-あらすじ-アロウズ、そしてリボンズとの決戦から2年。地球連合は対話重視の穏健的宥和政策を実施。
軍縮も進み地球は確実に平和の方向に向かっていた。
そしてソレスタル・ビーイングは平和を守るため地球上の諸問題を裏で片付けていた。
そんな状況下、130年前の木星に送った探査船「エウロバ」が地球に侵入。
イノベイドの
デカルト・シャーマンが船を破壊するも、
エウロバの破片は地球上に落下するのであった。
そして地球では人の体が金属によって浸食される事件が発生した。
その金属こそ意志を持つ外宇宙からの生命体
(エルス)であった。
そのエルスは地球に対し大群で移動。エルスの地球侵入は人類の滅亡を意味する。
地球連合は存亡の為に戦う事に。そこにマネキンやコーラサワー・グラハムの存在も。
一方、刹那・F・セイエイはエルスとの接触の中で彼らに意志の存在を感じ取り
新しいガンダム
「ダブルオークアンタ」を使い、エルスとの対話を試みようとするのだった。
ソレスタルビーイングのラスト・ミッションが始まる。
-ダブルオーのメインテーマ わかりあうこと・ふれあうこと-機動戦士ガンダム00では
「人はわかりあえるのか」というテーマを
TVシリーズ50話ずっと描き続けて来た作品だと思います。
最初の「機動戦士ガンダム」以来、このテーマはどのガンダム作品でも
大なり小なり取り扱っていますが、
ダブルオーほど「人はわかりあえるか」という
テーマをメインに扱っている作品は中々ありません。ではなぜ人はわかりえないのか。その原因とは。
それは「人種」「言語」「文明」「文化」「宗教」「貧困」「経済格差」etc
これらの要素が違うために同じ人とはいってもその差が人をわかりえなくする。
そして、ダブルオーではそうした差を描きつつも最後にはその差を埋めるよりも
まず
「わかりあおう」「わかりあうために対話をしよう」という
テーマの締めくくりで終わったのがTVシリーズだと思います。
そして劇場版ダブルオーの世界は「わかりあうために対話をしよう」という
流れに向かい、平和になりつつある所からスタートします。
しかしそこにやってきたのは今回の敵の異星体
(エルス)でした。
彼らには言葉も通じない、目的もわからない。知能があるのかもわからない。
つまりエルスは「わかりあえるのか」「対話できるのか」という今までのテーマに対して
さらに踏み込んだ投げかけをしてくるような設定なのです。人であれば言葉も通じるし、相手の考えも理解できるかもしれない。
しかしエルスには今までの人間のコミュニケーションの方法では伝わらないのです。
こうした絶望的に「わかりあえない」「対話できない」という状況下の中で
どうしたら「わかりあえるのか」「対話できるのか」という今までのテーマを
より深化させ結論を出したのがダブルオー劇場版といえるのではないでしょうか。
その答えは一輪の
「花」でした。言葉ではなく「花」なのです。
刹那はエルスの考えを理解しようとして、彼らの懐にもぐりこんだ。
そして彼らの想いを理解した。その答えが「花」なのです。
言ってる意味がわからないかもしれませんが、それが刹那の答えなのです。
TVのオープニングでは一輪の「花」の描写は見られました。
ここでの「花」は荒野に咲き、今にも枯れたり取られてしまうかもしれない。
しかしその大地に「花」が咲く限り、大地に希望があるという描写なのです。つまり「花」にはエルスへの「わかりあいたい」「わかりあえるための対話」を
行いたいという刹那の希望が込められていると思うのです。
それを感じた「エルス」が刹那の希望・想いの全てを具現化したのが
最後の「花」だと思うのです。また「花」というのは、「生きることそのもの」だとも考えられます。
刹那はロックオンに変わることを求められ、彼もそれに答えました。
その答えは「死ぬために生きるのではなく、生きるために生きること」です。
つまり刹那は「花」に「生きる・生きたい」意志そのものを託し、
エルスに「生きたいんだ」という事を伝えたのだと思います。
付け加えるならばエルスは人ではありません。おそらく言語が無いのでしょう。
