感想カオス編突入!!
シリアスな展開にビックリしました!! 今回は前半がニンフとイカロスのスイカを食べる話、
後半はカオスさんが本格的に登場してニンフが追い詰められる展開でした。
前半は智樹がスイカの種にされてしまいましたが、
保志総一郎が演じているキャラが「種」になったというのは
「ガンダムSEED」を連想(「SEED」=「種」)させて面白かったです。今までの6話までの構成の流れとしては、
新キャラのアストレアが智樹たちとドタバタを繰り広げることで
アストレアと智樹たちの交流を描いていきました。
これまでの積み重ねでアストレアのほんわかとした魅力は引き出されています。
しかし、今回から今までの安穏とした空気をぶち壊しかねない
カオスさんの登場でシリアスな方向に傾く可能性があります。
カオスさん薄気味笑いを常に浮かべていて怖かったですね。豊崎愛生ちゃんの純粋さを強調した演技が怖さを何倍にも増幅させてくれます。
カオスさんは「愛」について興味があるようですが、
今後は「愛」に芽生えつつあるイカロス・ニンフとの相違が描かれそうです。
一方でアストレアは、カオスさんの登場で立場が危うくなりそうです。
自分の態度を明らかにする展開になりそうです。
今回好きだったシーンは、アストレアが智樹家から帰りながら
スイカを食べた罪を全部自分に擦り付けたニンフに怒っている所です。この時、アストレアはニンフがスイカを食べすぎた事を「小さいから」だと
非難してニンフは憤慨します。これを察知したアストレアは翼を広げて逃げようとしますが、
広げてからアストレアはニンフには翼が無い事に気づきます。
この羽が無いこともアストレアは無邪気に馬鹿にしますが、
しかしそんなアストレアにニンフは怒らない。むしろニンフはこの事で
羽が無い(天使でない)自分の存在の弱さに気づかされてしまったからです。
お互いの感情の機敏が巧みに紡がれる様子。「脚本上手いなぁ」と感心させられました。
この作品はふざけていても、真面目な描写は真面目にやる。
この心意気が
「そらのおとしもの」の魅力といえるでしょう。
ED曲は「帰らざる日のために」。
1974年のテレビドラマ
「われら青春」の主題歌です。曲調や歌詞は基本的にはシリアスです。
ただ多少、今の時代では気恥ずかしい内容で、確かにネタっぽく聞こえるかもしれませんが、
映像内容から、これはきちんと今回の話に合わせて選曲していると思います。
このBパート後半のシリアス性からEDの曲調、そしてCパートという流れにおいての
ムードというか作風の緩急の付け方は上手いですね。
作り手側の自由自在なムードの作り方は評価していいなぁと思いますね。
アバンのカオスによるイカロスへのもてあそぶような人形遊び、
アバン後の守形の人形について語るなどと人形というモチーフが頻出されました。
人形=エンジェロイドというイメージを植え付けるのに十分な描写でした。
このアバンと守形の説明描写でわかったのですが、
「そらのおとしもの」は「人造人間・アンドロイドもの」だったのですね。
オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンの
「未来のイヴ」以降、
「人造人間・アンドロイドもの」というジャンルが確立され
日本のアニメ・マンガ等のサブカルチャーに大きな影響を与えています。
「コゼットの肖像」「ローゼンメイデン」「イノセンス」「からくりサーカス」
「ちょびっつ」「to heart」「イヴの時間」「ファイブスター物語」
思いついただけでも「人造人間・アンドロイド的」なものが登場する作品はこれだけあります。
このジャンルの魅力はアンドロイドという
「人間と似て非なるもの」の存在を通して
人間の本質を描ける点にあります。この作品でいえば、エンジェロイドも人間も姿形がほぼ同じなのに何が異なるのか。
というところを描き出そうとしているのでしょう。
またアニメはたくさんの絵を使用し、動いているように見せる表現です。
そして同じような絵柄で描かれる為、人間もエンジェロイドも等価に扱われる、
またはそう見える事で、より人間とエンジェロイド(アンドロイド)の違いが不鮮明になります。
もし羽や首輪という記号が無ければ彼女達をすぐエンジェロイドだと認識できないでしょう。
どこまで
「そらのおとしもの」が「人造人間・アンドロイドもの」の本質に
踏み込むかはわかりません。ただ「人造人間・アンドロイドもの」の王道である
「愛」をキーワードにしている以上、それなりには描きそうです。
それにしても多くの作品に共通する
「なぜ人形・もしくはアンドロイド達は少女の形をしているのか」。
この問題提起は大いに気になります。
これは少女と「美」という関係で語れそうな気もしますし、
人間の本質が少女の形をした人形という点に秘められているのかもしれません。
(まぁ作り手側も見る側も少女が好きだからかもしれませんが)