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わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。 わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。 カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。 その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。 それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。 その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。 外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。 もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。 現実はもうすこしだけカオスに近い。 けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。 僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。 わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら…

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読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル

考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。 考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。 思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。 そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。 インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せるようになっても、はたまた、さまざまなコミュニティにおいて開かれた形での勉強会やセミナー、ワークショップなどで知を有するもの同士がその知をつなげて新たな価値をその場でつくりだせるような時代となっても、知識を思考につなげるという観点においては、いまなお書籍というメディアの果たす役割はほかの何かに劣るようにはなっていないと思っています。 特に個人の思考力を高めるという観点においては、これほど強力なメディアはいまだ他にはないでしょう。 最近、あらためて「独学力を鍛えることが大事!」と思っているのですが、この独学力があるかどうかって、読書をどれだけできるか、読書をどれだけ思考につなげられるかということのほ…

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インヴェンション/高山宏、中沢新一

前回の記事で高山宏さんの本を紹介したら、なんだか高山さんの本が読みたくなって週末にAmazonで2冊ほどポチっとしました。届いてさっそく読みはじめて、さくっと読み終わったので紹介。 読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』。 高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。 2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。 この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。 高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。 この本を読んでみるまでは…。 そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。 まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。 高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰め…

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知らないのは名詞だけではない

普段読まないジャンル/カテゴリーの本を読んでいると、知らない固有名詞がたくさん登場して、なかなか読み進められないことがある。 特に海外の文化を扱ったものは、人名や地名に馴染みがなく、イメージがわかない。 それ以外にも馴染みのない分野の本を読むと、その分野の専門用語が登場して何を言ってるのかわからないこともある。かといって専門用語を使うのは、内容をわかりにくくするからよくないなどとは思わない。専門用語がわからなければ自分で調べればよいからだ。 例えば、そのわからない用語を調べるために、別の本の力を借りる。そのことで読む本が増える。 それが本来読書の楽しみのひとつだったのではないだろうか。 過度に平易なことばばかりを使った本や、簡単にわからない用語を調べられるインターネットはそうした読書の楽しみを奪っているように思う。

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「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味

「僕にはそれは無理」「私にはちょっとむずかしすぎる」 うーん。なんでそう自分を決めつけちゃうんでしょうね。自分を一点に縛りつけようとするんでしょう。 そのほうがラクだからなんでしょうね、気持ち的に。 私は○○だ。○○はそれはできない。だから、私はそれができない。 と言い訳を組み立てた方が「できない」ということが理屈にあってて仕方のないことだという気がしますからね。 実際にはそうはいってても「できない」はずのことが「できちゃった」なんてなる日が来ないとは限らないんですけど。人って自分で自分をいくら決めつけたところで変わるものですから。 その意味で、ある時点であることができた/できないということで、自分の可能性なりタイプなりを固定してしまうことには大した意味はないし、むしろ、そうした自分に対する固定観念は邪魔になるだけだと思うんですけどね。

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2009-04-30:知るということは危険をともなうこと(だから、おもしろい)

昨日の「今日のびっくりどっきりメカ発進!」でのびっくりどっきりもあって、今日はなんとなく気分が冴えませんでした。 世の中の人って、いまや予測ができないこと、計算できないことを、あんな風に厭い、恐れるものなんでしょうか。何かを知るということのリスクを極力減らそうとし、自分だけは安全で楽なところから物事を操作しようとするのでしょうか。 はっきりいって、それなら学習や勉強をする必要なんてないと思います。 「多読術/松岡正剛」というエントリーで、松岡正剛さんが〈読書はそもそもリスクを伴うものなんです。それが読書です。ですから、本を読めばその本が自分を応援してくれると思いすぎないことです。背信もする。裏切りもする。負担を負わせもする。それが読書です〉と言っているのを紹介しました。リスクを負って自分が予測も計算もできない方向に変わってしまうことを受け入れることが、知識を得るということだと思います。 前にも書いたとおり、「わかる」ということは「かわる」ことにほかなりません。それが嫌なら思考を停止させて、勉強などせずに一心不乱に目の前の労働に打ち込めばよいのです。 買い物に出かけても、近くの喫茶店で読書をしていても、頭のなかではそんなことばかりが思い浮かんだ一日でした。

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