「個人」という古い発明品

今日は「個人」とは発明品だ、という話をしましょう。

早速ですが、個人主義が発明されたのではなく、個人そのものが発明されたと僕は認識しています。

すでに「新しいことばのデザインパターンの追求」で〈「所有」や「個人」という概念の変化〉という話題を取り上げ、印刷された聖書を得たピューリタンたちは儀式空間である教会をナンセンスと捉えたという例をあげながら、共同体の一心同体の中世的人間から独立した個人という意識をもった近代的人間への変化について紹介しました。
また、それに関連する事柄としては、以前の「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」というエントリーでも、印刷による書籍の個人的な所有を期に、それを個人的に読むための空間としての個室の誕生、音読(聴覚で読むこと)から黙読(視覚で読むこと)への変化、黙読とおなじ内面の領域で行なわれる思考を刻みつける日記の誕生といった変化についても紹介しています。

つまり、これまで教会などの知識層に独占的な写本という形態でしか存在しなかった書籍という情報・知の蓄積メディアが、活版印刷によって個人が所有できるようになったことで、教会という共同体的儀礼からの解放や、共同の読書空間での音読から個室での黙読への移行、内面を綴る日記という表現形式の成立という変化を引き起こしたわけです。そして、それと同時に、そうしたメディアによって機能拡張した人間は、それまでの中世的役割からは独立した「個人」という超役割を手に入れたのです。

競争的な個人主義

こうした「個人」が発明される時代の変化を、マクルーハンも『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』のなかで取り上げています。

それまで共同社会の集団的価値のなかで育まれてきた社会にとって、こうした競争的な個人主義は、社会的スキャンダルになりはじめていたのだった。当時登場した印刷技術が新しい型の文化を創造し、こうしたスキャンダル発生に拍車をかけていたことは割と知られている。

ここでマクルーハンが「こうした競争的な個人主義」と呼んで指差しているのは、シェークスピアの『リア王』の登場人物たちの振る舞いです。

リア王は自らの権限の譲渡を宣言することで、専門家を生み出し、王国を共同体からシステム・機械的なものへの変換をはかります。また同時に自分たちの娘に対して、彼女たちが父である自身をどのように思っているかを述べよといい、姉妹間で父への愛に関する競争を生じさせます。

役割から職業へ

こうした登場人物のふるまいが見られる『リア王』という作品を、マクルーハンは「人間は剥奪されることで役割の世界から職業の世界へと移行した。この人間の剥奪過程の実地教材が『リア王』だ」と評しています。

『リア王』は役割が構成していた世界から職業が構成する世界へとみずからを転換していった人びとについての、たいへんに手のこんだ症例研究のためのモデルであるといえよう。それは中世的人間が剥奪されて裸になってゆく過程であった。

「中世的人間が剥奪されて裸になってゆく過程」。人びとが共同体のなかでの役割に自分を完全に重ねていた中世社会。そこから社会的な役割から切り離された形で、それぞれが専門的な職業を担うようになる近代。リア王自身が王国における役割としての王から、より専門的で機能的な意味での職業としての王に作り替えようと試みます。その職業的な専門化と同時に「個人」という人間の在り方が発明される。

それと同じことをマクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』でも繰り返し述べていて、例えば、

無文字世界には専門分化した「職業」なるものはない。未開の猟師や漁師は、現代の詩人や画家や思想家が労働をしないのと同じである。全人格が巻き込まれるところに、職業はない。職業は、定住の農耕共同体で労働の分化、機能と仕事の専門化が生じたときに始まった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

と言っています。

これは中世から近代への変換よりさらに前の、ギリシアにおけるアルファベットの発明のタイミングでの話ですが、この変化がより社会的に全面的に生じたのが、アルファベットを印刷により大量複製可能にしたグーテンベルク革命の時期であったとマクルーハンは述べています。

「全人格が巻き込まれるところに、職業はない」。
つまり、人格のすくなくとも一部が自然や社会、そして神から独立して切り離すことが可能になってはじめて、専門分化した職業が可能になるのです。教会での儀礼から独立し、空気の振動を使う発生からも切り離された個室での聖書の黙読。そして、実際の行動をともなわない日記形式での自身の表明。こうした社会や自然の一部としての役割から独立した自由をもつことではじめて、人は専門職を得て、同時に個人化したのです。

「個人」が生まれ、「デザイン」が生まれた

マクルーハンは、グーテンベルク革命以前の中世社会、さらにはもっと古いアルファベット以前の共同体社会において、人間各人それぞれが多数の役割を演じることで共同体や自然のふるまいに対して高い参加度を持っており、その反面、分業的な組織度が低かったことを指摘しています。

人間自体が組織のなかで専門化された仕事をもたないのと同様、そうした社会においては日本やほかのアジア地域でもそうだったように、モノも単なる専門的な役割をもった道具ではなく、霊(タマ、マナ)として扱われました。人もモノも、自然がさまざまな霊的な力をもっているのと同様、自然の一部、宇宙の一部だったのです。

それが『リア王』に描かれた「人間の剥奪過程」を通じて、人間は「役割」を奪われ、代わりに専門的な「職業」を割り振られます。同時に、モノは道具となり、そうであるがゆえに、ある道具がある利用状況で適切な働きをしないという「失敗」が見出され、「デザイン」による改良が行われるようになります(cf.「フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー」)。