脳量子波が言語に相当するのかもしれません。だから言葉ではなく「花」という
想いそのものをぶつけたという解釈もできるかもしれません。
もう一つ。劇場版のOP、スタッフロールの後ろの背景は「花」でした。ラストの展開が何故突然「花」なんだと思うかもしれませんが、
伏線は劇場版OPでも貼られていたのです。
この画像は2期最終話からの引用です。刹那はいつでも花を求めていた事がわかります。
そして「わかりあうためには具体的にどうすればいいのか」という事です。
それは
「ふれあうこと」だったのでしょう。
エルスにとってもコミュニケーションは同化する事だったと思います。
エルスは人へミサイルへMSへ巡洋艦へ人間が作ったものに同化していきます。
そして地球側の技術を理解しようとして、最後には巡洋艦の姿になったり
シールドの技術の再現までしてしまいます。
地球連合にとってエルスが人類存亡に対する脅威だったとしても
エルスには人類を知ろうとするコミュニケーションだったのでしょう。
ただエルスには人類存亡という認識は無かったでしょうが。
だからこそ、最後には刹那(+ティエリア)がエルスの懐に行って
彼らとふれあうという流れになっているのだと思います。
本作は人と人の肉体的・精神的ふれあいが非常に強調され描写されます。まず
イアンとその奥さん。
映画の最初のシーンはこの二人がダブルオークアンタを作っている最中から始まりましたが、
イアンが手を彼女の腰に回してお互い体を寄せ合いながらクアンタの整備を見守ります。
つまり作品の冒頭から「ふれあい」を意識させようとしているのが伝わります。
次に
沙慈とルイス。病院で静養中のルイスに沙慈は体をルイスに近寄らせ、頭をなでます。
ビリーとミーナ。劇場版での二人は良い関係になっています。
ミーナはビリーに積極的にスキンシップを図り、触れ合います。
確かにこのシーン。ミーナのあざとさと釘宮声でネタっぽく見えなくも無いですが
その後の「ふれあい」の重要性を確認できるシーンとして意味深い所です。
刹那とフェルト。
またエルスの攻撃によって脳細胞にダメージを追い昏睡状態の刹那に対し
フェルトが刹那の手を取って付きっきりでいます。
これも「ふれあっている」シーンですね。
また
コーラサワーとマネキン准将(大佐ではない)の関係も
コーラサワーがマネキンにキスをしようとするなどスキンシップが旺盛です。
コーラとマネキンの関係が進んでいる事も伝わってきます。
ミレイナはティエリアに対して愛の告白をします。
「(ティエリア)がこういった姿になっても愛してる」と彼女はいいます。
ティエリアには本当の意味での肉体が存在しません。
しかし彼女の告白には「いつまでもふれあっていたい」「わかりあっていたい」
そういった意図が見え隠れするのではないでしょうか。
そして、ラストの
刹那とマリナのふれあい。これは後述します。
つまり「わかあうため」には「ふれあうこと」という描写を
丹念に積み重ねて表現したのが劇場版ガンダム00という作品なのです。もっと言えば、人類とエルスの戦闘シーンですら、
戦闘という行為を通した「ふれあい」であり、テーマと直結した展開になっており
戦闘シーンがただの見せ場やカッコイイ所になっていない所も評価できます。
という意味でダブルオーに関してはテーマ設定およびテーマの描写に対して
一切のブレが無いと感じました。そしてテーマに対して一生懸命描写しようとする
脚本家黒田洋介以下スタッフの熱意も感じ取る事ができました。
この辺りの見せ方は非常に上手いと思いました。
というのがメインテーマの考察です。
-川井憲次の音楽-「攻殻機動隊」「パトレイバー2」といった押井守監督作品の音楽を手掛け
「Fate」「ひぐらしの鳴く頃に」の音楽も手掛けられている好きな音楽家
川井憲次氏。
ダブルオーの音楽担当でも彼だが、劇場版では素晴らしい仕事をしてくれました。
やはり彼の音楽は劇場で聞くのが一番だと再認識!!
正直、泣いた理由の大部分は音楽です!!。
エルスにもソレスタルビーイングにも負ける気は無いですが
音楽には完全敗北です。音楽聞くためだけに見返す価値は自分にはある!!
