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声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング

ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』。原題は"Orality and Literacy"。 当ブログではここ最近何度も取り上げてきたこの1冊を今日はあらためて紹介してみようと思います。 著者自身が「序文」で書いているように、この本の主題はオラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いを明らかにすることです。 あるいは、すでに文字があることやそれを使って生きるということに親しみすぎてしまって、もはや文字がない生活や思考がどういうものなのか想像もできなくなっている僕ら現代人にも、文字のない声の文化における思考や言語表現がどのようなものであるかを知れるようにすることが本書の主題だともいえます。 実際、文字を使って思考し生きることに親しみすぎてしまっている僕らは、文字をもたない人びとがどれほど自分たちとは異なるかを想像することもできません。 例えば、こうやってブログを書くことに関してもそうです。文字がなければブログが書けないのは当然としても、実は文字がなければ文章でそれを表現できないどころか、同じような内容で考えることさえできないことを僕らは見過ごしています。 僕自身、実際、文字をたよりにせずに、いつも書いているように長文のブログと同じ内容を話せるかといわれると絶対無理だと思います。似たような事柄を含む話はできると思いますが、ブログで書いているような文体で話をすることはまず不可能です。よく実際に会ってみるとブログを読んでいる印象と違うと言われること…

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自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇

日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは本当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日本文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。

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ブログを書けない人に共感できる部分

皆さん、ご存知のとおり、僕自身はまったくあてはまらないのですが、ブログを書けないっていう人にもちょっと共感する部分があったりします。 どういう時に共感を感じるかというと、PodcastとかVideocastとかをイメージしたときです。 ブログは書けても、PodcastとかVideocastとかは自分じゃハードルが高いなって感じる。それは恥ずかしいとか、めんどくさいとか、何をPodcastやVideocastにしていいかわからないとかいうのとは、ちょっと違う。「恥ずかしい」を除いた部分はちょっとはあるんだけど、根本的なのは、自分がテレビとかラジオとかを見たり聴いたりしないからなんだと思います。YouTubeすら見ないから、そもそも動画系のコンテンツにリテラシーは結構低いんだろうなという気はします。 映画を見たり、音楽を聴いたりはするので、実は映像、音声全般に対するリテラシーが低いというよりは、映像、音声系のおしゃべりに対するリテラシーが特に低いんだろうなと自己分析します。 かといって、楽器が弾けるわけでもないし、映像作品をつくれるわけでもないので、おしゃべり系以外のものを発信するほうはやっぱり能力的に低い状態ではあります。 本を読んだり、文章を書いたり、提案資料を作ったり、メールでやりとりしたりという感じで、文章の読み書きに関してはリテラシー的に何の問題もなく、それでブログを書くのは平気なんですけどね。 そんなことを考えると、ブログを書けないっていう人の中には、僕のPod…

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