はてなキーワード: 主催者とは
2026年5月27日に福岡で開催予定の第13回解決市場特別講演において、モデレーターとして水山真人氏が起用されている。水山氏は元西日本新聞記者で、日本新聞協会賞受賞という経歴を持ち、現在は株式会社アノクサの代表取締役として活動している。
水山氏については2022年に情報提供者とのトラブルに関する詳細な記録が複数のプラットフォームに残っている。西日本新聞「あなたの特命取材班」に情報提供した人物が、担当記者だった水山氏から根拠なく犯罪者扱いされ、個人情報を無断で取材先に漏洩された。自身の勘違いが発覚すると5日間連絡を途絶えさせて逃げ、謝罪どころか「偽計業務妨害だ」と逆ギレし「しつこいと警察に言う」と脅した。これらのやり取りはメールの記録として全文が公開されており、2026年現在も謝罪はない。
これらのトラブル記録はアメブロおよびnoteに複数の記事として掲載されており、水山真人氏の名前を検索すれば容易に確認できる状態にある。
水山氏が運営する株式会社アノクサの公式サイトには「代表は新聞社時代に中傷被害に遭ったため、インターネット上では名前を控えさせていただいております」と記載されている。しかし上記のトラブル記録はメールという一次資料に基づいており、水山氏側からの具体的な反論は現時点で存在しない。事実の記録に基づいた批判を「中傷」と表現し被害者ヅラすることには疑問が残る。
そもそもトラブルの発端は水山氏が情報提供者を根拠なく犯罪者扱いし、個人情報を無断で漏洩したことにある。その後謝罪することなく逆ギレして逃げたことで批判記録が生まれた。批判された側ではなく批判を生み出した側が「中傷被害者」を名乗っているという構図は、公開されているメールの記録を読めば誰でも判断できる。
水山真人氏の名前を検索すれば、これらのトラブル記録は容易に確認できる状態にある。にもかかわらず解決市場の主催者である株式会社セブンマーケットはこの人物を表舞台に立つモデレーターとして起用した。トラブルの記録を把握した上での起用であれば問題のある人物を意図的に登用したことになり、把握していなかったとすれば最低限の事前確認を怠ったことになる。どちらであっても主催者としての判断は問われる。
非女性向け作品(少年漫画や一般向け作品など)を原作とする二次創作BLの勢いについて、過去と現在の比較や変化の傾向をまとめます。
非女性向け作品とは、「ジャンプなど男性読者が多い媒体」や「登場キャラクターがイケメンばかりではないもの」「カップリング消費がメインではない作品(例:『鬼滅の刃』)」と定義します。
衰退が囁かれる一方で、特定の非女性向け作品は依然として強力な勢いを維持しています。
結論として、非女性向け作品の二次創作BLは、かつてのような一極集中の爆発的な勢いは見えにくいものの、「ホームジャンル」として定着した安定ジャンルと、多様化・分散した中規模ジャンルが並立しており、必ずしも衰退しているわけではなく、その「形」が変化していると言えます。
特定の年齢層のみスマホのGPSをONにさせ、逆に60代以上はOFFにさせることで「若者が多い」と偽装する
労組経由の参加者には労組から手当(組合費のキャッシュバック)が出ている。なおそうするよう主催者から「要請」はされるが、主催者は1円も出さない。だから「主催者にそんなカネないから」という反駁が成立する。ご飯論法に近いが
政権打倒、首相辞任なども言っているが、真の目的はは主催団体の維持管理。活動実績がないと資金を援助してもらう名目がなくなるため、団体を解散させられてしまうのだ。つまりデモをやること自体が目的であり、デモに出来そうなネタがないと主催者が困るのである
「ごっこ」等と冷笑される理由はこれだけあるのだ。逆に言えば全部改善出来れば、冷笑されない反戦デモが実現する。反論あればどうぞ
またウチのはてリベが迷惑かけてるようで、、、、申し訳ない、、、
@HirokoKado
4/14火曜のAbemaにおいて、暴力革命を標榜する全学連の方々を諌める私の発言に対して、SNS上の切り取り動画により、私が「国民のデモを‘’ごっこ遊び‘’と言って揶揄した」旨の偽情報が回り、文脈を無視して扇動するメディア記事まで出ている状況です。私ならまだしも、家族への危害を匂わせるような投稿も出てきているため、改めて2点申し上げます。
