はてなキーワード: 義和団事件とは
あなたの書いてくれた歴史は、清首脳部の自発的・トップダウンな改革でした。
しかし西太后をはじめとする保守派の強力な抵抗が予想されうまくいくように思えません
どうでしょうか?
ご指摘はまさに核心を突いています。
前回の回答が、あたかも「為政者が賢明な決断をすればすべてうまくいく」かのような理想論に見えたとすれば、それは私の説明不足です。
実際、最も頑強な障壁はまさに西太后を頂点とする保守派の利益構造と世界観でした。
では、いかにしてこの「保守派の壁」を突破するか。歴史シミュレーターとして、より政治力学に根ざした現実的なシナリオを提示します。
西太后の本質は、主義に殉じる頑迷な保守というより、「自己の権力維持」を最優先する冷徹な政治動物でした。
ゆえに、戊戌の政変のような反動は、「改革が自身の権力基盤を直接脅かす」と判断した時に発動されています。
よって、改革を成功させるには、改革を「彼女の権力を脅かすもの」ではなく、「彼女の権力を延命させる唯一の手段」として認識させる段階的工程が必要です。
康有為・梁啓超らの急進性(「大变、快变、全变」)は、西太后に「守旧派の一掃」という脅威を与えました。
西太后の抵抗は避けられない前提であり、彼女を打倒するのではなく、彼女の権力欲を改革のエンジンとして利用し、懐柔し、最終的に彼女自身を「立憲君主制の生みの親」として歴史に名を残させる——そのような冷徹な政治工学だけが、清朝の自発的改革を成功させる唯一の現実的な道だったでしょう。
でも現実は保守派が改革派を叩き潰してしまい、アヘン・アロー・日清戦争での敗北も西太后や保守派を動かせませんでした
これはいったいなぜだったのでしょうか?
非常に本質的な問いです。 私が先に示した「こうすれば改革できた」というシナリオは、言ってみれば“解答例”です。しかし、現実の歴史がその通りに進まなかったのには、いくつもの「解答を封じ込めた力学」が働いていました。
なぜ、戦争での敗北という強烈な危機ですら、西太后と保守派を動かせなかったのか。それは、彼らにとっての「自己保存の論理」が、国家存亡の論理よりもはるかに優先されたからです。もう少し深く分解してみましょう。
何か新しいことを始めるには、人材を入れ替え、予算の配分を変え、既存の規則を破壊する必要があります。これらはすべて、既得権益層が持つ「人事権」「財源」「解釈権」を奪う行為です。
つまり、「改革が成功すれば国は助かるが、まず自分たちが失脚する」という構造が、彼らにとっては「国家の滅亡」よりも切実な危機だったのです。
アヘン戦争もアロー戦争も、日清戦争も、紫禁城の奥深くにいる保守派にとって、それは「国家の崩壊」ではなく「辺境の騒擾」や「地方軍(湘軍・淮軍)の弱さ」として処理されました。
本当の意味で彼らが「死」を覚悟したのは、外国軍が紫禁城を占領した義和団事件(1900年)と、その10年後に新軍が寝返った辛亥革命だけです。しかしその時には、もう手遅れでした。
ここに「改革のパラドックス」があります。急進的な改革は保守派の猛反発を買いますが、漸進的な改革は既存の権力構造に吸収されて骨抜きにされます。
もし光緒帝、康有為、梁啓超、張之洞、そして袁世凱が一枚岩で西太后に当たれば、歴史は変わったかもしれません。
しかし現実は、康有為の「大变、快变、全变」というあまりに性急な戦略が、本来は味方になり得た張之洞のような重鎮や、軍の実力者・袁世凱までも「こいつらに付いていったら危険だ」と警戒させてしまいました。
西太后という強力な敵を倒すには、それ以上に強力な連合が必要ですが、清の末期にはその連合が決定的な瞬間に瓦解し、保守派に「まだ我々の方が強い」という誤った自信を与えてしまったのです。
まとめると、現実の歴史が動かなかったのは、為政者たちが「国家の利益」よりも「自己の生存確率」を優先した結果です
彼らにとって改革は、たとえ国全体の生存確率を100%から200%に上げるとしても、自分個人の生存確率を90%から50%に下げる行為でした。
ユーザーが要求する「もし~だったら」、「~になるにはどうすべきだったのか?」という質問に対して、過去の歴史を振り返って、回答してください
清の滅亡を回避してください
2.あの時代に起こった主要な出来事に対してどのように対応するべきか
この3つを踏まえて回答してください
清の滅亡を回避するためには、以下のような歴史の分岐点での別の選択と構造改革が必要でした。
転換点は第一次アヘン戦争(1840~42年)敗北直後、すなわち道光帝の晩年から咸豊帝の即位期です。
この段階で、単なる部分的軍備強化ではなく、国家存続をかけた「全方位改革」に着手すべきでした。
単なる鎮圧ではなく、乱の背景にある社会矛盾(土地集中、貧困)への対策を並行。
郷紳・曽国藩ら漢人地方エリートの武装化を容認しつつ、中央政府が近代的常備軍(新軍の原型)を早期に創設。
乱の終結後、その軍事力と中央財政を背景に地方督撫の分権化を抑制し、連邦制的な瓦解を阻止する。
戦争自体を回避する外交努力を前置きしつつ、敗北後は北京条約を受け入れつつ、そのショックを逆手に取り「国家存亡の危機」として一気に改革を加速。
総理衙門のような機関を単なる窓口でなく、内閣に準ずる政策決定機関に格上げし、諸外国公使の北京駐在を近代化の触媒として利用する。
日本の明治維新の成功を早い段階で徹底研究し、海軍建設で競うだけでなく、憲法制定・議会開設・内閣制度の導入で政治体制自体を近代化する。
