「個人」という古い発明品
今日は「個人」とは発明品だ、という話をしましょう。
早速ですが、個人主義が発明されたのではなく、個人そのものが発明されたと僕は認識しています。
すでに「新しいことばのデザインパターンの追求」で〈「所有」や「個人」という概念の変化〉という話題を取り上げ、印刷された聖書を得たピューリタンたちは儀式空間である教会をナンセンスと捉えたという例をあげながら、共同体の一心同体の中世的人間から独立した個人という意識をもった近代的人間への変化について紹介しました。
また、それに関連する事柄としては、以前の「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも、印刷による書籍の個人的な所有を期に、それを個人的に読むための空間としての個室の誕生、音読(聴覚で読むこと)から黙読(視覚で読むこと)への変化、黙読とおなじ内面の領域で行なわれる思考を刻みつける日記の誕生といった変化についても紹介しています。
つまり、これまで教会などの知識層に独占的な写本という形態でしか存在しなかった書籍という情報・知の蓄積メディアが、活版印刷によって個人が所有できるようになったことで、教会という共同体的儀礼からの解放や、共同の読書空間での音読から個室での黙読への移行、内面を綴る日記という表現形式の成立という変化を引き起こしたわけです。そして、それと同時に、そうしたメディアによって機能拡張した人間は、それまでの中世的役割からは独立した「個人」という超役割を手に入れたのです。