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経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード

「いわゆる情報化時代のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない」。 この本の著者であり、アフォーダンス理論の創始者J.J.ギブソンの流れを引くエドワード・S・リードでそう書いて、「経験のための戦い」をはじめます。 情報を処理し伝達するためのテクノロジーはここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだ退化しつつある。 エドワード・S・リード『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』 と続けながら。 この情報化時代にあって、人々が経験から積極的に意味を形作り、経験から知を獲得することから離れて、すでに加工済みのテキスト情報や動画情報などを受動的に受け取ることやその情報の加工や処理ばかりに、時間や労力を費やすことを、著者は問題にするのです。 それが日常生活のみならず、教育・学習の場である学校でも、知的生産の場であるはずの職場でもいえ、人々がますます意味を作り出すコミュニケーションから、あらかじめ意味が決定されたデータを右から左へ移動させることに終始するという、非生産的な活動の時間が増えることが問題だというのです。 ただ、著者のリードは「処理情報に本来まずい点はなにもない」とも書いているように、情報技術に対して戦いをはじめようとしているのではありません。そうではなく「まずいのは社会だ」とリードはいいます。 つまり、だれもがどこでも利用できるような類の、ほんのちっぽけな量の処理情報…

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経験と方法

最近、経験の力というものをよく感じます。 経験を積んだ人は見えるものが違うし、相手が何が見えていないかを察する力も違うのだなと感じます。同じものを見ていて、同じことを話していても、経験を積んだ人の視野は広範囲に渡っていて、かつ深い。1つ見れば、そこに存在しない別の可能性をいくつも見通すことができる。この経験者が見通したものを、他の人たちにも共有できれば、どんなによいものか。 でも、実際には経験者が自分が見えていることを、経験のない人に話してわかってもらおうとしてもなかなかむずかしいんですよね。しかも、それは経験者の言語力の問題によるものだけじゃないというところが問題をむずかしくします。 同じくらい経験してる同士なら、多少、言葉が足りなくても伝わるし、言わなくても相手がわかってるかどうかを察することができることでも、経験の度合いが違うと、そう簡単にはいかなくなる。丁寧に言葉を選んで伝える必要があるし、場合によっては、具体的な例で示してあげる必要があります。 一番の問題は、それをやっても伝わらないケースは少ないということ。例をあげて説明した場合でも、その例の内容は理解できた、でも、それの何が問題なのかが経験がないために理解できない場合もある。こうなると、結構、お手上げです。

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バガボンド(放浪者)の経験知

やっぱ行動しなきゃダメでしょという主旨で書いたのが、「機会がないとか経験がないとかいうけれど」というエントリーでしたが、『表象の芸術工学』を「デザイン関係者必読の本」として紹介した高山宏さんが別の本『近代文化史入門』で「経験」に関しておもしろい話を書いてたので、ちょっとそれについて書いておこうか、と。 18世紀半ば、イギリスでは「エクスペリエンス」という言葉がキーワードになる。 高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』 言われて気づきましたけど、確かにイギリスって経験論哲学の国でしたね。この経験論哲学の「経験」に高山さんはとんでもないつながりを見出してしまってます。 イギリス人の「経験」観をわかりやすく示すならば、イギリス人のこの曲線路好きを挙げればよいとぼくは思う。 高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』 「この曲線路好き」とは、「デザイン関係者必読」に耳を貸して『表象の芸術工学』を読みはじめた人にはわかるように、英国式庭園の蛇行する路を指しています。18世紀にイギリス人は国中いっせいに「イタリア亜流の風景」を再現した英国式庭園をつくります。この流行を理解するには、それ以前のピクチャレスクの流行、さらにそれに先んじるグランド・ツアーの流行を理解しないとわからない。そして、それがわからなければ近代デザインも、エクスペリエンスをキーワードにした現在のデザインの流行も決してわからないと僕は思います。 その意味で高山宏さんの『表象の芸術工学』やこの『近代文化史入門』という本はいま…

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「わかる」ためには引き出しを増やさないと

年末に「創造性を高めるために必要なもの」というエントリーを書いたときにも言いましたが、記憶の引き出しが多いってことがいかに大切かってことを最近身に染みて感じています。 なんで身に染みるかはまたおいおい書くことにしますが、ここで明確にしておきたいのは、自分の記憶の引き出しが多くないと、どんなに「わかる」機会を与えられても「わかった」という結果を得る確率が高まりませんよってことです。 そんなことをあらためて書こうと思ったのは、今日、会社の後輩に、問題解決と問題の定義の効率について質問されたからです。 「ある問題があったときにパッと解決案が出てくるのはなんでですか?」 「引き出しにある過去の経験から引っ張ってくるから」 「でも、どの解決案が適切かを判断するためには、相手が何を問題にしてるかを理解できないとダメですよね」 「そうだね。相手が何を疑問に感じているかとか、困っているかを相手の話から理解しないとダメだね。相手の話を理解するのにも、ある程度、引き出しが多くないとすぐに理解できないかもね」 要約すると、こんな話をしました(すごく要約してます)。

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身体なき体験の終焉(いや、はじまってもないけど)

もっとらしく見えて実はここには見落としがあるのでは? まぁ、元エントリーの論旨と一致していませんので批判というのではなく、自分の頭を整理するために。 「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」と言うマーケティングの金言があるが、コンテンツを求める客にも同じことが言える。消費者が本当に求めているのはコンテンツでは無い。 にも関わらずコンテンツ自体に価値があると未だに信じ込んでいる権利者側は頭が悪い。また、今さら「コンテンツ立国」を政策として掲げようとするどこかの国の政府にも呆れるしかない。しかし同時に、自分が本当に欲しいものが何であるのか自分でわかっていない消費者にも、事態を悪化させている責任の一端がある。 Rauru Blog » Blog Archive » コンテンツの終焉 それは消費という観点から捉えているからで、見落としているのは所有ではないだろうかというところから考えてみます。 コンテンツは必ずしも体験により消費されるだけではなく、同時に所有されうるものでもあるということがここでは見落とされているような気がします。 それこそ昨日書いた「iPhone/iPod touchと自転車のデザインの違い」ともつながる話ですよね、これは。

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学習や経験の力をなめてはいけない

あいかわらずマーク・S・ブランバーグ『本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源』を読んでます(もうすぐ読み終わります)。 すでに、 失敗するための時間教えてもらう? それとも、学ぶ?天才のひらめきのベールの向こうにあるもの といったエントリーで紹介してきたこの本ですが、人間を含めた生物の発達と学習、そして、本能や生得的性質、行動とそれぞれの種に特有な環境との複雑で相互作用しあう関係性についてとても興味深い示唆をしてくれます。 特に、人の行動の観察からデザインを考える、という人間中心設計について日々考えている僕にとっては、この行動主義的な生物学の研究にはすごく得るものが大きいのです。

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