CSV etsy Facebook HCD Heller’s Cafe IA iPhone KJ法 P2P twitter UI いき こだわり つながり わかる わたし アイデア アビ・ヴァールブルク アフィニティマッピング アフォーダンス アブダクション アリストテレス アルチンボルド アルドロヴァンディ アンチ・ディシプリナリー アントニーとクレオパトラ アントレプレナー アーカイブ アート アートプロジェクト イエイツ イコノロジー イデア イノベーション イメージ インターフェイス ウィリアム・モリス エスノグラフィー エロティシズム オウィディウス オセロー オブザベーション オラリティー オルフェウス オープンイノベーション オープンソース オープン・イノベーション オープン・サービス・イノベーション オープン・リーダーシップ カブーム カーニバル ガリレオ・ガリレイ キルヒャー ギルド クックパッド クラーナハ クリエイティブコモンズ クリエイティブ・コモンズ グラフィック思考 グロテスク ゲーテ コミュニティ コミュニティデザイン コラボ消費 コンテンツ コ・ワーキング ゴシック建築 サイエンス サイン サン・テティエンヌ大聖堂 サン=レミ大聖堂 サービスデザイン シェア シェアハウス シェイクスピア シェークスピア シックスシグマ シャンパーニュ ショーケース ショールーム ジョン・ラスキン スタイリング スタートアップ ソネット ソーシャル ソーシャルイノベーション ソーシャルメディア タピスリー タンジブル・シンキング ダンス チェンジメーカー テキスト テクスト テクノロジー デカルト デザイン デザイン​思考 デザインリサーチ デザイン思考 トマス・アクィナス ナチュラル・ヒストリー ノマド ノヴァーリス ノートルダム大聖堂 ハンス・コパー バタイユ バロック バーバラ・M・スタフォード パウル・クレー パトス パラダイム パリ ヒエログリフ ビジュアル・シンキング ピダハン ピナ・バウシュ ファウスト フジタ礼拝堂 フリー・カルチャー ブログ ブーツ プロトタイピング ベーコン ホイジンガ ホワイツ ボックの砲台 ポンピドゥー・センター・メス マクルーハン マス・コラボレーション マニエリスム マネジメント マリオ・プラーツ マンテーニャ ミュージアム ムナーリ メタファ メディア メディア論 ユーザビリティ ユーザーインターフェイス ライティング ライバル ライプニッツ ランス リアリズム リア王 リサーチ リテラシー リーン・スタートアップ ルクセンブルク ルネサンス ルーシー・リー レンブラント ロジック ロフトワーク ロマン主義 ロマン派 ワークシフト ワークショップ ワーク・シフト ヴァールブルク ヴィンテージ ヴンダーカンマー 不確実性 世阿弥 中世 予測 人事 人類学 仮想現実 体験デザイン 作法 保守的 個人 倫理 働き方の未来 共感 写実主義 写本 写真 出版 博物学 博物誌 博物館 印刷 印刷本 印象派 口承文化 告知 哲学 啓蒙 図像 図書館 図表 坂口安吾 変形 変身 夏目漱石 大学 好奇心 学び 学術 宮古島 宮本常一 家族 展覧会 市場経済 平賀源内 建築 思考 思考方法 情報 情報爆発 想像力 文字 文字文化 文学 文書 文章 料理 断片化 新古典主義 方法 書籍 未知 構造主義 標準時 機織り 正しさ 歴史 民俗学 民藝 洞窟壁画 理解 生き方 生活 生物 生理学 田中純 発想力 発想術 発見 目利き 知識 研究 祝祭 神学大全 神話 科学 笑い 紋切り型 経済史 経験 絵画 編集 美術 美術史 自然主義 芸能 芸術 著作権 蒐集 街づくり 複雑系 視覚 視覚芸術 視覚表現 視覚表現技術 観察 言葉 記憶 記憶術 詩人 話しことば 誇張 認知 認識 読書 読者 諸行無常 講演 議論 象徴 象徴主義 遠近法 野菜 鉄道 陶磁器 陶芸 電子書籍 震災 青い花 非知 食文化 驚異 高山宏

