征服され、欲望を感じて〈私〉は融解する

難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。
あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。



明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。

企図されたもの。明らかすぎる知識。
わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。
それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。

「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もうとする意思。いったい、それのどこが面白いのか。一度も決断することなく、歩まずともすでにわかっている結末に向かって、なにも考えないまま進んでいく。心をドキドキさせる不安はそこにはただの1ミリもない。
バタイユは、そんな企てに、内的体験なるものを対置する。
「内的体験は行為の反対物であって、それ以上のものでもないのだ。「行為」は完全に企ての支配下にある」と。
私はどのようにしても逃げることはできず、限りない全面的衰弱のなかに投げ込まれ、私自身へと投げ捨てられ、いや、もっと悪い、私は空虚で、無関心であるだろう。だが内的体験は征服行為であり、そして、征服行為として、他者のためのものなのだ! この体験においては主体は錯乱し、客体のなかにおのれを滅ぼす。そして客体自体もまた消滅するのである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

逃げることのできない征服行為。征服行為である内的体験のなかで私は錯乱し、征服してくるドロドロとした腐敗的な得体の知れない他者のなかに崩れ、融解する。それが最初から決まったゴールに何の危険も犯さずに進む企てとは正反対なのは明らかだ。
けれど、この腐敗に征服され、自らを投げ捨てる勇気をもった内的体験への衰弱した意思こそが、実のところ、生きた心地を感じさせる唯一のもののような気がしている。

非蓋然性の昏い夜

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」とうたったのは他でもない空海だが、バタイユもまた生のはじまりに非蓋然性を見、生の終わりの死には近接不能性をみる。
死は人間を動物性へと投げ返すけれども、動物は死を知らない。理性の化身たる理想的人間は死に対して無縁のままだ。神の動物性は神の本性に本来的なものである。同時に汚くて、(悪臭を放って)、また聖なるものである。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

生まれる前も、死んでいくときも、僕らは蓋然性=わかりやすさから遠く離れた昏い夜のなかから来て、そこへと消えていく。けれど、そんな昏い夜は、生きている間も決して僕らとは無縁ではないはずだ。それはいつでも僕らを征服しようと、僕らの傍にある。僕らはただ何も考えないようにして、わかりやすいルーティンの奴隷になることで、そんな自然のもつ真っ暗な闇を見て見ぬ振りをしている。

僕らは忘れているが、生まれてくる前の僕らはドロドロの何かから生じるし、死した僕らもまた放っておけば蛆がわいてドロドロに溶けていく。



だからこそ、原始的な人々は死を怖れ、死を自分たちの生活の外へと追い払おうとした。それが禁忌であろう。
とにかく、死の「否定」は、原始人の複合的感情のなかに与えられている。単に生滅への怖れに見合う形で与えられているばかりか、生命の普遍的発酵のなかにぞっとするような兆候を見せている自然力へと、死がわれわれを連れ戻すかぎりにおいても、与えられているのである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

発酵というドロドロした自然的なものへの回帰。それは自然から離れることで獲得した人間性を喪失することでもある。

ドロドロした腐敗は、人間性とは距離を置いたところにある。
だからこそ、それは「同時に汚くて、(悪臭を放って)、また聖なるもの」としての神性ををもつ。

恍惚は、均衡喪失から生まれる

神性をもつからこそ、その昏い夜の闇はその神性を犯そうとする誘惑を人間に与えもする。
エロティシズムの根源はそこにある。それは決して動物的野生への回帰ではない。動物性から離れた人間であるがゆえ、禁忌を犯そうとするベクトルにこそ、エロティシズムは生じる。
実際、われわれがやがて見るとおり、エロティシズムが形成されるためには、怖れと魅惑との交互作用、否定とそれに続く肯定という交互作用が起こるということが、論理的に当然なものとして含まれているのである。そういう肯定は、それが人間的であり(エロティシズムであり)、ただ単に性欲的でなく、動物的でないという点で、直接=無媒介的な前者(すなわち否定)とは異なっている。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』

ルーティンにひたすら身をよせ、すこしも勇気を振り絞る決断をもとうとしないものは、このエロティシズムとすら無縁ということになる。そこにドキドキがないのは当然だろう。



