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シェイクスピアの生ける芸術/ロザリー・L・コリー

人はどれだけ自分自身で考え、行動しているのか。 僕はそんなことを時折思い出したかのように、繰り返し考えている。 ある意味では、その問いを発し続けることが、僕の人生の1つの大きなテーマであるようにさえ思う。 でも、その問いはもうすこし正確にいうと、こうなる。 「人の考えや行動に影響を与えているものはどんなものなのか、それはいつから、そのように影響しはじめたのか?」と。 つまり、僕は人が自分で考え、自分で行動することなど端からないと思っているわけだ。僕の関心はむしろ、僕らは何によって考えさせられ、動かされているのか?ということになる。 だから、この『シェイクスピアの生ける芸術』という本の冒頭近くで、著者のロザリー・L・コリーがシェイクスピアのやったことについて、こう問いかけるのを読んだだけで、この本がすごく面白い本だと直観できた。 シェイクスピアにとって「アカデミック」とは、その濫用された語の二通りの意味において、何であったのだろう……すなわち、彼にとって、何が単純で、容易で、自然であり、何が研究や学識を要するものであると感じられたのだろう。諸事、アートのなかに封じられると、慣習のかたちをとって「静」と化し、我々が思いを巡らす相手とされる。だが、アートが静を破って、アートがなすはずの、そして現になすようなありとあらゆる仕方で、「生ける」かのように見え、我々を「ゆさぶる」ように見えるとき、もっとみのり豊かではあるが、もっと困難な道のりが始まる。 ロザリー・L・コリー『…

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バラバラに切り刻みこまれた言説が意味が空っぽの器をつくる

物事を総合的な視点で見ようとせず、ディテールばかりを見て論じてしまうがゆえに、議論が空虚なものになることは少なくない。議論されている全体を理解できないがゆえ、自分で見えている断片だけを取り上げて、そこだけから全体の評価を行おうとしたりする会話が多くなればなるほど、議論は無意味なほうに進む。 複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。 そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。 文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。 ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生ける芸術』 これは、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』を評した一節で、「トロイラスにとって、クレシダはその両方をなしたのである」と続く。 『トロイラスとクレシダ』はトロイ戦争末期を描いた劇で、トロイの王のトロイラスは自分の恋人だと信じていたクレシダが、敵であるギリシャの将軍ダイオミーディーズの元に走ったことで、恋愛の文脈においても、戦争の文脈においても、その事実を認めることができず「これはクレシダであり、クレシダではない」と口走ったあと、「女の忠節のかえらが、愛情の残飯が、大盤…

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どこまで愛されているのかその限界を知りたいの

誇張するなら、限界を超えて、いまだないものを創造するほどに誇張するべきなのかもしれない。 クレオパトラ どこまで愛されているのかその限界を知りたいの。 アントニー それならば新しい天、新しい地を見つけなければなるまい。 シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』1幕1場14-17行 シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』。 その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。 張喩、つまり、誇張表現。 それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。 それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。 まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、また互いについて、誤った印象を抱いていたり創り出していたりしていたかもしれない。だが、彼らは何か別のこと、何かきわめて尊く、きわめて詩的なことを試みていたのである。等身大よりも大きいという己れの自身…

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知識をもたない初心(うぶ)な者は機械的な形式にエモーションを操作される、恋愛においてさえも

嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか? シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。 その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。 無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまってしまい、現実とのギャップに空回りをきたし、悲劇的な結末を誘ってしまうことは少なくない。 もちろん、それは恋愛の場合に限らない。 知識が少なければ少ないほど、自分の知識が少ないことに気付きながらそれを補う努力を怠る人ほど、ステレオタイプの型に自らの判断を預けてしまい、さも自分で考え行動しているつもりながら、ほとんどを型に委ねてしまう。そして、多くの型がそれそのものだけでは機能するようできてはいないので、結局、何事もうまくいかず、より面倒な状況に追いやられる。この流れから抜け出すためには、自ら知識をつけ、「知識を元に自ら考える」という編集行為にのりだす必要がある。だが、これをやらない人は多くて、それ…

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思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。 その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。 本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。 だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。 その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。 1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。 もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。 僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団の…

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シェイクスピア・カーニヴァル/ヤン・コット

何回かぶりの書評記事。 とりあげるのは、ヤン・コットの『シェイクスピア・カーニヴァル』。 でも、本の紹介にはいる前にすこし寄り道をしたい。 キリスト教の祝祭が、それまで様々な地域にあった異教の祝祭を吸収・統合しながら成立したことはよく知られている。 たとえば、代表的な祝祭でキリストの生誕祭とされるクリスマスも、古代ローマの祭で、12月17日から23日までの期間に開催されていたサートゥルナーリア祭(農神祭)が元になったと言われている。 この祭、社会的身分制度が覆されることを特徴にしていた。 期間中、奴隷は自由に振る舞い、主人より先に食事をすることが許され、人々はプレゼントを贈りあい、大いに飲んで食べて騒ぐことが許された。マルセル・モースが『贈与論』で語るような贈与性の名残も感じられる祭である。

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