読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』。
高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。
2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。
この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。
高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。
この本を読んでみるまでは…。
そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。
まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。
高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰める必要が出てきたね。つまり、一見何もかも飽和状態で、全部あるのだけど、じゃここからどうするか。
中沢 イノヴェートというやつですね。
高山 イノヴェートというよりも、やっぱりインヴェントだね。いい言葉だよね。もとはインヴェニーレ、2つあるものの間を来るという意味だよね。高山宏、中沢新一『インヴェンション』
イノベートよりインヴェント。
イノベーションよりインヴェンション。
「2つあるものの間を来る」という意味のインヴェント。
まさに、僕にとってそれぞれ別々に読んでいた高山さんと中沢さんの2つの間をとおって、新たなものがインヴェントされたという感覚をもったというのが、まずこの本を読んでの何よりの感想です。
やっぱりアルス・コンビナトリア
そんな感想をもった、この本に出てくるテーマの1つは、「そもそも領域なんて関係ない」っていうものでしょう。僕自身、2人の書くものをこの本を読むまで結びつけられなかったのって、結局、僕が既存の領域の境界を超えた思考ができなかったからだと思います。
実際、おなじように領域を分けることで思考ができなくなるということが多々あります。
例えば、こんなことも2人の間では話されています。
中沢 インヴェントですね、必要なのは。面白いものをつくり出すためには、ウィキペディアとウィキペディアの記事の間で何か別のものを作っていかなければいけないのですけど、それがまだ十分にできていない。
高山 ふうん、アルス・コンビナトリアか。必要なのは結合術なんだね。高山宏、中沢新一『インヴェンション』
そう。やっぱり結合術=組み合わせ術のところにいくんですよね。
だから、僕もいまさらながら「思考の方法の2つのベクトル」や「マニエラ(技法)の核心 ~僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において~」なんて記事で、アルス・コンビナトリア=組み合わせ術を取り上げようと思ったんです。
イノベーション、いや、インヴェンションのためには、2つの異なるものの組み合わせから、これまで議論されてこなかった議論を生むことが不可欠だと思うんですよね。
高山さんと中沢さんはそんな領域が非常に多くあり、それゆえに未解決な謎、議論されずにいる手つかずの領域がたくさん残されていることを指摘してくれます。
こういう謎のありかを明らかにしてくれる本って僕はすごく好き。
とにかく僕は本を読んで何かわかるよりも、わからないことが増えるのがうれしいタイプなので。
文学と科学は対立しない
それはさておき、領域なんてない、という点では、文学と科学という対立もまやかしであることを、こんな風に暴いてくれています。高山 たとえばソリッド・モデルに科学が動かされている時代って、いわゆる文学もやっぱりソリッドですね。それを単にパラレリズムとか、なぜか似ているみたいな表現じゃなくて、中沢さんがやったように、もうひとつの現象を書くと、同時にそれが文学でもあって科学でもあるような捉え方をしないと19世紀以降はもうだめなんだろうと思う。
中沢 ミシェル・セールがエミール・ゾラ論を熱力学で書いてます。つまり熱力学にはふたつの表現方法があって、ひとつはクラウジウスみたいな科学的な表現法で、もう一方はゾラのドレフュス事件に対する政治的な行動も含めた熱力学の政治学というものがある。そのふたつを並べても、文学と科学は対立しない。高山宏、中沢新一『インヴェンション』
この視点は、すこし前に紹介したワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』で言われてたことと同様ですよね。
サイファーは「19世紀がすすむにつれて、事情はやや異なってくる。なぜなら、それは科学と芸術いずれの世界にあっても、絶対的なものと、一定の法則の上に基礎づけられた理論を帯びたすべての方法に没頭した時代だったからである」なんて書いてました。
サイファーの本も19世紀の文学を中心とした芸術と科学そしてテクノロジーとの関係を批評した本でしたが、まさに高山さんが上ではっきりと「19世紀以降」といっているのと重なるわけです。
このあたりの話は相当面白いので、そういう意味でも、この本はぜひ読んでほしい。サイファーの本を読むのに比べれば100倍読みやすいので。
知恵のある商人
もう1つ別の観点で面白かったのは、イギリス人を商売人という観点からみる見方でした。なかでも、高山さんの発言にある、これ!
