はてなキーワード: 敵対とは
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
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サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
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米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
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デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
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ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモ Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 1
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 2
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 3
インターネットはつまらなくなった。つまらないやつを排除する方法 4 結論
おもしろい環境を意図的に作るには、おもしろい人間としての振る舞い方やあるべき気質を規定し、それを人々に守らせなければならない。
あるいは、おもしろい人間だけが守れて、つまらない人間は守ろうとは思えないような規範を作り、つまらない人間がおもしろい環境に入ってこれないようにするのが、おもしろい環境を作る一番有効な方法だ。
そこで、おもしろい人間が何をどう考えて、どう振る舞っているのか、そしておもしろい環境を台無しにする考え方は何なのかを考えていく。
ネットでなされていたおもしろいことというのは、自発的な価値を実現することだ。
自発的な価値とは、評価者の主観にとって価値あると実感できること、主観にとって満足できることだ。
それを実現する手段とは、主観自身が、自身がどうやって満足するのかを、自身で探求することだ。
それは、それぞれの個人が主体的に独力でなすことを基本とするものであって、他人が欲しがっているものを与えてその見返りをえるというような贈与的な活動では決してありえない。
自身の感性のために自分で努力して活動する、というのがおもしろい環境で共有されるべき意識だ。
だからといって、おもしろい人間同士で一切協力し合うべきではないということでは決してない。
理想的な協力の仕方は、相手が自身の価値観のために自発的に活動できるようにし、その人がその人の欲しいものを手に入れることを手伝うことであって、他者の欲しがっているものを与えることだけにすべての人が専念するべきというものではない。
基本的に独力で自身の生をよいものにできる、そうする意志がある人間だけで、協力し合うということだ。
自分の活動によってえた知見、自分が何に価値を感じるのかということや、それを手に入れるためにどんな手段を取り工夫したかという知的な成果を、無償ですべての人に与えることが、自身の活動のためにも必要なのだ。
誰かを手伝うとか、知見を共有するさい、そのことで直接見返りを期待してはならない。
その代わり、他者の知見から自分にとって有用なものを選び取ることも自由にできることができる。
おもしろい環境の中で他者から与えられてもいい利益とは、自分自身で構築した価値観に基づいて活動する人間の知的成果だ。
そしてのその知的成果を利用して自分の方法論を発展させ、それをさらに他者と共有することで、価値を実現する手段を大勢と共同して洗練させていくことができる。
人は自身の満足のために積極的に利己的に活動するべきであり、利他行為を他者に強制してはならない。
利己的に生きる人間の知見だけが他の利己的人間の活動の参考になり、他の人間が自身の満足をえるさいの指針になり、したがって利己的人間のみが利他的になれる。
自分が他者に何かを与える代わりに自分も他者から何かを受け取る、つまり、本来自分のために使うべきエネルギーをあえて他者のために使い、他者にも自分のためにわざわざ労力を割かせるという考え方は、この価値観においては無用であり有害でしかない。
自分のためではなく他者のために何かをする人間は、自分自身のために活動する人間が参考にしたくなる知見を生むことはできないのだ。
ここで利己主義という言葉を使っているが、これは非常に誤解を招きやすい言葉だ。
利己主義ということで一般的に理解されている意味は、他者が欲しがっているもののみを欲しがり、他者がいなければ自分の欲望すら持つことができず、他者が持っているものを奪うというやり方でのみ手に入れようとする人間のことだ。
ただ、人が持っているものを奪う代わりに、自分がすでに持っているものに大きな価値があると相手を騙して、それを与え、その報酬として相手が持っているものを自分に与えるよう仕向ける、そういう迂遠なやり方で奪うところだけが違う。
自分で自分の欲しいものを手に入れようとしないこのような人間は、他者から報酬を受け取るに値しない無能だとみなすべきだ。
なぜなら有能な人間なら、わざわざ他者のために何かをするのではなく、最初からその努力を自分のために向けるべきだからだ。
他者に価値あるものを与えられるとしたなら、なぜ最初からそれを自分に与えないのか?