1)発言について、謝罪も撤回も釈明も致しません。政治家として、暴力革命による政権交代を標榜する若者に対して、その目的(体制転覆)と手段(ペンライトのデモ)との間の論理矛盾を指摘(ごっこ遊び)し、 暴力革命ではなく、民主主義による政権交代を目指すべきと諭すことは当然のことです。
2)現在、偽情報に扇動された方々により、全く無関係の小4の娘、小2の息子を含めた家族や事務所スタッフへの危害を匂わせるような脅迫や無言電話等が発生しており、厳正に対処しております。私は政治家としてこうした卑劣な手段に屈しません。
①全学連矢嶋さんが
「社会を根本からかえるには暴力が必要」「高市政権を倒す」と主張される一方、実際にはペンライトを使ったデモ活動をしている、目的と手段が乖離している矛盾に対して、「ごっこ遊び」ではないか、そうではなく、政党を作って支持を広げて、政権交代を目指すべきと私は述べています。
②全学連の西村さんは、参加人数の主催者発表(3万人)と実態(頑張って見積もっても1万とか?)の乖離について、運動の指導部、主催者が共産党であるから、ご本人は具体的な数字がわからないものの、「数を盛っているのでは」「それじゃ信用されないよ」という他のゲストからの指摘を否定されていませんでした。
https://note.com/ishimatsu_osamu/n/n8d694da81b6d
ポイントは、主催者がお金を払うのではなく、主催者が参加を要請した労働組合が参加者にお金を払っている点。だから「デモ参加者は日当もらっている」という指摘に対して「"主催者"があんな大人数に金払えるわけないだろ」という、よく見たら的外れな、ご飯論法みたいな反論をするリベラル仕草がよく見られる
日当を支払う労働組合側の原資はもちろん従業員から毎月もらう組合費である。ただし「組合費の元を取る!」とばかりに毎回参加希望が殺到すると赤字になってしまうので、くじ引きによる参加者選定が行われることが多い。逆に参加希望者が主催者から要請された人数に達しない場合は労組から赤紙が来ることもある
先日の反論デモのように多数の労組が絡んでいるケースでは、参加者の大半が所属労組から日当もらってると見てよいだろう。日当もらえてないのは、労組を経由していない野良参加者に限られる
ある著名なクリエイターがフェスでダイブに巻き込まれて怪我をした件、SNSでかなり話題になっているけど、正直モヤモヤする。
ネットの反応を見てると「加害者を特定して警察に突き出せ」とか「主催の責任を問え」とか、ちょっとライブ現場のリアルから乖離しすぎてる気がする。
大前提として、ライブやフェスは「主催は一切責任を負いません」というのが共通認識としてあったはずだ。それをすぐに「刑事事件だ」と騒ぎ立てるのは、これまでのライブ文化のあり方とは違う気がしてならない。
結局のところ、ライブ現場なんて何が起こるかわからない場所なんだから、自分の身は自分で守るしかない。ダイブやモッシュやサーフが嫌なら、そういう行為を厳密に排除しているイベントを選ぶか、あるいは前方に行くのを諦めて安全な後方で見ればいい。それが観客同士の「住み分け」だったはずだ。
今回の件で一番違和感があるのは、被害者が知名度のある人だからといって、過剰に騒がれている点だ。その辺の一般客だって、ライブで怪我をしたり、一生付き合わなきゃいけない後遺症を負ったりすることだってある。有名人だから許せない、一般人ならよくあること、そんな「特別感」で議論が進むのはフェアじゃない。
これを機に、主催者や客の責任を法的に追及するのが当たり前みたいな風潮になってほしくない。そうなれば、結局ライブの自由度が減って、どんどん窮屈な場所になっていくだけだ。過剰な法的措置の推奨は、ライブの楽しさを殺すことにならないか。
「今まで自民党や高市総理に不満があったけどずっと我慢してて、ついに限界になり反対の声を上げる決意をした」と言う人。
不思議な人だ。
それは極端としても、好意的に解釈すれば「実は反自民野党を黙って心の中でのみ応援してたけど、これからは積極的支持を表明する決意をした」と言った感じだと思われる。
たぶん「共産党員ではないけど心の中ではずっと共産党を応援してた無党派層」とかだ。
そういう人が、何かあるたびに、デモを開催するたびに、新たに出現し続けているわけだ。
主催者発表ではいつも数万人が集結してるらしいから、その中の1割が新規参加者だとすれば毎回数千人は賛同者が増え続けているわけだ。
これは地味にすごい数だ。
なんたって続々と増えているのだから。
しかし実際の選挙になると毎回の開票結果に彼らの姿はどこにも見えないのだ。
不思議だろ?
