はじめに
「Gのレコンギスタ」7話を視聴。
「Gのレコンギスタ」で気になっていたのは、
富野由悠季監督がここ数年語っていた「全体主義」について、
Gレコでどうこの事が反映されているのかどうか。
今回は「Gのレコンギスタ」と「全体主義」及び「独自で判断できる人」について考える。
※全体主義とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想・政治体制の一つ。この体制の国家は、通常一人の個人や一つの党派や階級によって支配される。その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるシステム。全体主義の例としてドイツのナチズムが挙げられる。
富野由悠季監督とハンナ・アーレントと全体主義
富野由悠季監督は政治学者:ハンナ・アーレント及び彼女の「全体主義」を
インタビュー等で何度も言及してきた。
富野「2008年に知ったということは今も勉強中で、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は今読んでいる最中です。ですからまだ全容は分かっていませんが、少なくとも彼女のものの考え方のロジックを一般化するために、アニメという媒体はとても便利だと、ようやく理解することができるようになりました。つまり、「アニメという表現媒体は時代性に支配されずに、コンセプトを伝える媒体なのかもしれない」と明確になったわけです。」
出典:ガンダムは作品ではなく“コンセプト”――富野由悠季氏、アニメを語る(後編) (4/4) 誠
35周年に向けて、次はハンナ・アーレントの言葉を背負った上で『新ガンダム』を作る気にもなってます。
出典:ニュータイプ2009年5月号「ファーストの見た30年間」
17世紀までの人たちはどうやって生きてきたか。ハンナ・アーレントは簡単に回答を出しています。物事を信じて生きてきたんです。信じるだけで17世紀の間、歴史を作ってきた。このことの意味を考えてください。だから、人類には宗教が必要だった。教義を信じるということは、ものを考えなくて済む、信じれば済むということ。
出典:「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞
他にも、ハンナ・アーレントとその著「全体主義の起源」
及び「全体主義」について事あるごとに語ってきた。
この富野由悠季監督の考え、「全体主義」について
「Gのレコンギスタ」にどう反映されているか見えづらかった。
「純粋培養」されたエリートとベルリ達キャピタルガード候補生達
そしてもう一度、富野監督の発言や文章を洗い出してみたら、ヒントになる資料を見つけた。
太平洋戦争を仕掛け、国民にこの上ない辛苦を経験させた軍部の参謀たち、その組織は現代日本の官僚機構とピタリ重なるのだ。日清・日露の「成功体験」で頭でっかちになり、現場を無視して無茶な作戦を命じ続けたあげく、国を破滅に導いた東京の参謀本部。僕には、かつての高度経済成長の夢に酔いしれるばかりで、アメリカにいいようにあしらわれ、台頭著しい中国には打つ手なしといった風情の官僚たちが、その生き写しのように見える。両者がかくも似た精神構造を持つ要因を調べると、そこに教育の問題が横たわっていることが分かった。
(中略)あそこまで無謀な戦争を止められなかったのは、なぜなのか? その疑問を調べていくうちに、日露戦争以降の軍人養成システムに行き着いた。陸軍の場合、高等小学校卒業者を幼年学校に迎え入れていた。まだ12、3歳の子どもに、軍人「エリート」教育を施すのだ。やがて彼らは、優先的に陸軍大学校に入学を許され、幹部になっていく。参謀たちのキャリアを調べると、ほとんどがこうして「純粋培養」されたエリートだったのである。
中央公論10年9月号 富野由悠季「戦争を語る言葉がない時代を憂う」 シャア専用ブログ@アクシズ
この記事は「日本のいちばん長い夏」に出演した富野監督が
戦争に負けた原因を自分なりに調べた結果、
「純粋培養」されたエリートで締められた閉鎖的な組織である軍部に原因を求め、
引いては今の高学歴エリートの集まりである今の官僚組織にも共通していると指摘する。
このエリート組織の有り様が戦争を引き起こす「全体主義」を生み出してしまうのだろう。
この純粋培養されたエリートについて。
これが「Gのレコンギスタの世界」でいえば
実はベルリ達、キャピタルガード候補生のことではないかということに気づいた。

