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記憶や観察力と考える力

普段はあまりテレビは見ないのですが、先日風邪をひいて熱をだした際に、ぼんやりとした頭で見ていたテレビ番組でやっていた「絵が描けない人」の特徴の話がとても興味深かったので、今日はその話題から「記憶や観察力と考える力」という話を展開していくことにします。 布団にはいって半分目をつむったような状態で見ていたので、番組がなんだったかも含めて詳しく覚えていないのですが、いま話題にしたいのはこんな2つの事柄です。 絵が下手で、描いた絵を人から笑われることが多い人は、そもそも絵がうまく描ける人に比べて、物事の観察力が弱く、物事に対してあいまいな記憶しかもっていないために、描こうとする対象を頭の中でさえ非常にあいまいにしか思い描けないため、当然ながら実際の絵としても表現できない絵が下手な人の中には、目の前にある風景を描き写すといった場合でも、目の前に存在するはずのない子供が描くような記号化された雲や太陽を描いてしまったりする 絵が描けない人って、そんな風に世界を見ているの?という意味で、僕にはとてもショッキングな話でした。

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人間能力向上のための教育について

今日は「第2回ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ」の反省会でした。 そこで話題にあがった内容をちょっと僕なりに展開。 話題になったのは「サービスが行き届きすぎている」という話。 何から何まで手助けしてくれ、人間が自分で考えて自分の力でやるという機会が減っているために、普段の生活のなかでいろんな人間的能力を向上する機会が失われているのではないかという話でした。「人的資源の生態学的問題」で書いた「地球資源の問題が社会的問題であるのと同様に、社会的レベルでの人的資源の不足という問題として社会生態学的に捉える必要があるのではないか」ということともつながる話。 どういうことか、いくつか例をあげるなら、 キーボードを叩いて変換すれば文章は書けるので、漢字が書けなくなった携帯電話にメモリーされた電話番号をつかって電話をかけるので、電話番号を覚えなくなったPowerpointなどのプレゼンテーションソフトを普段使っているために、いざ何かをある程度見栄えよく一枚の紙に手描きでまとめあげる作業をさせると空間構成力がなっていない描画になってしまう といったあたりが、それにあてはまります。

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「わかる」ためには引き出しを増やさないと

年末に「創造性を高めるために必要なもの」というエントリーを書いたときにも言いましたが、記憶の引き出しが多いってことがいかに大切かってことを最近身に染みて感じています。 なんで身に染みるかはまたおいおい書くことにしますが、ここで明確にしておきたいのは、自分の記憶の引き出しが多くないと、どんなに「わかる」機会を与えられても「わかった」という結果を得る確率が高まりませんよってことです。 そんなことをあらためて書こうと思ったのは、今日、会社の後輩に、問題解決と問題の定義の効率について質問されたからです。 「ある問題があったときにパッと解決案が出てくるのはなんでですか?」 「引き出しにある過去の経験から引っ張ってくるから」 「でも、どの解決案が適切かを判断するためには、相手が何を問題にしてるかを理解できないとダメですよね」 「そうだね。相手が何を疑問に感じているかとか、困っているかを相手の話から理解しないとダメだね。相手の話を理解するのにも、ある程度、引き出しが多くないとすぐに理解できないかもね」 要約すると、こんな話をしました(すごく要約してます)。

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iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い

これは「道具」と「方法」という視点からデザイン(というもの)を考えようとしている立場からすると、考えさせられるものがありますね。 いま、われわれが持っている道具とか方法というのも、結局、個々人がというより、われわれに至る生き物がずっと習慣化してきて、その中で蓄積されてきたものだと思います。ですから、いまここにあるものを、われわれは自分が所有しているかのように錯覚するけれども、それは所有というのではなく、単に受け継いでいるということなのですね。 松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』 松岡正剛さんと茂木健一郎さんによる対談集『脳と日本人』のなかの茂木さんの言葉です。 松岡さんの『千夜千冊』から千回くらい繰り返す習慣にしないと脳が更新されないという話から、そもそも個人的な蓄積ではどうすることもできない進化過程での蓄積もあるということから上記の発言になっています。 最近、このブログでは、習慣化による千回の蓄積みたいなものを考えるテーマの1つに置いてきましたが、進化過程での蓄積という話となると唖然としちゃいますね。 また、これを受けての松岡さんの話が、デザインを考える立場ではこれまら考えさせられます。 千の単位で繰り返された習慣が臨界値に達して何かを創発することと、習慣もないのに便利になった道具を持っていることの格差が、これから、ますます開いていくだろうね。 松岡正剛/茂木健一郎『脳と日本人』 身体という内部記憶を使うか、道具という外部記憶を使うか。「ヒトが使う道具のデザイン:ド…

