思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう
前回の記事「多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀」で紹介したジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読み終えました。
図版と思考の深い関係性について自分が考えていることがどれだけ的を得ているかを知りたいという興味から17世紀ヨーロッパに目を向け、手に取った本でしたが、読み終えたことでよりいっそう思考と図版を含む視覚表現との関連性についての関心が大きくなりました。それでいまは、もっとこの時代の図像と思考の共犯関係を明らかにしたいという気持ちからホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』を続けて読みはじめています。
ホルスト・ブレーデカンプは、前に書評記事でも紹介した、キルヒャーと同時代を生きた年下の哲学者・数学者であるライプニッツの思考と視覚表現の関係を考察した『モナドの窓』の著者でもあります。その本がとても興味深かったので、いま読みはじめた『芸術家ガリレオ・ガリレイ』も出版された際に購入しておきました。
その『芸術家ガリレオ・ガリレイ』に、こんなことが書かれています。
ガリレイ、ホッブス、ライプニッツが好んで図像を使って思考を遊動させる、なんという徹底ぶりであろう。なおさら膨大な研究がこの側面をないがしろにしているのは驚きである。これほど広範に抑圧が蔓延していることからすれば、原因はヴィジュアルなもののフェイドアウト、過小評価、いや軽蔑にあるのだ。ヴィジュアルなものこそヨーロッパの悟性構造に深く根ざしてい…