編集的思考でみずから解釈する、詩人のように
編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。
レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの
いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。
そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
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