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Gのレコンギスタ劇場版の見どころ-富野流編集術と元気な作劇について 

Gのレコンギスタ 劇場版 行け!コア・ファイターを視聴。
令和になっても富野監督作品が見られてただただ嬉しい。

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はじめに

私のとってTV版のGレコは
富野由悠季の「科学技術と社会経済の視点から見た世界に対する研究論文」という位置づけだ。

劇場版は主にアイーダ・ベルリの独白や(心情)描写のシーン、
互いが互いに触れてどう感じどう思っているのかを盛り込んだ。
結果、ベルリとアイーダの二人を中心に少年少女と大人が
文明崩壊後の世界を生き抜いていく物語としての色を強めた印象。

富野監督は講演会などでGレコの欠点はドラマ(キャラ)を無視したことと自戒していて、
実際に劇場版ではどう修正してくるのか期待していた。
ドラマを無視した弱点を補強するように、アイーダはTV版以上に
気丈で主張が強く、でもカーヒルを失った悲しみで一人の時は涙を流す、
それでも姫であろうと振舞う描写を挿入することで、
Gレコの物語がまた違う輪郭を備えて見えるように感じた。

劇場版であってもGレコの骨子が私のTV版での位置づけと変わらないと思う。
人間は文明とどう向き合うかという問いが強く突きつけられた作品だ。
ただ、劇場版はキャラクターの見え方が明快になった印象も受けた。

富野流編集術とアクション

物語の印象は以上として、何より驚いたのは映像の見せ方だ。
矢継ぎ早に割られるカット。縦横斜めにPANするカメラワーク。
とめどなく湧き出る水のように映像がスイスイ流れる。

速い!瞬きしていると置いていかれるスピード感であり
この映像を齢78の方がコンテを切り編集をした事に思いを馳せると
「絶対に老成はしないぞ」という富野監督の心の咆哮が聞こえてくるかのようだ。

特定のシーンが印象的なカット(作画)。映えるレイアウト。意味が込められた構図といった
ひとつひとつの絵・カットを見せたいという映像作りよりも、
連続したカット(一定の均質性・整合性)にこそ意味があるという作り方をしている。

富野監督の著書「映像の原則」で映像の演出とは
"映像の連続性と映像の変化が生み出す視覚ダイナミズムを利用する"
と書かれているが、Gレコの映像はこれが徹底されていると思った。
Gレコ劇場版は富野流「映像の原則」の集大成と言っていいのかもしれない。
※Gレコの映像を理解するのに「映像の原則」は有効かも…

アクションつなぎでカットを積み重ね、1カットも短く、
台詞が途中で切られても優先される編集。
カットはスライドし、カメラは絶えずPANを積み重ねる。元気の良いフィルムだ。
絵に凝るより、絵の連続性に凝る。こうした作りは富野監督の真骨頂であると思う。

特に流れる映像の見せ所としてMS同士の戦闘の出来栄えはTV版から凄かったが、
劇場版ではさらにスピードが増してますます目が離せなくなった。
どこから敵味方が出てくるかわからない空間の使い方や
雲といった気候や地形によっても戦闘や戦法の仕方を変える。
映像は速いが、きちんとMS同士が何をやっているのかはわかる。
アクション作家としてのGレコの富野監督は冴えに冴えている。

まとめ 元気のGなアニメ

Gレコは困難があって落ち込んでも前向きに生きるベルリとアイーダの物語を
生き生きしたキャラ描写を78歳とは思えない速さを持った映像と、
縦横無尽で元気なカメラワークで見せ続ける。
圧倒的な経験に裏打ちされた編集に絶対の自信を持つ
富野監督しかできない映画の作劇だ。

物語の元気の良さと、映像演出の元気の良さが見事に合わさった快作。
劇場版はTV版とは違った映像体験を味わえると思う。

私は毎週見て次週を楽しみに見ていたTVアニメ版のGレコの映像体験も好きだが
キレとスピードと映画的風格が備わった劇場版Gレコもまた好きになれそうだ。
Gレコはキャラの話もあるが、同等に社会を含めたパブリックな話をしている点でも好きだ。

TVアニメではTVアニメ的な見せ方があり、映画は映画の見せ方がある。
Gレコ劇場版はTV版以上に映画的でキャラを深堀する映像に仕上げることで、
勢いある作品に生まれ変わった点で、2作目にも期待したい。
 
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[ 2019/11/30 21:23 ] Gのレコンギスタ | TB(0) | CM(0)
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