ホメロスらの詩的作品が「ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごと」であるのと全く同じようにユーザーインターフェイ…

前回「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは人間が離れた場所から目を向けるグラフィカルな視覚重視のものから、人が内部に参加する形でそれを体験する建築的なものへと移行する」を書いたのが、7月6日の土曜日なので、すでに10日以上が過ぎました。ブログを書かない日々がどんどん過ぎ去っていくのを感じて、おやおやと思っています。 あいかわらず「声の文化」という僕たちにとっては非常にオルタナティブな環境に生きた人びとの思考に驚きを感じつつ、人ともの、あるいは、人と情報のあいだのインタラクションの可能性としては、印刷以降の視覚偏重思考を超えたものを「声の文化」的なところから考えることができそうだなと感じつつも、なかなかそれをこまめにブログを書いていくことができなくなっていて、ちょっと残念。 その分、Facebookページのほうに小分けにして、このあたりの考えを書き出してもいるので、気になる方はそちらも見ていただいて、どんどんコメントください。 DESIGN IT! w/LOVE Facebookページ さて、そんな風にブログを書かずにいるあいだにも読書のほうは進んでいて、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』を読み終え、メアリー・カラザースの『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』を読み始めています。 これがまた、おもしろい。 記憶術という点では「記憶術/フランセス・A・イエイツ」であったり、中世ヨーロッパの思想という点では「中世の覚醒/リチャード・E・ルー…

続きを読む

人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く

昨日、仕事で大阪に出張したのですが、時間の都合がついたので、ついでに日本三大祭りのひとつに数えられる天神祭をすこしだけ覗いてきました。真夏の炎天下のもとでの祭りっていいですよね。こんな風に獅子舞も行列に加わっていました。今年は縁あって、おなじ三大祭りのひとつ祇園祭も鉾立ての時に顔を出せたのですが、やっぱりこういう祭りの体験っていいなと思います。 さて、話はいきなり変わりますが、すこし前ですが、こんな記事を読んで、なるほどと思いました。 小説家の平野啓一郎さんとプロダクトデザイナーの山中俊治さんの対談です。 その中で、平野さんがこんなことを言っています。 読者の声を小説のインターフェースにどう反映させるかを考えたときに、僕はコンピューターのインターフェースの感覚が、今の読者の中にはすごくあるんだと感じます。銀行のATMが使いにくかったら、ユーザーはすごく怒るし、パソコンが使いにくかったり、アプリのユーザービリティーが低いと、みんなすごくストレスを感じる。今、小説の読者の中にも、同じような問題があって、小説が読みにくいこと、あるいは分かりにくいことに読者は、かなり強いフラストレーションを感じます。 「読みにくい小説」や「使いにくい製品」は、結局なにも伝えられない| nikkei BPnet 平野さんは「小説の売り上げと部数が低下している」要因を、普通ならマーケティングの問題として捉えるところを、この引用にあるようにデザインの問題として捉えているんですね。 この発言が僕…

続きを読む

記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)

昨日は、新宿ピカデリーのサイン計画などを手がけたことで知られる早川克美さんの「情報コミュニケーション環境のデザイン」(Ustreamログ)というトークイベントに参加させていただきました。 自分でセミナーでお話させていただく機会はたびたびあるものの、他の方の講演を聞くことがほとんどない僕にしては、こうしたイベントに出向くこと自体、とてもめずらしいことなのですが、参加した価値があった!と思わせてくれる楽しい時間をすごさせていただきました。 早川さんとは昨年からTwitterで何度かやりとりをさせていただいていたり、今年のはじめにお会いしてお話をさせていただいたりする中で、とても共感する部分が多いので、今回はぜひ話を聞いてみたいと思って参加させてもらったのですが、あらためて早川さんの歩んできた思考の道のりの一端をお聞かせいただいて、なぜ共感する部分が多いのかがわかった気がします。 簡単に言ってしまうと、問題意識というか、興味をもっている対象が非常に近くて、それに対するアプローチにも重なる部分があるのだなと気づかせてもらったんです。 早川さんのように一貫してサインというものを考えてきた方にくらべると、僕のほうはなんとも浮気性で興味の対象もあちこち目移りしてしまう質なので、「重なる部分が多い」などと書いてしまうのは失礼なんですが、早川さんのやってらっしゃる建築環境のなかでのサイン計画や空間におけるコミュニケーションシステム設計における「空間の情報化」と、僕が専門にしているウェブやソフトウ…

