健派(グシオン総監)。
・トワサンガのドレッド家とレイハントン家のレジスタンス。
・ビーナス・グロゥブのジット団とラ・グー総裁派
・諸勢力の人間が参加するメガファウナ。

これだけのバラバラな勢力があり、さらに諸勢力の中で
各キャラクターは様々な思惑を絡ませる。
ハンナ・アーレントも互いに異なう個性を持つ事を認め合うのが人間性であり
この人間性を壊すのが「全体主義」
であるという考えらしい。
このバラバラ感はある意味、人間性らしいともいえる。

その一方でキャラクターと対をなす関係にあるメカニック・MSは、
誰でも使え、機体の換装や部品や武器の流用も可能な
「ユニバーサルスタンダード」である事が、
リギルドセンチュリーの世界で求められているようだ。

「ユニバーサルスタンダード」が当たり前、
そうで無ければ「タブー」であるという考えの方が浸透しており、
Gセルフにレイハントンコードを仕込み
ベルリとアイーダとラライヤしか搭乗できないようにした
ロルッカ達に対しクンパ・ルシータ大佐は「タブー破り」であると批判している。

キャラクター達にはお互いに違うことを徹底的に描きつつ、
メカニックにはMSのルックスや性能は違えども
その中身は同じであることが求められている世界を設定している点で、
「Gレコ」は違う考えの人々が同じ規格・基準の道具を使う世界でもある。

全ての機体が「ヘルメスの薔薇の設計図」から作られている点においても、
元々の作る土台は同じ設計図からであることからもわかる。
また「ユニバーサルスタンダード」が徹底されているからこそ
Gレコの世界では短期間に次々に新しい機体を投入が可能なのかもしれないし、
引いては現状の戦争拡大を大きく推進している繋がる可能性もある。

同じ価値観・宗教を強いられる世界で、
異なる主張を戦わせるキャラクター達

上記のように同じ基準のものを使う事を今の世界に例えるなら、
世界中の人々がWINDOWSのようなオフィスアプリケーション、
古くは家庭用ビデオ再生機の規格であるVHSを
使用している事に置き換えられるかもしれない。

道具が人間の価値観に影響を与えると考えるなら
WINDOWSやインターネットのような同じ道具・手段を使用することによって、
世界中の人間は、ある部分では同じの価値観が形成されている可能性がある。
世界中で同じ基準の道具を使うことで、同じ考えや空気が生まれ浸透するのが、
富野監督が意図する「全体主義」であるなら、
宇宙基準が求められる「ユニバーサルスタンダード」の世界である
りギルドセンチュリーは、現代的な「全体主義」の生き写しでもあるのだろう。

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また世界中で信仰されている「スコード教」も含めて考えると、
様々な考えのキャラクター達がいる一方で、殆どのキャラクターが
「スコード教」や「ユニバーサルスタンダード」といった価値観を受け入れている。
この統一的な考えが広まっている状況こそ「全体主義」的といえるのではないか。

こうしたある部分では同じ考えを持っている世界の中で、
お互いが違う考えであると思いながら戦う状況は
「リアルは地獄」と呼ぶに相応しい世界であり、
今の世界状況にも符合するということなのだろう。
 
まとめ

ハンナ・アーレントがいうように
人間同士の個性を認め合う人間性を壊すのが「全体主義」というなら、
同じものしか認めない、これを破るものは「タブー破り」であるとする
「ユニバーサルスタンダード」という規格は、
「全体主義」的な価値観の例として扱っていいのかもしれない。

この点を踏まえると、存在そのものが「タブー」であると指摘された
「Gセルフ」の立ち位置が「全体主義」「ユニバーサルスタンダード」に対する
痛烈なカウンターとして機能していることであることもわかる。

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物語の最初では「スコード教」「ユニバーサルスタンダード」を受け入れていたベルリが、
「全体主義」的なものに染まらないGセルフに乗ることで世界と人間の考えを知り、
アイーダ達、何かの縁で集まった多国籍軍のメガファウナのメンバーと共に
「全体主義」で起こる戦争を止める為に動くのが「Gレコ」の物語構造なのかもしれない。
  
さらにいえば、ユニバーサルスタンダードも使い方次第では
多国籍なメガファウナのメンバー達がこれをうまく活用して
「全体主義」を克服する可能性も含んでいるのかもしれない。
 
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[ 2015/03/08 13:44 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(1)

「Gのレコンギスタ」―なぜ戦争は起こるのか。タナトスとエロスの関係から 

はじめに

「Gのレコンギスタ」23話を視聴。

地球から月、月から金星までのベルリとアイーダの旅行も終了。
旅を経た二人の意識の変化が感じられる内容だった。
そして玉川慎吾さんのエネルギッシュなキャラ作画が光り、
とにかくキャラの芝居が細かくそしてパワフルだった。

「Gレコ」は数々の題材を扱ってきた。
文明が進みすぎた為に滅亡し再生した世界の
「技術」と「エネルギー」と「宗教」の有り様。
宇宙で人が暮らす時代の「人の意識」と「男女の関係」。
そんな数ある題材の中でも今回は
「人はなぜ戦争を起こすのか」という切り口を強く描写していた。

クライマックスにもってくるのは、やはり「戦争」だった。

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今までの「Gレコ」を踏まえるなら
一つの勢力・同じ組織、同じ星の人間同士でも
様々な考えがあることで対立し、引いては戦争になる。
その中には戦争状態を利用し、自分のプライドやサクセスを掴みたい人間もいる。
またはハンナ・アーレントの「独自に判断できる人は少ない」発言から、
状況に流されるままに戦争を始めてしまってしまう人もいる。
人がいるから戦争が起こるのだ。

呼び起こされる兵士の攻撃性

そんな中で今回は、今まで以上に深く
「なぜ戦争が起こるのか」というメカニズムを
ベルリと同行した金星の一兵士の行動を通して描いていた。

この兵士の行動を攻撃性や破壊衝動を意味する
タナトスという言葉から考えていきたい。

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※金星の兵士が乗る機体

金星の兵士は編隊もうまくできないぐらいの人だった。
そんな中で、トワサンガのロックパイが乗るガイドラッシュの攻撃に
キャピタル・アーミィのベッカーが乗るウーシアが撃破される。

金星の兵士はウーシアが撃破される光を見て冷静さを失い
ガイドラッシュに突撃して、無力な攻撃を試みるもあえなく撃沈する。
兵士の顔を一切見せず、声だけで煽っていく演出がエグい。

戦争を知らずまったく慣れていない金星の兵士が
実際に戦争に加わって呼び起こされた怯えや恐れの感情が
兵士の中にある攻撃性・破壊衝動を大きく呼び起こす。
そして兵士の死をキッカケにベルリもまた戦闘に参加する事になり
ロックパイを殺害せざるを得なかった。

攻撃性は新たな破壊や攻撃を生み、それが積み重なって戦争は起こる。
戦争に慣れていない・感情がコントロールできていない兵士だからゆえに
起こった悲劇ともいえるだろう。

もしかするとピアニ・カルータことクンパ大佐が戦いの必要性を感じたのも
こうした兵士のような存在を金星で見てきたのもあるのかもしれない。

人は破壊衝動を呼び起こされて戦争に向かうとき、どうすれば良いのだろうか。

エロスと戦場

一方でタナトスとは対極にあるエロスも
ロックパイとマッシュナー、あるいはクリムとミック。
二組の関係で描かれている。

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ロックパイの出撃に対して励ますマッシュナー。
ロックパイもマッシュナーを立てる言葉を使う。
二人の仲むずましい関係性がはっきり見える描写だ。

この後に、クノッソス艦長の前で「気持ちよかった」と話すマッシュナー。
ここまで直接的にロックパイとの関係を告白する程に
マッシュナーはロックパイに惚れているのだろう。

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また作戦打ち合わせ時に、ミックに「寝坊」と言われたクリム。
ここでも二人がそうした関係にある事を直接的に言っている。
それを聞いた艦長は顔を赤くしているのが特徴的だ。

この二組の関係から見えるのは、
戦争中だからこそ、破壊衝動も強くなり
生への執着も強く働くという意味なのかもしれない。
戦争中でも男と女がいればセックスする。

この男女の関係こそ破壊衝動を呼び起こし戦いを導くトリガーともなる。
今回はマッシュナーを抱きエロスに溢れたロックパイが
戦場でベッカーと金星人を殺し、最後はベルリによって死んだ。

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マッシュナーもエロスに溺れ、ロックパイが死ぬ可能性を
実際にロックパイが死ぬまで考えることができなかった。
可愛がっていた男を戦場に送ってしまった女の悲劇である。
そんなマッシュナーが、ロックパイの死をニュータイプのように感じられたのは
戦争中にあって感受性が強くなっていった結果なのかもしれない。

ロックパイの死は、エロスの裏にはタナトスがあることをはっきりわからせてくれる。

ベルリの慢心

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ベルリが寒気を覚えたのは、ロックパイを殺したからか。
ロックパイの死によるマッシュナーの負の感情を
ベルリが直接感じ取ってしまったからか。

そんなベルリも慣れていない金星の兵士に
「あの人たち、戦争が怖いってわかってないよな」と言いながらも
ベルリ自身が死ぬ可能性を考えていなかった。

ラライアがベルリに「ロックパイと同じ」と諭した時に
「Gセルフでだぞ。パーフェクトバックパックがあるんだろ」と言い返す点で
ベルリは自分が死ぬとは思っていないのがわかる。
それは今までの描写を見ても、特に序盤のベルリは天才肌であるがゆえに
戦争・戦闘をピンチになってもGセルフの性能も相まって乗り越えてきた。
その経験がベルリの慢心を強くしてきたのだと思う。
今回、自分が死ぬことの可能性を覚えたベルリはより強くなるだろう。

まとめ

生があるから死がある。
死があるから生がある。

タナトスとエロスは相互作用することで、新たな命が芽生える。

「Gのレコンギスタ」で23話で描かれた、セックス(生)と戦争(死)を見ると、
戦争が起こるのは人間が本来持つ攻撃性や生への執着といった
死や生の衝動が原因であるという見方もできる。
それゆえに戦争を完全に止めるのも難しい。
人間にとって戦争はどうしても起こしてしまうものかもしれない。

いよいよ佳境を感じさせる「Gのレコンギスタ」。
次回予告を見る限りバララもグシオン総監も死ぬ可能性を感じさせる。
最終話までにどれぐらいのキャラが生き残れるのか。もしくは死ぬのか。
人の死をクライマックスに一気に見せてくる
富野由悠季監督の真骨頂といえる展開になりそうだ。
  
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[ 2015/03/07 09:35 ] Gのレコンギスタ | TB(3) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」の技術と宇宙時代の人の有り様 

「Gのレコンギスタ」22話を視聴。

今回を視聴して地球外に人類が済む時代に起こり得る可能性と
こうした時代における技術の使い方、及び人の有り様について気になった。

まず驚いたのは、ビーナス・グロゥブのラ・グー総裁の姿の秘密について。

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前回、若々しい容貌のラ・グー総裁は自身がムタチオン(変異)し
自ら200歳だと告白してメガ・ファウナのクルーに驚きを与えた。
実はこのラ・グー総裁の若々しさは仮の姿であり、
やせ細った全身をボディスーツで支えている状態だった。

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人はここまでして生きなければならないのかと思わせる。

そしてラ・グー総裁から、ピアニ・カルータことクンパ・ルシータの存在が告げられた
クンパ・ルシータもまたラ・グー総裁と同じように、相当な高齢者であり
ボディスーツをまとっているのではないかと思った。

ラ・グー総裁も、クンパ・ルシータも杖を持ち歩き、
穏やかな言動と姿勢を決して崩さない点で二人は共通している。
ラ・グー総裁と、クンパ・ルシータはほぼ同じ世代の人間で
長年の同士だったのではないだろうか。

クンパ・ルシータは、金星に住む人々のムタチオンに絶望し金星から出る。
ラ・グー総裁はムタチオンを受け入れ金星に残る。
ムタチオンという現象に対し二人の考えは異なった。
「Gレコ」に見られる、一つの勢力に複数の考えがあるという描写がここでも使われる。

金星に住む、地球から離れて宇宙に住むということは、
200年生きる、全身の筋肉が無くなるといった劣化、
ムタチオン(変異)する可能性を描いた事でも衝撃的だった。


富野作品は、ガンダム作品を通して未来の時代をベースにして、
宇宙と宇宙に生きる人々の生活や考え方を描いてきた。
今回の「Gレコ」で見せた金星まで行った人類が
ラ・グー総裁のように生きる姿を描く意味は何なのだろうか。