元々飼育していた1匹は譲渡会に参加して幸運にも1回の参加で引き渡し。
2匹目も検討する中で、譲渡会に7回参加してようやく決まった。
例えば主催者が同じ譲渡会に参加して、事前アンケートで飼育環境や在宅勤務の環境が整っていることを詳細に説明しても、譲渡会参加のたびに寄付を行っても、家族持ち・カップルが優先される。
Xで以下の投稿が目に入ってきた。
https://note.com/sho_hiroumi/n/n52a7f10be3c7
本当にたくさんのことを考えた。
それについてコメントを書いていたら長い長い長い長いクイズ論になってしまったので、こっちに載せることにした。
「上手にボタンを押せる人」よりも「上手に問題を作れる人」が称賛されやすい、という論には本当かどうか?という疑問がある。
たしかに出題サイドは、その多大な労力ゆえに参加者サイドよりも分母が少なく、競争環境としては「ブルーオーシャン」の側面がある。
「面白い問題を出す大会」というブランディングが、主催団体の評価に直結するのも事実だ。
しかし、それが個人への「称賛」に結びつくかどうかは別問題だと考える。
先日、浜押会オープンで話題をさらった「アサシン」の問題を思い出す。
問題そのものは鮮やかにバズったが、では「その作問者が誰か」まで即座に答えられる人はどれほどいるだろうか。
個人が作問・主催する”個人杯”であれば作問者個人にスポットライトが当たるが、サークル主催の大会では、評価は組織の中に埋没しがちだ。
この傾向はメディアでも顕著だ。QuizKnockを見ても、主流は「問う」ことよりも「答える」コンテンツであり、メンバーも「答える側の演者」として人気を博している。
純粋な作問能力が評価される場面があったとしても、それがコンテンツの主役になることは稀だ。
取り上げられているQuizbowlのシステムにおいて、問題作成が競技参加のプロセスに組み込まれているのは興味深い。
ただ、これは「称賛」のためというより、大会をスケールさせるための「供給の仕組み」と捉えるべきだろう。
しかし出題スタッフはサービス提供側の側面が強く、労力も膨大だ。
自発的な協力者だけで賄うのは困難であるため、パケット提出(問題作成)の義務化といった「強制力」が必要になる。
ACF(アメリカ大学クイズ連盟)の公式ページでは、この制度の意義を「編集者とプレイヤーの知識共有の精神を守るもの」と定義している。
しかし、わざわざ言葉を尽くしてその意義を称揚しなければならないこと自体、それが「強調しなければ誰もやらないキツいタスク」であることを裏付けている。
編集歴がコミュニティ内のキャリアとして記録され、NAQTのような組織では1問ごとに報酬が支払われるなど、作問が「名誉ある職務」として確立されている、という例は興味深い。
分野ごとに専門の編集者を置く高度な組織設計は、品質管理の観点から合理的だ。
だが、ボツや添削というストレスフルな工程を経てなおモチベーションを維持させるためには、相応のインセンティブや評価制度が必要となる。
報酬の一部として「Head Editor」などの地位を提供していると考えた方が良いように思える。
そして原文の例にある通り、これほど作問者がプロフェッショナルとして敬意を払われている海外でも、やはり「スター」はプレイヤーだ。
箱根駅伝のマネージャーたちが、もし許されるなら自ら箱根路を走りたいと願うランナーであるように、「作問者」側はスターではない、という認識は変わらず持っていた方が良いように思う。
私はオンラインクイズサークル「Virtual Quiz Studium」(以下「VQS」と略する)を主宰している。
今日で誕生から3年を迎え、4年目に入る比較的新しいサークルだ(めでたい!)。
参考 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/
「VQS」では、毎月25〜50問が集まる「問題出題大会」を開催している。
ここでの取り組みを掘り下げることで、そもそも「よいクイズとは何か」を掘り下げてみる。
最大の特徴は、予選・決勝の「2段階投票システム」を採用している点だ。
(注:「みんはや」開催の第2部は異なる)
数十問を一気に並べて1問を選ぶ形式では、比較がどうしても雑になり、印象に残りやすい後半の問題が親近効果で有利になりがちである。
予選を5問程度の小規模なグループで行い、評価プロセスを細かくすることで、個々の問題と誠実に向き合い、良い問題をなるべくすくい上げるよう工夫をしている。
