「劇場版魔法少女まどかマギカ-新編 反逆の物語」を鑑賞。
TVシリーズのまどかマギカに続く新しい物語として面白かった。
TVシリーズではいきつくところまで物語を描いたように感じたが、
映画ではTVシリーズのその先の物語が描けたという点に感動した。
※ネタバレ要素が多いので、本編を未見の方はご注意ください。
暁美ほむらは何に反逆したのか
副題に「反逆の物語」とあるが、反逆したのは暁美ほむら。
反逆する対象は、まず自分自身で作り出した妄想的な閉鎖世界であり、
その次に円環の理と言われる鹿目まどか、
そして鹿目まどかが書き換えたあとの世界だ。
これは暁美ほむらが自分にとっての鹿目まどかを取り戻す戦いでもある。
他のキャラクターが、世界がどうなろうとも、おかまいなし。
そんな暁美ほむらを描くために、
本作では円環の理を象徴すると思われる円/円状のモチーフが多用される。
繰り返される円環の理を象徴する円/円状のモチーフ
本編映画のファーストカットを思い返してみたい。
ファーストカットは暁美ほむらのソウルジェムが
螺旋を描くように運動を行い、画面の奥底に沈んでいくが
この描写は円環の理を象徴するものであり、
この作品はまず円環の理の世界であるというの意思表示なのだろう。
本作では、他にもまどかが書き換えた円環の理の以降の世界であることが強調される。
例えば物語の最初、登校時にまどかとさやかと杏子が登校するシーン。
さやかと杏子が軽い感じで言い争い、
さやかと杏子がまどかの周りをぐるぐるまわる描写があるが
これは、さやかと杏子が描く運動線が円環なものとして描かれている。
何よりその中心にいるのが、まどか(要の円)である点において円環の形成を成している。
また何度か描写される、巴マミが使う円状のカップ。
ほむらとマミがガンカタ風味な銃撃戦時の、
お互いがぐるぐる回ることで生じた円状の運動線。
ナイトメアに止めを刺す時に行われた「魔法少女のお茶会」での
テーブルとぐるぐる周りながら連想ゲームみたいなものを5人で行うシーン。
これが一番円状モチーフとして意味合いが強かったのかもしれない。
日常シーンや、バトル、オブジェという様々な所で
円もしくは円状のモチーフが使われている。
この円状モチーフは、幸せな状態という意味が多分に強く、
一方で実はほむらが作った、閉じた世界の閉塞感も表現している。
こうして暁美ほむらの反逆の対象である
円環の理(その先にあるアルティメットまどか)をモチーフとした描写を積み重ねることで、
最終的には円環の理=まどかを書き換える事に繋げているのがわかる。
特に世界がほむらによって書き換えられた世界で、
ほむらが見上げた先に半分に欠けた月が描かれるシーンがある。
これこそ円環の理から円が壊れた世界の象徴、反円状の象徴であり
まどかが最後に感じた違和感そのもの、引き裂かれたまどかを象徴しているともいえる。
円環の理の世界から円環の理とは違う世界へ…
これを円状のモチーフを積み上げた後に
反円状のモチーフを使う事で描写しているのである。
円環の理の中では居心地がよかったであろう世界を書き換え、
ほむらもまどかも、円環の理ではない反円的な世界で
今までより居心地が悪い世界で生きていく。新編はそんな物語なのかもしれない。
解釈を委ねる物語 ビジュアルで語る作品
TVシリーズが言葉で物語を一切合切説明した作品であったのに対して
劇場版新編は描写の説明に関しては省くところは徹底的に省き、
不明瞭な部分を多く残したまま描いたように見えた。
これはTVシリーズよりレベルが上がっている映像の力とのバランスを考えて
言葉で説明するより、まずは映像で見て解釈は観る側に委ねようとしたのかもしれない。
または、劇場やBD等で2回見てほしい事を前提に作られたのかもしれない。
いずれにせよ、暁美ほむらと巴マミのガンカタを彷彿とさせる銃撃戦、
劇団イヌカレーのビジュアル、
少女達に優しくない禍々しい都市空間、
以上のようなものが圧倒的な描写力で描かれ、映像的に圧倒していた。
幻想的な空間、アイディアが詰まった空間、絵を見ているだけでも、面白い作品だ。
満たされない物語としての魔法少女まどかマギカ劇場版 新編
虚淵玄さんが、パンフレットのインタビューで
これを手がかりにして様々な人が新しい物語をつくってもらえればうれしいですね。
と語っている。
私も映画を観た後の直後、最後から続きがあるのかが気になってしまった。
神のまどか。悪魔となったほむら。
二人が戦うのか、それとも別の展開があるのか。
今後の展開を観る側に想像させる力を持った作品である
こうした想像力を働かせる余地がある作品は、
想像する楽しさがあるといえると同時に、
満たされないものでもあるといえるのかもしれない。
それは特に劇場版で中心的な役割を果たす暁美ほむらが
満たされようとしつつも、一方でも満たされていないように見えるし
それが物語としても満たされない、満たさないように作られていることにも繋がってくる。
この満たされなさは、本作の宿命なのかもしれない。
それは
暁美ほむら自身が、満たされる円環の理の世界から、
満たされないであろう反円環の理の世界に書き換えたのだから。例えるなら、溢れ出すコップの水のように、溢れ出す感情のように
いつまでも満たされない想いのようにまどかマギカは作られている。
旅行に行く時は、目的地を決め、準備をする時が楽しいものであるが、
物語も実際に作られたものを観るより、作られる以前で色々言っているのも楽しいものだ。
特に暁美ほむらに関して描ききった物語であるが、一方で寸止めの物語でもあるからこそ、
まどかマギカは観る側の想像力というフィルターを大いに刺激する。
その刺激の仕方が、多くのファンに支持された作品になっているのかもしれない。
劇場版新編後の物語が作られるのかどうなのか。
今はただ、新編の物語をまた見返したい気持ちでいっぱいだ。
おわりに
まどかマギカは一人の天才が作り上げた作品ではなく、
新房昭之さん、虚淵玄さん、蒼樹うめさん、梶浦由記さん、劇団イヌカレーを中心にした
奇跡的なスタッフワーク/スタッフ間の相乗効果があってこそできた作品だと思っている。
今回の劇場版でも、このスタッフワークに支えられつつ
エフェクト作画監督の橋本敬史さんやデザインの泥犬さんが参加したことで
ビジュアル面でのパワーアップがきちんと感じられた仕上がりだった。
一人の力ではなく、みんなの力で作られた作品を観るのは楽しいし面白い。
まどかマギカはスタッフワークの面白さを教えてくれる作品だ。
<参考>
「劇場版 魔法少女まどかマギカ 新編 反逆の物語」は「コゼットの肖像」の別の可能性なのか※追記
1話を見返した。
劇場版冒頭のまどかが悪夢から覚めて、
朝起きてからのお母さんとの歯磨きからの登校までのシークエンスが
レイアウトや台詞まわし含めて、1話冒頭と同じように作ってある。
ただ劇場版ではまどかと一緒に登校するのがさやかと杏子だが
TV版1話では杏子ではなく、仁美である。
その後の、クラス内のシーンやまどかとほむらが一緒に校内を動くシーンも
台詞内容や見せ方も1話を踏襲して劇場版は作られている。
世界のループ性、やり直し性が伝わってくる演出である。
劇場版を見た後に、1話から見直すもの面白いのかもしれない。