人類は地球から遠く離れてはいけないことなのだろうか。
人類はムタチオンを受け入れる可能性も受け入れて宇宙で暮らすことが必要なのか。
もしくはラ・グー総裁の姿は今現実社会で起きている
介護問題に対しての対処の一つのあり様を示しているのか。

富野由悠季監督は「実物大ガンダムを動かすプロジェクト」の講演で
ロボットの開発と技術について以下のように語っている。

富野由悠季「今後ロボットの開発でどういう方向でやるべきという事に関していえば、基本的に僕は介護用ロボットに特化すべきだというふうに思っています。そうでない部分のロボット化というのは基本的に僕は奨励はしません。なぜかというと、人の能力を劣化させる道具にしかならないからです。これ以後は。この意味を大人の立場で考えていただきたいと思う。この部分でつまり介護用の所以外でのロボット化が進めば進むほど何が起こるのかというと、おそらくより鮮明な格差社会が日本に起こってしまうんじゃないかという風に恐れています。」

「もう一つ問題があります。ロボットのリアル化というものを進めていくということで起こってくるのは、技術の独走です。技術だけが先走っていって社会の生活と社会性とマッチングする事が無くなってくる懸念というものをものすごく感じるようになりました。」

出典:「Gのレコンギスタから君へ」

介護用ロボットに特化するべきという主張と、
ラ・グー総裁のボディスーツの技術は直接的に重ならないとはいえ、
ボディスーツが介護的なものであるとするなら、
富野監督は介護の部分では技術の飛躍の向上を良しとしているのかもしれない。

もう一つ、技術の独走というキーワードに関しては
「Gレコ」でもヘルメスの薔薇の設計図といった設定で描いている事も留意したい。
技術にどういう思想的・倫理的背景をつけて運用するか。
「Gレコ」のテーマの一つであると思う。

ベルリと母さんの再開

22話の名シーンは、ベルリと母さんのウィルミット長官の再会だろう。

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ウィルミットがベルリを抱きしめながらも
ベルリに投げかける言葉が微妙にそっけな感じであり、
ベルリが複雑な思いを抱くという描写が秀逸だった。

ウィルミットにしては、おそらく精一杯のベルリへの思いやりの言葉と見るのか。
現状がトワサンガとアメリアと緊張関係にあることもあり、
その中でも息子との事以上に、仕事のことも気にしてしまう母親なのだろう。

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ベルリがノレドの言葉に従って、ウィルミットの元から立ち去った時に、
私はベルリが「乳離れ」をしたのではなかという気持ちを抱いた。
母親は今までと変わらず。
ベルリはアイーダが姉さんだと知り、金星まで行ってきて、様々なものを見てきた。

人はどこかへ行くことで変化する。母は誇りをもって仕事をする。
どちらが良い悪いではなく、変化するのもしないのも人だと示している。

マニィとルインの再会

もう一つ、マニィとルインの再会も今回の見所であり、今回の締めのエピソードになった。

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自分の好きな人の為に、最新鋭の機体ジーラッハを持ってくる。
その為にモビルスーツの操縦技術を努力で習得する。
ジーラッハを持ち帰る時に、メガ・ファウナのクルーに操縦な下手なように見せかけ
マスクことルインの元に帰る隙を作る。マニィの健気な姿は心を打つ。

マニィはルインとの再開時に周囲もお構いなしに、一直線に抱きつく。
「Zガンダム劇場版」ラストのカミーユとファの抱擁を彷彿とさせるシーン。
マニィが一人で機体を持ってきたことにルインがたじろぐが、
それぐらいルインを圧倒するほどの変化をマニィが見せたのだろう。

一方で、マニィはベルリとマスクが戦うことを想定していなかったのかが気になった。
もしかして両者がお互いぶつかる事もあるし、実際に直接ぶつかってきた。
マニィの行動は、マニィとルインから見れば感動的でもあるが、
全体から見ると、戦いをより激化させる結果にもなりかねない。

全体を見ることがいかに難しいかを再び感じさせるマニィの行動でもあった。

まとめ

金星に住んだことでムタチオン(変異)し、人として劣化した姿を見せたラ・グー総裁。
再開したがベルリが期待していた言葉を投げかけなかった立派な母さんのウィルミット。
ルインの為に機体を持ち帰るマニィ。

宇宙に人が住む時代に、人はどんな形で技術を使っていくかを
ラ・グー総裁の姿は示したともいえる。
次にベルリとウィルミット、マニィとルインの再会は、
宇宙に人が住む時代でも、今と変わらないような人の有り様をみせていたと感じた。

技術と人の関係を「Gレコ」は常にでもあるが、今回も描いていた。

そんなGレコの最後の戦いは、
レイハントン家という選ばれし一族の忘れ形見のベルリと
クンタラという蔑まれた身分の末裔であるマスクことルイン。
この境遇が決定的に違う二人によって幕引かれるのだろう。
 
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[ 2015/03/01 18:08 ] Gのレコンギスタ | TB(8) | CM(4)

「Gレコ」を読み解く時の、パズル的・推理的要素について。 

「Gレコ」の読み解きが難しい点の一つに、
キャラクターが自身の気持ちを直接的なセリフで中々言わせない点にある。

むしろ「Gレコ」で描かれるのは、
「こういうシーンでこのキャラはこのセリフを言い、
こういう挙動を取るからこのキャラクターはこうであろう」
というような、キャラクターの心情を視聴者が推理しないと中々見えてこない為に
作品をきちんと見ていく際に視聴者の想像力が要する。

世界の描き方も各キャラクターが作品世界の設定の断片を語りながらも、
世界全てを俯瞰して捉えるようなものは出てこない。
この断片的に見えるセリフや描写がパズルのように散りばめられ、
このパズルのようなセリフや描写を、視聴者が繋げていく行為を求められている。

そういう意味では「Gレコ」をより見ていくためには
視聴者が推理し、パズルを解くような事が求められているのかもしれない。
そして本編でもアイーダが「想像しなさい」と言うように、
見ている視聴者にも想像力を求めている側面がある。

grekomee1000.jpg

例えば、一度過去の記事でも書いたが、
11話では、船体の装甲を銀色の特殊な材質で叩くと
柔らかいうちは材質の色なのだが、叩いて硬化していくと
戦艦メガファウナの装甲の色になる描写がある。

このシーンの意味を、富野監督は演出家やスタッフ達に対し
「この特殊な材質は今現在の世界にはないが、子供達がこのシーンをみて、
この特殊な材質があるかもしれないと思える、カンの良い子を支援してあげたい」
という想いがあることを訴えている。
※「Beginning of GUNDAM RECONGUISTA in G 富野由悠季から君へ」

ここでも富野監督は子供達に「想像しなさい」と訴えているようにも見える。
あくまでこの作品を通して直接的に訴えるのではなく、
想像力を刺激する手法を試みている。

こうした想像力が求められている作品だからこそ、
キャラクターの心情を、世界の構造を、本編の描写から推理し、
散りばめられた情報のパズルを解いていく形になっているのかもしれない。
 
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[ 2015/02/24 21:02 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」のシリアス性-水の重さはシリアスの重さ 

はじめに

「Gのレコンギスタ」の作風・語り口について。

本作は基本的には重い、重苦しい作風・物語であるにも関わらず
語り口は元気で爽やか、喉越しが良いと感じる。

一度滅んだ世界の再生後を描きつつ、
再生後に地球・月・金星、それぞれの環境下で住んでいた人々が
宗教・技術などによって変化していき、
紛争・戦争に再び向かっている世界を描いている。
Gレコの世界はシリアスな世界観だ。

一方でシリアスな世界観でありながら、
上述したように、語り口や見せ方までシリアスにはしない。
必要以上に登場人物の死ぬシーンを強調しないし、
大変な事が起こっているシーンでも、さらっと流してしまう。

これは過去の富野作品でも見られた傾向だ。
「逆襲のシャア」ではギュネイがあっさりやられるし、
大事なシーン、大変な事が起こっているシーンほど
富野作品では尺を短くして次のシーンに進めてしまう。

そんなシリアス性を持ちながら、軽妙さも光るのが本作。
今回21話のサブタイトルが「海の重さ」とあるように、
海、つまり水の存在が重さ、つまりシリアスを支えていた。
今回は「水」の描写から22話を語っていきたい。

シリアスを支える「水」の描写

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まず上記のキャプでは、ジット団に人間爆弾と言われていたものが、
フラミニアが装置を押したところ実は水が入っていただけに過ぎず、
水が艦内に溢れ出たシーン。

フラミニアが装置を押す前は、爆弾と思われていたから
シリアスな雰囲気でもあったが、
水が流れ出ると同時にシリアスがユニークへと転化する。
水をフックに展開させるこの落差が面白い。

greko21-4000.jpg

一方で今回の物語のキーポイントの一つは、
前回、ジット団のキア隊長の見境無い攻撃によって
オーシャン・リング内の水が宇宙に溢れ出てしまい
この被害をどう食い止めるかという点。

人の生命の源でもある水がそこに住む人々を殺しかねない状況。
宇宙の中に海を作ってしまう技術そのものが問われているかもしれない。
上記の海の渦を見ると、この状況の悲惨さ、シリアス性を感じずにはいられない。

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責任を感じたであろうキア隊長はMAのコンキュデベヌスの
機体そのもので破損部分を埋めるという手段を取る。
宇宙兵器が水圧に弱いことを自覚していたので、
自身の命はここで捨てると判断したのだろう。

水の重さ・水圧はMAをも壊し、人の命をも奪う。

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キア隊長を助けようとして、隊長の機体を追うものの
結局はダメで自身の機体から脱出し、
その脱出ポッドの中でキア隊長に声をかけるクン・スーン。

脱出ポッド内の飛び散る水はまるで、クン・スーンの涙を表しているようでもあり
このシーンをシリアスなものにするのに大きな役割を果たしている。

こう考えると、キア隊長のシーンで映る、水の玉藻また
レコンギスタ作戦を完遂できない、悔しさの涙と取ることもできる。

海・水とは対照的な陸地・空の描写

対照的に海以外・もしくは水の描写シーン以外ではシリアス的な感じを抑えている。

ノレドとマニィはジット団の基地に入ってGルシファーを強奪。
他のメガファウナのメンバーも、オーシャンリング内を見物しているかのよう。
ベルリ以外は直接戦闘を行っていない点もあってか
彼女達はキア隊長達のシーンのようなシリアス性で描かれていなかった。

そう見ると、それぞれの問題を抱えるキャラクターの問題と連動している事を前提に
今回は海と水の描写にシリアス性を強調させ、他の地形を舞台にするシーンでは
ユニークメインで描いていたのかもしれない。

まとめ

Gレコは重苦しい世界観・題材を取り扱いながらも、シリアス一辺倒で描かれず、
決して語り口は軽妙さを失わないでユーモアを多分に含んで所にある。
重いだけでは、重さは引き立たないし、軽妙さがあるから重さが伝わる。
シリアスな作品ほどユーモアの妙が生きてくる。

今回のシリアスの肝が「水の重さ」であるなら、
他の要素(お母さんと叫ぶ民間人等)でユーモア性を出していたのかもしれない。
そんな事を感じた22話だった。
 
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[ 2015/02/22 21:24 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」が抱える「想像」という問題意識 

「Gのレコンギスタ」20話を視聴。
今回、気になったキーワードは「想像」だ。

特に後半の戦闘が激化するあたりから、
「想像」をキーワードとする3つの描写が印象に残った。
今回はGレコの「想像」について、
本作が抱える問題意識と合わせて見てみたい。

「想像しなさい」と「良い結果を想像しましょう」

まずベルリがジット団の攻撃に対抗するために、
オーシャン・リングの近くに行こうとする時のシーンの
ベルリとアイーダの会話を見てみる。

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ベルリ「ロザリオテンがあるところも見当がついてきました。
けどテンポリスはこの空域では姿は見せません。メガファウナどういうことなんです。」
アイーダ「想像しなさい」
ベルリ「想像しなさい。聞いたことがあるセリフ」


ベルリが聞いたことがあると言ったのは1話で
アイーダがGセルフに乗ってクラウンにやってきた時、
ここでベルリがアイーダの通信を聞いた言葉だった。

greko20-2000.jpg
(※↑1話、ベルリがアイーダの通信を聞いているシーン↑)

