ここ最近書いたエントリーでも下記のとおり「方法」「作法」「やり方」について書いたものが多いのもそのせいです。
- 「考える」方法を学ぶ
- クリエイティブな仕事とは?その方法とは?
- 「創造的な仕事」に求められる7つの作法
- デザインの方法:ブルーノ・ムナーリの12のプロセスの考察(a.概要)
- 企画設計=デザインには学べば覚えられるやり方がある
発端になっているのは「動きが意味を生成することと茶の湯における作法の関係に関するメモ」というエントリーあたりだと思います。
そこではこんなことを書きました。
動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる。それゆえに一座建立という一期一会の出会いの価値を最大限高めるためにお作法というガイドラインが茶の湯においては大事にされるのではないでしょうか?
と、そこでは「動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる」と書いたわけですが、最近ではそれにプラスして、茶の湯の作法なども含めて日常的な動作として身体に馴染んだ動きにこそ、なかなか言語化しえない知恵や創造のためのボキャブラリが埋め込まれているのだろうなと「普通にできることのレベルをあげるための練習」や「仕事のOS:語学力は反復とか記憶以前に感受性」なんてエントリーを書きながら考えていたわけです。
日本の暮らしのなかの動作に埋め込まれた方法
特に、日本の日常生活に溶け込んでいる/いた「方法」や「作法」にすごく興味があって、茶道具・お点前の心得から茶の湯の心まで千利休の教えを和歌であらわしたといわれる利休道歌を解説した『利休道歌に学ぶ』を買って読んでいたり、今日も『知ってるようで知らない日本の作法』なんて本を買いました(買ったのはいいものの、これは忘年会でお店に忘れてきてしまいました。あとで気づいてお店に電話したけどなかったので誰かが持ち帰っていてくれるといいな、と。気づいた人、連絡ください)。「方法」や「作法」に興味をもっているのは、やっぱりこれまでのエントリーにも書いているように、創造性を高める方法、デザインの方法をなんとか明示的にまとめあげられればと考えているからです。それも「自分たちの生活文化のアップデートのために」で引用したような阿部雅世さんの言葉にあった「最終的に自分たちの生活文化のアップデートにならなければ、本当のデザインにはならないのではないか」というところにつなげるための方法として。
もっと日本的なデザインの方法というのがあってもいいな、と
僕が「Webの未来」というとき、念頭においているのは実はこの意味でのデザインの方法ということを確立する流れができればいいなと思うからです。それも海外からただ持ち込んだだけの技術の応用を超えて、より日本の環境、生活に馴染んだデザインの方法を(それは鎖国的にとうのではなくて、パスタからたらこスパゲティを生み出すような感覚で)。いま、ムナーリのデザインの方法を自分なりにまとめるエントリーを書いていて思うのは、もちろん、それもいいんだけど、やっぱりもっと日本的なデザインの方法というのがあっていいなということ。かといって、まだ明確に「日本的な」ということが見えているわけではないし、この試み自体、一筋縄ではいかないのはわかってるんだけど、そこに挑戦していくのはおもしろそうだなと思っているわけです。
もちろん、それを生み出すことで望むのは日本の人びとの「生活文化のアップデート」。それもマーケティングに踊らされたようなアップデートじゃなくて、もっと地に足がついた感じのね。
これまでとは違う意味での「豊かさの基準」みたいなものまで見えてくるようになったらいいなと思うけど、それはずいぶん先の話だし、いろんな人を巻き込めるようになってから。
それにはまず自分自身の創造性を高めていかないといけません。手の技を鍛えていかないとって痛感してます。
日本という方法
そんなことを考えるとき、やっぱり考える道筋を与えてくれるのが『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』をはじめとする松岡正剛さんの本です。実は今日、松岡さんの『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』という本もいっしょに買ったんですけど、これもやっぱり一緒に行方不明です。方法は主題ではありませんが、主題を包摂する数々の可能性をもっています。たとえば茶碗の持ちかた、測定のしくみ、板書の書きっぷり、交渉のやりかた、刺身の切り口、摺り足の運びには、茶や料理や能の、技術や教育や外交の本質があらわれることがあるのです。松岡正剛『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』
僕が「日本の暮らしのなかの動作に埋め込まれた方法」として想定しているのも、こういう日常的な方法なんですよね。習慣化され、ほとんど意識せずに身体が行っている方法に、実はとんでもない知恵が隠れているんじゃないか、と。
『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』についてはだいぶ前に読了しているので、感想をまとめようと思っているのですが、「方法」や「作法」といったものへの興味が強すぎて逆に今日までどう書いたらいいかが見えてきませんでした。でも、今日、このエントリーを書いて、だいぶ見えてきたところがあるので、明日あたりに詳しく紹介できればと思っています。
日本の方法、文化に関するデータ集めをしないと
それと日本の日常の動作に隠れた方法とともに、調べてみたいなと思っているのが日本独特の文化。どういうものを想定しているかというと、
- 日本人はお茶を飲む習慣があるとか
- 家のなかでは靴を脱ぐとか
- ご飯茶碗は夫婦でも別々なのに吸い物や味噌汁のお椀は共有するとか
- 主語を抜いて話すことが多かったり
- 原研哉さんの「HAPTIC」との関連するところですが擬音や擬態語がとても多いこと
などです。
文化と身体化された方法の関係についてもあわせて考えていくことで、「生活文化のアップデート」のためのデザインの方法というものの方向性も見えてくるかな、と。
それにはまず得意の観察主体の行動調査で、日常の行動に隠れた「方法」「作法」というもののデータを収集したり、同時に本なども参照しつつ、考えるためのデータを集めるところからかなという感じ。
もちろん、データを集めたり、頭のなかで考えたりするだけでは、創造性に欠けるので、同時に手を動かしてアウトプットも作成中です。これについてはまた追々ご報告。
P.S.(2007/12/28 16:32)
ここに書いたことに関連することで、No-Style:かげうらさんがいいところに気づいたなと思ったので引用。
webをそんな枠組みの中に限定しないでください。
(中略)
もっといい薬があるはずです。
そのもっといい薬の実現のために技術があるはずです。
先にも松岡さんの言葉を引用しましたが、フレーム(枠組み)の問題を考える場合、主題によってフレームをつくる場合と、方法によってフレームをつくる場合の2つがあります。松岡さんは主題によって枠を縛ってしまう(主題でこれが「日本的」と縛る)ことに疑問を呈されていて、「まだ主題が何かがわからない方法から、蝶が羽ばたくか、蝉が啼くかを見るべきです」と言っています。これがWebにもいえる。ただ、その場合の方法はつくる方法ではなく、デザインする方法が必要だというところでかげうらさんの話とつながってきます。「つくる」と「デザインする」は別の仕事だといったん分けて考えてみるのがいいと思います。
かげうらさんの「薬の実現のために技術」はこの場合「方法」なんだと思います。
薬をつくる方法のほかに、どんな病気があるか(問題発見)、どんな薬をつくるか(問題解決)、薬をつくるためにはどんな人たち・素材・技術が必要で(リソース問題)、つくる人に問題をどう伝えるか(デザイン問題の表現)などの技術=方法が必要になります。
かげうらさんがいうデザインとはそういうことかな、と考えました。
関連エントリー
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