朋也は汐と二人で生きていくことを決意を早苗と秋生に告げ
親子二人の生活が始まる。そして朋也は父との対話に望むのだった。
今回は全体的に親の存在がクローズアップされた。
まずは汐を手放し、解放された早苗が泣き出してしまうシーン。
彼女は汐を育てる事で渚の死を悲しまずに堪えていたのだった。
それを聞く障子越しに聞く朋也。この障子越しという演出が憎い。
次に朋也が秋生との草野球でホームランを打つシーン。
これはバトンタッチという印象を受けて清清しくなれた場面だった。
そして父との和解。ここにクラナドの終着点の一つがあった。
それは久しく見ていなかった、和解によって生まれた光の玉の登場でもわかる。
朋也にとって渚の死を受け入れる事と同等に父との和解には意味があった。
今まで膨大な伏線を張った結論としての今回。親子の和解を描くのに
親子3代でお風呂に入るというのが物凄く印象に残った。
それは普通いい年した男大人2人が一緒に風呂入らないだろうという意味で。
温泉とか行けば別かもしれないが。それも孫娘も一緒に・・・。
別に叩きたいのではなく、親子水入らずで風呂に入るという描写が
やはり和解としての象徴として出来過ぎているから。
ここまで描くのかkey+京アニよと素直に脱帽した。
人の幸せって何なのでしょうかね。朋也の父を客観的に見たら、愛する人を失い、子供とは長年にわたり絶縁し
逮捕され、財産も無い。全てを失っている状態。不幸であると言えるかもしれない。
失ったものは大きいし、取り戻すことは到底できない。
しかし、朋也を育てた事。そして朋也との和解、郷里に母が待っている、
この事で彼は幸せになれる可能性があるのかもしれない。
「もういいのだろうか。オレはやり終えたのだろうか?」と彼は告げた。
彼にとって息子を育てる事が終ってなかった事を思わせる台詞である。
そして岡崎が育ててくれた感謝の念を言うと
「そうか。 いつの間にか、やり終えていたのか」と彼は告げた。
やっと彼が解放された瞬間である。
朋也の父は今後どうするのだろうか。母と一緒に生きていくのだろうか。
ただ言えるのはやっと止まっていた彼の時間がやっと刻み始めた事だ。
僕の好きなマンガで業田良家の「自虐の詩」にはこう書かれている。
「…幸や不幸はもういい」「どちらにも等しく価値がある」「人生には明らかに意味がある」
まさにクラナドは人生の意味を問う作品で、簡単に幸せになる事も
不幸だと勝手に思い込んで身をやつし生きていく事も許してくれない世界だ。
人生そのものに意味があるという事は、ある意味では苛烈だ。
しかし苛烈なのに、優しい世界を醸し出してくれる。これは樋上いたるの持つ
絵柄によって成立している。もしこの世界が劇画的なテイストやリアルな絵柄では
凄惨すぎて見ていられないだろう。この物語は麻枝の苛烈な世界を
樋上いたるの絵柄が持つ優しさが支える構造になっているのだとつくづく感じた。
公子さん、そして風子が登場。まさかこのタイミングで出てくるとは。
朋也の妙にバツの悪い感じが中々に良かった。でも朋也も内心は嬉しいだろう。
彼女は自分が知っていた頃と何にも変わっていなかったのだから。
あと汐の担任の保母さんって多分、朋也の知合いだよね。
しかし来週から何を描くのだろうね。父親との和解が済んだ後に残るのは
幻想世界と光の玉について、光の玉は願いが叶うらしいのだが一体その願いは・・・。