アイーダ「このクラウンは人質にとった。20分後に開放します。
この件をキャピタルタワーの管制室に伝えることは許可する。」
キャピタルタワーの人「貴様の言うことを聞かなければどうなる」
アイーダ「想像しなさい」


ここで面白いのは、ベルリはアイーダの通信を聞いてはいるのだが、
「想像しなさい」と言った瞬間に、ベルリが表情を変えた点。
ベルリ的には「想像しなさい」という言葉が直感的に引っかかったのだろう。
だからアイーダが今回20話で「想像しなさい」と言ったときに、
1話で感じた心の引っ掛かりが残っていたから、ベルリはリフレインしたのだろう。


次にジット団に主導権を握られたクレッセントシップ内で
頭に爆弾をつけられ怯えているクレッセントシップ女性副艦長とエル艦長の会話。

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クレッセント・シップ女性副艦長「わ、私もう、艦長」
エル艦長「良い結果を想像しましょう

頭に爆弾を仕込まれた女性副艦長の怯えは、
おそらくフォトン・バッテリーを運ぶクレッセントシップは相当に安全な場所で
命のやり取りや戦争を経験していない事にあるのだろう。

そんな副艦長の怯えの元は、自分は死ぬかもしれないと想像しているからである。
だから艦長は死ぬという最悪の結果を想像するのではなく、
逆の良い結果を想像しろとアドバイスしたのだろう。

この二つを見ると、まずアイーダに「想像しなさい」と言わせて
エル艦長に「良い結果を想像しましょう」と言わせているあたり、
二つを結びつけて、ひとつの主張にしているといえる。

良い結果を想像すること・現実を視ること-ベルリとキア・ムベッキ

そんな二つの「想像」というキーワードを本編で投げ込んでから、
館長のセリフから8カット後(約20秒後)に、ジット団のキア・ムベッキが
Gセルフの手脚を切るイメージを想像する描写がある。

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このキア・ムベッキの想像は、カットの繋ぎ方を見るに
まさにエル艦長の言う「良い結果の想像」を描いているといえる。
ただこの後、キア・ムベッキはGセルフの捕獲に頭がいっぱいになり
Gセルフの攻撃に躍起になってしまいオーシャン・リングの底を傷つけ破壊し、
オーシャン・リング内の水が宇宙に流れ出てしまうという
おそらくジット団にとってもタブー破りの極致をやってしまう結果になる。

この事の意味を考えると、キア・ムベッキにはGセルフを捕獲する事に対しては
良い結果を想像することができたが、オーシャン・リングを傷つけずに
どうやって戦うかを全く想像できなかった結果といえる。

それはキア自身が言っていた「地球人は寄生虫だから殺菌するだけ」という
セリフを見ても、地球人蔑視と自分達ビーナス・グロゥブ側以外の技術を
見下して甘く見た想像をしてしまったからだといえる。

一方のベルリは、ジット団の戦い方を見ながら
オーシャン・リングを傷つけるのは「タブー」である事を想像し見抜く。
キア・ムベッキは「現実というのものは戦い取るものだ」と言ったが
良い結果だけを想像し、現実を直視できなかったキア・ムベッキ、
現実を直視した想像で、相手を見破ろうとしたベルリ、
この二人の想像の仕方、戦い方の差がきちんと描写されていた。

そしてベルリがGセルフがジャイオーンと互角以上に戦えたのも
戦う直前に上記で取り上げたアイーダに「想像しなさい」と言われた事が
大きかったのかもしれない。

Gのレコンギスタの世界観の想像の源泉-地球がもたんときが来ているのだ!

「Gのレコンギスタ」はどんな想像をして描かれた世界なのか。

それは宇宙世紀時代の戦争と地球の大量消費の為に
失われた地球の文明が1000年後に再生した時代(RC)を描いている。
この事の意味は…。富野由悠季監督は過去に以下のような発言をしている。

 「我々は今環境問題、エネルギーが少ない地球というものに直面しています。現在までの人類の能力論や経済論だけでは、1000年という時間を我々は地球で暮らせないわけです。そういう問題がわかってきた時に、日本人でも人類が生きのびるためには、ニュータイプにならなければならないのではないかという考え方を持つ人が出るようになってきました。30年前のアムロが、ようやくここで定義しつつあります。我々は現在以上の能力を持てる可能性にチャレンジしなければいけません。アムロはガンダムしか操縦できませんでしたが、我々はエネルギーがなくなった地球でも1万年生きのびることができるかもしれない。人にはそういう可能性はあるのではないかというシンボルにニュータイプはなりうるのではないか、ということです」

出典:ガンダムが30年ヒットした秘密2(富野由悠季監督)

1000年暮らせない。これはリギルドセンチュリーが
宇宙世紀から1000年後という設定と符合する事でもわかるように
それは富野監督は今のままでは地球は1000年暮らせない・もたないと想像している。
この考え自体は「逆襲のシャア」のシャアのアクシズ落としでもわかるように、
監督がずっと抱いてきた問題意識でもある。

ただこうした問題意識を「逆襲のシャア」ではアクシズを落とす事を手段の一つとして描いたが、
リギルドセンチュリーという1000年後を描いて、そこで生きる人々の考えはどうなのか、
技術はどう扱われているのか、どう宗教を扱ったらいいのかを通して
未来を描く事で自身の考えを表明しているのだろう。

運用の制約下にある技術、あえて技術を発展させない選択、
そして様々なタブーがある世界。こうした世界であれば1000年生き延びることができる。

そんな事を富野監督は、アイーダの「想像しなさい」と言うように想像しているのだろう。

まとめ

アニメは動く絵である以上、人が想像したものを描く表現媒体である。
想像しなければ、何も描けない。何も生み出せない。
庵野秀明監督も「アニメはイリュージョンを描くのに向いている」と言ったように
特にアニメは想像したものを描く事に適している。

そんなアニメだからこそ滅びかけた時代から1000年後の地球の再生と宇宙に住む人々を
様々に富野監督とスタッフが想像して描いているのが「Gのレコンギスタ」なのだろう。

そしてきちんと現実を直視した「想像」ができなければ、
現在も未来も生き抜くこともまた描いているのだろうし、
一方で、良い結果を想像して動かなければ、
世界もまた変わらないのだろうという事も伝えているのかもしれない。
 
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[ 2015/02/15 21:48 ] Gのレコンギスタ | TB(5) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」は考える事そのものを考えるアニメである。 

「Gのレコンギスタ」19話を視聴。

今回注目したいのは「考える」ということ。
クレッセントシップ内でベルリ達がエネルギー問題について話すシーンの一幕。
アイーダが強くアメリア側の主張を通そうとするが、
周りのみんなに「教わったこと」「感じていない」と指摘される。

以下、各キャラのセリフと照らし合わせて再現してみる。

アイーダが考えていたのは「刷り込み」でしかないこと

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ムベッキ「人類は大量消費と戦争で地球を住めないようにしたのです。
そんな人類にはアグテックのタブーは必要でした。
その代わり財団はフォトンバッテリーは無条件で提供してきました。」

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アイーダ「エネルギーの配給権をキャピタルタワーに独占させたために他の大陸の人々は…」

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ノレド「アメリア人だけの感覚だけで喋るな」

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アイーダ「人の自由を侵害されています」

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ベルリ「人は自然界のリズムに従うものでしょ」

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アイーダ「でも、アメリアでは」

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ムベッキ「そのように教わって、お育ちになったのですな」

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アイーダ「教わった、教わったって」

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ノレド「自分で感じたことではないってことだよ」

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アイーダ「刷り込まれたということ」

以上

アイーダがキャピタルタワーにエネルギーの取扱いを独占されてアメリアなどの国が
不自由している事を主張したいようだが、それが自分の感じたことではなく
「教えられた」「刷り込まれたこと」でしかなかったと看過される。

このアイーダが指摘されることについて、以下の引用を見てみよう。

富野由悠季「17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。」

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
政治哲学者ハンナ・アーレントの話にもおよび、彼女が指摘している通り、「独自に判断できる人は限られている」、と痛感できる感性を育ててもらえたという。

出典:富野由悠季監督が語る「ガンダム30周年」
 

富野監督は新作をGレコをハンナ・アーレントの考えをアニメで表現したいと語ってきたが、
今回のアイーダの描かれ方は、ハンナ・アーレントの「独自で判断できる人は限られている」
「人は物事を信じて生きていた」という主張を通して、育ての親のスルガン総監から
物事を教えられた事を信じて生きてきたが、
それはアイーダ独自の判断では無い事を描いているのだろう。

7話でアイーダはアメリア側の新型兵器アーマーズガンが登場した時に
強力な兵器の存在に対して、彼女なりの疑問を呈していたりしたのは、
彼女の独自の感性だったのかもしれない。

ただエネルギー問題に関しては、国家の中枢にいる育ての親の
いわれるがまま事を信じて、その考えのまま19話まで来てしまったのだろう。
この刷り込まれを他のみんなに指摘されたわけである。

現実に生きている我々も風習・習慣・常識といったものを「刷り込まれ」、
「刷り込まれたこと」に従って生きていけば、徹底的に考えなくても
生きていけるという意味でアイーダと同じなのかもしれない。

こうしたアイーダの描写を見るに「Gのレコンギスタ」という作品は、
「考えること自体を考えていく」作品でもあるように感じた。

考えること・感じる事

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富野作品は、今までのガンダムのニュータイプも含めて、
人の認識の仕方、考え方そのものを考えるような志向性が強い。
こうした認識の仕方を、ハンナ・アーレントの考えを取り入れつつ、
アニメで表現しているのが「Gのレコンギスタ」なのだろう。

具体的に富野作品で「考える」といえば、「機動戦士Zガンダム」最終話で
カツがシロッコを庇うサラに「なんでそう頭だけで考えて」というシーンがある。
他にも富野作品では考えることも大事だが、それ以上に素朴な態度で
自分自身が感じた事に身をゆだねて、態度を作っていくことの大切さも語られる。
他にも「ブレンパワード」の宇都宮比瑪も考える以上に感じたことのままに
行動する女性を描いていた。

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アイーダ「数字だけの理解は数字だけだもんな」

アイーダは自分からクレッセントシップまでの距離が1キロあることに実感が沸かない。
それを数字だけの理解にしてしまうと、なにかわかった気になってしまう。
そんな事を伝えようとしているのではないだろうか。

まとめ

「Gのレコンギスタ」は本編で起こるエネルギーや宗教といった問題以上に
人の認識の仕方、つまり考える方について考える、感じ方そのものについて
問うような事をハンナ・アーレントを手掛かりに取り上げている作品であるのかもしれない。

今回の事があったとはいえ、アイーダは聡明な女性であり、
キャッチコピーの「自分の目で確かめろ」を地で行く方でもある。
トワサンガに行こうと言いだしたのも彼女であるし、
ヘルメス財団に会いに行こうと言いだしたのもアイーダである。

本編でもベルリがアイーダにアイーダの育ての親のスルガン総監の事を
「立派な方」と言ったように人に「刷り込まれた」事が悪いことではない。
確かに人は習慣・風習・常識、親や教育者の教育によって生きているわけだが、
大事なのはこうした事を実際に個々人が本気で疑い、検証して、
実際に感じることなのだろう。

最終的にアイーダはハンナ・アーレントが言う「独自で判断できる」
女性になるだろうとは思う。それが本編で描かれるかどうかはわからないが、
最終的に彼女の人生においてそうなると信じたい。
 
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[ 2015/02/08 09:54 ] Gのレコンギスタ | TB(7) | CM(2)

「Gのレコンギスタ」はカッコイイロボットアニメである事を訴えたい。 

「Gのレコンギスタ」18話を視聴。

この作品はモビルスーツのアクションと展開がカッコイイ。
今回はGレコのロボットアニメとしてのカッコよさについて語りたい。

クレッセントシップに痺れる

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今回特に痺れたのは、クレッセントシップにメガファウナが逃げ込むシーン。
キャピタルのマスク、アメリアの天才クリム、そしてトワサンガの攻勢から回避し、
引いてはビーナス・グロゥブとヘルメス財団に会いにいくのが目的。

ここでクレッセントシップを傷つけると政治問題になるということで、
どの勢力も傷つけないように最初は配慮するのだが、
戦闘が激化すると、一番敏感なはずのトワサンガですらビームは使ってしまう。

