未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場
わからないことって日常的な思考のフレームの外にあります。
▲パトリック・モリエス『奇想の陳列部屋』より
たとえば、身近な同僚や後輩が突如会社をやめるといった場合、いつもいっしょに働いていてよくがんばってるなと感じていたりして、その人のことはそれなりにわかっていたつもりでも、急に辞めると聞くと「なんで?」と理由がわからなくって、急にそれまでわかっていたつもりのことまでわからなくなる、そんなことってあったりします。
また、顧客のことならわかっているとかいう場合でも同じで、わかっていたつもりの顧客たちが突如自社製品から離れ、他社の製品へと移っていくと、突如としてわからない対象に変化するということもあったりします。
いずれも場合もわかることの範囲の外に出ると、途端にまったくわからなさが広がっている。
わからなさの世界はとても不安に感じられ、それまでの価値観からするとまるで筋が通っていないようにも見えたりもします。
つまり、物事をわからなくさせているのって、日常をわかりやすくするための思考のフレームであって、その枠組みに当てはまらないものが不気味でわからないように感じられるように見せてしまう。
目の前にある、わかろうとする対象は同じでも、理解につながる思考のフレームワークの背景となる環境が変化するとわかる/わからないは一瞬にして切り替わるということがあるのです。
わかるためにはわかるためのフレームワークを見つける必要がある。
だから、わからないことを知ろうとすれ…