※1話のナットに乗り込んで宇宙に向かうキャピタルガード候補生達の姿。
候補生達はおそらく「純粋培養」な存在だろう。
それはベルリがアイーダの宇宙海賊部隊(アメリア)に連れて来られてから、
キャピタル・アーミィの軍拡路線など自分が知らない事を知る点。
アイーダからエネルギーと技術独占を行っているキャピタル、
及びベルリが信じるスコード教の姿勢を批判されている点。
キャピタルガード候補生達は自分達の世界のことしか知らない存在なのだ。
おそらくベルリがアイーダと出会わなければ、
そのまま流されるようにキャピタル・アーミィに配属されていたのかもしれない。
ただアイーダと出会い惹かれ、ベルリが彼女に特に考えもなしについていったことで、
結果的に、自分が知らない世界を知っていくことになる。
こう見るとベルリは大局的な観点から見れば何も考えずに、
感情に赴くまま、スコード教の教えに従ったまま行動していると感じる。

一方で、マスク部隊はGセルフ捕獲と海賊部隊撃退を目標にしている。
一見彼らは考えているようにも見えるが、
しかし彼らはキャピタル・アーミィがやっている軍拡路線に疑問を抱かない。
それは組織内に属しているからそんなことを考えもしない、いやできないのだ。
独自で判断できる人々はごく限られた人しかいない
富野監督はハンナ・アーレントの言葉を引用して以上のように語るが、
つまりキャピタル・ガード、キャピタル・アーミィのような「純粋培養」されたエリートは、
実は何も考えていない、独自で判断できていないという事にも繋がるのだ。
それはキャピタル・ガード内にいた最初のベルリも同じであり、
キャピタル・アーミィのほとんどの人間も同様だと思う。
※クンパ・ルシータ大佐は例外かもしれないが、これもまだわからない。

一方でキャピタル・アーミィの路線に疑問を抱き続けたのが、
今回大活躍のベルリのお母さん、ウィルミット・ゼナム長官。
彼女は敬虔なスコード教徒である点から、
いやそれ以上にベルリに会いたいから、宇宙船に乗って外へ出てしまった。
この行動を見る限り、彼女は「独自で判断できる人」なのかもしれない。
一方で上記の引用の中には「教義を信じるということは、ものを考えなくて済む」
とも指摘しているので、彼女も「独自で判断できる人」なのかはわからない。
ただ素朴に息子に会いたいという気持ちは
「独自に判断できる人」に足ると私は見ている。


またアイーダ側、宇宙海賊側=アメリアもまた独自で判断できているかはわからない。
それはアイーダが新型のアーマーズカンを見て、強力な兵器に疑問を持ったから。
彼女には、エネルギーと技術を独占するキャピタルとスコード教を批判し
大義があるようにも見えるが、それが「独自で判断」かとは別のような気もする。
クリム・ニックにも、考えがあるような態度は見られない。
こう考えると「Gのレコンギスタ」の世界の登場キャラクターは現状では総じて
「独自で判断できる」という段階に至っていないのではという感じに見えるし、
状況に振り回されて動いている人々達の物語に見えてしまう。
Gのレコンギスタの物語は独自で判断できない人々の物語
本作のキャッチコピーは「自分の目で確かめろ」である。
これは組織の体質に流されず自分の目で確かめ、独自で判断できるように
なっていてほしいという富野由悠季監督の願いでもあるのだろう。
私の中では、キャピタル・アーミィもアメリアも両者の主張や目的によって、
なし崩し的に軍拡路線を突き進んで、それが宇宙世紀で起こったような
悲劇の戦争に突入しているようにも見える。
そしてキャピタル・アーミィ側にもアメリア側にも、組織内に戦争を起こさないように正す
ハンナ・アーレントのいう「独自の判断ができる人々」が少なく、
また純粋培養されたエリートの硬直した組織が「全体主義」的になり
戦争を引き起こしてしまう話を「Gのレコンギスタ」は描こうとしているのかもしれない。
ただベルリは、そんな中でもキャピタルガードという組織から出て
世界の別側面を知った点を見ると、自分の知らない外へ出てみるというのが
諸問題を解決する一つの処方箋なのかもしれない。
※キングゲイナー的にいえば「エクソダス」。
またベルリの母、ウィルミット長官がベルリに会いにいきたいという
素朴な気持ちも「全体主義」に抗するものとして大事なのかもしれない。
まとめ
組織の悪癖と業を描き続けてきた富野由悠季監督。
「Gのレコンギスタ」では、状況に振り回されながら生きていく人々が
それでも「独自に判断できる」ように「戦争を起こさないようにする」
「千年生きていくための世界」の軌跡を描いた作品だと私は思う。
そんな想いを、ユーモアとリアルは地獄という両極を交えつつ描いた作品だと思う。
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