そんな中、メガファウナがギリギリの所で、クレッセントシップに入り込む展開。
傷つけないように飛行するステアを含めたメガファウナのクルー達。
船体が当たらないよう、モビルスーツで抑える、アイーダとラライア。
そしてメガファウナが、クレッセントシップの中央にたどり着いた時の
上記キャプ絵を見た時に大いにカタルシスを感じた。
この一連の流れはハラハラドギドギ感を味わえて、とても面白かった。

あと上記のキャプでいえば、クレッセントシップのデザイン、
特に形状・スタイリングのカッコよさに痺れる。
名前通り三日月をモチーフにした美しい曲線のスタイリング。
そしてメガファウナが小さく見えるほどの巨大さ。

未来の宇宙には、こんな形の船もあるのかと思うと、
心がワクワクさせられる仕上がりになっている。

Gセルフとガイドラッシュとピブロンに痺れる

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次にかっこよかったのは、ロックパイが乗るガイトラッシュ。
ガイトラッシュがビームマントの出力全開で、
Gセルフを特攻を仕掛けるような感じで襲いかかる感じが凄くよかった。

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さらに大事なのは、ロックパイのビームコート攻撃がドラマになっていること。
このガイドラッシュの捨て身的な攻撃は、上官のマッシュナーさんの心をも動かす。
メカアクションからキャラクターのドラマが切り離されずに描かれるのもポイント高し。
このマッシュナーさんを見ていると、マッシュナーさんの方がロックパイに
惚れている感じ。母性的な優しさで子供を包む感じの愛し方だが・・・。

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次にピブロンが脚を切り離して、天才クリムの宇宙用ジャハナムに当てるシーン。
天才クリムは想定外の事態に馴れない人だなぁと思いつつ、
ロケットパンチならぬ、ロケットキック的なギミックがカッコよかった。

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Gセルフに関しては、ビームサーベルを二刀流で使っているのがカッコよかった。
二刀流ができる、それはベルリのパイロット技量が上がっている事を示している。

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最後はガイトラッシュのビームコートまでを退けてしまう
Gセルフのフォトンバッテリーを使った力。
光るというのがカッコイイし、その後のGセルフの動きもカッコイイ。
これだけの力を秘めていると、どの勢力もこの機体をほしがるのはわかる。


Gレコは毎回、新しいモビルスーツ、もしくはモビルスーツの新しい武器や戦法を
極力使うようにして今まで見たことがない戦闘に仕立て上げている。
ロボットアニメの魅力は、そこに出てくるロボットの魅力であり、
そのロボットのスタイリングや武器、そしてそのデザイン付随する世界観が
引いては作品世界の世界観にも繋がってくる。

Gレコは各勢力が乱立する作品だ。
今回でも、メガファウナ・キャピタル・アメリア・トワサンガと4つの勢力があり、
さらにトワサンガはロックパイとガヴァン隊長が対立して、5つが分かれて戦った。

そんな各勢力のモビルスーツには、その勢力ごとの特徴が出ている
スタイリングやデザインが施されていて、それだけでも見ているのが面白い。
(公式サイトのメカデザインを見ていると、理解はより深まる)
そしてその別々な勢力ごとのデザイン(世界観)があるということは、
それだけ世界の価値観は一つではなく複数・無数にあるという事でもあり、
だからこそ、各勢力は戦争をしてしまうという事にも繋がってくる。

何より、毎回のように新しい機体が出てくるのだから、目が離せない。
そしてそんな新しい機体が出てくる中で、ベルリとGセルフが
新しい戦い方と、秘められたGセルフの力で次から次へと打ち破るのが爽快なのである。

まとめ

ロボットアニメは、カッコイイ展開や内容であるのが望ましいと思うし、
その作品が新しい価値観を提供する内容であれば、なお嬉しいと思う。

Gのレコンギスタは「ガンダム」という非常に制約がある枠組みが存在しているが、
既存には無い新しいロボットアニメのカッコよさを追求していると思うし、
その面白さを追求している作品だと思う。
 
ロボットアニメは時代ごとのカッコよさ、普遍性のあるカッコよさを追求できるジャンルだ。
(※ただこのカッコいいことも、本編中に言われた「戦争をしたがっている世代が
生まれてきている」とも関係するなら、難しい問題でもある)

そして「Gのレコンギスタ」は世界観・モビルスーツのデザインとスタイリング・
モビルスーツの劇中の使い方・モボルスーツと人の関係性の描き方、
これらの描かれ方がカッコイイと思う点で、
「Gのレコンギスタ」はカッコイイロボットアニメだと訴えていきたいと思う。
  
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[ 2015/02/01 09:58 ] Gのレコンギスタ | TB(8) | CM(1)

富野作品にみられる「アイーダ脱ぎ」について 

「機動戦士ZガンダムII 恋人たち」を視聴していたら
新規作画のエマ中尉のパイロットスーツの脱ぎ方が気になってしまった。

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この脱ぎ方って、Gレコのアイーダ姫様と同じだなぁと思った。

ainugi000.jpg
(Gレコ2クール目OPから)

私はこうした股間辺りまでスーツを開いで脱いでいる
姫様の脱ぎ方を「アイーダ脱ぎ」と言っているが、
エマさんも「アイーダ脱ぎ」だったことがわかった。
むしろエマさんの方が先なので「アイーダ脱ぎ」は「エマ脱ぎ」かなと。

戦い始め、もしくは戦い終わった後の女性パイロットの
富野作品的パイロットスーツの脱ぎ方には共通点があるなぁと思った。
他の富野作品を見返したら、同じ脱ぎ方をしているキャラがいそう。
 
一方でパイロットスーツを開いていることは、
そのキャラクターの気持ちが開放的に向かっていることでもあると思った。
 
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[ 2015/01/24 09:14 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」16話とベルリの感情 

「Gのレコンギスタ」16話は、ベルリとアイーダが
トワサンガのレイハントン家の忘れ形見だという事がわかる話。

しかしそれ以上に重要なのは、
張りぼての人工的な自然しかないコロニーが生まれ故郷という事、
それ以上に想い人が実の姉であるという事に対して、苛立つベルリの姿だ。

greco16000.jpg

「何がレイハントン家だ」

ベルリは半ばヤケを起こしてドレッド家側のMSと衝突する。
流石に相手を殺すような戦い方はしなかったものの、
他の誰もがいうように、戦う必要がない状況ではあった。


確かにベルリの気持ちもわかる。
豊かな自然の地球で育ったのだから、実はコロニーが生まれ故郷だというのは、
すぐには受け入れがたい事実なのかもしれない。

そんなベルリの、コロニーの人工的な自然やその構造に嫌悪感を表明する点が、
今までのガンダムの主人公像とは違っていたのが面白かった。

ただこうしたコロニーへの違和感や嫌悪が、やがて敵視へと繋がり
最終的には宇宙側と地球との戦争に繋がってしまうのではないかとすら思った。
一方で今回は「地球では戦争を面白がってしまう世代が生まれてしまった」という
セリフもあるのだが、こうしたセリフも合わせてみると、
ベルリを含めた若い世代の感性が、戦争を引き起こす要因の一つなのかもしれない。
特にクリムとマスク大尉の行動は、戦争を面白がる象徴として描かれているのだろう。


さて感情をあらわにするベルリの描き方についてだが、
感情的になる理由はわかるが、周りかも咎められているように
そのベルリの態度は批判的な視線で描かれているように感じた。
まるで感情や情緒に流される事がいけないもののように描かれていた。


自分の想い人が実の姉さん、故郷が人工的な自然でしかないコロニー、
この両方の現実が嫌で嫌で仕方なかったベルリ。
まさにEDの歌詞の「リアルは地獄」の通りであり、
さらに「真実の意味に」をベルリに突きつけられた展開だった。
 

そんなベルリが突きつけられた現実に対して半ば自暴自棄になり出撃した点を見ると、
改めてベルリは何も考えていないキャラとして描かれていると感じた。
一方でアイーダは感傷的になってもすぐに現実を受け入れ、
レイハントン家に仕えた者たちに「時代は年寄りがつくるものではないのです」
と言い返す点を見ても、きちんと考えられるキャラとして描かれていると感じた。

ここでもベルリとアイーダ、二人の兄弟は対照的に描かれるのが面白かったし、
今までの空気の流れをガラッと変える感情的になったベルリの姿は
さらに物語を面白くしている存在のように映る。
 
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[ 2015/01/21 23:26 ] Gのレコンギスタ | TB(1) | CM(0)

「Gレコ」が未来の技術を描く理由-「子供に見てほしい」富野発言の視点から 

はじめに

「Gのレコンギスタ」は何を見せたい作品なのか。

それは、リギルドセンチュリーで生きる人々の生活と
生活に活用される技術、そして戦争で使われる技術である。

Gレコで描かれる生活描写

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ま今回冒頭にあったベルリのシャワーシーン。
ベルリが白い何かを頭にかぶりながらシャワーを浴びている。
おそらく頭髪を洗っているのだろうが、
こうした技術は今の世界では見られない。

今から遥か未来の世界だから、今には無い技術がある。
当たり前の話だが、こうした見たこともない技術を生活描写でサラっと入れる。
これが「Gのレコンギスタ」では大事な要素といえる。

他にも6話ではガムで歯磨きしていたり、今とは違う生活描写が描かれる。

軍事技術について

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戦闘で目立つのは、エアバックの描写。
エアバックの描写は逆襲のシャアでもあるのだが、
TVシリーズのガンダムで戦闘シーンで印象的に使われているのは、
本作が初めてのような気がする。

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今回は、ビームを遮る網が登場していたが、
Gレコでは毎回こうしたギミック・設定が次から次へ登場する。

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3話で話題になったトイレ描写も同様の設定だろう。
こうした設定が生まれる源泉は何なのだろうか。

富野由悠季と宇宙旅行と宇宙戦争

評論家の宇野常寛氏は以下のように語る。


宇野常寛「彼はコロニーの全長が何キロで、そこは何か乗り捨ての電気自動車で移動しているだろうとか、そういったところまであの人は考えて描写しているんですよね。彼の根底にあるのは本当に宇宙に人が植民したらどうだろうかという、宇宙少年だった頃の徹底的な妄想力。」

「人類宇宙進出というものが、まぁ20世紀って結構リアルに感じられていて、その頃に本気で宇宙を好きだった少年がひたすら妄想していたんだと思うんですよね。よく本人も自伝とかでそういう話は書いていますよね。」

「その時の妄想力が結構異常なんですよね。非常に細かくて、そしてかなり当時の最新なことまで勉強してたぶん設定を作ってたと言われる人なんですよ富野さんて。まぁ富野さん及び富野さんのスタッフですね。あのそういった宇宙オタク少年、オタクという言葉はあの人嫌いかもしれないが、本当に宇宙に憧れて本気で行こうと思っていた少年の妄想力というものがものすごくアニメに反映されていると思うんですよね。」

「虚構というものに真剣に全力で向き合うというのはこういうことだと思うんですよ。これは同じアニメ作家の宮崎駿とは対照的ですね。彼は宮崎駿はコナンとかナウシカのユパ様とか超人的な身体能力がある人間に関してはもういっそのこと説明しないんですよ。説明しないことによって、漫画だからこそ漫画映画だからこそ得られる表現の面白さを追求しているんですよね。」

「コナンとか塔の5階とか10階からバーンって飛び降りちゃうじゃないですか。ユパ様も飛行機から飛行機にこうやって飛び移ってバツバツって人を斬ったりするじゃないですか。富野由悠季はそれをやらないんですよね。むしろ塔から飛び降りたらこんなふうに骨折するはずだとか、あの実際に存在しないビームの銃で撃たれたらこんなふうに融けるはずだ装甲は、そういったところを綿密にシュミレーションしてリアリティを出す。」

「だから宮崎駿というのは現実には存在しないものをいかに描くかという人だと思うんですよ。富野由悠季っていうのは虚構だから描くことができる現実は何かということを考えている人だと思うんですよね。同じ年のアニメ作家なんだけど方法は全く別。」

出典「Beginning of GUNDAM RECONGUISTA in G 富野由悠季から君へ」

宇野氏の指摘も含め、富野由悠季監督が子供の頃から宇宙とロケットに憧れていて、
どうすれば宇宙旅行できるかを考えていた少年時代を送っていたことが、
今までのキャリアで作ってきた作品に反映されているということだ。
つまり富野監督のやっていることは、子供の頃からの想像・イメージを
いかに作品に反映させていくかということに尽きる。

