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物学(ものまね)が咲かせる花

イタリアのデザイナー、アキッレ・カスティリオーニは物を扱う人びとの身振りを模倣することで、その知恵を感じ取りました。 ごくまるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。 多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』 人の動きを模倣するという意味では、日本にもそうした伝統をもった芸能があります。 みなさん、何かわかりますか? 能です。能楽師は古くから伝えられる型に忠実であることを第一に考え、芝居のように演じる人物になりきって表現するということはしないそうです。能には、200番以上ある曲のひとつひとつに決まった型があり、能楽師はその型を幼少の頃から繰り返し練習して身につけていくといいます。

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「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること

上田篤さんの『庭と日本人』という本を読んでいて、世阿弥のこの言葉にひかれました。 見所より見るところの風姿はわが離見なり。わが眼の見るところは我見なり 世阿弥『花鏡』 ここでいう「我見」は舞台で舞う自分の目であり、もうひとつの「離見」とは舞台で舞う自分をみるもう一人の自分を指しています。 世阿弥はそういう二人の自分をもって能は大成するといい、これは「離見の見」といわれるものだそうです。 自分の心をコントロールするこの例を出しつつ、上田さんは<茶の湯もおなじだろう>と言っています。 茶の点前をする自分のほかに「もう一人の自分」がいて、茶の点前をする自分を見ている。そういう視線にたいして過ちのないように茶の点前をしなければならない。いわば主観性と客観性とをあわせもつ芸である。ということは、茶道という芸は自分の心をコントロールすることなのだ。自分の心が芸をコントロールすることではないのである。 上田篤『庭と日本人』 この<自分の心をコントロールする>のであって、<自分の心が芸をコントロールすることではない>という一文にはやられました。 芸をコントロールしようとしてもダメなんですね。 そもそもの自分の心をコントロールしないと芸にならないということです。 ここで大事なのは、<主観性と客観性>というのは、現代的に前者が感覚的・個人的なものであり、後者が科学的・社会的なものであるかのように考えてはいけないということだと思います。この主観性と客観性の区分は、科学的に証…

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年の功だとか、日本型の知の普遍化としての型だとか

昨日の「狭義のデザイン、広義のデザイン」では、「最初に絵が浮かばない人はデザインに向いていない」なんて書きましたが、それと関連する意味合いで、実はある程度歳をとらないとデザインってうまくならないのかななんて思いはじめています。 やっぱりある問題に対峙した際にパッと絵が浮かぶってのは、ある程度自分に蓄積された記憶の量と種類が必要だと思うんですね。「「わかる」ためには引き出しを増やさないと」っていうわけです。その意味では年齢を重ねながら得た経験は「引き出しを増やす」ことにもつながりやすいのでは、と。 もちろん、歳さえとればいいわけではないし、「創造の現場における「知っている」ということ「身体が覚えている」ということ」で取り上げたようなモーツァルトの例もあります。経験を重ねるといっても、ある事象に対峙した際に何を感じ何を考えられるかは、その事象への対峙のしかただったり、いろんな要素によって違ってきますので、単にいろんな経験を積んだり歳をとったりするだけでは、引き出しは増えないし、パッと絵が浮かぶようにならないとは思います。 でも、そのほかの条件がおなじであれば、若い人よりは歳をとったほうが経験を豊富にすることは可能なわけで、その意味で、歳をとった人を辞めさせていく企業組織のあり方って歪んでいるというか、思い違いをしてるんだろうなと思います。

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見立てという方法とともにある日本

これは読んで、なるほど、と思いました。 装飾には、教養が必要ですが、現代のデザインには、文化人類学的な発想が非常に少なくなってしまいました。ファンクションが勝ちすぎています。 内田繁『茶室とインテリア』 西林克彦さんが『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』で書いていたように、文脈がわからなければ「わからない」のです。「わかる」ためにはある程度、記憶としての教養の蓄積が前提となります。目の前で見たものが自分の中に蓄積された記憶の文脈とつながってはじめて「わかった」となる。「そこにどのような意味があるのかという視点が加わると、突然、別のものが見えてきます」と内田繁さんも言っているのはそういう意味でしょう。そして、教養がないから現代人には装飾の意味がわからない。そして、現代のデザインからは装飾が消えてしまうのでしょう。シンプルがいいなどといいつつ、単に装飾、飾りのもつ意味を読み解く力が退化しているだけかもしれません。

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「生活文化のアップデート」につながるデザインの方法についていろいろ模索中

いま、何にいちばん興味があるかと聞かれたら、迷わず「方法」「作法」「やり方」と答えるでしょう。 ここ最近書いたエントリーでも下記のとおり「方法」「作法」「やり方」について書いたものが多いのもそのせいです。 「考える」方法を学ぶクリエイティブな仕事とは?その方法とは?「創造的な仕事」に求められる7つの作法デザインの方法:ブルーノ・ムナーリの12のプロセスの考察(a.概要)企画設計=デザインには学べば覚えられるやり方がある 発端になっているのは「動きが意味を生成することと茶の湯における作法の関係に関するメモ」というエントリーあたりだと思います。 そこではこんなことを書きました。 動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる。それゆえに一座建立という一期一会の出会いの価値を最大限高めるためにお作法というガイドラインが茶の湯においては大事にされるのではないでしょうか? と、そこでは「動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる」と書いたわけですが、最近ではそれにプラスして、茶の湯の作法なども含めて日常的な動作として身体に馴染んだ動きにこそ、なかなか言語化しえない知恵や創造のためのボキャブラリが埋め込まれているのだろうなと「普通にできることのレベルをあげるための練習」や「仕事のOS:語学力は反復とか記憶以前に感受性」なんてエントリーを書きながら考えていたわけです。

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千利休より古田織部へ/久野治

待庵の二畳半の茶室や「無駄を省き、かつ必要を際立たせる「最小限のデザイン」」でも紹介した朝顔の逸話にも代表されるように、茶聖と称される千利休の茶の湯は、ストイックなまでに無駄を省き、必要最低限の趣向により茶席の場をデザインすることで、一期一会のおもてなし(=ユーザーエクスペリエンス)を実現するものでした。 しかし、豊臣秀吉が京都に聚楽第と呼ばれた豪華絢爛な邸宅を設け、町では女、子どもが「辻が花」と呼ばれる美しい色柄の衣を身につけ、戦いを忘れた武士たちが「傾き(かぶき)」と称して平和をうたい、出雲大社の巫女であった阿国の一座が京都で後の歌舞伎につながる「傾きおどり」をはじめたとき、 利休の侘び茶道にも、行きづまりとはいえないが時世の要求としては、豪華でおおらかな明るさが自然のなりたちとして要請されつつあったときといえよう。それは主観ともいうべき心のはたらきから、客観として目にみえるものへ、宗教また精神的なものから感覚、芸術的なものへ、枯淡から絢爛へ、陰から陽へうつろうとするものであった。 久野治『千利休より古田織部へ』 そこに織部が登場する。利休が侘びの極北まで研ぎ澄ませた茶の湯を離れ、利休七哲にも数えられる高弟である武将茶人・古田織部が新たな茶道の革新へと進むのです。 それは歴史の必然性で、茶道の革新ならびにやきものの大胆な発想には、グランド・デザイナー織部の潜在的能力が引きだされたものといえる。モノクロからカラフルへ、シンメトリーからアン・シンメトリーへ、利休のもとで高弟七…

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