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わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ

ちょっとびっくりしている。 びっくりして戸惑っている。 実際には何も変わっていなくても、見方が違うだけで現実がこんなに違って見えるということに。 「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」 ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。 きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。 それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新しい世界に上陸するような気が」するくらい、まだ何も変わっていない状況がまるで違って見えはじめたことにびっくりし、戸惑ったわけだ。

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オルフェウスの声/エリザベス・シューエル

先日、金沢工業大学で、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』を題材にした「ニュートンは何を考え、何を語ったか」という講義を受講してきた。同学での公開講座「原著から本質を学ぶ科学講座」の第1回目という位置付けで、実際に同学のライブラリーには、2億円の価値があるという『プリンキピア』の初版本が蔵書されており、その実物も見学できた。 金沢工業大学のライブラリーに所蔵されている『プリンキピア』の2冊の異なる初版本 『プリンキピア』の初版が発行されたのは1687年だが、1642年生まれのニュートンは、すでに1665年には『プリンキピア』で論じられている運動の3法則および万有引力の法則を発見していたと言われている。 『プリンキピア』とは、いわば略称で、ラテン語原典のタイトルは”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、日本語では「自然哲学の数学的諸原理」と訳されることが多い。 だが、数学的諸原理というタイトルの印象とは異なり、この書にはいわゆる数式はほとんど登場しない(と、講義を担当してくれた山口敦史教授が教えてくれた)。当時はまだ幾何学こそが正統な数学であり、代数はまだ発展途上のものと考えられていたからだという。 たしかに、近代的な代数的記法を導入したことで知られる、ルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は1637年の出版だ。ニュートンの同時代の数学者で、ニュートンとは微積分の方法をたがいに独立して同時に発見したこ…

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わかることよりも感じることを

文脈がわからなければ「わからない」。 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。 言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。 いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。 すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。 西林さんもこんなことを書いている。 文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。 西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。 知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。 このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもた…

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不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない

「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」 そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。 わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。 では、どう、問題なのか? 「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」 そう。わかっているものしかわからない。 つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。 対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。 「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。 「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。 発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。

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どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。 自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。 自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。 パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。 こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。 認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。 それが世界とうまくやっていくための基本である。 対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。 対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。 とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。 冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということ…

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