だから富野監督が描きたいのは戦争だけではなく、宇宙でどう旅行するか。
引いては宇宙時代が到来した時に、人はどう宇宙で生活するのかということ。
ただロボットアニメという前提、または宇宙で使われる技術は
軍事技術とも密接に繋がっているだろうということも踏まえて、
富野作品で描かれるのは、宇宙生活と宇宙旅行と宇宙戦争なのである。
だから生活ができる描写として母艦が必要となり、
戦争という名目のために、様々な場所に移動(旅行)するのである。


なぜGレコは技術を描くか-子供への創造力の刺激

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上記のカットは、船体の装甲をGセルフが銀色の材質でコーテングする描写なのだが、
このコーテングする装甲には特殊な材質が使われている。
この材質は柔らかいうちは材質の色なのだが、叩いて硬化していくと
戦艦メガファウナの装甲の色になっていくものだという。

本作のメイキングビデオ
「Beginning of GUNDAM RECONGUISTA in G 富野由悠季から君へ」では
この上記のシーンの演出意図について富野監督が語るシーンがある。
富野監督の意図は、こうした特殊な材質は今現在の世界にはないが、
もし子供達がこのシーンをみて、この特殊な材質があるかもしれないと思える、
カンの良い子を支援してあげたいという思いがあるという。

つまり今は無いものでも、Gレコを見て特殊な材質で何であれ、
作ってみたいと思わせるような子供の創造力を刺激したいというのが
富野監督の中にあるのだろう。

確かに「機動戦士ガンダム」から35年。
動かないとはいえ、同スケールのガンダムも生まれお台場に展示された。
ロボット技術も、ガンダムからの刺激もあって大いに発展してきている。
そしてこれらの技術発展を「機動戦士ガンダム」を見ていた世代がやっているのだ。

こうした事を富野監督も知っているから、アニメを見ている子供達に
本編で使われている、今の世界にはない技術を見せて、
何かしらの刺激を与えて、次世代に繋げていきたいのだろう。

富野監督が常々言う「子供に見てほしい」という発言の意味ががこの点に込められている。

まとめ

子供の頃、宇宙少年だった富野監督は、次世代の子供たちに
自分の作品を見て宇宙少年・少女になってほしいという想いがあるのかもしれない。
それ以上に本作を見て、未来の世界の発展につながる技術者や社会人になってほしい
という想いの方が強いのかもしれない。

これらとリギルドセンチュリーの世界観を踏まえた時に、
持続可能な発展を可能にする技術と技術の使い方をするには
どうしたらよいのかを「Gのレコンギスタ」は描いているといえる。
 
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[ 2015/01/12 10:46 ] Gのレコンギスタ | TB(11) | CM(0)

男と女の物語としての「Gのレコンギスタ」 

Gのレコンギスタ14話を視聴。

この作品は、宇宙世紀ガンダムの後の歴史を描く中で起こっている
地球や月の諸勢力同士の戦争をスコード教といった宗教や
フォトンバッテリーといったエネルギーを交えながら
宇宙エレベーターを世界観の核として描いている。

しかし、こうした戦争中の世界を描く物語の中でも、
その根本として描かれるのは、男と女の関係なのだろう。

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上記のキャプを見ても、
男女が一つのショットに収まるものを必ず入れてくる。

ベルリとアイーダ
ベルリとノレド
ベルリとラライア

マスク(ルイン)とマニィ
マスクとバララ

クリムとミック

ドニエル艦長とステア

マッシュナーとロックパイ

特に14話はそれぞれの織り成す男女の関係性が垣間見えた点で面白かった。

例えばクリムとミックの身体接触を見ても、
二人の関係は相当に深いことがわかるし、
端的にいえば二人はセックスをしているという解釈もできる描写でもある。


富野作品においては、こうした男女間の関係を直接的には語らず
どのぐらいの距離感で話すか、どれぐらい身体接触を許しているかで
男女の関係を見せてくる傾向がある。

今回、ベルリが記憶が戻ったラライアの顔を触ろうとして
アイーダに静止されるシーンなどは、
ベルリが他の女性に手を出すことは許さないという
アイーダの宣言でもあるのだろう。

戦争をしていても、男女の恋と愛に生きていることは変わらないし、
むしろこうした男女の関係こそ戦争や宗教にも関わっている。

物語とは男の女の関係で描かれる。
そんな作品、特に富野作品の根本を見せつけてくれた14話だった。
 
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[ 2015/01/01 13:52 ] Gのレコンギスタ | TB(1) | CM(2)

Gのレコンギスタの「全体主義」と「戦争」と「旅行」の関係性 

Gの「レコンギスタ」13話を視聴。

今まで私はGレコを「戦争が起こるメカニズム」を描く作品としてみていた。
しかしこの作品が描きたいのは「旅行」「宇宙旅行」だとわかった。

戦争より旅行ー真実を探求するアイーダ

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それは、最後のアイーダがトワサンガに行くと決意したシーンで
この作品は移動の魅力としての「旅行」が描かれることを再確認させられたからだ。

ではなぜ「旅行」が描かれるのか。

まず富野監督が「旅行」「宇宙旅行」を妄想し描くのが大好きだからだ。
富野監督は、宇宙に進出した人類はどんな技術・生活・宗教・価値観
を持っているかを考えて作劇をして世界観を作るからである。

そしてこの事以上に大事なのは、
「全体主義」と「戦争」を克服するために
移動の魅力としての「旅行」が挙げられるからである。

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アイーダは月側の使者の「トワサンガ」という言葉を聞いて、直感した。
いくら月からの艦隊の言い分や、他の人達の言い分を聞いても
「トワサンガ」に行かなければ、真実はわからないと。

アイーダにとっては戦争より真実が優先しているのだ。
(※天才クリムやマスク大尉は戦争をしたいように見える)
つまり戦争を起こさない方法を「トワサンガ」に行って突き止めたいのだ。

この事を踏まえると、戦争を起こさないためには、
「旅行」をして真実を見極める必要性がある描かれ方をしているのだ。

「Gレコ」と「全体主義」と「旅行」

「Gレコ」は、みんなが時代の空気によって引っ張られ、考えなしに動き、
結果「戦争」に繋がってしまう「全体主義」を描く作品である。

富野監督は、社会学者ハンナ・アーレントの「全体主義」を引き合いに出すものの
ハンナ・アーレントが「全体主義」のモデルにした
ナチス体制のドイツや、スターリン体制のソ連を描きたいのではなく、
今の時代に応じた「全体主義」を描こうとしている。

それはグローバリズムとネットによって生まれる統一された一つの価値観であり
共同体から切り離され、個の権利を主張するが責任を負わない
「原子化した大衆」によって生まれる、現代的な戦争をイメージしながら
リギルドセンチュリーの戦争を描いているのだろう。

こうした「全体主義」から生まれる空気に対抗する手段として
「旅行」することで真実を知り、空気と戦っていくことが描かれているのだと思う。

その意味ではアイーダは時代の空気に引っ張られずに
きちんと物事を考えられる人間として描かれている。
また、そのアイーダに惹かれるベルリやメガファウナの人々も
アイーダに近しい感じ方をする人々なのだろう。

まとめ

富野監督は「旅行」、移動の魅力を常に描いてきた。
「1stガンダム」「∀ガンダム」「キングゲイナー」etc。

特に「キングゲイナー」ではエクソダスとして
移動することが世界を変える物語を描いた点で、
富野監督がずっと描いたテーマをより突き詰めた作品だった。

「Gレコ」も旅行して、世界を見て、自分達の世界を変えていく作品なのだろう。

「Gのレコンギスタ」も1話から振り返るとベルリが、
キャピタル(1~3話)からキャピタル外に出て(4・5話)、宇宙に行き(6話)、
また地上に移り(7・8話)、キャピタルに戻り(9・10話)、また宇宙に出て(11話)
サンクドポルドに行く(12・13話)という「旅行」をしている。
そんなベルリの次の目的地は「トワサンガ」というのがわかった13話だった。

1クール目の終わりで、より本作の方向性が明確になった展開だった。

最後に富野監督が本作発表時に出したコメントを掲載する。

「元気のGだ!! ロボットアニメで目指すんだ!! Gのレコンギスタ!! ベルリとアイーダの冒険はすごいぞ」
 
この作品は最初から「冒険もの」だったことがわかるコメントである。
 
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[ 2014/12/21 08:57 ] Gのレコンギスタ | TB(6) | CM(2)

シーン単位でみる「ガンダム Gのレコンギスタ」11選 

はじめに

「ガンダム Gのレコンギスタ」の個人的名シーンを
各話から一つずつ選んで、11話まで計11シーンを振り返ってみよう。

1話「謎のモビルスーツ」

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ベルリがアイーダを横切る時のシーン。ベルリが惚れた瞬間を描く。
富野監督の出崎監督の引き出しを使ってきた演出。
慌ただしく時間が流れる中でのスローモーションが生きる。

2話「G-セルフ起動!」

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カーヒル大尉を殺されてベルリに逆上するアイーダ。
アイーダの叫びに心打たれる。嶋村侑さんの熱演が光る。
この瞬間、アイーダの人生は大きく変わる。

3話「モンテーロの圧力」

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最後のベルリの排泄シーン。
モビルスーツ内のトイレは画期的。
そしてヒロイン3人に囲まれてのトイレはセックスだ。

4話「カットシー乱舞」

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「スコード!」「好きで武器を持っているのではない」と叫ぶベルリ最高。
富野監督の戦争観が極めて端的に表現されているセリフ。

5話「敵はキャピタル・アーミィ」

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「ふざけているのか!」
異様なイメージBGな画面とマスク大尉がとにかくインパクト大。
テンションが高いキャラ立ち表現。

6話「強敵、デレンセン!」

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ベルリがデレンセン大尉を殺す瞬間。
今までのベルリとデレンセンの身体的なやり取りがリフレインされて、
殺したことを本能的に実感する名シーン。

7話「マスク部隊の強襲」

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突然笑うベルリママがインパクト大。
笑いの価値観が、現代とは違うと思わせる瞬間。
7話はベルリママが大活躍。

8話「父と母とマスクと」

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マスク大尉とマニィのやり取りに、
お互いの本音が見え隠れするところが良い。
このシーンこそ演劇的と思わせるシーン。

9話「メガファウナ南へ」

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モンテーロがぁ!
ジャベリンがぁ!

クリムが乗らないとあっさりやられるのが悲しかった。

10話「テリトリィ脱出」

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このキックは素直にかっこいい。
荒木哲郎さんによる「進撃のレコンギスタ」な瞬間。

11話「突入!宇宙戦争」

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地味なシーンだけど、
技術の使い方、道具の使い方を描いている名シーン。
∀ガンダムの洗濯シーンと意味合いは近いと思う。

まとめ

「Gのレコンギスタ」は情報量も設定もキャラクターも多くまた圧縮展開が続いているので、
見ごたえあるシーンも多いし名シーンも多いと感じる。

とりあえず、11話まで振り返ってみたが、
機会があれば最後まで振り返ってみたい。
 
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[ 2014/12/13 23:09 ] Gのレコンギスタ | TB(1) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」11話は混沌化する世界が戦争突入するメカニズムを描く 

「Gのレコンギスタ」11話を視聴。

今回、キャピタル・アメリアといった各勢力がある中で
各勢力の内々では個々の思惑が働くことで、
どの勢力も一枚岩ではないことが描かれていた。

ではこの各勢力が一枚岩で描かれない意味とは何か。
この事を戦争がなぜ起こるのかという視点も含めながら考えてみたい。

首脳陣の考えが違うアメリア

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まず、アメリアの首脳陣の考えの相違についてみてみる。

今回は、クリムの父ズッキーニ大統領が主催する出陣式に
パラシュートで降りてやってくるアイーダの父スルガン総監が
大統領のやり方に因縁をつける。

息子のクリムに戦艦サラマンドラを出陣させ
キャピタル勢力と戦う事を宣言するズッキーニ大統領。
対して法皇を人質に取り、早期収束を図ろうとするスルガン総監。
スルガン総監はこの事を聞いていないために、統帥権の侵害だと感じている。
以下の会話を見てみよう。

ズッキーニ「キャピタルタワーを足場にして、ゴンドワンを叩くというのは貴公の立てた作戦である」
スルガン「そうではあるのでしょうが、なぜサラマンドラをなぜこの時期に出動させるのです。それも私の許可もなく」
ズッキーニ「キャピタル・アーミィがタワーを占拠したというから大統領権限で発信させたのがなぜ悪いのか」
スルガン「今は休止にさせて頂きたい」
ズッキーニ「宇宙艦隊では後方支援をしろと号令を出してしまったのだ。今更取り消せる問題ではない」
スルガン「今更取り消せない。軍令に従う義務が自分にはあります」
ズッキーニ「アメリア帝国の威信の元、キャピタルタワーの独占を阻止して、世界を解放してみせろ」
スルガン「はっ」

