本がではない。本自体もそうだが、何よりここに描き出されたヨーロッパの歴史の厚みがだ。しかも、その厚みある歴史というものも、単なる一本道の直線的道のりではなく、マニエリスム芸術の蛇状曲線(フィギューラ・セルペンティナータ)のようにうねり錯綜しているし、そもそも、それが未知であるかどうかでさえ定かではない。むしろ、はっきりと刻まれた道ではないところにこそ、実は隠された厚みがある。
確かに本そのものの物理的な厚さも読み終えるのに苦労する程度には分厚いのだが、それよりもこの本を成す基盤としての知識の厚みに、まず唸る。ヨーロッパの積層した知識の厚みを、この1冊から感じずにはいられないのだ。
そして、何より、その分厚く積層した知識を、物理的にも分厚い1冊として編み上げ、展開するプラーツという人の編集的視点の凄さに驚く。
文学、芸術、音楽、工芸など、さまざまなカテゴリーに、あるいは国や地域ごとに分断された状態で堆く積まれた知識の断片、互いに無関係に見える諸事象を、その地下深く流れた根源的な水脈の同一性を発見することで結びつけ、誰も知らなかった流れを見事に綴り浮かび上がらせてみせる手腕はまさに「官能」的ですらある。
一見無関係なもの同士のあいだに類似を嗅ぎ取り、中世の神秘思想家のニコラス・クザーヌスであれば「反対物の一致( コインキデンティア・ポジトールム)」と呼んだであろう関係性を提示してみせる。本書に登場する人物の数の膨大さも圧巻だが、その無関係なもの同士を見事にひとつながりに繋いでみせるプラーツの手腕はさらに驚愕である。誰もが膨大な量の知識の断片の未整理状態を前にお手上げのなか、それを見事に関係付けて、見えない共通項を浮かび上がらせてくれるのだ。
のっけからして、プラーツ本人が、この書が書かれた当時のフランスでの「芸術における奇矯なものや異様なものに関する多くの書物が出版された」事柄に対して、
いまや、われわれが関心を寄せる領域は広大なものとなり、そして定義というものへのわれわれの信仰はあまりに希薄になっているため、これらの書物の大部分が人の目を唖然とさせるような珍奇なものの寄せ集めにすぎないとしても驚くことはない。マリオ・プラーツ「ヒエロニムス・ボスの<奇妙な相貌>」『官能の庭』
と、その未整理状態に問題を投げかけると同時に、
カイヨワなら、ヒエロニムス・ボスが≪カナの婚礼(饗宴)≫で見せたあらゆる厚かましい悪魔のいらずらや系統だった混淆の創出を「ひそやかに奇妙な」と表現するだろう。実際、偏倚なものは、それがまさに偏倚なものであるがゆえに定義を拒むものである。マリオ・プラーツ「ヒエロニムス・ボスの<奇妙な相貌>」『官能の庭』
と、ヘンリー・ダーガーらのアウトサイダー・アートあるいはアール・ブリュット(Art Brut、生の芸術)にもつながるような、偏倚なものの定義を超えでる力を指摘する。
15世紀後半から16世紀初頭にかけてのネーデルランドのルネサンス画家である、ヒエロニムス・ボスに焦点を当てていくのだが、その文中に先のアール・ブリュットを想起させることをはじめとした無数の補助線を引いていく手腕が見事なのだ。
その見事さは、Web上のハイパーリンクやSNSのネットワークなどの比ではない。その圧倒的な差に何より驚くのだ。
マニエリスム:不安な精神の思考の頂点
とにかく、この本を読むのに無知でいられない。自身が知らない事柄に対して無関心のままであることを、この本は強烈に拒否してみせる。だから、ちょっと知らないことが出てくるとすぐに「僕にはむずかしい」なんて泣き言をいう輩には、この本は向かない。この本はそのずっと先にあるものに向いている。先にも示した定義することと定義をかくぐり続ける力(バタイユなら「非-知」と呼んだであろう力)へと、記述する―読み解くという態度をもって迫ろうとするのだ。
バタイユは非-知は、知ろうとする行為の果てにあるとした。非-知は未知ではない。知ろうとする行為の挫折でもない。知の果てにその力は開く。その力は強烈に人を不安にさせる。
西洋の歴史においてその不安に立ち向かった者たちの行いの1つがマニエリスムであろう。プラーツはマニエリスムを「不安な精神の思考の頂点」と呼んでおり、そのモティーフを、
芸術表現に多様性、運動性、≪不一致の一致≫を導入し、ジョルダーノ・ブルーノが「宇宙の可逆的転換」と呼んだものに形象を与え、「小心翼翼たる入念さ」に「気高い無頓着」を優先させると同時に「規矩を逸脱した優美さ」を獲得するモティーフのことである。マリオ・プラーツ「マニエリスム研究―ルネサンスの秋」『官能の庭』
と記している。
ルネサンスの模倣の概念としての「止まれ、汝は美しい」という定義や知につながる理念に対して、マニエリスムは動き、創意を芸術家に課した。
「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で記したフェデリコ・ツッカリの「内的ディセーニョ」はまさに自然の模倣に対置される、人間の創意として「不安な精神の思考の頂点」に出現しているのだ。
造形芸術は、機械的な手作業、つまり「自然の猿真似」から哲学に依拠した学芸へ、制作技術からいちじるしく思索的な操作へ、現実の自由で緻密な制作へと移行する。これはやがて現代において爛熟と破局にいたりつくことになる、ラディカルな結末を孕んだひとつの原理への最初の主張であった。マリオ・プラーツ「マニエリスム研究―ルネサンスの秋」『官能の庭』
まさにこの原理は、現代において爛熟と破局を呼んでいる。「不安な精神の思考」を欠いたままのディセーニ=デザインは、なんら依拠すべき哲学や思索のないまま、惰性的な学芸、操作、制作に脱している。
無頓着でいることの優美
その破局的な状況に気づかぬほど、現状に対する無頓着さの度合いははなはだしい。特にもはやほぼ壊滅的に骨抜きにされた日本文化は、もはや生きる方法を完全に見失い、そこでものをつくる人々は、自分たちがなんのために制作し操作しているかをまるでわかっていないし、「なぜ作るのか?」を問うてもまともな答えを持たない。呆れることに「人間はあきっぽいから作る」なんてことをのうのうという。では、そのあきっぽい人間は、ここで紹介されたヒエロニムス・ボスやフランチェスコ・ペトラルカやトルクァート・タッソをすでに十分に堪能し、それに飽きてしまったのか?