戦争の口実となった朝鮮問題では、対外強硬策に走らず、朝鮮の内政改革を日清共同で支援する構想を実現可能な外交力で押し進める。
西太后が改革派(康有為・梁啓超ら)を弾圧せず、光緒帝を中心とする立憲君主制への移行を主導する。
急進的な「百日改革」ではなく、日本の明治憲法をモデルに10年程度の移行期間を設けた漸進的改革を懿旨(西太后の了承)として出す。
義和団の排外運動は発生段階で徹底的に鎮圧し、列国との共同歩調をとることで北京議定書以前の外交的破綻を防ぎ、主権を守りながら国際的信頼を回復する。
この道筋を取れば、辛亥革命は起きず、清は自ら変革を遂げた正統王朝として1912年以降も存続し得たでしょう。
この歴史の分岐をたどった場合、中国共産党は組織として誕生しなかったか、誕生したとしても極めて周縁的な小勢力にとどまり、中国の政治を左右する存在にはならなかったと考えられます。
なぜなら、中国共産党が歴史的に成長し得た条件のほとんどが、この改変された軌道では失われるからです。
中国共産党は、清朝崩壊後の軍閥割拠、国家分裂、そして外国帝国主義の圧力が極限に達する中で、「救国」を掲げる革命政党として支持を集めました。
改革に成功した清朝が存続し、中央集権的な近代化と不平等条約の段階的改正を実現していれば、国を根底から覆す革命の必然性そのものが薄れます。
五四運動(1919年)の反帝国主義・反伝統の激しいラディカリズムは、民国政府の無力さとヴェルサイユ条約の屈辱に端を発しました。
もし憲法・議会・内閣を備えた立憲君主国が国際社会の中で主権を徐々に回復していたなら、若い知識人たちの多くは陳独秀や李大釗のような革命思想家ではなく、議院内の改革派政党(例えばイギリス自由党や日本の立憲政友会のような存在)に流れていたでしょう。
中国共産党の原動力は、無権利状態の都市労働者と貧窮にあえぐ農民でした。
私の提示した道筋では、皇帝政府が「労働者保護と農地改革(小作料の法定化)」を漸進的に進め、官営工場から始まった工業化が民族資本の育成につながるため、搾取の構造は徐々に改善されます。
社会立法と改革が上から施されることで、階級闘争を呼び込むよりは、社会民主主義的な労働組合の公認に落ち着く可能性が高いでしょう。
ロシア革命(1917年)の成功が中国の共産主義者に与えた衝撃は、「後進国でも社会主義革命は可能だ」というモデルでした。
しかし清朝が既に立憲君主制へ移行し、民族自決を連邦制に吸収して辺境も安定させている状況では、コミンテルンの工作員が入り込む隙間は格段に減ります。
また、沿海部に外国の租界が残っていなければ、そこを安全な根拠地として使うこともできません。
清朝という伝統的王朝がみずから憲法を制定し改革の主体となれば、「打倒孔家店(儒教を打倒せよ)」に象徴される全面的な反伝統運動は起こりません。
「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」を掲げた漸進的な近代化が成功すれば、伝統文化を全否定するイデオロギーとしての共産主義が、文化的に訴求力を持つこともなかったでしょう。
したがって、この歴史の線路においては、中国共産党が指導政党として全国を掌握する未来は訪れないというのが、歴史シミュレーターとしての結論です。
中国はむしろ、立憲君主制の下で早熟な議会政治と保護貿易による工業化を遂げ、20世紀後半には「大英帝国から英連邦へ」と変貌したように、多民族連合の「大清連邦」としてアジアで独自の位置を占めていたでしょう。
その政体では、社会主義政党が誕生したとしても、日本の社会党や英国の労働党のように、同じ立憲体制の枠内で穏健な野党として活動するにとどまったはずです。
田母神俊雄氏の「論文」が問題になっています。原文は↓からDLできます。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
親切に英訳までしたようです↓。そのおかげか、さっそく海外でも反響を読んでいます↓↓。
http://www.apa.co.jp/book_report/02.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7702374.stm
http://www.guardian.co.uk/world/2008/oct/31/japan-secondworldwar
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103101475.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103100989.html
http://www.nytimes.com/2008/11/01/world/asia/01tokyo.html?_r=1&ref=world&oref=slogin
http://www.thestandard.com.hk/breaking_news_detail.asp?id=8886&icid=4&d_str=20081031
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297008.html
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297257.html
ローズベルト陰謀論が結構とりあげられています。どれだけ「国益」を損ねているのだろう。やれやれと、日本の報道に対するブコメや日記を見てみたら、田母神氏の「論文」の内容に肯定的な人もそれなりにいらっしゃるようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
