「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること
最近、会社のほうで進めているプロジェクト「Think Social」では、デザインシンキングのアプローチを用いて行なうサービスデザインをテーマとして扱っていますが、その一方で、やはり個人的な関心としては、人間の知の在り方や価値観を左右する人工物全般としてのメディアに強い関心があります。
例えば、電子書籍的なものもその一部。
ただし、世間的には、講談社が今後の書籍の刊行を紙と電子版を同時に行なうという方針を発表したニュースが取りざたされたり、『WIRED』創刊時の編集長ケヴィン・ケリーがインタビューで「10年後には「本」そのものは基本的にすべて無料になる」というようなことを言ったりするなど、相変わらず電子書籍の話題には事欠かないのですが、僕自身はどうもこの電子書籍関連の話題に不満をもっています。
というのは、どうも現在の電子書籍に関する議論は、次の引用にあるような蓄音機が出始めたころのトンチンカンな話に似ていると感じるのです。
はじめ蓄音機がどんなに的はずれな受け止め方をされていたかは、ブラスバンドの主宰者であり作曲家であるジョン・フィリップ・スーザの発言によく表れている。彼はこんな意見を述べている。「蓄音機が出てきたことで、声の訓練はすたれてしまうでしょう! そうなったら、国民の喉はどうなります。弱くならないでしょうか。国民の胸はどうなります。縮んで、肺活量が減ってしまわないでしょうか。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
先のケヴィン・ケリーのイ…