それは、本当は相手に与えるに値するものなど持ってはおらず、不当に相手から報酬を奪い取る詐欺師でしかないからだ。
そして言うまでもなく、他者の能力を信頼して自分で自分の感性に関わろうとしない、要するに詐欺師に騙される側の人間もまた、自分を騙してくる側と同類であり、ある意味では、詐欺を成功させて片棒を担いで詐欺を成り立たせているため、排除すべき人間だ。
ネットのおもしろい環境に共通する特徴は、効率的に報酬がえられる場所ではない、少なくとも報酬をえるにあたって一番効率的な場所ではない、というものだ。
報酬のえやすい場所とは、注目されやすく、評価される機会が多いということだ。
しかしどんな場所でも少し活気づくようになればたちまち注目を集め、人が集まるようになる。
そして、いいものには賛辞を送るのが礼儀でありモチベーションを上げるのにも役立つと考える人間が、いいものもそんなに大したものでもないものも賞賛し、いいねボタンの類を押して積極的に数字を増やす。
そうして、それまで報酬に繋がらないことをしていた人間までつまらないことをするようになったり、あるいはおもしろいことができない、してもほかのおもしろい人間との連鎖反応を起こせると期待できなくなり、おもしろいことがなされなくなる。
この流れは、止めようと思って止められるものではない。
評価がえられない場所において、わざわざそこに集まってくる人間は、自発的な動機で活動する。
つまり、評価に影響されない状況で活動できる気質を持っている。
しかし、活動に必ずしも評価を必要としないからといって、他者の評価や報酬が与えられるようになっても誰もがその評価を拒否できるわけではないし、評価のない状況を維持しようとする意志を持っているとも限らない。
おもしろいことができる人間でも、流れが変われば、その流れに乗ってしまうのだ。
だから、たとえ自発的な人間同士で集まっても褒め合いが生まれるようになる。
人がいなければ自発的になれる人間でも、人がいると他発的になる。
ある人から賞賛を受けると、その賞賛者からの影響されないでいるのが難しいからだ。
賞賛を受けたとき、その受け取りを拒否すれば、敵対しているとみなされるだろう。
そして、褒めたり褒められたりする活動を受け入れるほかのつまらない人間からも非難されかねない。
賞賛を受けると、その相手に借りができてしまうし、借りを作ることを拒否できないのだ。
褒めてくる相手がつまらないことしかできない人間だとすると、相手につまらないと指摘することができなる。
相手から利益を受け取ったのに、自分は相手に不利益を与えることになるからだ。
あるいは明確に相手の言うことを否定しないとしても、相手からの賞賛を無視する素振りを見せると、相手を否定していると取られかねない。
相手から賞賛という利益を受け取れば、それを返さなければならず、そのために思っていなくても相手を褒めたり、相手の真似をしたりといったことをせざるをえなくなる。
あるいはそもそも、そんな葛藤を感じずに、こういうやり取りを積極的に受け入れる人間もいるし、どのみちそういう人間しか残らなくなる。
結局、人は他者に賞賛などの利益を与えることができるという考えが一般に通用していて、またそういったものに利益を感じる人間がいるせいで、必ずどんな場所もつまらなくなってしまうのだ。
それはつまり、(名誉以外の)価値あるものを実現する活動がなされなくなり、そのための方法論を発展させることもできなくなるということでもある。
おもしろいことがしたい人間は、そういう場所にとどまろうとはしないだろう。
なぜなら、おもしろい人間がわざわざ他者のいる場所(かつ人が少なく、褒め合いも少ない場所)で何かを発表しようとするのは、自分の活動の仕方を他者に見せ、それをほかの有能な人間が発展させてさらに共有してくれるのを期待しているからだ。
評価が横行している場所では、価値を実現する手段を本気で批評したりすることはなくなるから、有意義なものが生まれなくなるのだ。
以上のことからわかるのは、おもしろい場所を維持するための規範の方針は、直接的な価値を求める人間のための場所を作り、他発的な人間は排除する、というのものだ。
そして、他発的な人間、つまり、他者の役に立つことをしたいとか、道徳規範に従うことであるとか名誉心のためとかいうような、自分の行為の価値判断を他人にゆだねるような人間を排除するには、他者から利益をえることができず、また他者にそれを要求する権利を認めず、他者に利益を与える義務も認めないという規範を導入するしかない。
ジュード編。46時間ぐらい。
可もなく不可もなくといったところだったと思う。悪くはないんだけど、何か面白くないという感じ。
その他
キャラはずっとジュードを使ってた。
ミラ編はやらない。というかほとんどジュードと同行しているわけでそんなに違いあるのかなと思ったりもする。仲間になるキャラが変わったりするわけでもなく。
生まれたばかりの子供が本当にかわいい。子育てはやりがいがある。
育児から完全に手を引いて家事や自分の仕事に専念するか、パートナーとの縁を切るか。(いや、子どものことをことを考えると片親は避けたい。)
とにかく、何かをパートナーと「一緒にやる」という機会をこの世から消したい。
結婚前から、何かを一緒にやるときに意見が合わないことはあった。
でも当時はお互い大人として自立していたから、適切な距離をとって、自分のことは自分で勝手にやっていれば問題なかった。
それが「子育て」という共同作業になった瞬間、すべてがぐちゃぐちゃになった。
私は「何かあったら元に戻せばいいから、まずは試してみよう」という考え。
パートナーは「どんなに小さくても、問題が起きるのが嫌だから何も変えたくない」という考え。
新しいことをすればメリットもあるのに、デメリットばかり見て、今の不便さという「現状のデメリット」には気づかないふり(?)をする。本当に気づいていないのかもわからない。
そんな態度に嫌気がさしている。
そんななかでもパートナーが二人目を欲しそうな雰囲気を出している。正直、頭おかしいんじゃないかと思う。
自分の身の回りのことすら満足にできないのに、二人目なんて考えられるわけがなくない?
