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形象の力/エルネスト・グラッシ

何年かに一度、世界の見方を教えてくれる本に出会う。 6、7年前に読んだマクルーハンの一連の著作がそうだったし、バタイユの『エロティシズム』もそうだ。ユルジス・バルトルシャイティスの『アナモルフォーズ』やバーバラ・M・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』などもそんな本である。 そして、このエルネスト・グラッシの『形象の力』もそんな本の集団に新たに仲間入りした一冊だ。 はじめのほうに出てくる「人間は〈世界未決〉である」という指摘がまず、しっくり来た。 「自分の環境に生きる」動物に対して、人間は「世界を持たない」。 だから、人間は自分が生きる世界とともに「自らを〈形成〉しなければならない」のだと、グラッシはいう。 世界を人工的に意味付けることで、自らが何者かも意味付けることができる。生きる環境と生きる自分自身を同時につくりあげることが人間には求められるということだ。 ギリシア神話で、自らがつくった迷宮にとじこめられた天才発明家ダイダロスを想う。 ダイダロスは蝋でつくった羽根をつけ、その迷宮から脱出することができたが、代償として自らの息子イカロスを失った。その意味で、抜けだした世界は、とじこめられる前にいた世界とは違っていた。 人工的な世界を形成し、それとは別の人工的世界を描くことでもうひとつの閉じ込められた世界から抜け出す。けれど、抜けだして向かった世界もまた別の意味で自ら作りだした迷宮でしかない。 ダイダロスを自分たちの祖先であると考えたマニエリ…

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事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザイ…

最近、文字をもたない話しことば文化の人びとと、書き文字文化、さらには活字文化を経た僕らの思考の違いについて、このブログ上やFacebookページでいろいろと書いていますが、いろんな本を読んだり、それを元にあらためて自分で考えてみたりすればするほど、自分たちと話しことば文化の人びとの違いに気付かされます。特に思考や世界認識の違いに関しては気付けば気付くほど、その大きなギャップに驚きます。 文字というモノに固定される言葉と、発せられたと同時に儚く消える声によることばでは、まるで思考の方法や世界の見方が異なってくる。今日もまた、そんな話をいくつか書き散らしてみようと思います。 まず、最初に現代に生きる僕らにとっては、自然なものと考えられる「研究」という思考活動について。 『声の文化と文字の文化』のなかで著者ウォルター・J・オングは、話しことば社会に生きる人びとは研究をすることがないと言っています。 いや、正確には「することがない」のではなく、「できない」のだといいます。 というのも、研究という人間の活動も、そもそも書くという行為から生じる分析力によってはじめて可能になるからです。まさに分析対象のデータをポストイットなどに書き出して、さまざまな組み合わせを検討しながら思考し、思考そのものを分析、総合の対象にするKJ法ように…。

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本来と将来

昨日からなんとなくこのことが気になっています。 私たちは日本の「本来」と「将来」の両方にまたがって暮らしています。(中略)私は未来論というものをほとんど信用していないので、あえて「将来」という言葉を使うのですが、将来のためには「本来」がよく吟味されなければならないと考えてきました。 松岡正剛『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 僕がいう、このことは、<将来のためには「本来」がよく吟味されなければならない>ということです。

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どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か。

どういう世界を実現したいのか。 それを具体的に考え、想像することって、いまの時代、すごく大切なことなんじゃないかと思います。 現状に対していくら文句は言っても、それを変えるための具体的な絵が描けなければ自分の不満さえ解消されません。実現したい未来のイメージが想像できなければ、問題点をいくら挙げ連ねたところで事態はいっこうによくなりません。 そういう意味で、いま問題なのは、よりよい未来を実現するための実行力が足りないことである以上に、よりよい未来のイメージを具体的に想像できる思考力・想像力が徹底的に不足していることなんじゃないかと思いはじめています。 「イメージを形にする力」以上に、イメージを描く力が欠けているのだろうと。

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人間中心設計もやっぱり順序よく進めることが大事

ペルソナ/シナリオ法だとか、コンテキスチュアル・インクワイアリーだとか、ユーザーテスト法だとかを使ったISO13407に基づく人間中心設計プロセスで、デザインしているわけですが、ここに来てやっぱり大事なのは、きちんとプロセスどおり事をはこぶことだなというこです。 「ペルソナとISO13407:人間中心設計プロセスの関係に関するまとめ」というエントリーで、こんな図を使って人間中心設計プロセスを紹介しました。 最近感じているのはやっぱりはじめが肝心だなということ。「人間中心設計の必要性の特定」という最初の出だしのプロセスをきちんと踏んでいないと、あとあとデザインの輪郭がぼやけてしまう要因をつくってしまうことになります。 今回はこれまであんまり論じてなかった人間中心設計プロセスの最初の場面「人間中心設計の必要性の特定」のシーンについて考えてみようと思います。

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ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義

今日、仕事をしていてこんなことを考えました。 日常の仕事や家事のあいまにある休息時間、気分転換のひとときというのは、ある意味では、公的な役割を演じている自分から<私>自身へと戻る時間なのだろうな、と。 公的な<私>、私的な<私>考えたことを図にしてみると、こんな感じでしょうか? 「<私>への旅」と書いているのは、それが普段暮らしている環境からの一時的な逸脱、旅路のような気がしたからです。 僕がイメージしているのは「<私>に戻る」というよりは、普段、公的な場、公共の空間で、肩書きや役割、ユニフォームとしてのスーツ、公的なものとして求められる発言として規定されている公的な<私>からの逸脱として、そこから逃れるものとして私的な<私>が作られるというイメージ。 スタイルに包まれた<私>だからこそ、そこではスタイルが重要になるのではないかと思います。 好きな音楽、好きな本、好きな洋服、好きな芸能人・・・。 公的な場における規定から逸脱するものとして、まったく別の理由で選択されたスタイルが強調されます。 <私>自身へのこだわり。 <私>自身の「スタイル」を様々な好みのスタイルを組み合わせることで形作ることへのこだわり。 <私>らしさ。 それはまるで実は<私>というものが存在しないことを薄々感じ取っている自分自身が、そのことに耐え切れず、なんとか<私>を見出そうともがいているかのようでもあります。

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