今回の敵がエルスという未知なる生命体。そしてその強さは圧倒的。
終始戦闘に関しては人類側は押されっぱなしです。
そのエルスの強さによる絶望感、それでも一生懸命生きる戦う
ソレスタビーイングと人類達。そうした悲痛でもある姿。
そしてエルスという人類にとって不条理とも言える存在と戦い続ける状況を
全て川井憲次の荘厳に満ちた音楽で完璧に表現していたと思います。
世界観にスケール感、壮大感があればあるほど
川井節は累乗的にその魅力を輝き放つのです!!特に
「DECISIVE_BATTLE」が流れると、もうダメですね。
戦闘シーンの余りの美しさと共に荘厳に流れる音楽のシンクロは
それは個人的には空前絶後といっても良い映像でした。
正直、川井憲次氏は押井守作品以外で良い音楽を作れるかは疑問を持っていました。
それは押井作品の川井憲次が良すぎるという意味で
他作品が劣っているというわけではありません。
しかしダブルオーはそうした私の認識を大きく改めさせました。
-エルスと戦闘シーンについて-見ながら思ったのは、
劇場版には「MS戦闘」が行われないのではという懸念でした。
それはエルスがMS化するという展開で杞憂には終わりましたが、
よくよく考えると、純粋な意味でMS戦闘が無いというガンダムは珍しいと思いました。
元々戦争=兵器という枠組みでMS同士の戦闘が魅力だった「ガンダム」に
MS戦闘が無いのは作品の成立としても非常に危険な行為ではあると感じました。
それはMS戦闘が見たいと思っている人もいるはずなので。
でもそんな事を疑問に思いつつも大迫力で満足もしましたし、
MS以外との戦闘というのも珍しいので面白かったです。
パンフレットの中で水島精ニ監督がダブルオーの企画コンセプトが
「ガンダムから一番遠い」という所から出発したと語っています。
そう考えるとエルスという人間でもない地球外生命体・異星体という設定は
まさに「ガンダムから一番遠い」設定ではないでしょうか。
そこで思うのはまた作品のテーマに戻りますが、
この「ガンダムから一番遠い」存在ともいえるエルスから
色々なガンダム作品で描かれてきた「わかりあえる」「わかりあうために対話」
というテーマをうまく結びつけたのも上手いなぁと思いました。
それにしても戦闘シーンは最高でした。
動かしていること、スピーディーさという点では「ガンダム史上一番」です!!
こんなにも目まぐるしく状況が入れ替わる展開。展開が頭に目に追いつかない状況。
しかも内容の密度が濃くて濃くて、充実感の異様な高まりを感じられる!!
変形もアクションも詰め込むだけ詰め込んだ怒涛!怒涛!!怒涛!!!の展開。
(ちなみに2回劇場に行きましたが、2回目なら目が慣れます)これだけの物量の作画をこなしたアニメーターの凄さを改めて思い知ったし
あんな高密度映像の絵コンテを切った5人はとんでもないテンションだし
演出さんたちもそのコンテをよくぞここまでまとめたなぁと感心するほか無いです。
-ラストシーン-スタッフロール後のパートはガンダム00の完結させる為の描写でした。
イオリアとリボンズの元の人?の会話に始まり、最後には刹那とマリナの再会。
刹那とマリナは体を寄せ合い、マリナは老体ながらも
刹那はメタル化(笑)してもお互いがふれあうことで物語は終結します。
ここで、映画最後の締めくくりとして体と体が「ふれあう」シーンで
「わかりあえた」事を意味し2人の物語は終結します。
(機動戦士Vガンダム最終話 天使たちの昇天ラストショット)
そして最後の朽ち果てたダブルオークアンタのショットで幕引きしますが
このショットはVガンダム最終話のカットと非常に似ています。おそらくオマージュですね。それにしてもマリナさんの一途さには心が潤んできます。
刹那を50年間もずっと待ち続けてきたのですから。そして「やっと会えた」。
マリナさんの気持ちを想うと・・・。こういう展開に私は非常に弱いのです・・・。
-ガンダムである事(エルスの存在)-地球外知的生命体エルスという設定を用いたガンダム00。
または「花」や最後のシーンを含めた一連の展開。
これらの物語や設定が「ガンダム的」であるかは議論があるかもしれません。
ただ上記の水島監督の「ガンダムから一番遠い」を目指すのであれば
それは作り手側がそのコンセプトを目指しているのであれば正しいとは思います。
また「ターンAガンダム」で富野由悠季監督が指し示した
「ガンダムを全肯定する」という視点から見ても
「黒歴史」の中に「00」の地球外の知的生命体の接触する事が
あっても僕は良いのではないかと思いました。
ターンAという話自体「今後どんなガンダム(特に他の監督のガンダム作品)が
作られようとも「黒歴史」で包括するぞ」っていう富野監督の心意気の話ですから。少なくとも原作者はいちおう「ガンダムを全肯定しよう」というスタンスです。
ただ個々の方の心にある「ガンダム的」なものは皆さん違うと思うので
この辺りの議論を行うのは面白いのかもしれません。
-最後にガンダム00ありがとう-入場する時にカードがプレゼント!!中身はハムさんでした。
ハムさんの壮絶な最後。刹那を導いてくれたと信じています。
色々な事を思わせてくれたガンダム00。
作品としてもこれ以上に無い幕引きで大満足です。
正直最初はそこまで入れ込んでいませんでしたが、今回の劇場版で相当好きになりました。
やはりガンダムは面白い!!ガンダム好きでも見に行かない人や興味がある人には
ぜひ足を運んで内容を確かめてもらいたいですね。