続きを読む

姿勢と動作と気分、そして、モノの形

ライフスタイル研究会ではじめた、食やキッチンに関するプロジェクトのことを考えていると、あらためてユーザーインターフェイスにまつわる身体性の重要さについて考えさせられる。 先日のキックオフでも、身体が覚えている記憶が触覚によって意識の上にも呼び覚まされるということが話題になった。 例えば、硯とおなじ素材を使った皿は見ているだけだと単なる黒い皿だったのだが、もってみると誰もが「あっ、硯だ」と感じたり、それと同時に墨汁のにおいを思い出したり。触覚的な記憶が触っただけで同素材の皿から硯の記憶を呼び覚まし、さらに墨汁のにおいを連想させるのだ。 この素材じゃコーヒーカップは作れないね、だって墨汁を飲んでる気分になりそうだからという話にみんなが納得。 あるいはまた、僕が金属のスプーンを口にいれるのが苦手だというと、なぜそうなのか?という話になり、「スプーンでいじめられたことがあるんですか?」などと言われつつ、結局、僕自身も気づいていなかった、子供の頃、病院で診察を受けた際の口に金属のへらのようなものを入れて、あーんと開けさせられたイヤな記憶が原因ではないかということになった。これは確かに僕自身も納得。スプーンを口に入れる際の不快さは、あの体験と同じなのだ。 こうした食器やスプーンは、食事をとるためのユーザーインターフェイスである。 その食事のためのインターフェイスが、この2つの例のように場合によっては食事をおいしく食べるための障害にもなりえるのだ。 そんなことを考えてい…

続きを読む

思考のプロセスの4段階と作業空間の関係

「情報摂取の場・過程・作法をみなおす」では、本という情報メディアと本棚というスペースの関係について書きましたが、今日はそれに関連して、情報を扱う作業とスペースの関係について書いてみようと思います。 まず、情報を扱う作業をするためには、ある程度のスペースが必要だということはKJ法をやったことがある人なら誰もが実感したことがあるのではないでしょうか。たとえば、A4の用紙に書かれた文章が10数ページもあれば、大きな模造紙2枚分くらいのスペースがないとKJ法はできません。 フィールドワークなどの定性的な調査で集めた手元の情報を、ある程度、人間が把握した上で有効に活用しようとすれば、PCのモニター上のスペースではあまりに小さすぎます。情報をポストイットやカードに手書きで写すか、プリンターで出力してカード状にするかは別として、いったんは単位化した情報を大きなスペースに広げてみて全体を整理してみることが必要になります。 KJ法というのは、カードやポストイットなどの形で単位化した情報群のマップをつくる思考のための作業です。そのマップ作成の作業をするのには、情報量に応じたスペースがいる。ある程度の広さのスペースを使って情報を圧縮していく作業が、結局は頭のなかの小さな空間に情報の全体像を示した地図を刻んでいくことになります。僕は仮説として、ある程度の量の情報からしかるべき形の発想、仮説形成をするためには、ある程度の広さをもった空間が必要になるのではないかと思っています。 今日はそれにつ…

続きを読む

携帯電話のディスプレイをヨコ画面中心で考えると・・・

いまの携帯電話はタテ画面での表示がデフォルトで、ワンセグなど一部のアプリを利用する際にヨコ画面表示ができるようになっているものがありますよね。それにあわせて本体のディスプレイ部分のみをヨコ向きに回転できたり、とうぜんGUIもヨコ画面にあったレイアウトに変化します。 ちょっと思いつきレベルの話ですが、あれ、ヨコ画面がデフォルトあってもいいんじゃないかって思いました。いや、むしろ、ヨコ画面表示のみの携帯があってもいい。QWERTYキーのスマートフォンとかでなくて、通常のキーをもつフツーのケータイでも。

続きを読む

もっと見る