事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザイ…
最近、文字をもたない話しことば文化の人びとと、書き文字文化、さらには活字文化を経た僕らの思考の違いについて、このブログ上やFacebookページでいろいろと書いていますが、いろんな本を読んだり、それを元にあらためて自分で考えてみたりすればするほど、自分たちと話しことば文化の人びとの違いに気付かされます。特に思考や世界認識の違いに関しては気付けば気付くほど、その大きなギャップに驚きます。
文字というモノに固定される言葉と、発せられたと同時に儚く消える声によることばでは、まるで思考の方法や世界の見方が異なってくる。今日もまた、そんな話をいくつか書き散らしてみようと思います。
まず、最初に現代に生きる僕らにとっては、自然なものと考えられる「研究」という思考活動について。
『声の文化と文字の文化』のなかで著者ウォルター・J・オングは、話しことば社会に生きる人びとは研究をすることがないと言っています。
いや、正確には「することがない」のではなく、「できない」のだといいます。
というのも、研究という人間の活動も、そもそも書くという行為から生じる分析力によってはじめて可能になるからです。まさに分析対象のデータをポストイットなどに書き出して、さまざまな組み合わせを検討しながら思考し、思考そのものを分析、総合の対象にするKJ法ように…。