スルガン総監が立てた最初の作戦通りに動くズッキーニ大統領。
キャピタルに潜り込み、作戦を変える必要性を感じたスルガン総監。
目的は同じところもあるが、両者の考えには、大きな隔たりが有る。
つまりここでアメリアという国家組織が一枚岩ではなく。
それぞれの思惑で勝手に動いてしまっている様子が描かれる。

牽制し合うキャピタル・アーミィの二人の首脳

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一方で、キャピタルの中でも好戦的な勢力であるキャピタル・アーミィ。
この組織の中心人物は、創設者であるクンパ・ルシータ大佐と
現場の指揮を執るジュガン・マインストロン司令。

この二人も会話を聞いている限り、一枚岩ではなく
お互いが牽制し合っているようにもみえる。
以下、今回の戦いが終わった後の会話を見てみよう。

ジュガン「マスクの部隊はまだチームワークができていないようですな」
クンパ「いきなり両面作戦を押し付けたのは祟りましたな」
ジュガン「祟りましたか」
クンパ「ガランデンにはザンクトポルトへ上がれと命令を出しておきました」
ジュガン「宇宙からの驚異から法皇を守るためですな」
クンパ「無論そうです」

この会話で、マスク部隊の管轄はクンパ大佐にあることがわかるが、
クンパ大佐はジュガン司令の作戦内容に釘を刺し、
一方のジュガン司令はクンパ大佐にマスク部隊の練度の低さに釘を刺し、
お互いに牽制し合っているようにも見える。

この二人も、同じ勢力に属しているとはいえ一枚岩ではないように描かれる。
特にクンパ大佐は9話で地球人自体を批判する発言をしている面も含め、
その真意は未だに測りかねる部分が強い。

この創設者クンパ大佐と現場指揮官ジュガン司令の関係は、
「機動戦士Zガンダム」のジャミトフ准将とバスク大佐に近いのかもしれない。

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ティターンズの創設者であるジャミトフ、そして現場指揮官のバスク大佐。
特に「機動戦士Zガンダム 劇場版」では、ジャミトフがバスクの自分の意向を
無視した行動を次々に起こし、組織が一枚岩ではないことが描かれていた。
その為にジャミトフはバスクの対抗馬としてシロッコを抜擢し、
その結果、ティターンズがさらに分裂し崩壊する結果が描かれた。

まだクンパ大佐とジュガン司令が対立を起こしているわけではないが、
お互いに牽制し合っている点で、この二人がどう動いていくのかも見ものだ。

各国の首脳は二人という傾向

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そしてキャピタルの勢力には、法皇とウィルミット長官がいる。
こう見ると、各勢力には二人の首脳で成り立っていることがわかってくる。

キャピタル・アーミィ=クンパ・ルシータ大佐・ジュガン司令
キャピタル=法皇・ウィルミット長官
アメリア=ズッキーニ大統領・スルガン総監

そして直接的には描かれていないが、
ウィルミット長官と法皇の考え方もまた違うのだろう。

こう見ると、各勢力が交戦的な派閥と穏健的な派閥に
分かれていく様子が描かれているようにみえる。

交戦派の盛り上がる現場

そんな各国が二つの派閥に分かれていく中で、
その好戦的な派閥の現場では、士気旺盛な兵士の姿、
特にエースパイロットが各兵士を鼓舞する姿が描かれる。
 
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※連敗の汚名を注ぐと宣言し、マスク!マスク!と連呼されるマスク大尉

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※手柄を立てミック・ジャックの姫になれと兵士を鼓舞する天才クリム

キャピタルの交戦派アーミィの下で、兵士を鼓舞するマスク。
アメリアの交戦派ズッキーニ大統領の下で、兵士を鼓舞するクリム。

交戦派の兵士が戦いたがっている姿が描かれる。
上官が戦争をしたければ、下士官も戦争をしたい姿が描かれる。
こうした姿をみると戦争がより激化しているように感じてしまう。

そんな交戦派同士が戦い始める事で、
戦争を起こしたくない穏健派も戦いに向かわざるをえない
という構図を描いたのが今回の11話だったのではないだろうか。

戦争は各勢力が混沌化する中で激化する

一旦、各勢力をまとめてみよう。

アメリア交戦派:ズッキーニ大統領、クリム、ミック
アメリア穏健派:スルガン総監、ドニエル艦長、アイーダ、ベルリ(ノレド・ラライア)

キャピタル:法皇、ウィルミット長官
キャピタル・アーミィ:クンパ大佐、ジュガン司令、マスク、バララ、マニィ
キャピタル・ガード:ケルベス


今回11話は各勢力が一枚岩ではない状況から、
各勢力の交戦派同士が戦いあっていくことで、
より戦争が激化していく様子が描かれていたと思う。
それはサブタイトルの「突入!宇宙戦争」という
次に「突入」しているのだという意味からでもわかる。

今までの「Gのレコンギスタ」では、戦争が起こっている、激化する様子を
各勢力のモビルスーツの発展、軍事力の増大によって描いていた。
そして今回は各勢力の派閥が明確になり、特にアメリアの首脳の考えが食い違いもあり
混沌化する政情の中で、戦争の舞台は宇宙にまで激化する様子が描かれた。

こう考えると、戦争が起こるのは一枚岩な国家勢力が起こすものというより
各勢力が混沌化した情勢を迎えて起きてしまうのかもしれないのではないだろうか。

ただ富野監督がハンナ・アーレントの「全体主義」を新作で描くと明言している以上、
最終的には、いずれかの組織が一つの考えに収束して戦争を起こすという
描き方をするのかもしれないが、それは次回以降の展開次第。

まとめ

「Gのレコンギスタ」は戦争がどう起こるのかを丁寧に描いている作品だと思う。
そんな中で、ベルリがどう考えてどう立ち向かうのかを描く作品でもあるのだろう。

今回は斧谷稔こと富野監督と寺岡巌さんの連名コンテ。
寺岡さんは戦闘シーンを中心にやっていたと思う。

そして前回の荒木哲郎さんのコンテと比較すると、
10話の荒木哲郎さんコンテは画面の情報量を整理して見せているのに対し
富野コンテは画面に情報をできるだけ巡らせて
引っかかりと違和感をとにかく絨毯爆撃のように与えてくる。
富野監督は視聴者に引っかかってほしい思いが伝わる。

そういう意味で「Gのレコンギスタ」は伝えることを大事にしている作品だと思った。
 
おまけ

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高笑いする二人。
どちらも自信満々な態度を取るこの二人の親子は似たもの同士だとわかる笑い方だった。
 
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[ 2014/12/07 07:14 ] Gのレコンギスタ | TB(12) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」10話のヘルメット演出―荒木哲郎による進撃のレコンギスタ 

「Gのレコンギスタ」10話を視聴。

荒木哲郎さん絵コンテ・演出回のWIT STUDIOグロス回。
グロス回とはいっても、進撃の巨人を支えた精鋭スタッフ勢揃いなので
いわゆる只のグロス回ではない。

むしろWIT STUDIOがサンライズにクオリティ合戦を
仕掛け殴り込みをかけるようなものであるという認識。
ただこうした各社ごとで競い合っていく様を見るのは、
見ている側としては楽しい。

11/28日に始まった「Gレコ」のラジオ、
「Gのレコンラジオ」に出演した小形プロデューサーも
WIT STUDIOグロス回の出来栄えに悔しさを覚えると話していた。

特に荒木哲郎さんという若い才能が「Gレコ」に加わることで
「Gレコ」に新たなシナジーが生まれたような出来栄えだった。

「Gレコ」10話のヘルメット演出

さて荒木哲郎さんは、富野監督の作品や
富野作品に流れる本気さが好きだったようで、
今回の10話でもその富野監督らしさをすくい上げるような演出が見られた。
それは、ベルリとノレドの頭がぶつかる時の演出。

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ベルリはヘルメットを被っているが、
ヘルメットをしていないノレドの頭がヘルメットにぶつかってしまう。
この描写には頭がぶつかるぐらいに二人の親密性は高いという意味があるが、
それでも二人にはちょっと引っかかってしまうもの(ヘルメット)がある。
二人の絶妙な距離感を描いている。

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そんなヘルメットでできてしまう距離感を生み出すのは、
ベルリの想い人であるアイーダであろう。

富野作品とヘルメット

こうしたヘルメットを物語の作劇で使うのは、富野作品ではよく見られる。

特にヘルメットをしないまま戦うキャラ(シャアとか)が富野作品には出てくるが、
これはキャラクターの余裕や油断の表現であり、
普段ヘルメットをしないキャラがヘルメットを付けると、覚悟や本気の表現として描かれる。

特に富野作品における痛烈なヘルメット描写としては
「機動戦士Vガンダム」では主人公のウッソが抱えるヘルメットの中に、
死んでしまった母の首が入っている事が描かれる。

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首が入ったヘルメットを抱える重さと、キャラ全員が心痛な面持ちが
作画できちんと表現されている。


特に先ほど挙げた10話のベルリとノレドのシーンのヘルメット描写は、
「伝説巨神イデオン発動編」のコスモとカーシャがキスをしようとするが、
お互いのヘルメットに邪魔され、キスができないシーンを彷彿とさせる。

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こちらもまた、コスモとカーシャの距離感をヘルメットを使って描いたものである。
キスができない二人の距離間。これがこの時の二人の関係性。
そしてこの後二人は生きているうちでの最後のやりとりとなった。

ヘルメットは、キャラクターの距離感や心境を上手く伝えるアイテムなのだ。

「Gレコ」と「イデオン」の比較―ベルリ・ノレドとコスモ・カーシャ

荒木さんが「イデオン発動篇」のこのシーンを意識したかはわからないが、
二人の距離感をヘルメットで描くという、共に極めて近い描写になっていると感じた。

そして「Gレコ」と「イデオン」のこの二つを比べてみると、
ベルリとノレドの関係は、コスモとカーシャの関係に近いという事もわかってくる。
それはノレドは本命ではないっていうこと。

そうなると、コスモにとってのキッチ・キッチンは
ベルリにとって誰になるのかが気になってくる。ラライアなのかも。

まとめ

荒木さんのコンテでも、富野的カットインが使われ
さらにヘルメットの描写など、富野作品らしい演出も使われつつ、
また「進撃の巨人」で見せたような、巨大なものをきちんと巨大に描くという
ロボットアニメに必要な要素もきちんと描いていたのだと思う。

その意味でWIT STUDIOが「進撃の巨人」を手がけた後に、
ロボットアニメの「Gレコ」を手がけるのは「進撃の巨人」の方法論を
「Gレコ」に援用できる意味でも、良いタイミングだったと思う。
特にGセルフが装甲をパージして、敵MSにぶつける描写とか、
「進撃の巨人」でやったことを「Gレコ」で再現していた形だ。

「進撃の巨人」のアニも「Gレコ」のアイーダも嶋村侑さんという接点も面白い。

その意味では今回は「Gのレコンギスタ」というよりも
「進撃のレコンギスタ」という内容に相応しいともいえる。
 
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[ 2014/11/30 09:49 ] Gのレコンギスタ | TB(11) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」は違和感で出来ている-富野由悠季のレコンキスタ 

「Gのレコンギスタ」9話を視聴。

今回は「違和感」をキーワードに語ってみたい。

富野作品では、画面もしくは音響面においてあえて違和感を置くことで、
物語を停滞させないような工夫が施されている。

私がこの事を強く感じたのは、8話のマスク大尉ことルインとマニィの会話。

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お互いがお互いの事を知りながら、あえて知らないフリをしつつ会話するシーン。
ただ素性を隠しているからこそ、マスク大尉は本音も言える。
二人の仲の良さを違う形で表現した格好だ。
こういう「劇」を見せるのが、富野作品の醍醐味の一つだと思う。
今までのGレコの中でも屈指のシーンかもしれない。

しかし逆にいえばこうしたシーンはわざとらしいとも感じられるし
そこには「違和感」があるという見方もできると思う。
ただこうした違和感を感じさせるような、
キャラ同士の掛け合い、物語の進行、もしくは画面上・音響上を
あえて仕掛けることで作品を停滞させないようにしている。