私も別に現代史に詳しいわけではないです(気の向いたときに、中身が増えてきたCiNiiとGoogle Scholar、各研究機関の学術リポジトリを漁ってみる程度)。しかし、その限られた知識から見ても、問題の「論文」はその形を為してすらいないと思いました。そこで、現在パラパラと集めている関連文献の整理をかねて、「論文」原文に逐一つっこみをいれてみようと思い、エントリを書いてみることにしました。はてな記法で引用した部分は、断りのない限り田母神氏の「論文」からです。原文の全角数字は全て半角に直したことをおことわりしておきます。
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
駐留を認めることと、「(被害をこうむる方にとっては)侵略(といわれているが田母神氏はそうではないとされる行為)」を認めることは違うでしょう。軍隊に攻めこまれることに了承を与えていたというのは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?
「知られていない」ことを明らかにするのが行論の目的ならば、「新事実」(この場合は具体的な条約の内容や運用)を具体的に提示し、典拠となる史料を明らかにするのが論文の作法です。主張の根拠を示すのは、論文のイロハのイです。しかし、残念なことに、この「論文」では全体的に守られていません。関連して、「・・・・・・という人」とありますが、論文で先行研究に言及するときは、注をつけて批判対象を明らかにするルールも守られていません。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
スターリンと毛沢東がそれほど仲が良かったとは知りませんでした。コミンテルンにそれほどの影響力があることも知りませんでした。繰り返しますが、オリジナルな主張には、その土台となる史料の裏づけが必要です(「実は??」と書いているのですから、普通は知らない新しいことなのですよね?)。大事なことなので強調します。「新しいことを主張するためには、根拠を示さなければならない」、これは学問の基本です。
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
ようやく文献をあげられましたが、刊行年と該当ページも明示するのが一般的な論文のルールですよね。それは百歩譲るとしても、示された著者のなかに査読つき学術雑誌に報告された方が一人もいらっしゃらない。これは信憑性をさらに落とすものではないでしょうか。また、人の発言を引くのであれば、それが掲載された媒体を明示するのもきほんのきですよね。
張作霖爆殺をコミンテルンの仕業とする説に対しては、特に『マオ』について、中国現代史研究者から根拠に疑義が出されています。
「関東軍高級参謀河本大作らがこの事件を企画し実行した固い事実を、この程度の「スパイ情報」で覆せるものか」(矢吹晋「書評『マオ―誰も知らなかった毛沢東』」『中国情報源』21世紀中国総研編、蒼蒼社、2006年、225ページ。http://www25.big.jp/~yabuki/2006/mao-rev.pdf)。
盧溝橋事件についても、「計画」説に対する批判的研究が出ているようです。
「日本の一部の論者が唱える「中国共産党計画」説と,中国側の唱える「日本軍計画」説がともに誤りであり,盧溝橋事件が日中双方にとって「偶発」的なものであったとする」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、65ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
最後に、既にたくさんのつっこみがブコメで入っていますが、みんながやっていることだからといって、行為に対する責任がなくなることはないでしょう。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮
半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
「同じように開発」と主張するには、開発の指標を定め、比較する必要があります。共通の比較の基準が示されていません。データもです。内地、満洲、朝鮮、台湾、他の植民地宗主国本国、その国の植民地それぞれについて、共通の尺度ではからないと比較にならないのではないでしょうか。それをせずに外形が拡大したと言うだけでは、中国の「共産党政権はチベットを・・・・・・」に反論できなくなってしまいます。
「内地化」も定義を明確にして使うべき用語ですね。
また、現実にも、「帝国日本の植民地支配の歴史には,「外地」を法制的・政治的には明白に異域に置きながら、イデオロギー的には「内地化」を標榜するという,理念と現実の「二重性」がその当初からつきまとっていた」(山本有造「植民地統治における「同化主義」の構造」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』83、2000年、70ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48550/1/83_57.pdf)、「「満洲国」の掲げた「五族協和」にしろ「王道楽土」にしろ,関東軍による露骨な軍事支配を隠蔽するイデオロギーという以上の意味を持ちえなくなる」(山室信一「「満洲国」の法と政治―序説」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』68、1991年、150ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf)といわれる植民地統治を、「極めて穏健」と評価するにもまた、基準とデータの比較が必要です。
