自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇

日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは本当に可能なのだろうか?
可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか?

そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日本文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。

善と悪の共存

善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日本ではその境目は、昔の日本家屋が障子や襖などの仮説的な仕切りで区切られ、屏風や簾、暖簾など、物理的な仕切りとしては不十分な、ただ認識的な間仕切りとしては機能する仕切りであいまいな空間であったのと同様に、善と悪の境目もきっちりと隔てられ、一方が他方を駆逐しようという関係ではありませんでした。
善と悪とはたがいに排除しあう対立的な二項関係ではなく、あくまで違うものとして列挙されるだけの共存する二項でした。

それだからこそ、芝居小屋や遊郭などの悪所を舞台に、黄表紙や滑稽本、浮世絵や東錦絵、金唐紙や鰻の蒲焼、落語に相撲に狂歌に俳諧連句など、さまざまな文化が生まれ、人びとを楽しませることができたのでしょう。有名人のスキャンダルは黄表紙や滑稽本のなかで笑いのタネにされることこそあれ、いまのように当事者が徹底的に叩いて潰されるようなことはなく、むしろ、当事者さえもそれを見て笑ったくらいだったのです。

そんな悪の扱いは、いったいどこへ消えてしまったのか?

もう、そんな場所は日本のどこにもない

前篇でも紹介した『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』のなかの「河原」の話のなかで田中優子さんはこんな風に書いています。

時の移ろいに身をまかせ、時代の人が寄り集う。管理社会ならなおのこと。体と魂の力を抜いて、エロティックなことや、水のことや火のことや、生のことや死のことや、向こう側の世界のことを考える場所が必要となる。河と河原がマザーなら、それは壊してならない「場所」だった。しかしもう、そんな場所は日本のどこにもない。
田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』

日常のケの世界から離れて、ハレの世界で「エロティックなことや、水のことや火のことや、生のことや死のことや、向こう側の世界のことを考える場所」として機能していた河原や悪所に相当する場所が、いまや「日本のどこにもない」。田中優子さんがそう書いたのは1992年。すでに10年以上も前のことで、その当時から比べても、いまは悪を徹底的に排除し存在すら消してしまおうというような社会的潔癖症の症状は悪化しています。

メディアも交えて繰り広げられる大人の世界でのいじめは、見かねた何人かが異を唱えようとまさに焼け石に水。いじめの勢いはまったく衰えることなく、いじめの対象が完全に息の根をとめて失墜するまでは、批判の嵐がやむことはありません。
その様は個々人の思いが単に集積したものというよりも、個々人のコントロールとはまったく無縁の集団的意識のようなものがメディアを身体として勝手に発言、情報の生成・処理を行っているようにさえ感じられます。

パッと一瞥

このいったん発火してしまえば、あとはもう対象物が燃え尽きるまで火の勢いがおさまらない社会的いじめを駆動するメカニズムの正体がわからないと、この先、もはや誰も小さな間違いさえ犯さないよう臆病な行動しかできなくなり、チャレンジや多少のはめはずし、遊びから生まれてくる創造的な物事はどんどん品薄になっていくのではないかと心配になります。

悪を排除し、ハレを排除し、神や仏を排除し、遊びを笑いを失敗を脱線を排除していった先に何が残るのか?

昨日も引用した『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、デリック・ドゥ・ケルコフは次のように書きます。

テレビの前で育った子供は、普通に育った子供と、ものの見方が違うというのだ。一般に印刷物を読むときの逐次的な目の運びでなく、彼らは「パッと一瞥」するのだと、クルグマンは指摘する。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

ケルコフは「テレビの前で育った子供」と対置して「普通に育った子供」と書いていますが、もはや「普通に育った子供」のほうが「テレビの前で育った子供」でしょう。
その「テレビの前で育った子供」はそのテレビを見ることでつくられた「パッと一瞥」する見方でテキストをどう読むかというと、「何度か短い視線を投げかけながらそのページを了解するための全体像をつくっている」のだという。

テレビを見る子供たちは、つながりが希薄な断片をすばやく組み合わせ、視覚だけを頼りに対象を再構成しているのだ。これは、対象を分類したり、それらを筋の通った文脈に沿ってつなぎ合わせるのとは随分と異なる作業である。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』

「パッと一瞥」することで視覚的に飛び込んできた要素は、とうぜん元の文脈などからは無縁の状態なのでしょう。そんな文脈の剥ぎ取られた要素としての言葉の断片を、イメージを頼りに再構成する。よくブログなどではタイトルが釣りだとか言われることが多いですけど、それを釣りと判断してしまうこと自体、言葉を文脈のなかで捉えているのではなく、断片のイメージで捉えて判断する「パッと一瞥」型のテキスト読みになってしまっているからではないかという気がします。

問題は目の動き、目の筋肉?