音響面での違和感-ステア

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例えば音響面で本作に仕掛けられた違和感を挙げるとすれば、
ネイティブっぽい喋りをするステア。
今までの声優さんとは違う喋り方だ。
9話のステアはメガファウナがキャピタルに入るシーンで喋るわけだが、
独特のステアの声によって、違和感を感じるかもしれないが、
退屈させないシーンになっていると思う。

ステア役はミシェル・ユミコ・ペインさん。
この声を聞くためにGレコを見てほしいと言えるほど、面白い存在だ。

富野監督がTVブロスのインタビューで以下のように語っている。

「実はキーマンは"バイプレイヤー"の中にいます。この"バイプレイヤー"は、実はまだ役者さんが決定していないのですが(7/22現在)、絶対条件として、予定している役者さんが演じてくだされば"必殺のキャラ"になります!『G-レコ』のオーディション時に"この個性が欲しい"という役者に出会ったんです。だから、この"バイプレイヤー"だけは役者ありきでキャラクターを創らせていただきました。

出典:TVブロス2014年8月2日号


必殺のキャラ。なんとも頼もしいと思いつつ、放送前にこの記事を読んで期待した。

ただ、このバイブレイヤーはステアかどうかわからないが、
役者ありきでキャラが作られている点を見ても、
オーストリア生まれのハーフで褐色肌のミシェルさんがモデルで
ステアというキャラクターが作られている可能性はある。

何にしてもステアの独特な演技が、Gレコの世界を彩っている、
もしくはこの世界には様々な人種がいて、個性を持っている事を表現している。

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ステアでいえばドニエル艦長がステアの肩に手を回すシーンがあるが、
これも本編の作劇上の進行から見れば必要ないものとして、
違和感を覚えるのかもしれないが、それでもこうした描写があるのは
キャラクター同士の描写を描きたいのだろう。

画面上での違和感-9話ラストの大聖堂のシーン

画面上・もしくは本編の時間の使い方で違和感を挙げるとすれば
今回ラストの大聖堂のシーン。ベルリ達がキャピタルガードに連れられてからの
法王、ウィルミット、スルガン総督、クンパ大佐が映った後のシーン。

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(※9話)
カメラが大聖堂を下から上に登るかのように引いていくのだが
時間の間を感じさせるので、これもまた違和感を感じるシーンだ。

このシーンは1話のサブタイトル紹介後の大聖堂シーンと対比になっていると推察。

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(※1話)
このシーンはカメラが上から下に降りてくる運動をしている。

つまり1話では、この大聖堂の後に世界の中心にキャピタルと大聖堂があり、
キャピタルが運営している宇宙エレベーターとフォトンバッテリーが
世界の調和を象徴していると法皇が説明するという描写がされている。

逆に9話では、今までのキャピタル・アーミィの現状と月からの驚異の事実を踏まえ
さらに不安を煽るようなBGMと黒幕クンパ大佐の登場によって、
大聖堂及びキャピタルが世界の不安を象徴している描写になっている。

わざと描写時間を長めにとって、違和感を与えつつ、
違和感の先にあるキャピタルやスコード教の裏にある不安を描いている。

大聖堂内で起こるカメラの運動は宇宙エレベーターの軌道を表現したものでもあるが、
9話ではカメラが下から上へ運動している事はその運動方向の先、
つまり大聖堂の上にある月からの驚異がある事の予兆でもあるのだろう。

まとめ

富野作品には、視聴者にとって違和感を与えるような
キャラクターの物語や絵作りや音の入れ方がなされている。
しかしこうした違和感をあえて入れることによって、
作品を物語を停滞させない力の源になっているのだ。

そしてより大切なのは、富野監督作品は常に何かに対し
カウンターを入れて作品を作っているということ。

1stガンダムであればヤマト。
∀ガンダムであれば今までのガンダム。
といったように。
既存の作品、もしくは流行にカウンターを入れてくるのだ。

そして「Gのレコンギスタ」のカウンターの矛先は、
今のアニメもしくは過去のガンダムに向けられているのだろう。

このカウンターの表現のために、
今までとは違う物語の見せ方や声優を起用して「違和感」を振りまきつつ、
物語を劇的に進行させているのが富野作品といえるだろうし、
こうした既存の作品や価値観をカウンターをいれ、
ひっくり返す見せ方をしていくのが、レコンキスタ=再征服の意味ともいえるのだろう。
 
それはGレコがベルリの既存の価値観をひっくり返している展開でもわかる。
 
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[ 2014/11/22 06:46 ] Gのレコンギスタ | TB(10) | CM(2)

「Gのレコンギスタ」8話と宗教-ものを考えなくて済む側面としてのスコード教 

はじめに

「Gのレコンギスタ」8話を視聴。

今回、特に強く印象に残ったのは、宇宙船で脱出したウィルミット・ゼナムが、
天体観測によって月に驚異が迫っていることを知るも
自身が信じているスコード教の教えを唱えつつ、
まるで思考停止のようなヒステリックな態度を取ってしまうシーン。

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今回はヒステリックなウィルミット・ゼナムから
「Gのレコンギスタ」は何を描こうとしているのかを考えてみたい。

Gのレコンギスタと宗教

まず「Gのレコンギスタ」は、スコード教という宗教が重要な役割を果たしている。
それは1話のアバンが終わり、サブタイトルのコール後のカットは
スコード教の大聖堂内で法皇がスコード教の教えを話しているシーンに移り変わり、
次に大聖堂の外に画面は移り変わり、続いてキャピタル・宇宙エレベーターを見せる
という順番で世界を説明している点でわかる。

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※1話の大聖堂及びキャピタルの描写

つまり、まず本作の世界観、リギルドセンチュリーの世界には、
スコード教という宗教が存在し、その宗教の価値観を元にして、
宇宙エレベーターのような科学技術があるという見せ方を1話でしているのだ。

おそらくスコード教は宇宙世紀によって一度は死にかけた地球を再生させるために
生まれ発展した宗教なのだろう。そして行き過ぎた科学技術を抑制するために
スコード教は機能しているように描かれている。
そしてキャピタルはスコード教と宇宙エレベーターの両輪にして成立している。

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※4話の「スコード」と叫ぶ直前のベルリ。

次に主人公のベルリが敬虔なスコード教徒であり、
4話の戦闘でカットシーに囲まれ危機に陥った時に
「スコード」と叫ぶなど要所要所でその敬虔な態度を見せる点にある。
主人公が何かの教えに帰依している作品は、私の中では珍しいと感じるし、
主人公が宗教を信じている設定は、何かしらの意味があるとも思う。

「ものを考えなくて済む」側面としての宗教

富野由悠季監督はハンナ・アーレントを引き合いに出して宗教を以下のように語る。

僕は去年の暮れ押し詰まって、ハンナ・アーレントという政治哲学者を紹介した本を読みました。読んで驚きました。17世紀、ルネサンスまでの人類のほとんどが、ものを判断し、決定することができない人の集まりだったとあったたためです。
(中略)
17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
宗教を信じていれば考えることなく生きていける。
もしくは生きていける時代があった。
これが私は本当なのかはわからないが、
少なくとも富野由悠季監督はこの意見に納得しているようでもあり、
それ以上にポイントなのは、こうしたハンナ・アーレントの考えを
新作アニメで表現したいと表明していることだ。

この事を踏まえて上記の引用「ものを考えなくて済む」という点から8話を考えると、
「ものを考えなくて済む」態度を取ったキャラとして、
月の天体観測を見てヒステリックになった
ウィルミット・ゼナムが挙げられるのではないだろうか。

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息子に会いたい一心で、宇宙船で単身飛び立ったのは、
「ものを考えている」という事を感じさせるが、
月からの脅威が訪れているということに関しては、
事実を突きつけても思考停止のような「ものを考えなくて済む」態度を見せる。

このウィルミット・ゼナムから感じられるのは
自分が信じている、もしくは自分の中の宗教の価値観以上の事が起こると
人は「ものを考えなくて済む」態度を見せることにある。

歴史を振り返れば地動説を唱えたガリレオ・ガリレイに対して
人々は「ものを考えなくなくて済む」態度を取り彼を迫害した。
こうした宗教を信じる事で起こってしまう人の有り様を
「Gのレコンギスタ」の8話では描いているように感じた。

そしてこうしたスコード教の教えも、
実は真実から目を逸らさせる為にあるのかもしれないとも思った。

まとめ

おそらく宗教を全否定する為に描いているわけではないが、
一方で宗教によって考えが狭まってしまい、
物事が見えなくなっている事の弊害を本作は描いている。

ポイントなのは、同じスコード教の敬虔なベルリは母親の態度に対して
「母さん落ち着いて」となだめている事。
ベルリはより客観的に物事を見ているのだろう。
それは海賊部隊にいる期間が長くなったことで、
キャピタルとアメリアの双方の思惑を感知できているからなのかもしれない。
その点でベルリは若く柔軟な思考を持っているのだろう。

最後に「ものを考えなくて済む」ということについて。
私はウイルミット・ゼナムの態度を「ものを考えなくてて済む」態度と感じたが、
では私が「ものを考えている」のかと聞かれれば、全く自信がない。
「ものを考えている」とはどういうことであり、どういう態度なのか。

「Gのレコンギスタ」ではベルリを通して、
この辺りをどう描くのかにも期待して見ていきたい。
 
何にしても息子に会いに宇宙からやってくる母親の元気な姿は、
見ていて気持ちがいいものだった。
 
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[ 2014/11/15 21:59 ] Gのレコンギスタ | TB(12) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」と全体主義-状況に流される人達の物語 

はじめに

「Gのレコンギスタ」7話を視聴。

「Gのレコンギスタ」で気になっていたのは、
富野由悠季監督がここ数年語っていた「全体主義」について、
Gレコでどうこの事が反映されているのかどうか。

今回は「Gのレコンギスタ」と「全体主義」及び「独自で判断できる人」について考える。

※全体主義とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想・政治体制の一つ。この体制の国家は、通常一人の個人や一つの党派や階級によって支配される。その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるシステム。全体主義の例としてドイツのナチズムが挙げられる。

富野由悠季監督とハンナ・アーレントと全体主義

富野由悠季監督は政治学者:ハンナ・アーレント及び彼女の「全体主義」を
インタビュー等で何度も言及してきた。

富野「2008年に知ったということは今も勉強中で、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は今読んでいる最中です。ですからまだ全容は分かっていませんが、少なくとも彼女のものの考え方のロジックを一般化するために、アニメという媒体はとても便利だと、ようやく理解することができるようになりました。つまり、「アニメという表現媒体は時代性に支配されずに、コンセプトを伝える媒体なのかもしれない」と明確になったわけです。」

出典:ガンダムは作品ではなく“コンセプト”――富野由悠季氏、アニメを語る(後編) (4/4) 誠

35周年に向けて、次はハンナ・アーレントの言葉を背負った上で『新ガンダム』を作る気にもなってます。

出典:ニュータイプ2009年5月号「ファーストの見た30年間」
 
17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。

出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
 
他にも、ハンナ・アーレントとその著「全体主義の起源」
及び「全体主義」について事あるごとに語ってきた。

この富野由悠季監督の考え、「全体主義」について
「Gのレコンギスタ」にどう反映されているか見えづらかった。

「純粋培養」されたエリートとベルリ達キャピタルガード候補生達

そしてもう一度、富野監督の発言や文章を洗い出してみたら、ヒントになる資料を見つけた。

太平洋戦争を仕掛け、国民にこの上ない辛苦を経験させた軍部の参謀たち、その組織は現代日本の官僚機構とピタリ重なるのだ。日清・日露の「成功体験」で頭でっかちになり、現場を無視して無茶な作戦を命じ続けたあげく、国を破滅に導いた東京の参謀本部。僕には、かつての高度経済成長の夢に酔いしれるばかりで、アメリカにいいようにあしらわれ、台頭著しい中国には打つ手なしといった風情の官僚たちが、その生き写しのように見える。両者がかくも似た精神構造を持つ要因を調べると、そこに教育の問題が横たわっていることが分かった。
(中略)あそこまで無謀な戦争を止められなかったのは、なぜなのか? その疑問を調べていくうちに、日露戦争以降の軍人養成システムに行き着いた。陸軍の場合、高等小学校卒業者を幼年学校に迎え入れていた。まだ12、3歳の子どもに、軍人「エリート」教育を施すのだ。やがて彼らは、優先的に陸軍大学校に入学を許され、幹部になっていく。参謀たちのキャリアを調べると、ほとんどがこうして「純粋培養」されたエリートだったのである。
 
