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デザインという思考の型から逃れる術があるのか?

最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。 しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。 昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、本当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を本当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。 僕らはみな、デザイン力がないのではなく、むしろ、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ、と。 ▲イベント「デザインの深い森」の第3回の内容を構想中 そんな風に考えるようになったのは、いま僕は千葉工業大学の山崎先生といっしょに月1でやっているトークイベント「デザインの深い森」の企画を考えはじめたときでした。第1回目で僕が話した内容は、1つ前の記事でもプレゼンスライド付きで紹介しています(ちなみに次回以降はスライド公開予定はないので、内容に興味のある方はぜひ参加してくださいね)。 このイベントは全6回のシリーズで僕と山崎先生が交互に講師役をつとめる形で進めているんですが、イベントを企画したきっかけは、昨今…

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「考え方」について考えてみる

「考えるとはどういうことか?」それについて考えることが僕にはよくあります。 「考えるとはどういうことか?」と考えることで、何かを考えるための方法が明らかになることがあるからです。 だから、「考えるとはどういうことか?」を考えるのは、自分自身がうまく考えられていないなと感じるときや、他人がうまく考えられていないなというのを目の当たりにするときだったりします。 ▲この記事では、この2冊が登場するよ うまくいかないから、その理由を自省する。 それって何かを改善するためにはごくごく普通の行為だと思います。 それを踏まえると、考えることがうまくいかない要因の1つが「考えるとはどういうことか?」ということを考えようとしない姿勢にあるということもできるはず。自分自身の考えるという作業のやり方についての自省を常日頃から行っていなければ、考えることがうまくなりにくいのはある意味、当然だと僕には思えます。 僕自身が「考えることとはどういうことか?」を何度も違った方向から考え続けてきたことで、ずいぶんと自分自身の考える力の幅と量を拡張できたという経験があるから、余計にそう思ったりもします。 でも、僕が「考えるとはどういうことか?」をときどき考えるのは、そういう改善云々という理由よりも、そもそも、それを考えるのが好きだから、という理由のほうが大きいんですけどね。まさに前回の記事で書いたとおり、自分の好き=数寄にこだわることをちゃんと僕自身も実践してるわけです。

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流行りのことばを語るのをやめる

流行りのことば、話題になっている事柄を語るのをやめようと思う。ここ最近は十分にその傾向はあったとはいえ、今後は意識的にその傾向に拍車をかけたい。 流行りのことば、話題の事柄を語るというのは、ある面では他人のことばで語ること、他人の視点で見ることにほかならない。ニュースになっている事柄、ありきたりな言い回しで物事を語ることは容易い。語りのフレームワーク、物事の見方に関する枠組みが用意されているからだ。 もちろん、用意されたそのままを語るのではないにせよ、後だしじゃんけんには変わりない。何を出せばよいかは自分で考えるまでもなく決まっている。そんなじゃんけんは終わりにしたい。

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「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。

うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。 すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。 わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。 いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。 でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ちわかってくれないの?」と非難されたとしても、それは相手がわかってほしいことをわかってあげることができないという問題とはまったく別の次元で、相手の気持ちをわかる/わからないはわかる側の問題として存在するはずなのだと思うのです。 決めごとの理解や、他人とのコミュニケーションにおける意思の疎通という話とはまったく別の次元で、個々人が自分の文脈=個人的な価値の体系のなかで、未知の対象を意味ある形で解釈できるかどうかという問題がある。それは社会的な意味での正解だとか、相手との意思の共有とかいった場合のように外から正解/不正解を決めてもらえるような基準はなく、自分で「わかった」と思えるかどうかということにしか基準は…

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書くスピード、理解のスピード

以前に書いた「間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」、「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」に続く思考・アウトプットのスピードに関するエントリーの第3弾として。 ブログを書いていてよく訊かれるのは、ひとつ書くのにどのくらい時間がかかるの?ということです。 答えは30分から1時間。 そう答えると、自分とそう変わらないことに安心する人もいれば、無反応の人もいます。 前者は自分でもブログを書いてる人、後者は書いてないか頻度が低い人です。

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ギリギリの経験が高めるアンテナの感度

ブログを見ていると、たまに書くネタがないとか書いている人がいます。 ただ、それはネタがないんじゃなく、ネタを見つける感性が足りないんだと思うんです。 自分が興味をもって考えることができる、そういうものを日々の生活のなかで見つける感性が育てられていないということなんではないでしょうか。とうぜん、それはブログのネタが見つからないという局所的な問題ではなく、自分を成長させるとか高めるとかいう点で大きな問題だったりします。 ネタが見つからないのは、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身の問題それこそ毎日生きていれば世の中にはブログのネタにできそうなことなんて山ほど転がっています。それが見つけられないというのは視力の問題です。山ほどネタが転がってる世界を自分自身で感じることができずに、貴重なネタをスルーしてしまっているだけです。 ネタとは世界をどう見るか、どう感じるかですから、ようするに世界に目を向けていない、感じていないということだと思います。それは世界のほうに問題があるというより、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身に問題があると考えたほうがいいはずです。 結局、最近、繰り返し書いていることですが、やはり「事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ている」んだと思います。世界に存在し、生起しているいろんなものごとを自分と関連づけて感じることができないのでしょう。 道端に転がる石の声、日常のシステムの軋む音、近くにいる人の無言の嘆き耳を傾ける力がないんだ…

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