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ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない

「語彙が少ないと仕事の能率もわるい?」というエントリーで、ある企業が工場で働いている人の仕事の能率が悪いので国語力のテストをしたら驚くほど語彙が少なく、これはマズいと思い国語教育をすると、その人たちが国語が少し面白いくらいから俄然仕事の効率がよくなったという話をしました。 そのことが昨日、今日と気になっていたのですが、自分で使えるボキャブラリが少ないってのは想像していた以上に致命的に仕事ができる/できないということに関係しているんだなと今日あらためて実感しました。

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記憶、物語、分析、そして、創造性

「論理と物語について。」にnoriさんから興味深いコメントがあったので、あらためてエントリーを立ててみます。 文脈の重要さに着いては私も数年来着目していました。 一言加えたいのは、論理と物語は対概念ではないという事です。論理という一般化の機能を持つレイヤーが下層に前提としてあり、そのレイヤーを下層に眺めつつ、ある文脈に沿ってどのトピックが特定の文脈にとって重要であるかを示す上層レイヤーが物語なのかなと考えます。 「論理と物語について。」へのコメントより 論理と物語の関連のしあう形はnoriさんに同意なのですが、僕はこの下層/上層の関係が逆なんだと思っています。 というのは、いわゆる記憶ってのがそうだと思うから。

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デザインを考える上では、外部刺激よりユーザー個々の記憶やコンテキストが重要

「「ユーザビリティ=使いやすさ」なんて誤訳をいつまで放置するのか?」というエントリーにはたくさんのブックマークをいただきました。ありがとうございます。 どうもこのブログの傾向として似たような内容のエントリーを書いていても、タイトルがWebっぽい感じがする場合、被ブックマーク数が多くなる傾向にあるようです。 実際、先のエントリーの前後のエントリー「答えはユーザーが知っている」「デザイン・プロセスにおいて知らないことを発見することの重要性」にしても、被ブックマークを多くいただいたエントリーとほぼ同様の内容ですし、僕自身にしてみれば、むしろ、その両者のほうが内容はよかったんじゃないかと思うんですけど、どうも評価は芳しくない。 それだけ、いまWebというものが注目を集めているということなんでしょうね? ユーザビリティという言葉、デザインという言葉さて、そんなわけで今回のエントリーも必ずしもWebな話ではないと思って読んでいただければと思います。 そもそも「「ユーザビリティ=使いやすさ」なんて誤訳をいつまで放置するのか?」でも実はWebだけのユーザビリティを扱ったつもりはこれっぽっちもなかったんですけど。「ユーザビリティ」という言葉がWebやUIのことを連想させてしまうんでしょう。「デザイン」という言葉もどうやらビジュアルデザインやUIのデザインのことを連想させているみたいです。日本語のデザインを考えれば、確かにそうなるでしょうね。 でも、僕はユーザビリティという場合にWebに限…

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欲望解剖/茂木健一郎、田中洋

1つまえのエントリー「マーケティングという問題意識」でまえがきを紹介しましたが、『欲望解剖』をあっという間に読み終わりました。2時間くらいでしょうか? ちょうどいま考えていること、悩んでいることにフィットする内容だったからでしょうね。いわゆるマーケティングの本じゃない視点から、そして、僕がこれからのマーケティングってこうでしょと思っている視点から、マーケティングというものを語ってくれていたので、非常に面白かったです。 ちょっと内容を紹介しておきましょう。 脳科学の視点この本は脳科学者である茂木健一郎さんと、法政大学大学院ビジネススクールの教授である田中洋さんの共著ということで、それぞれが別々に書き下ろした2つのパート+対談のパートという3つのパートで構成されています。 まずは茂木さんのパートである「脳科学の視点」からちょっとご紹介。 面白いなと思うと同時にとても納得させられたのが、茂木さんが脳科学とマーケティングを次のように描いているから。 モノやサービスをそれにふさわしい場所や人に届けるのがマーケティングの役割だとするなら、実はその過程というのは、もともとバラバラだったものが意味や欲望の空間の中で整理されていく、脳の中の記憶の整理、ないしは夢を見るときの感覚とまったく同じだということになります。 茂木健一郎、田中洋『欲望解剖』 茂木さんは一貫してこうした視点でマーケティングを見ています。 それゆえに後半で語られる、ブロードキャスト的に大量に投下される…