問題になっているのは何かというと、きっと目の筋肉の動かし方なんですね。

習ったことはないし、本で読んだこともないので推測で書きますが、最近流行ってる速読術としてのフォトリーディングというのも、そのうちの1つに目の動かし方に関するテクニックが含まれているはずです。速読術というのは基本的に記憶術の一種ですから、どう見て、つまり目の筋肉をいかに動かすかを工夫すれば短期記憶を使って、読む速度をあげることは可能です。
実際、まったくの我流でも目の動かし方をちょっと工夫すればいくらでも本を読む速度などはあげられます。はやく読む必要性を感じていないし、その目の動かし方に慣れていない(ようはその筋肉がついていない)のでめったにやりませんが、本を読む速度は目の動かし方を意識して変えることで早くなります。

「パッと一瞥」というのもひとつはこの目の動かし方、そして、それを支える目の筋肉の付き方の違いという点があるのでしょう。
身体ができてないのですから、「パッと一瞥」型の人が本を読むのはつらいのだろうなというのはなんとなく想像はできます。
本を読む意欲の問題以前に身体ができてないのだろうという気がします。

外に出る出口はもう日本のどこにもない

実は、このエントリーを書きはじめる前までは、結論として、

  • 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは実際問題不可能で、
  • だとすれば、せめて偏ったメディアの情報や、おなじように偏ったソーシャルブックマークで人気になったニュースやエントリーばかりに目を通すことをやめて、
  • より異質な情報、自分が普段接しない情報を、書籍などに求めることで
  • 取捨選択の多様性そのものを外部化し、偏った判断が保留される状態をつくることが唯一の防御方法ではないか

というようなことを書こうと思っていたんです。

ただ、それがこの「パッと一瞥」型のテキスト読みを視野に入れた途端、本来、異質な情報であるはずの書籍のテキストさえも、文脈を無視した再構成による読み方をされれば、もはやその異質性は存在しなくなってしまいます。
もともとは異質な思考を含んだ情報でも、「パッと一瞥」型の「視覚だけを頼りに対象を再構成」する方法では、再構成されたあとはもはや普段から十分に慣れ親しんだお馴染みの論調の情報になってしまうからです。

ようするに、お馴染みの世界から、外の世界、向こう側の世界に出る出口がまったく閉ざされてしまっているわけで、田中優子さんが「もう、そんな場所は日本のどこにもない」と書くのも頷けるのです。そこに行くことができないのなら、そんな場所はないのも同然ですから。

現代人の経験は間がないことを特徴とする

「対象を分類したり、それらを筋の通った文脈に沿ってつなぎ合わせる」のではなく、「視覚だけを頼りに対象を再構成」する「パッと一瞥」型の情報認識は、一見、バーバラ・M・スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』で書いているような「ヴィジュアル・イメージと観念の間の失われた環を、視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせたい」といった言葉や、「アナロジー化の良いところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代のさまざまなコンテクストさえ、我々の世界の一部にしてくれる点である」のような指摘を思い出させます。

しかし、残念ながら、実際は「パッと一瞥」型の見方はヴィジュアル・イメージを見ているわけではないのです。
むしろ、こちらの「現代人の経験は~」のほうに近い。

現代人の経験は間がないことを特徴とする。差し迫っている目下の事象をその先蹤に媒ちしてくれる第三の何かを欠いているのである。対称的に、アナロジーの共通観念を追う疲れ知らぬ追跡は、2つの意見が完全に似るなどということはありえぬ一方、それらが互いに完全に相いれぬということもないことを証す。

現代人の経験(視覚的経験も含めて)は、外の世界に連れ出してくれるような「第三の何かを欠いている」。いっぽうで田中優子さんが描く近世の人びとはといえば、「2つの意見が完全に似るなどということはありえぬ一方、それらが互いに完全に相いれぬということもない」ような善と悪とが並置され列挙されるような、横断可能な境目のなかで生きていたのでしょう。

地図はやがて「国尽くし」「国競べ」「世界双六」になっていった。日本の世界認識はなぜそのようなかたちをとるようになるのだろう。「知」を組み立ててゆくのではない。ましてや種や類や属を立てて、その中に分類してゆくのではない。知を羅列してゆく、ひたすら並べてゆくのである。分類の発想になれてしまった我々から見ると、近世以前の表現の中に見られるこの「ひたすら並べる」精神は、驚きである。

そう。確かになんでこんなに並べるんだろうと感じます。
「尽くし」や「合わせ」という羅列・並列の表現が手法になっていたのです。





分けて双方が互いに他方を排除しようとするのではなく、単に描き分けられ並べられ、それが笑いを呼ぶという手法がかつてはあった。そして、もちろん、それもいまはもう、「日本のどこにもない」。

どうしてこんなにまで自分たちの内側の世界だけを拡張して、外の世界を排除してそれがまったく存在しない状態にまでしてしまい、その結果、自分たち自身を外に出られない状況にまで追い込んでしまったのでしょう?

外の世界をもたない社会

外の世界に出られないというのが、単純に個人的な思い込みの外に出られないというのなら、個人的にはいざ知らず、社会的にみればまだ救いがあります。ところが、いま問題になっている「外の世界に出られない」というのは、個々人の問題ではなく、社会的なレベルで「外の世界に出られない」、外の世界が存在しないということだからたちが悪いのです。

いったい、この問題の出口はどのようにして見つければよいのか? このまま、過剰な潔癖症の世界、大人のいじめを止める手段すらない世界を見過ごすしかないのでしょうか?

この話の続きはまた別にエントリーを立てて考えてみたいと思います。
P.S. というわけで、その別エントリーです。「自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために」)

自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇

   

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