なんで身に染みるかはまたおいおい書くことにしますが、ここで明確にしておきたいのは、自分の記憶の引き出しが多くないと、どんなに「わかる」機会を与えられても「わかった」という結果を得る確率が高まりませんよってことです。
そんなことをあらためて書こうと思ったのは、今日、会社の後輩に、問題解決と問題の定義の効率について質問されたからです。
「ある問題があったときにパッと解決案が出てくるのはなんでですか?」
「引き出しにある過去の経験から引っ張ってくるから」
「でも、どの解決案が適切かを判断するためには、相手が何を問題にしてるかを理解できないとダメですよね」
「そうだね。相手が何を疑問に感じているかとか、困っているかを相手の話から理解しないとダメだね。相手の話を理解するのにも、ある程度、引き出しが多くないとすぐに理解できないかもね」
要約すると、こんな話をしました(すごく要約してます)。
「わかる」ための2つの必要条件
結局、「わかる」ためには、この2つが必要なのかなと最近思っています。文脈がわからなければ「わからない」。
わかるためには「わからない何か」がなくてはなりません。「わからない何か」が自分の中に立ち現れるからこそ、「わかろう」とする心の働きも生まれるのです。
つまり、
- 「わかる」ための文脈がどれだけ記憶に蓄積されているか
- 「わかろう」とする意欲・好奇心がどれだけあるか
の2つです。
1つ目は単独の記憶というより、記憶のコンテキストも含めての記憶ってところがポイントです。
このあたりはいまの検索がキーワード検索になっていて、コンテキストも加味した検索性が弱いという問題とも関わってきます。ということを書き出すと話が逸れるので、これはまた別の機会に。
ところで、先の2つの条件ですが、これは茂木健一郎さんが「創造性は「過去の経験×意欲」という掛け算であらわすことができる」と言っているのと関係が深いな、と。
「わかる」ということもおんなじなんだろうなという気がしています。
人間って結局、過去に記憶として蓄積されているものとのパターンの類似によって、未知のものを「わかった」と感じているのかなと思うんです。もちろん、パターンの類似であって一致ではないと思います。類似における相違も「わかる」ためには必要な要素です。「わかる」ということは区別できるということでもありますから。過去の記憶との類似と相違に気づくことで「わかった」と感じることができるんではないか、と。
そういう意味で記憶の引き出しの多さって、「わかる」ためにはとても大事な要素だなと思うわけです。
知覚しても「わからない」ことがある
もう1つ、最初に、自分の記憶の引き出しが多くないと、どんなに「わかる」機会を与えられても「わかった」という結果を得る確率が高まりませんよ、と書いたのにはわけがあります。というのも、知覚はしてても「わからない」ってケースがあると思うからです。
前に「3つの種類の「わかる」:「わかる」っていうのはどういうことなのか?」というエントリーで、「わかる」ということをこんな風に3つに分類してみました。
- 「再認」や「再生」としての「わかる」:三人称の「わかる」
- もののよさ、食べ物の味のよさが「わかる」:一人称の「わかる」
- 痛みや喜びへの共感:二人称の「わかる」
2番目の、もののよさ、食べ物の味のよさが「わかる」が、知覚しても「わからない」というケースが非常に起こりやすいのかなと思うわけです。
たとえば、僕がイメージしてるのは、ジャンクフードばかり食べている人が、日本食の繊細な味の違いを「わかる」ことはむずかしいのではないか、ということです。子どもと大人の味覚の違いもその辺が関係している部分もあるでしょう。
先ほど、「わかった」と感じるためには、過去の記憶との類似と相違に気づくことが必要なのでは、と書きましたが、食べたものの味覚の違いに気づける文脈が身体の記憶として蓄積されていないと、いつも食べているものとの違いは知覚できたとしても、それがおいしいと「わかる」ことはできないかもしれないと思うのです。
3種類の記憶
記憶とひとことでいっても、言語化された記憶ばかりではありません。味のように、言語化されない記憶も身体にはたくさん蓄積されています。スポーツ選手が一般の人よりスポーツがうまいのも身体に記憶の蓄積があるからです。
先に引用もした山鳥重さんの『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』には、こんな図が紹介されています。
記憶が進化の流れの中で出現し、時間をかけてその性能を高めてきた機能であり、通常われわれが、忘れる、覚える、などの言葉で表現する記憶は、動物行動という大きな立場からすれば、氷山の一角にすぎないということを強調しておきたいと思います。
一番下層の「種としての記憶」は、個々人がどんなに努力しようといまさらどうしようもないものですが、そのうえの2つの記憶の層は経験を増やせば、いくらでも自分の引き出しを増やすことができます。
そして、この記憶の蓄積の努力をどれだけ意識的に、かつ、積極的に行っているかどうかが、未知のものに相対したときに「わかる」とか感じるか、何も感じずに見過ごすかの境目になるのだと思います。
もちろん、記憶の引き出しを意識的に増やすには、おんなじものばかりに触れていてもダメで、みずから積極的に未知の領域に身を乗り出していく必要があるでしょう。
それは読書でも、仕事の内容でも、旅先や人との出会いに関しても。
もちろん、おなじ領域でもより深く踏み込んでいくという形で記憶の蓄積を増やしていくこともできると思います。
その経験のよさが「わかる」のはどうして?
ところで、最近、経験価値が大事とかなんとかいう論調が多いですけど、たびたび書いているように僕はそれに関しては疑問を感じる点があります。それもこの記憶の蓄積と「わかる」という話に大いに関係しています。
経験なんて生きていれば四六時中なんらかの経験はしてるわけで、そのなかで価値ある経験だと「わかる」のはほんの一握りです。そして、経験の価値が「わかる」ためには、価値を感じられるかどうかの経験の蓄積によって大きく異なります。細かな味の違いを感じて、それをおいしく感じたりするためには、ある程度、いろんなものを食べなれていなくてはいけないはずです。
1つ前の「なぜデザインなのか。/原研哉、阿部雅世」というエントリーで、原研哉さんの「欲望のエデュケーション」という話をしましたが、経験が大事だっていうときの価値が「わかる」経験っていったいどういう経緯でその価値が「わかる」ようエデュケートされたかをよく考えてみたほうがいいんじゃないかって思います。それが単にマーケティング的な策略にのせられてエデュケートされたのか、それとも、母親が健康などに気遣ってつくった手料理によってエデュケートされたのか、を。
このあたりのことに対して無自覚のまま、これからはものではなくて経験だよ、なんて思ってるのは、ちょっと危ういんじゃないかと感じています。
それって単にもの自体の品質から目を逸らされて、小手先の演出をユーザーエクスペリエンスだとか、おもてなしだとか称したものに躍らされているだけの可能性もあるかもしれないからです。
それってちょっとさみしくないですか?
それよりもちゃんと自分の舌で味の違いを楽しめるようになりたいな、と。そう思ったりします。
それにはやっぱりいろんなものへのチャレンジする意欲が大切か、と。
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