書かれることで、それは外部からも語ることが可能なものとなり、伝承が可能になるのかもしれません。
そして、書かれた元の文章(ブログ)が消えてなくなっても、外部の記憶が再び記録(log)されれば、それはまた別の誰かが語ることが可能なものとなります。
かつては必要だと思いブクマした記事も、それを主張した「ブロガー」自体が消滅する事によって、その価値を失って行く。それが感情論であるならば尚更。どこの馬の骨とも解らぬ、実名も明かさぬ・顔写真も見せぬ不確かな存在だからこそ、このネット上から消えてしまえば、それで「終わり」。だから常に、その主張を生み出したブロガーとして、このネット上に存在し続ける事が大切です。
実際には、ここで話題の対象となっている「きらぶつのkira-laさん」のブログは、上記のheartbreaking.ゆがんだはしごさんのエントリーによって、完全なる消滅をほんのすこしのあいだだけ、先延ばしにされています。
いや、heartbreaking.ゆがんだはしごさんの言うことを逆説的にとらえると、「ブログの世界は「閉鎖したら終わり」ですから」、heartbreaking.ゆがんだはしごさんのこのエントリーが存在する限り、「きらぶつのkira-laさん」のブログが存在したことは記録され続けます。
さらに言えば、この私自身のエントリーによって、私が一度も目にしたことのない「きらぶつのkira-laさん」のブログの存在は完全に消滅することができなくなります。
無文字文化における知の宝庫としての老人
人類誕生から紀元前3300年頃にメソポタミアで文字が発明されるまで、世界のすべての人間社会は無文字文化だった。・・・・・・人間は隠者でもないかぎり、自分の遺伝子を担う者が生き残り、繁殖できるように助けるという意味での繁殖活動を終えることは決してない。・・・・・・現代の文字社会では、高齢になればなるほど老人の貢献度が低下することも認めよう。・・・・・・今日、われわれ現代人は情報のほとんどを書物やテレビやラジオから入手する。文字が現れる以前の社会において知識と経験の宝庫としての老人がもっていた圧倒的な重要性を、われわれは想像することもできない。ジャレド・ダイアモンド『セックスはなぜ楽しいか』
先日、紹介した『セックスはなぜ楽しいか』のなかで、ジャレド・ダイアモンドは女性の閉経がもつ重要な利点の1つとして、無文字文化における老人の重要性を上記のような形で記しています。
無文字文化において、50-60年に一度、部族にふりかかる災難(地震や台風などの自然災害)による危機を乗り越えるためには、前回、実際に危機を乗り越えた方法を知っている老人の記憶がなければ、部族は破滅しかねません。
しかし、女性の高齢出産は、その女性の命をおびやかすだけでなく、知識の宝庫であるひとりの高齢者を失うことで、その家族や部族の存続も危険にさらすことになるのです。
そうしたことからヒトの女性は、自身の遺伝子を未来永劫残すために、閉経という戦略を自然淘汰を通じて選択したのではないかとジャレド・ダイアモンドは分析しています。
記録と記憶
記録と記憶は異なります。記憶はそれをおぼえている者自身によってしか語りえません。
それゆえ、その人が死んだりいなくなったりすれば、蓄積された記憶は外部のものには利用不可能なものになります。
知は記憶とともに抹消されます。
一方の記録はそれを最初に記した者には依存しません。
記録を物理的に保持するメディアさえ失われなければ、そこに蓄積された知は半永久的に(メディアが物理的に崩壊するまで)存続可能です。
しかし、「マーケティング情報の新しい定義」でも触れたとおり、情報とは「生物にとって意味があるもの、価値があるもの、生物に刺激をあたえ行動を促すもの」だったりします。
情報は単に記録されているだけではダメで、生物であるヒトにより記憶されなくては、意味も価値も生まれませんし、それが刺激となり行動を促すこともないでしょう。
ブログを書き続けるということ
heartbreaking.ゆがんだはしごさんは先のエントリーの最後にこう書いています。すべては自分の為・・自分の為なんだと思わなければ、誰も「生きる」答えなんか与えてはくれない。甘えるな。
老人が知の宝庫の役割をほぼ終えた現代の文字社会(情報社会)において、記憶を記録に変換して保存するツールとしてWeblogは意味をもつものでしょう。
それは、heartbreaking.ゆがんだはしごさんがいうように「自分の為」です。
自分の為でなくては、なぜブログを書き続けられるだろうか?と私も思います。
しかし、記録と記憶という、ここまで見てきたような相互の関係から考えれば、記録は記憶として引き出されなければ価値を持たないし、また、記憶は記録されなくては記憶する者が存在しない世界では意味をなさないという意味において、「他人の為」になることもまた免れ得ないのではないかと思います。
それが感情的であろうと、単なる冷徹な個々のプロセスがもたらすアルゴリズムによる結果であろうと、記録と記憶のからみあうブログの記述は、自分と他者を結びつけずにはおかないのではないでしょうか?
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