使ったティッシュや空いたペットボトルは捨てない。Amazonの包装紙や段ボールも捨てない。服や布団も出しっぱなし。
それなのに変なところだけ綺麗好きで、毎日クイックルワイパーをかけてプレイマットを拭いている。そこはありがたいけど、、、
とにかくエビデンスよりも、自分の感情が優先。目の前の子供の状態よりも、教科書通りの正解がすべて。
離乳食をいつ始めるか相談をしても、「もう始めてもいいチェックリストはクリアしてるよ」と伝えても、「まだ心配だからやらない」と返ってくる。その「心配」の根拠は何?
これで本当に国立の理系大学を出ているなんて、到底信じられない。理系はロジカルとはなんだったのか?大学生の論文なんて所詮お遊びだったのか?感想文でいいのか?
あととにかく問題解決能力が低すぎる。なにか起こってもパニックになるだけでなにもできない。
幸い子供は怪我も病気もなくすくすく育ってくれているが、今後急ぎで対応が必要なの事故や病気があっても、
パートナーと子供が二人きりだったら、そのまま⚪︎なせてしまうんじゃないかと本気で思う。
私は、犬か猿と結婚したんだろうか。
もう動物と会話をするのに疲れた。自分からは話しかけることはないし、目も合わせない。猿や犬と目をあわせると敵対ポーズらしい。
一人目の子には申し訳ないけれど、生まれてきてしまったものは仕方ない。
私たちの考えをなるべく押し付けず、自我が芽生えてきたら本人の意思を尊重して育てていきたい。
【追記】
そんな子育てに関わってくる夫がいるのか…。私は夫と相談することなんてほとんどなかったけど…。
育休中かなんかなのか?育休中なら仕事始まったら育児のことなんてやってられなくなりそうだけど、育休中じゃないならめんどくせえな。
役割分担がしっかりできている家庭でうらやましい。お察しの通り育休中ではある。
接点が減ってきたら解決するかな〜
責任回避の傾向はたしかにあるかもね、、、ただし性別でどうこういうのはよくないぞ。
男だから〜女だから〜みたいな話になるのは良くないと思ったから性別をぼかして書いてるだけで、ミスリードさせるつもりはないよ。
子どもの成長は喜んでるように見えるんだけどな、、、向いてなくても生まれちゃった以上はできるかぎり協力してちゃんと育てるよ
矛盾してるぞ。夫は教科書と感情どっちに従ってるのか設定詰めてからやり直して。自分の側こそが正しいって意味でエビデンスを強調したいなら教科書って言葉は避けな。教科書は知性を連想させるから。
たしかに、こう書くと矛盾してるな、、、(パートナー自身が)教科書で見たことを盲目的に信じており、(私が持ってきた)エビデンスを信じないということを言いたかった。申し訳ない。
ネットが人を分断するのは、エコーチェンバーやフィルターバブルによって「自分と似た意見に触れまくるからだ」とよく言われる。だが、それは逆だという説が説得力を増している。むしろ「自分と正反対の意見に触れまくる中で、多くの人が自分の考えに『より頑なになり』分断が生じているのだ」と。→
つまり、人は他者と同じ意見を持つ安心感よりも、異論を唱える人を「敵」だと見做して、その敵対感情によってより強く団結するのである。そのため、特に問題なのは、ネットによって似た意見ばかりに浸るようになることではなく(それもある程度問題だけど)、異論に出合った時に過剰な否定反応をしてしまうことだと言える。
ぼくらは異論に触れると反発心を抱く。それは、めちゃくちゃ威力を持つ感情だ。そして反発の際に、ぼくらは相手と「わかり合おう」とするよりは、自分のもともとの立場に執着する。まず自分の考えが揺らがないように盾や鎧を装備して、閉じこもろうとする。で、そのあとにエコーチェンバー等で自説を固めて、分断がより根深くなるのである。
すなわち、極論的な言い方をすれば、エコーチェンバーが起きるから分断が始まるのではなく、エコーチェンバーが思ったよりも働かないネット空間で、むしろ反対意見にたくさん触れるから分断が始まる、という方が真相に近いということだ。
ちなみに、なぜそう言えるかというと、①ユーザーは意外と多様な意見に接している、②ユーザーは意外と「似た意見の人だけとつながろう」とはしていない、③SNSのアルゴリズムは思った以上に意見の志向性を汲み取れていない(これは『ネットは社会を分断しない』等に書かれていること)、からである。
そう、ぼくらは「やっぱり私の意見が正しかった」と確認した時の安堵よりも、「おい、私の意見が間違っているとでも言うのか」と自説の再確認に迫られた時の反発心の方がはるかに強く、その感情に条件反射的に反応して頑なになり、結果、社会はバラバラになっていっているのである。
では、分断はどうすれば収まるのか?