高山 あんまり記憶がないころから『ロビンソン・クルーソー』だけは好きだった。なんで好きなのかが今でもわからないんだけど、それの追求がこの60年の人生だった気すらする。まず彼の有名な言葉をひとつあげておくと、"Mercator Sapiens"「知恵のある商人」。僕はね、これはそれ以降350年の文化世界最大のテーマだと思うんだよね。商業と知識の関係というものが、まず問題になるよね。高山宏、中沢新一『インヴェンション』
"Mercator Sapiens"「知恵のある商人」。商業と知識の関係。
すこし話を戻すと、僕は芸術と科学の領域をなくすこともあるけど、それ以上に、僕ら自身にとって重要なことって、ビジネスとアートや、商売と学門といったものの領域を分けて考える思考や姿勢をあらためるということのほうだと思ってます。
だから、僕自身、単なるビジネスマンでありながら、こんな領域のことを結構長い間追求してもいるわけ。
だって、ちゃんとみてみれば、高山さんのいうとおり、デフォーが生きた17世紀以降の350年はまさに、知識と商業がたがいに強く結びつくことで世界文化の全体をまわしてきているわけだから。
それなのに、なんでビジネスマンがビジネスに関する知識しか身につけようとしないのか?ってことを、もっとみんな普通に疑問に思ったりしないんだろうか?
その意味でいうと、僕らはなんて知恵のない商人なんだろう。
言葉が負けたあとの経済学
この流れで面白いと思ったことは、こんな箇所。中沢 経済学が今みたいになっちゃったのは、結局、言葉とお金の対立で、言葉が負けてしまったことと関係している。実は経済という人類的現象は言葉が作りだしています。言葉の中にも、お金のような計算可能なものにすり替わっていく部分が含まれている。経済の基礎の部分は言葉が取り囲んでいる。ところが「言葉」を問題にしていたのは、マルクス、デフォー、それからアダム・スミスまでで、ある時期からは、「言葉」の問題を取ってしまっても経済学が成り立つようになってしまった。高山宏、中沢新一『インヴェンション』
あー、なるほどと思った。
確かにアダム・スミスの経済学なんて、本当は人間行動学みたいなものであって、単なるお金の話じゃないんだよね。マルクスもとうぜん価値創出が問題なのであって、別にその価値はお金のような量的なものだけが想定されているわけじゃない。
言葉とお金の両方の意味での経済学から、言葉が消えてお金だけの経済学になっていく。
その関係を高山さんなんかは、シェイクスピア以前と以降、年代にして1660年代以前と以降の英語のあり方との関連でも語るので、よけいに話は面白くなります。
つまり、文字で書かれた台本がなかったシェイクスピアの演劇のダブルミーニング当たり前("sun"と"son"が区別がつかない、など)の英語と、王立教会の0/1のバイナリー化の方向に進められた英語。後者はお金だけになった経済同様にデータ化が容易になる。
このあたり、むちゃくちゃ面白い展開を、対談ならではの、わりかしさらっと読める文体で軽快に展開されていくのが、この本の良さ。
ホッケの『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』を2ヶ月かけて読み終えたあと(とうぜん他の本も読みながらだけど)、この本を手にとったんだけど、2日間、正味3時間くらいで読めちゃった。
ホッケの本を読みながら、本を読む速度が遅くなったのかと思ったりもしてたけど、どうも、そうじゃなく単にホッケが難解すぎるということなんだろうなとあらためてわかった点でもいいタイミングで、この本を読めたかな、と。
高山宏さんの本としては入門編だと思うので、1つ前に書いた「文学というデザイン」の記事で高山さんには興味をもったけど、
『表象の芸術工学』には二の足を踏んでる人におすすめかも。
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