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私的インフォメーション・アーキテクチャ考:14.記憶の構成、世界の広さ

口にされることは目に見える氷山のほんの一角にすぎないといいます。また、同じように意識されるものは無意識下におかれたもののほんの一部に過ぎないのでしょう。 しかし、前回「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:13.言葉の前に・・・、言葉の後に・・・」で指摘したような言葉と模倣記憶の組み合わせでヒトは、目で見えたこともないようなシーンを、言葉や記憶をレゴブロックのように組み合わせて構成することができます。その意味でヒトにとっての可能世界は現実世界の何倍も広い。いや、何倍とかいうレベルではなく、無理数と有理数の差ほど、その違いは大きいのかもしれません。 可能世界と現実世界たまにネットのメディアの記事や社内外含めた講演の依頼をいただくことがありますが、そのときに困る(というか、ちょっと面倒だと感じる)のは具体的な事例を織り交ぜてくださいと言われることです。 言うほうは簡単に言ってくれますが、具体的な事例を扱うのは簡単ではありません。1つには公言してよい事例というのが仕事柄限られているということがあります。しかし、それ以上に先の意味で実際に経験した事例の数というのは頭の中で構成できる話の数と比べれば、驚くほど貴重な存在なわけです。普段、どんなに文を書くのを苦にしてはいないといっても、希少な存在である実経験のうち、さらに公言してよい事例だけを対象に書け(話せ)といわれると、途端に途轍もない制約条件がのしかかってくるわけです。 具体的な事例が読み手にとってわかりやすく、メディアとしては集客な…

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記録と記憶:2つの異なる消滅のタイミング

確かにある視点から見ればどちらも同じです。 頭の悪い私には「記録」も「記憶」も似たようなものに思える。gitanez氏が書かれているこの記事では異なると言われているし、それが正しい事なのかもしれないが、記録も記憶も何時かは消えてしまうという点で私には同じに思えるのだな。 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 私は忘れない絶対に 記録も記憶もどっちも消えてしまうというのは、まさにそのとおり。 そうなんだけど、私が「記録と記憶:あるいはブログを書き続けるということ」のエントリーで両者を区別したのは、単にそれが「消える」タイミングを重視したからでしかありません。 記録はそれがのったメディアが崩壊した際に、記憶はそれがのった人が死んだ際に、それぞれ失われます。 死んだら終わりか、死んでも残るのかってところがポイント。 もちろん、それぞれメディアが壊れたり、人が死んだりしなくても、それ以前に記録あるいは記憶が失われる可能性はいくつかあります(例えば、痴呆症になるとか)。 そんなこともあって無文字文化における老人の記憶による知の継承を、現在のメディアによる記録による知の蓄積と比較したわけです。 あともう1つ違いを追加すれば、両者の影響範囲でしょうか? 記憶はそれをメディアによる記録を使わない限り、面と向かって話せる相手にしか伝わりませんが、記録はその内容を真に理解できるかをおいとくとすれば、メディアが届く範囲内では伝えることが可能です。 インターネットなんてものがあると結構その範囲は…

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記録と記憶:あるいはブログを書き続けるということ

Web・logであるブログと、語られるものとしての記憶。 書かれることで、それは外部からも語ることが可能なものとなり、伝承が可能になるのかもしれません。 そして、書かれた元の文章(ブログ)が消えてなくなっても、外部の記憶が再び記録(log)されれば、それはまた別の誰かが語ることが可能なものとなります。 かつては必要だと思いブクマした記事も、それを主張した「ブロガー」自体が消滅する事によって、その価値を失って行く。それが感情論であるならば尚更。どこの馬の骨とも解らぬ、実名も明かさぬ・顔写真も見せぬ不確かな存在だからこそ、このネット上から消えてしまえば、それで「終わり」。だから常に、その主張を生み出したブロガーとして、このネット上に存在し続ける事が大切です。 heartbreaking.:お前が閉鎖しても、俺にとって大した問題ではない。 実際には、ここで話題の対象となっている「きらぶつのkira-laさん」のブログは、上記のheartbreaking.ゆがんだはしごさんのエントリーによって、完全なる消滅をほんのすこしのあいだだけ、先延ばしにされています。 いや、heartbreaking.ゆがんだはしごさんの言うことを逆説的にとらえると、「ブログの世界は「閉鎖したら終わり」ですから」、heartbreaking.ゆがんだはしごさんのこのエントリーが存在する限り、「きらぶつのkira-laさん」のブログが存在したことは記録され続けます。 さらに言えば、この私自身のエントリーによって、私…

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