メタモルフォーゼする僕ら
定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。
後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。
そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。
起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。
エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。
ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事でも紹介したように、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」をする思考のスタイルを指すシューエルの用語である。
つまり、生物がそれを満たす自然という対象をみる視点として、詩的で神話的な見方を導入するのだが、そこからみると、世界は変形がデフォルトで、かつ、その変形を促すものがとてもインタラクティブなものだということが自然に思えてくるのだ。
そう。僕らは常に何者(ら)かよって変形され続けている(ステキなことだ)。