あまりに人間的なエロティシズムからも離れてしまった、機械=動物的なルーティン人間は、だから、すこしでも
慣れ親しんだルーティンから外れた途端、フリーズしてしまう。決断をしたことがないから、企ての外で動くことができないのだろう。

そういう様子を思考停止と呼んだりするが、実際ははじめから思考は動いていたわけではないから停止は正しくない。
ルーティンのなかで動いているのは、単なる記憶されたものの再生であって思考と呼ぶのはどうか。

その頭の使い方ではちょっとむずかしい文章に出くわしただけでも、それを解釈するという思考が働かないのではないかと思う。また、いままで出会ったことがない事象を前にしたとき、その目の前にあるものから自分が感じたことを言葉にすることもうまくいかないのではないだろうか。

なぜ、もっと不安と仲良くやれないのか、と思う。
ぼんやりとした闇に身を浸して何もかもがわからなくなった宙釣りの状態で、自らの肉体や外部から忍び寄ってくる得体の知れないものの気配をただただ感じる喜びを肯定できないのか、と。
そこにこそ、精神を豊かにする「恍惚」があるはずなのに。
私は、本能にそそのかされて、私が現に落ち込んでいる埋没状態に対する嫌悪から、恍惚を迎えにゆくことはできる。このとき、恍惚は、均衡喪失から生まれるのである。私は外的な諸手段によるほうが、いっそうよく恍惚に到達できる。つまり、私自身の内部には、必要な手筈が見つからないからだ。かつて私から恍惚を知った場所、肉体的感覚の魅惑の記憶、私に的確な記憶をとどめている月並な環境、そういうものは、叙述的精神の運動が行なうあの自発的な繰り返しよりも、はるかに強大な喚起力をもっている。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

わかりやすすぎる企てからは均衡喪失は生まれない。得体の知れないものとの出会いも交流もそこにはない。そうした出会いや交流がなければ「私自身の内部には、必要な手筈が見つからない」わけで、そこには心を動かす恍惚など生じる可能性はない。

恍惚を欠いたもの。それは動物か、機械かのいずれかだろう。

犬のように死ね

こうしたバタイユの決して明確ではないアフォリズム的な言葉に最近よく触れているからこそ、明るさ、軽さ、善良さ、わかりやすさといったものが不健全に思えてならない。
そして、その反対に、昏いもの、重苦しいもの、悪や不良、そして、知を超えていくものに惹かれてしまうのだ。



恍惚を欠いたものは動物か、機械かのいずれかだと書いたが、もうひとつ、言えるのは、それは骸骨でもあるということではないか。
通常の条件下では、時間は廃棄されていて、もろもろの形態の、あるいは予見された変化の永続性のなかに閉じ込められている。秩序の内部に書き込まれた諸運動は時間を停止させ、尺度と、透過性のなかに凍結してしまう。「万象の死滅」はもっとも深いところからする革命だ-それは「蝶番から外れた」時間だ。骸骨がその表象となるだろう。骸骨は腐敗の終わったときに出現する。幻めいた骸骨の現存在が、腐敗のあとに生まれる。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

時間が廃棄された企ての空間。時間をともなう死においては悪臭を放つ腐敗がそこにはあるが、時間が廃棄されれば、そのあとには腐敗という生命=自然の活力を失った骸骨しか残らない。
腐敗は次の生命を生むが、骸骨はもはや何も生まず、時間さえそこには流れていない。
ルーティンのなかで生きるというのはそうした骸骨とともに、骸骨のように生きるということだ。

骸骨のように生きるのなら、犬のように死んだほうがマシだと思う。
だが、遥かな可能性のなかでは、この「犬のように死ね」の純粋さは情熱というものの欲求に対して答えている~ただし主人に対する奴隷の情熱にではない。死に身を捧げる生とは愛する女へ向けられた男の情熱だ。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

「時間とは、真実らしく見えた諸客体の逃走をしか意味しない」とバタイユはいう。
時間を動かし、情熱を求め続けるためには、真実らしくみえるものを自らの頭のなかから追いだし、もはや真実らしいものも何もないよう非蓋然性の夜へと自らを溶かし込むことこそが、普通であるような日々をすごす必要がある。

もっと不安な夜を愛そうではないか。



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