反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する
数ヶ月前から気になっていたことの1つは、自分でブログを書く際、どうも昔に比べて何を結論として言いたいのかを意識して書くことが苦手になってるという感じがしていることです。
何も言いたいことがなければそもそも書くこともないわけで、そこはとうぜん書きたいことがあるから書いているのですけど、でも、いまの僕にとって、その「書きたいこと」というのは間違いなく「結論」じゃないというところがちょっと問題なような気がしていたんです。
僕にとってはむしろ、ダラダラと書き連ねているその過程で書いているそれぞれが「言いたいこと」であって、何か1つの結論をいうためにそれらを書き連ねているわけではないんです。
だから、どうしてもいわゆる起承転結のような文章の構成で書かなくてはいけない動機がないし、そんな風に構造化してしまうことで「すべてが結論のために」みたいになってしまって途中の文章が豊かな意味を失うのは嫌だったりします。
そんなわけなので「結局のところ、何を言いたいの?」とか「何について書いているの?」とか言われてしまうと困ってしまうような書き方でそもそも書こうとしていたりするのですが、そうすると、それは何か結論や答えに至るようなものを期待する読者にとっては非常に読みづらい文章が生成されるという結果になるから、決して読者にやさしい文章にはなりにくいなーということが気にはなっていたのです。
というわけでモヤモヤしていたのですが、ひさしぶりに読んだ高山宏さんの本に、こんなことが書かれていてかな…