飽きるほどに分厚い歴史の蓄積という崖っぷちの深さに立ち向かうことをしたのか?
繰り返すが、未知は非-知ではない。非-知の前で人は飽きない。飽きっぽいならそこを目指すべきではないか。なぜ、知の果てにある非-知を目指さず、無頓着であることを無前提に受け入れるのか?
だが、そうした無頓着さを優美な次元にまで推し進める要因をつくったのは、紛れもなくタッソである。つまり、いまここにある無頓着さは所詮は過去に作られたそれの「機械的な猿真似」でしかない。
無頓着でいることの優美という着想をタッソは庭園に適用したが、これは大きな反響を呼んだ。タッソにアルミーダの庭を思いつかせたのは、サヴォア公エマヌエーレ・フィリベルトが着手し、息子カルロ・エマヌエーレ一世が完成したトリノの王宮宮殿であると言われているが、ともあれタッソは完璧な語り手たれというロンギノスの勧告を採りいれながら、18世紀にイギリス独特のものとなる「自然な」、すなわちピクチャレスクな庭の創造に道を拓いたのである。マリオ・プラーツ「アルミーダの庭」『官能の庭』
その後、タッソから連なるピクチャレスクがどれほど世界に影響を与えたかは、すでに高山宏さんらの著作を紹介した際に書いているのでここでは繰り返さない。
「ヨーロッパにおける自然庭園の最初の理念はタッソにさかのぼる」、「すべてはタッソが庭園に適用した詩の規則とともに始まった」。
だが、その「無頓着でいることの優美」さを讃えたタッソの庭は、
タッソの時代には反宗教改革の精神が漲っていたことを、まず述べておかなければならない。信仰ゆえの順境の美しさが強調され、裁断には血なまぐさい拷問の光景が描かれていた。ところでタッソは、美が死と固く結びついていた状況を描写するさいにきわめて感動的ないくつかの詩句を残している。(中略)タッソの目には、苦痛が美を際立たせ、その苦痛のゆえに順境から悲壮さが生じると映る。マリオ・プラーツ「アルミーダの庭」『官能の庭』
というマニエリスム的な「不安な精神の思考」を通じての無頓着さであったことは忘れられている。それを忘れて、何を人は飽きたといえるのだろうか?
同時並列的な場としての歴史
この分厚い本に関しては、いくら書いても書ききれない。無尽蔵とも思える厚みがこの本を起点として浮かび上がってくるからだ。要素をすべて挙げれば、この本を紹介したことにもならない。なぜなら要素のリストアップだけが問題なのではなく、そのレイアウト、布置こそが問題なのだからだ。プラーツがその偏執的/編集的手腕によって示しているのは、歴史がそのような異質な要素の同時並列の場であることである。ましてや、その歴史は単に絵画や彫刻、音楽や文芸にいたる芸術のみならず、とうぜん、その時代の生活文化ともつながっていることを、14世紀のイタリアの詩人ペトラルカの影響を、後の綺想詩の隆盛や同時期の絵画にまでつなげるもみならず、当時の生活のなかで用いられていた象嵌細工のモチーフやインプレーザの流行にまでしっかりと見据えたところに意味がある。
その発掘精神と編集気質たるや畏るべしである。
ところが、そのプラーツ自身、無闇な発掘にはしっかりと懐疑的な目ももっている。
つい最近までは、時代的に古いモニュメントほど重要であるという確信が流布していたため、イタリアやポルトガルでは、たんに古いということしか取り柄のない中世の教会堂の骨組を復元するために、17世紀から18世紀にかけての魅惑的な改築部分をとりこわすという事態が起こっている。マリオ・プラーツ「レッチェのバロック」『官能の庭』
といった具合にだ。
もはや、これ以上、ここで本書の要素を抜き出しても意味はない。あとは実際に本書ならびに他のプラーツ著作を読む気になるかどうかだ。
圧倒的な物量の博覧強記に立ち向かうこともせず、何をもって新しく企図しようというのか、デザインに望みを託そうというのか?だ。
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