また、人口の増加は支配の善さを担保しません(チベット・・・・・・)。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。
前の段落と同様に、「多く」の中身が不明確に過ぎ、検証のしようがありません。また、植民地が宗主国の支配の下で「植民地近代」化したのはその通りだと思います(松本武祝「’’朝鮮における「植民地近代」’’に関する近年の研究動向」『アジア経済』43(9)、2002年、31-45ページ。http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2002_09/note.pdf)。私はこの辺り特に勉強不足です。各国の軍制についても同じくよく知らないので飛ばします。
孫文をはじめ、アジア各地の革命家が日本に集まったことは特に新しい論点ではないでしょう。ファン・ボイ・チャウの失望も有名な話ですね(白石昌也「ファン・ボイ・チャウと日本」『東南アジア史学会会報』25、1975年、1-3ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004923536)。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
旧領主の家系の存続という意味であれば、インドの藩王たちも手厚く身分を保証されていましたね。ベトナムのバオ・ダイもフランスのグランゼコールで教育を受けていましたね(英国人とインド人の婚姻には宗教問題がありますし、バオ・ダイ渡仏時のフランスは共和制だから王室はないですし、この段落については適切な比較が可能な問題設定なのか疑問です。個人的にはそもそも宗主国の王室を嫁がせることが恩恵という考え方がどうなんだろうと思います)。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
ロイヤルファミリーの婚姻の件で共和制のアメリカを並べているのは不適切でしょう。既に述べましたがフランスも時代によって共和制です。
エルフィンストーン・カレッジ(1856年設立、現在はムンバイ大に)、カルカッタ大学、マドラス大学(1857年設立)というように、大英帝国は植民地支配の拠点に大学その他の教育機関を設立していますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elphinstone_College
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Calcutta
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Madras
「五族協和」が実態をともなわなかったことについては、前掲山本論文および山室論文を参照。
人種差別撤廃についてはよい提案をしたということに同意いたします。ただし、繰り返しますが、現実の施策がともなわなかったことについては残念です。
時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11ヵ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党
との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
今回は表現からつっこんでみます。「完全に承諾」というように形容詞修飾をするときには、それが表す具体的な内容を補足して、互いの印象の差を埋める努力をすべきというのが、私の受けた指導です。どうしたら「完全に承諾」したことになるのでしょうか。一番肝心な相手に過大な要求をつきつけ、排日運動を燃えあがらせて宥和に失敗したのは外交の失敗であり、恨み言をつぶやいてもごまかすことはできません。
日中戦争については、派兵前の人員の少なさを根拠に「形の上でも侵略にはほど遠い」と主張するのは無理筋にみえます。
(再々追記)また字数超過?で切れたので、つづきへ (さらに追記)補足エントリをTBしました。 (また追記)補遺エントリをTBしました(11/5)。
未来を予測することによって、心の準備をしておく必要があるからかも知れません。
つまり、「実際事が起こった時に動揺しないために先を読もうと努力する」。
動揺しながら行動すると、ろくな結果にならないのは人生から学んだことの一つです。
ふと思ったのは、時代の変化が早すぎるということ。私の場合、はてなブックマークの
ホットエントリに目を通す程度ですが、最近、異常な速さで時が過ぎているような気が
します。まさに自分が小学生の時は想像も出来なかったような未来です。
私でさえそうなのですから、果たしてテレビと新聞だけしか目を通さない実家の両親が
時代について行っているか?と考えると、両親の姿が本当に頼りなげに小さく見える気が
します。
●なぜ欧米諸国は団結して中国封じ込めを開始したか?何故フランスが中心になっているのか?