一つ、本書が示唆を与えてくれるのは、その結論を「同じ目的のために一緒に共通作業をすることである」としている点である。何かのために、共に汗を流すこと。共に動くこと。それが、分断に陥らないための特効薬の一つとなる。
石原吉郎、島尾敏雄、中沢啓治、そして田中小実昌。挙げていただいた名前を並べると、ユーザー様が『献灯使』に感じられた「物足りなさ」の正体が、より鮮明に、かつ重く浮き彫りになりますね。
仰る通り、それらの作家たちが持つ「言葉にしがたいものを言葉にせずにはおかぬ」という、喉元に刃を突きつけられたような切実さ(殺気)に比べれば、多和田さんの作風は、あまりにも「安全な場所での遊戯」に見えてしまうのだと思います。
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ユーザー様が挙げられた作家たちの言葉は、「極限状態に置かれた肉体」から絞り出されています。
ここに決定的な「体温の差」があります。前者は「生き延びるための叫び」であり、後者は「言語体系を組み替えるための実験」です。後者が「手癖」や「スノッブ」に見えるのは、そこに血の通った「痛みの必然性」が見えにくいからでしょう。
田中小実昌を比較に出されたのは非常に興味深いです。コミさんは確かに、正面から意味を語ることを避け、フラフラと体をかわすような文体(シャッフルするような歩法)を持っています。
コミさんの軽さには、戦後のカオスを生き抜いた人間の「生活臭」がありますが、多和田さんの軽さには、実験室のような「無菌状態」の気配が漂います。
もしかすると、『献灯使』が「小さくまとまって」見えるのは、現代という時代、あるいは「震災後のディストピア」という題材に対する、作家の限界(あるいは諦念)の表れなのかもしれません。
多和田さんは、この「殺気すら持たせてもらえない、ただただ虚弱になっていく衰退」を、あえて「殺気のない、ひょっとこのような言葉遊び」で描こうとした……という擁護は可能かもしれません。しかし、それが読者に「切実な野心」として届かないのであれば、表現として「届いていない」ことになります。
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ユーザー様が感じられたのは、おそらく「文学が現実の地獄に対して、自らの命を賭けて対峙しようとする構え」の欠如ではないでしょうか。
『献灯使』の幻想的展開やダジャレが、ただの「お洒落なデコレーション」に見えてしまうのは、そこに石原吉郎が突き当たったような「絶望的なまでの沈黙の壁」がないからだと思います。
「言葉で遊べる」ということは、まだ余裕があるということの証左でもあります。ユーザー様のように、戦後文学の壮絶な「言葉との格闘」を知る読者からすれば、本作の試みは「文学という名の、行儀の良い知的なお遊び」に映るのも、至極妥当な反応だと言えます。
こうした「殺気」のある文学を重んじる視点から見て、現代の作家の中で、少しでも「本気で世界と切り結ぼうとしている」と感じられる方は、誰か思い浮かびますか?(例えば、古井由吉や中上健次のような、かつての「重さ」を継承しようとした人々も含めて)
彼女さんに申し上げる。今すぐ別れた方がいい。
さもなければ、あなたは一生後悔しながら、不幸な日々を送ることになるのでは、と私は同じ女性として心配している。
なぜなら、あなたの彼氏はクズとしか呼びようのない男であり、不良物件以外の何者でもないからだ。
ならば、小学校の時点でキモいだ何だと女子達に敬遠されたり、いじめの標的にされたりしていた理由に、その体型が大きく関わっていたのだろうということは、想像に難くない。
ここで、1人のYouTuberさんを紹介したい。
有名な方なので知っているかもしれないが、1年間ダイエットを頑張って、137キロから68.5キロまでの大減量を成し遂げた人である。
ダイエット開始時点のルイボスさんは、正直に申し上げて、めちゃくちゃキモい。