つまり、個人の誕生と同時にデザインも誕生しているわけです。
ただし、個人となった人間も、デザインされるようになったモノも、それまで一体となった自然や宇宙と切り離されて、不安や孤独に苛まれることになりました。

文字による教養とか、プライバシーとか、孤独の価値とか

このようにマクルーハンは、ルネサンス期にグーテンベルクの印刷革命を機に「個人」という人間の在り方が発明されたことを指摘しているのですが、マクルーハンの指摘はそれに留まりません。

例えば、先の引用のあとに、マクルーハンはこう続けています。

コンピュータの時代に、われわれはふたたび全面的に流動する「役割」に巻き込まれる。電気の時代には、部族社会におけるように、固定した「職務」が献身と主体でき参与に道を譲るのである。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

そう。グーテンベルク革命のあと、個人に、そして、専門分化された職能に、バラバラに分断された人間が、電気の時代に再び、中世や古代の共同体的な社会とおなじように「役割」−つまり、自然や社会とつながった状態−に巻き込まれるというのです。

同じことは、『リア王』を書いたシェークスピアが同時代の人間にはよく見えなかった変化を見て取り、それを表現したことを評価しつつ、そうした目をもった芸術家以外の人びとの多くは自分たちの時代の変化を捉えきれず、古い世界の亡霊を追い続けているのだということを次のように指摘しています。

彼は未来を語っていたわけではない。だが、古い役割の世界が亡霊のように彼のまわりに漂っているのをみた。それはちょうど今日の西欧のなかにも一世紀にわたる電気の時代を経たにもかかわらず、まだ文字による教養とか、プライバシーとか、孤独の価値とかいった古い諸価値の存在が感じられるのと同じである。

電気のもつスピードと共時性を最大限に現実化するインターネットの時代に「個人情報の保護」だとかを真剣にどうにかしようというのが、そもそも文字文化の亡霊に縛られた古臭い価値観なんでしょう。前にも何度か書いたとおりで、テキスト情報だけでなく、写真や動画、音楽などのコンテンツデータがいくらでも蓄積可能で、原理的にはどこでもすぐに欲しいものを取り出せるようになった以上、「文字による教養」などをまともに信じて、はるかにインターネットに劣る脳みそのなかに知識を詰め込むのを教育だの勉強だと考えるのは馬鹿げすぎています。

この多くの人がいまだに追いかけている亡霊は、まさにシェークスピアが『リア王』で描いたのと逆向きの変化を見えなくさせています。つまり、文字文化的な個人主義やデータのアーカイブを過度に崇める古臭い価値観がインターネットをはじめとする電気の力のもつメッセージを誤読させ、個人情報保護をはじめとする馬鹿げた方向への舵きりを僕らにさせているのでしょう。

「個人」を超えて

このあたりは僕がマクルーハンとあわせて読むべきだと感じるバーバラ・M・スタフォードの次のような言葉を思い起こさせてくれます。

グローバル・ヴィレッジはどんどん分化しつつある。バイオメトリックス、というか識別テクノロジーの急発展をみればよい。顔の同定、手の形による同定、瞳孔による同定などをみていると、サイバーランドでも万事順調とはいかないらしい。顔、手、指、目、声といったさまざまな身体的特徴で人々を識別するこうしたデジタル・デバイスの一揃えは即ち、最も個人的なものを含めてあらゆるデータを集めるコンピュータのどん欲かつ没道徳な力への、不安一杯の反応と言える。我々の身体各部位のイメージを蓄積するこの自動化された力はプライバシーと法の問題に関心を起こさせるが、この終わりのない雑多な発信信号を何者が統合しようとしているかという問いには答えぬままである。

個人という古い概念の具体的な対象を同定するのに使われるのは、さらに個人をバラバラに刻みこんだ形のバイオメトリックス的なデータの雑多な集積であるというのは何とも皮肉な話です。かつて、自然や社会から切り離されることで、個人化、専門化した人間はその後おなじ方法でもって、その個人をさらに細かく切り刻んでいるのです。分断された個人間にかつての共同体のような関係性が希薄なのと同様に、バイオメトリックスにより切り刻まれた身体各器官は、もはや互いに関係をもたないデータとなって、ますます自然や社会から孤立しています。その孤立や統合的な視点の不在をさておいて、僕らが躍起になって議論しているのはプライバシーや法の問題であるという、なんという時代錯誤!

砕け続けていく断片のこの雑多異質の広がりから、どう統一あるモザイクをつくろうというのだろう。信じるに足る類比を知覚するのにどんな検索エンジンが役立ってくれるというのか。(中略)ソフトウェアのエージェントは、情報を高度に個人的な関心へと自動的に合わせ、未知の領域への海図なき旅に誘う代わりに、皮肉にも既知の材料を確認維持する。

この電気の時代に、個人という時代遅れの概念を基盤に、あらゆる物事を組み立て、デザインしようとしていることに無理があるのだろうと思います。「版(version)の危機」でも書きましたが、複製による大量生産という活字出版にオリジナルをもつ機械的生産はデジタル化の時代を迎えて危機に瀕しています。であれば、大量生産の対象として生まれた個人やその集合体としての大衆という概念も変化せざるを得ないでしょう。Twitterなどで声をあげることができる僕らはすでに大衆ではなくなっています。ただ、それは同時に個人としての意見をいう存在でもなくなりはじめているのだということに案外気づいていません。この過去の亡霊に付き合い続けて、物事をデザインしている以上、それがおかしな方向へとどんどん進んでいくことは避けられないでしょう。

僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません。

 

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