アーカイブされるものと流れて消えるもの
最近、TwitterのTLを眺めていて不思議に思うことがある。
Twitter上で語られる言葉というのは「書かれた言葉」というより「話された言葉」みたいだと感じるのだ。
内容がそうだというのではない。たわいのないおしゃべりのような内容だから「話された言葉」のように感じるのではない。
TL上を言葉が流れすぎていく、その様が「話された言葉」のように感じさせるのだ。
それと同時に、文字というのは目の前に残り続けるものだという当たり前のことにあらためて驚かされたりする。そこにある言葉。ずっと、そこにあるなんて、という驚きだ。
日常生活での会話のように、Twitter上の言葉は蓄積されることなく、僕の目の前を通り過ぎていく。文字という視覚的な表現を用いた言葉であるのに、それは音声という聴覚的表現による言葉のように、現れては消える。
もちろん、実際には、Twitter上の言葉はちゃんと保存され蓄積されている。蓄積されているのだから、あとで見返すことも当然できる。だが、何気なく使っている限りでは、Twitter上の言葉はTLの上に次々と現れては消える人びとの声のように感じられるのだ。