1年半の運営を経て痛感したのは、まず「良い問題の基準は人によって異なり、一様ではない」ということだ。
もちろん、明らかに構造的な課題がある問題には厳しいスコアがつくが、一方で、何らかの「光るもの」を持つ問題には必ず誰かが票を投じる。
「何が良いか」という評価が割れることこそがクイズの豊かさである。
問題の価値を安易に、あるいは拙速に決めつけることの危うさを日々感じている。
一方で、歴代の上位入賞問題を分析すると、そこには「評価されるだけの理由」が明確に存在する。
(もちろん、これが全てとは考えていない)
上位入賞するような問題には、これらを複数複合させて達成しているケースが目立つが、単一の要素で突き抜けるものもある。
ここがこの大会のだいご味でもある。
(参考)歴代の入賞問題 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%87%BA%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C
興味深いことに、こうした多様な評価軸がある中でも、不思議と上位入賞の常連となる凄腕プレイヤーが存在する。
クイズの実力との関連性もそれほど強くないところが興味深い。
これは、クイズ作問という行為が、が単なるクイズ用のネタのピックアップではなく、一種の表現技術であることを示唆している。
現実として、そこには歴然とした作問力の差が存在するようなのである。
クイズ問題が正当に評価される際、それは単発の問題としてよりも、「〇〇大会の問題はよかった!」と、一塊のパッケージとして語られることが多い。
競技としてのクイズを成立させるためには、個々のクイズの良し悪しとは別に、セット全体をプレイした際の「体験」という観点が必要不可欠と考える。
優れた問題を揃えることは、大会成功の必要条件ではあるが十分条件ではない。
DJが選曲と繋ぎによってフロアの熱量をコントロールするように、主催者には「(事前に)用意した問題をいかに配置し、どのような『場』を構築するか」という編集・演出の手腕が問われる。
私は2年間にわたり、「VQS」の中で深夜のオンラインクイズ大会「まよなか大会」を毎月開催している。
その運営経験から得たのは、クイズ大会において「参加者の体験をいかに設計し、コントロールするか」はとても重要だ、ということだ。
問題の難易度曲線、ジャンルの連なり、そして出題のテンポ。これらが精緻にマネジメントされ、参加者の体験がポジティブに設計されているかどうか。
「いやなら来なければよい」と開き直ることは、集客力がある人達であれば違うかもしれないが、自分達には現実的には無理だ。
体験を構成するための「問題セット」を的確に構成し、そのうえで参加者が楽しめるような「面白い問題」をいかに出題することができるか。
結局のところ、クイズの問題セットとは単なる問題の集積ではない。
それは、参加者が競技を通じて得られる「体験」を最大化するための、緻密な設計書なのである。
問題セットの品質を考えるうえで一つ自戒を込めて強調したいのは、他の専門領域を扱う際の作問態度である。
他分野の問題を作成する場合、その知識がその業界において「現在進行形でアクティブな知識であるか」を精査する習慣を持つべきだ。
土足で他人の専門領域に入り込み、「正しい」「間違い」の審判を下すのだから。
私の専門であるIT分野を例に挙げれば、残念ながら「読むに堪えない」品質の問題(事実誤認や、もはや使われていない死語など)を目にすることは決して少なくない。
情報のアップデートを怠った古く間違った問題を見ると、それだけでがっかりしてしまう。
大量に作問する際、どうしても手癖に頼りがちになるが、「改めて確認する」というひと手間を、決して忘れないようにしたい。
これは多分に主観的な見解だが、クイズとは作問者、あるいは作問チームとの「知的対話」であると私は考えている。
ゲームとして巧みに構成されているかという機能的な側面とは別に、対話として楽しめる内容であったかという内容的な側面も、自分の中ではとても大事だ。
対話である以上、当然出題者だけでなく解答者側にも知識が求められる。
解答者の力が不足していれば対話は成立しない。
双方向的であり困難な試みではあるが、クイズと言う形式だからこそできるコミュニケーションができた、と思えたときの満足感は大きい。