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/773d201789b5ff03a5dfbf270d97535a
(省略)
「中国を利用して米国の一極支配を牽制する」ことを主張する者が多いフランスは親中国家であると中国人に見なされてきた。そのフランスが先頭を切って欧米による中国封じ込めに乗り出したことに中国は大きな衝撃を受けている。その理由は何だろうか?
答えは、日本経済新聞の「チャイナ・ハンズが見る日本―??―」という記事の中にある。欧州の中国専門家は「巨大化する中国は結局は危険な存在になるだろう。宗教を持たない中国人。彼らの行動に歯止めをかけるものはないからだ」という中国観を持つ者が多いという。この記事を書いた鈴置高史編集委員は、今回のチベット問題が起こる直前の2月27日付で「義和団事件の時のように、欧州は共同して中国に当たるのではないのか」とすら記している。まるで預言者の様だ。
欧米人はキリスト教徒であり、聖書の言葉が彼らの行動の規範となっている。日本人は仏教と神道の二つの宗教を有するが、周囲の人々の意見が行動規範になっている。しかし、中国人の場合は、欧米人や日本人のような行動規範が存在せず、むき出しの欲望に歯止めをかけるシステムが存在しないのだ。そしてその中国が超大国として登場し、今や英仏伊を国内総生産でも石油消費量でも鉄鋼生産量でも上回り、もうすぐドイツや日本すら国内総生産で追い越そうとしている。中国人は「我々も欧米人のような豊かな生活を送る権利がある」と言うかもしれないが、中国の膨大な人口が皆自己の欲望を最大限に実現させようとしたら、食料・鉱産物などの資源は世界中で払底してしまう。そのことに対する危機感が欧州人を団結させて中国封じ込めに踏み切らせたのだろう。また、米英の一極支配が既に崩れており、牽制のために中国を利用する必要性が薄れたこともフランスの動機として挙げられる。更に、フランスが先頭に立っている理由として、英仏独伊の欧州4大国の中で唯一大統領を国家最高権力者としており、フランス大統領が事実上欧州連合の最高指導者の役割を果たしていることも挙げられる。
中国と同様多民族国家であり、チベットやウイグルと同様の厳しい少数民族弾圧をチェチェンで行っているロシアは2014年にソチでの冬季五輪を予定している。ブログ「不 可 視 の 学 院」はソチ五輪で「ロシアの人権問題をネタに、北京以上の騒乱が繰り広げられるだろう」と予想している。しかし、ロシア人が(東方正教会ではあるが)キリスト教徒であり欧米人と同様に聖書の言葉を行動規範にしていること、ロシアの人口が中国の十分の一と少ないことを考えるならば、ソチ五輪での人権問題批判はそれほど大きな問題にはならないのではないかと想像する。
中国人は、中国共産党支配前のチベットは僧侶を特権階級とする農奴制であり一般国民は虐げられていたと主張する。しかし、欧州でもキリスト教会はかつて特権階級であった歴史を持っているが、だからといって行動規範としてのキリスト教の価値が失われた訳ではない。現在のチベットの僧侶は特権を失い、修行を積み仏教の経典を行動規範とする人々であり、欧米人にとっては中国人より遥かに信頼できる人々と見なされているのだ。この点を見過ごしてダライラマ批判をいくら繰り返しても、欧米人の中国封じ込めは決して弱まることはないだろう。また、次の米国大統領が誰になろうとも、中国封じ込めは変わらないだろう。
中国の歴史を見ると、平和な時代には天然資源の限界が許す限りの人口増加が起こり、気候変動や権力闘争をきっかけに内乱が起きて人口が激減することの繰り返しである。その背景には、欲望に歯止めをかける行動規範の欠如という中国文明の特徴があり、それ故に封じ込めが起きているのだ。中国人が欧米人や日本人に学び中国文明を変質させない限り、この封じ込めは終わらないだろう。そのことを中国人に告げるのが日本人の役割であるように思われる。
(この記事に対してついたコメント)
どうしても悲観的になってしまいますが、日本人が言論なり力なりで中国人に「教え」ようとしても
これまでの数千年の民族性が変わるとは思えません・・・