電車で彼の隣が空いていても、私は多分座らなかっただろう。
しかし、劇的ビフォーアフターを成功させた今の彼は、超絶イケメンナイスガイである。
彼のように、ダイエットで見違えた先達たちの実例は、検索すればネット上にいくらでも転がっている。
引き締まった肉体に、達成感と確かな自信に満ちた表情を浮かべる彼らは、生まれ持った目鼻立ちなど無関係に、誰も彼もが魅力的である。
ならば、幼少時からデブ人生を全うしてきた、村一番のブスの胎から生まれたというバキ童も、痩せさえすれば、キモい非モテを脱却できる可能性は大いにある。
にもかかわらず、奴は30代も半ばを過ぎた現在に至るまで、醜い肥満体型を保ち続けて生きている。
それどころか、ますます肥えて、市販の服ではサイズが合わずに、オーダーメイドでシャツを仕立てる始末である。
ダイエット情報がうんざりするほど溢れ返ったこの世の中で、なぜバキ童は痩せようとしないのか。
簡単だ。努力ができない、根性の甘えきったクズ野郎だからである。
バキ童チャンネルを立ち上げたのは、確か、周囲が勝手に進めてしまった企画案に乗る形で、といった経緯に過ぎなかったはずである。
しかし、会社は辞めて本気でお笑いの道を目指すと言っていたのに、以後何年もブックオフの店長として働き続け、「ねえ、いつになったら」と土岡を苛立たせていたようだ。
そして、実際に退社したのは、レジの脇にエロ本を置くというキモすぎる手法で立てた前年の売り上げを越えられず、全国最下位という業績を叩き出してから、ようやくである。
大学時代に所属していた落語サークルでも、遊ぶばかりでろくに活動しないために干されていた、とどこかの動画で土岡辺りが語っていた。
定例発表会のような重要な行事の際にも、選抜メンバーに選ばれたにもかかわらず、一切練習せずに臨まんとするふざけた真似をしでかし、降板させられたのではなかったか。
それは結局、スベってしまった時に、「でも俺が考えた訳じゃないし」と責任を相方に押し付けるためなのでは、と私は勘繰ってしまうのだけれど、どうだろうか。
こいつはいつもそうやって、楽な方、楽な方に逃げるばかりで、まともな努力をせずして生きているのである。こいつはそういう男なのである。
その極めつけとなるのは、母親への扱いだ。
バキ童は、自身に暴力を振るっていた父親に対して、恨みの念を向けている。
だが、母親に対してはそうではない。
今もなお父親からの被害を受ける可哀想な存在として、憐憫めいた感情を向けている。馬鹿かと思う。
まともな母親は、我が子が旦那に虐待されていたら、家を出、離婚し、守らなければと動くのだ。
なのに、奴の母親は、なぜ尚も家に留まり、我が子と旦那をひとつ屋根の下に置き続けたのか。
本人に聞いてみれば、きっとさぞ尤もらしい回答の数々が返されることだろう。
だが、違う。現状維持が一番楽だったから、子供を犠牲に保身を図る選択をした。女手一つで子供を抱えて働かされる人生なんて送りたくない、子供の安全よりも旦那の金の方が遥かに大事。結局はそれだけだ。
それが的外れな邪推などではないということは、バキ童が地元に帰った時の動画を見れば分かる。
そこに出演している奴の母親に、「ちゃんと守ってあげられなくてごめんね」という罪悪感は欠片も見えない。
むしろ、「育ててやった」と恩着せがましく胸の一つも張っていそうな態度である。
にもかかわらず、バキ童自身は、母を気遣い、親孝行に励んでいる。
絶縁なり敵対なりするよりも、ママに甘えていられる方が楽だから、都合の悪い事実からは目を背けているのだろう。
さっすが親子!そっくりですねえ!すごーい!と失笑を禁じ得ない限りである。
そして、そんなクズ男を、バキ童チャンネル御一同様はじめ周囲の馬鹿が、どこまでも底の見えない生温かなぬるま湯へ、引きずり込んでいるのである。
そんな最低限の清潔感すら皆無の状態では、相手の女性にあまりにも失礼だ、夢にまで見た初彼女、初体験なんだろ、と一言叱ってやれた者が誰かいたのか。
