はじめに
「Gレコ」が始まる前、富野由悠季監督は
政治学者ハンナ・アーレントの著述や彼女の「全体主義」についての思想を
アニメに盛り込んで新作を作りたい発言をしていた。
35周年に向けて、次はハンナ・アーレントの言葉を背負った上で『新ガンダム』を作る気にもなってます。
出典:ニュータイプ2009年5月号「ファーストの見た30年間」
この「Gレコ」における「全体主義」はどこに描かれているのか。
まず富野監督がハンナ・アーレントを引き合いに出して発言していた
「独自に判断できる人は少ない」という点にあると思っていた。
状況に流されるベルリ。教えられた事を信じていたアイーダ。
そんなキャラクター達の姿にハンナ・アーレントの人間観を踏まえて
独自に考えることができないキャラクター達を
富野監督は描くのを狙っていたと私は考えていた。
ユニバーサルスタンダード=全体主義
-異なる考えのキャラクター、同じである事を求められるMS
そしてもう一つ、大事なキーワードがある事に気づいた。
それは本編中に度々登場する
「ユニバーサルスタンダード」。
直訳すれば宇宙基準・宇宙標準ともいうべき言葉に
「全体主義」のテーマが込められているのではないか。
マニイ「操縦がユニバーサル・スタンダードなんですよこのモビルスーツ」※21話「海の重さ」より
もう一度キャラクター達について触れてみると、
まず本作のキャラクター達は様々な考えの元に諸勢力に属している。
・キャピタルのキャピタル・ガードとキャピタル・アーミィ。・クアメリアのアメリア急進派(クリム親子)とのアメリア穏健派(グシオン総監)。・トワサンガのドレッド家とレイハントン家のレジスタンス。・ビーナス・グロゥブのジット団とラ・グー総裁派・諸勢力の人間が参加するメガファウナ。これだけのバラバラな勢力があり、さらに諸勢力の中で
各キャラクターは様々な思惑を絡ませる。
ハンナ・アーレントも互いに
異なう個性を持つ事を認め合うのが人間性であり
この人間性を壊すのが「全体主義」であるという考えらしい。
このバラバラ感はある意味、人間性らしいともいえる。
その一方でキャラクターと対をなす関係にあるメカニック・MSは、
誰でも使え、機体の換装や部品や武器の流用も可能な
「ユニバーサルスタンダード」である事が、
リギルドセンチュリーの世界で求められているようだ。
「ユニバーサルスタンダード」が当たり前、
そうで無ければ「タブー」であるという考えの方が浸透しており、
Gセルフにレイハントンコードを仕込み
ベルリとアイーダとラライヤしか搭乗できないようにした
ロルッカ達に対しクンパ・ルシータ大佐は「タブー破り」であると批判している。
キャラクター達にはお互いに違うことを徹底的に描きつつ、
メカニックにはMSのルックスや性能は違えども
その中身は同じであることが求められている世界を設定している点で、
「Gレコ」は違う考えの人々が同じ規格・基準の道具を使う世界でもある。
全ての機体が「ヘルメスの薔薇の設計図」から作られている点においても、
元々の作る土台は同じ設計図からであることからもわかる。
また「ユニバーサルスタンダード」が徹底されているからこそ
Gレコの世界では短期間に次々に新しい機体を投入が可能なのかもしれないし、
引いては現状の戦争拡大を大きく推進している繋がる可能性もある。
同じ価値観・宗教を強いられる世界で、
異なる主張を戦わせるキャラクター達
上記のように同じ基準のものを使う事を今の世界に例えるなら、
世界中の人々がWINDOWSのようなオフィスアプリケーション、
古くは家庭用ビデオ再生機の規格であるVHSを
使用している事に置き換えられるかもしれない。
道具が人間の価値観に影響を与えると考えるなら
WINDOWSやインターネットのような同じ道具・手段を使用することによって、
世界中の人間は、ある部分では同じの価値観が形成されている可能性がある。
世界中で同じ基準の道具を使うことで、同じ考えや空気が生まれ浸透するのが、
富野監督が意図する「全体主義」であるなら、
宇宙基準が求められる「ユニバーサルスタンダード」の世界である
りギルドセンチュリーは、現代的な「全体主義」の生き写しでもあるのだろう。
また世界中で信仰されている「スコード教」も含めて考えると、
様々な考えのキャラクター達がいる一方で、殆どのキャラクターが
「スコード教」や「ユニバーサルスタンダード」といった価値観を受け入れている。
この統一的な考えが広まっている状況こそ「全体主義」的といえるのではないか。
こうしたある部分では同じ考えを持っている世界の中で、
お互いが違う考えであると思いながら戦う状況は
「リアルは地獄」と呼ぶに相応しい世界であり、
今の世界状況にも符合するということなのだろう。
まとめ
ハンナ・アーレントがいうように
人間同士の個性を認め合う人間性を壊すのが「全体主義」というなら、
同じものしか認めない、これを破るものは「タブー破り」であるとする
「ユニバーサルスタンダード」という規格は、
「全体主義」的な価値観の例として扱っていいのかもしれない。
この点を踏まえると、存在そのものが「タブー」であると指摘された
「Gセルフ」の立ち位置が「全体主義」「ユニバーサルスタンダード」に対する
痛烈なカウンターとして機能していることであることもわかる。
物語の最初では「スコード教」「ユニバーサルスタンダード」を受け入れていたベルリが、
「全体主義」的なものに染まらないGセルフに乗ることで世界と人間の考えを知り、
アイーダ達、何かの縁で集まった多国籍軍のメガファウナのメンバーと共に
「全体主義」で起こる戦争を止める為に動くのが「Gレコ」の物語構造なのかもしれない。
さらにいえば、ユニバーサルスタンダードも使い方次第では
多国籍なメガファウナのメンバー達がこれをうまく活用して
「全体主義」を克服する可能性も含んでいるのかもしれない。
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スタンダード化はモノや技術に対するもので、全体主義化というのは人間をモノや技術のように統一化して扱うものです。
多くの場合、モノや技術のスタンダード化は歓迎されますが、人間を全体として統一化することに関しては人間性を失わせるという問題が生じ歓迎されません.
この点でユニバーサルスタンダードは宇宙生活のため、技術を1000年単位で継承していくためには効率的で必要なことだと思います。
一方で全体主義は人々をあるひとつの目的に向かせ集中させるには有効ではあるかもしれませんが、それ以上の発展や例外が認めれらない社会を生み出してしまう可能性があり危険です。
ガンダムの世界観で言えば「ジオンを倒すためにホワイトベースの民間人でも軍属になってもらう」という連邦軍のやり方こそ全体主義的な姿勢だと思います。
Gレコには連邦に対するジオン軍のような「終始一貫した明確な敵」がいないのです。極端に言えばGレコには「全体主義」を持つ様な組織は存在していないのです。(強いて言えばクンタラという言葉を生み出した大昔には全体主義的な動きがあったかもしれませんが)原則メガファウナを始め、クンパ大佐率いるキャピタルアーミーもクリムニック率いるアメリア軍も「我々の敵はこの勢力だ」というのがその時その時によって異なっているのです。
これはひたすら理想を追うのではなく、その場その場での現実をみて自分たちの組織の目的を達成するのに有効な手段をとっているためだと思います。
上記の点で、Gレコは全体主義を用いない戦争を描くことで逆説的に全体主義を描いている作品なのではないかと私は思いました。
ただし、スタンダード化と全体主義という一見似たものでもその対象を変わることにより問題が起こるという二者の対比をすることも狙いだとすればかなり興味深い構造だなぁと思います。