中央公論10年9月号 富野由悠季「戦争を語る言葉がない時代を憂う」 シャア専用ブログ@アクシズ

この記事は「日本のいちばん長い夏」に出演した富野監督が
戦争に負けた原因を自分なりに調べた結果、
「純粋培養」されたエリートで締められた閉鎖的な組織である軍部に原因を求め、
引いては今の高学歴エリートの集まりである今の官僚組織にも共通していると指摘する。
このエリート組織の有り様が戦争を引き起こす「全体主義」を生み出してしまうのだろう。

この純粋培養されたエリートについて。
これが「Gのレコンギスタの世界」でいえば
実はベルリ達、キャピタルガード候補生のことではないかということに気づいた。

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※1話のナットに乗り込んで宇宙に向かうキャピタルガード候補生達の姿。

候補生達はおそらく「純粋培養」な存在だろう。
それはベルリがアイーダの宇宙海賊部隊(アメリア)に連れて来られてから、
キャピタル・アーミィの軍拡路線など自分が知らない事を知る点。

アイーダからエネルギーと技術独占を行っているキャピタル、
及びベルリが信じるスコード教の姿勢を批判されている点。
キャピタルガード候補生達は自分達の世界のことしか知らない存在なのだ。

おそらくベルリがアイーダと出会わなければ、
そのまま流されるようにキャピタル・アーミィに配属されていたのかもしれない。
ただアイーダと出会い惹かれ、ベルリが彼女に特に考えもなしについていったことで、
結果的に、自分が知らない世界を知っていくことになる。

こう見るとベルリは大局的な観点から見れば何も考えずに、
感情に赴くまま、スコード教の教えに従ったまま行動していると感じる。

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一方で、マスク部隊はGセルフ捕獲と海賊部隊撃退を目標にしている。
一見彼らは考えているようにも見えるが、
しかし彼らはキャピタル・アーミィがやっている軍拡路線に疑問を抱かない。
それは組織内に属しているからそんなことを考えもしない、いやできないのだ。

独自で判断できる人々はごく限られた人しかいない

政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」
出典:宮崎駿は作家であり、僕は作家でなかった―富野由悠季氏、アニメを語る(前編) (3/3)

富野監督はハンナ・アーレントの言葉を引用して以上のように語るが、
つまりキャピタル・ガード、キャピタル・アーミィのような「純粋培養」されたエリートは、
実は何も考えていない、独自で判断できていないという事にも繋がるのだ。

それはキャピタル・ガード内にいた最初のベルリも同じであり、
キャピタル・アーミィのほとんどの人間も同様だと思う。
※クンパ・ルシータ大佐は例外かもしれないが、これもまだわからない。

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一方でキャピタル・アーミィの路線に疑問を抱き続けたのが、
今回大活躍のベルリのお母さん、ウィルミット・ゼナム長官。
彼女は敬虔なスコード教徒である点から、
いやそれ以上にベルリに会いたいから、宇宙船に乗って外へ出てしまった。
この行動を見る限り、彼女は「独自で判断できる人」なのかもしれない。

一方で上記の引用の中には「教義を信じるということは、ものを考えなくて済む」
とも指摘しているので、彼女も「独自で判断できる人」なのかはわからない。

ただ素朴に息子に会いたいという気持ちは
「独自に判断できる人」に足ると私は見ている。

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またアイーダ側、宇宙海賊側=アメリアもまた独自で判断できているかはわからない。
それはアイーダが新型のアーマーズカンを見て、強力な兵器に疑問を持ったから。
彼女には、エネルギーと技術を独占するキャピタルとスコード教を批判し
大義があるようにも見えるが、それが「独自で判断」かとは別のような気もする。

クリム・ニックにも、考えがあるような態度は見られない。
こう考えると「Gのレコンギスタ」の世界の登場キャラクターは現状では総じて
「独自で判断できる」という段階に至っていないのではという感じに見えるし、
状況に振り回されて動いている人々達の物語に見えてしまう。

Gのレコンギスタの物語は独自で判断できない人々の物語

本作のキャッチコピーは「自分の目で確かめろ」である。
これは組織の体質に流されず自分の目で確かめ、独自で判断できるように
なっていてほしいという富野由悠季監督の願いでもあるのだろう。

私の中では、キャピタル・アーミィもアメリアも両者の主張や目的によって、
なし崩し的に軍拡路線を突き進んで、それが宇宙世紀で起こったような
悲劇の戦争に突入しているようにも見える。

そしてキャピタル・アーミィ側にもアメリア側にも、組織内に戦争を起こさないように正す
ハンナ・アーレントのいう「独自の判断ができる人々」が少なく、
また純粋培養されたエリートの硬直した組織が「全体主義」的になり
戦争を引き起こしてしまう話を「Gのレコンギスタ」は描こうとしているのかもしれない。

ただベルリは、そんな中でもキャピタルガードという組織から出て
世界の別側面を知った点を見ると、自分の知らない外へ出てみるというのが
諸問題を解決する一つの処方箋なのかもしれない。
※キングゲイナー的にいえば「エクソダス」。

またベルリの母、ウィルミット長官がベルリに会いにいきたいという
素朴な気持ちも「全体主義」に抗するものとして大事なのかもしれない。

まとめ

組織の悪癖と業を描き続けてきた富野由悠季監督。
「Gのレコンギスタ」では、状況に振り回されながら生きていく人々が
それでも「独自に判断できる」ように「戦争を起こさないようにする」
「千年生きていくための世界」の軌跡を描いた作品だと私は思う。

そんな想いを、ユーモアとリアルは地獄という両極を交えつつ描いた作品だと思う。
 
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[ 2014/11/08 08:27 ] Gのレコンギスタ | TB(13) | CM(0)

「Gのレコンギスタ」6話の「映像の原則」-ベルリとデレンセンの上手下手 

はじめに

Gのレコンギスタ6話を視聴。

サブタイトル名、そしてEDの絵を含め、
デレンセンが死ぬとは予想されていたが、
実際に死ぬシーンは衝撃だった。

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デレンセン「何で避けたんだ」
ベルリ「はい。常日頃、臨機応変に対処しろとは大尉殿の教えであります。」

※1話でのデレンセンとベルリの会話

1話ではデレンセンの仕置を避けるベルリの描写があったが、
今回6話のデレンセンとベルリの戦いの結末が1話のこの描写の再現となったからだ。

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デレンセン「ベルリ候補生だったか」
ベルリ「デレンセン教官殿」

避けて相手の懐に飛び込む、Gセルフの動きにベルリを感じ取ったデレンセン。
そしてエルフブルの動きに、同じようにデレンセンを感じたベルリ。
本編中では描かれない、二人のやりとりが、この一瞬に詰まっていた。


さて、ベルリが殺してしまったカーヒルとデレンセン。
この二人は画面的にある共通点がある。

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※2話 Gセルフ(ベルリ・左)とグリモア(カーヒル・右)

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※6話 Gセルフ(ベルリ・左)とエルフブル(デレンセン・右)

この共通点とは、Gセルフ(ベルリ)が画面左側から、
画面右側にいる敵(カーヒル・デレンセン)を倒していることだ。

この位置関係の意味を富野由悠季流「映像の原則」的に読み解いてみたい。

「映像の原則」にみる、ベルリとカーヒル・デレンセンの位置関係

まずこの位置関係を見るために、下記図を参考にしたい。

greko6-3000.jpg
参考:落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』(HIGHLAND VIEW)

これは「映像の原則」を上手・下手の要素に絞った図であるが、
このベルリ(左=下手)、敵(右=上手)の関係を上記図で見るならば
ベルリ=弱者、敵=強者という見方で捉えるのが自然だろう。
カーヒルとデレンセンはベルリ以上にベテランパイロットであるのだから。

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※1話 Gセルフ(アイーダ・左・下手) レクテン(ベルリ・右・上手)

また、1話のアイーダとベルリの戦闘では、
アイーダが左=下手、ベルリが右=上手にいたので、
上記の理論でいえばベルリの方がアイーダより強者だ。

このベルリとアイーダの関係を含めるとより
ベルリに対して、上手に位置したカーヒルとデレンセンは強者だったのだ。

さらに振り返れば、1話のベルリとデレンセンのシーンでも、
ベルリが左・下手、デレンセンが右・上手に位置している事も
今回の位置関係も含めた伏線でもあるのだ。

今の所は、Gセルフの性能に助けられている面も強く(もちろんベルリも強い)
性能差で強敵に打ち勝っている面もあるが、
ベルリを下手に置くことで、弱者が強敵を打ち破っているような印象を与えている。

EDにおける「映像の原則」

さて、そんなカーヒルとデレンセンを殺したベルリだが、
EDの絵は、ベルリがカーヒルとデレンセンを背負って生きていく事なのだろう。

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そして私が大事だと考えるのは、
本編中では上手・下手に対峙して戦っていた3人であるが、
EDは同じ方、左側を向いている。
これは未来を志向する意味合いがあるのだろうと私は感じる。

まとめ

あくまで、この上手・下手に関しては、私が感じた事でしかないが、
カーヒルとデレンセンが上手にいたのは意味があるのだろうと私は思う。

2話でベルリがカーヒルを殺した時は、最初は自分が殺していない感覚だったが
徐々に殺した実感をアイーダの叫びを通して感じていたようだ。
そして今回デレンセン大尉を殺した時は、今までの二人の身体的なやり取り
がリフレインされて、殺したことを本能的に実感する。
この描き方は上手いと言わざるを得ないだろう。

二人の死は、ベルリを確実に変化させていくだろう。
そして宇宙に来てベルリは何を知るのか。今後に期待したい。
 
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[ 2014/11/01 20:23 ] Gのレコンギスタ | TB(13) | CM(0)

「四月は君の嘘」のOPと「Gのレコンギスタ」のEDに共通する止め絵の魅力 

「四月は君の嘘」のOPの出来栄えに感動した。

鮮烈な光と色彩
楽譜をかたどったイメージBG
メロディとダイナミックにシンクロするカット割り

どれも全てが素晴らしいハーモニーを醸し出している。

そんな中でも「四月は君の嘘」のOPで印象に残ったのは止め絵の使い方だ。

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サビが流れる部分での、この二つの止め絵で繋ぐカット割りはすごく気持ちいい。

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この二つの止め絵に関しては、
まず上の止め絵のカットは、下から上へと勢いよくカメラが動いて
次のカットは左から右にカメラがゆっくりと動く。
縦運動のカットから横運動のカットで繋ぐのが気持ちいい。

アニメの魅力の一つは、こうした止め絵を上手く使うことで、
絵を動かさなくても、心は動かされる感動を味わえることだ。


そんな止め絵を効果的に使った映像がもう一つ。
「Gのレコンギスタ」(以下Gレコ)のEDだ。

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キャラクターの屈託のない笑顔は見ていて気持ちいい。

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このアイーダの表情は本当に好き。
歌詞通りの「前を向いて やってみる」感が伝わってくる。

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マスクのこの不気味な表情もなんか心地よい。

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そしてGレコとEDの見せ場は、
「Gのレコンギスタ~」の歌詞と共に、
男女の主要キャラ達が足を上げる止め絵のカット。
この絵を見ているだけで、幸せになれる。

GレコのEDは、ほとんどのカットが作画では動かない。
(※最後にGセルフが動くぐらい)
スライドや、カメラを動かす、雲といった背景を動かす事で
動いている感じを演出している。

そんなGレコのEDはカメラの動くスピードより、雲が動くスピードの方が速い事、
またカメラが動かないカットは、手前から奥に雲を動かす事で躍動感を生みだしている。

そしてGレコのEDは、作詞者がコンテを切るので、
作詞をしながらその先のコンテも想定し、映像を作っているのだろう。
その為に映像と詩のシンクロ性が高い。

対して「四月は君の嘘」のOPは、GレコのED以上に作画で動かすカットが多い。
動かすカットと、止め絵で見せるカットの緩急の使い方がハッキリしている。
こちらのOPは、メロディと映像のシンクロ性が高い(気持ち良い)

まとめ

どちらのOPもEDもそれぞれに止め絵の魅力を引き出した映像に仕上がっている。
これらが成立するには、上手いアニメーターさんの絵があり、
そのアニメーターさんの絵を引き出す演出家さんの腕があるからだろう。

アニメは動いてこその表現でもあるのだが、
映像の繋ぎ方や、音楽とのシンクロ、何より絵の力そのもので
いくらでも魅力的に映し出すことができるのだと思う。
 
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[ 2014/10/30 21:38 ] Gのレコンギスタ | TB(1) | CM(0)

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