お前、ほんとにその女性に幸せにできるのか、と疑問を抱き、尋ねることのできた者が、1人でもいたのか。
どいつもこいつも、おめでとうだの何だのって、お前ら、女を物か何かと勘違いしてんじゃねえのか。馬鹿野郎共が。
彼女さん。あなたは、男と肉体関係を結ぶということが、女にとってどれほど重いことか理解できているだろうか。
現代社会の最新技術をもってしても、どんなに徹底しても、100%の完璧な避妊法は存在しない。
体を許した時点で、女には自動的に、妊娠のリスクが生じてしまう。
避妊するか否か、すなわち、出すかどうか、出すならどこに、の最終的な決定権は、結局男に握られているのだから、尚更である。
万が一妊娠した時、女に取れる選択肢は、たったの2つだけしかない。
堕ろすか、産むか、だ。
どちらにしても、母体にとっては負担である。身体的にも、精神的にも。
妊娠初期のつわりがいかに苦痛を極めるかということは、多少なりとも誰でも知っているところだろう。
もし堕胎を選択するなら、つわりと戦いながら、法律で定められた期限までに、お腹に宿った命を殺す決断をしなければいけない。
もし迷って期限間際を迎えてしまえば、既に胎動を感じ始めていたりもする。
そして、それを無理やり引きずり出すために、薬を使って人工的に陣痛を起こすのだ。
陣痛とは、普通に望んで出産する場合でも、耐え難いものである。
それでも、十月十日の長きの果てにやっと会える、と思うからこそ、母親たちは何とか必死に乗り越えてきたのである。
そんな一世一代の地獄の痛みを、あなたは、何の罪も無い無垢な命を殺めるために、味わわされることになるかもしれない。
とはいえ、それは、産むのに比べれば、遥かにマシな道ではある。
だってそうだろう。こんなクソキモマザコンクズ野郎と、過酷な育児をこなしていける訳がない。
人生のありとあらゆる局面で逃げてばかりいた奴が、育児だけはきちんと向き合ってくれるなんて、そんな思考はお花畑も甚だしいというものだ。
こいつ絶対逃げるぞ。表立ってはイクメンぶるだろうが、例えば夜泣きが酷くても寝たふりを貫くとか、うんちのおむつは気付かないふりをするとか、仕事と言って家を空けるとかして、面倒なこと、嫌なことは人任せにする男だと思うぞ。
だって童貞博士のピーターだって、出産直後の嫁と生まれたての赤子を放っぽり出してフィリピン来たし、とか心の中で言い訳して。
更に、そこへお仲間の馬鹿共が、「俺も」「分かる」と同調意見を並べ立ててくるのである。
そのお仲間というのは、バキ童チャンネルご一同様の非モテ共ばかりとは限らない。
仕事仕事で一切家庭を顧みない男どころか、孕ませるだけ孕ませて責任を一切取らない男でさえも、芸人、特に、彼らが崇める大御所たちの中には、嫌というほど存在していることだろう。
その上、よりによってバキ童の母親が、姑かつ祖母として、あなたとあなたの産んだ子供に関与してくるのである。
奴の母親が、子供の健康管理一つまともにできない、頭のおかしい毒親だったからである。
親として育てる責任のある、実子にすらそうだったのだ。
孫なんて、考えなしに甘やかすのは目に見えている。
そして、お菓子やお金、物品等を与えないでと注意するあなたのことを、「いいじゃないの、ちょっとくらい」「怖いママでちゅねー」などと子供の前で悪く言い、「ママには内緒」と尚もやらかし続けるまでがセットである。
さて、その時、あなたの夫となった男は、事態を上手く解決し、嫁と姑の関係性を良好に保つことができるのだろうか。
というか、それ以前に、あのコロナ禍を経てもなお、手を洗う習慣が無いとか吐かす不潔を極めた姑に、自身が産んだ子供を近付けたいと思える女がいるのかどうか、甚だ疑問だけれども。
加えて。他はともかく、せめて、どうかこれだけでも心に留めておいて欲しい。
そもそも、女にとっては、妊娠や出産自体が、命に関わる危険なものだということを。
先進医療が整っている現代日本の中においても、出産で命を落とす母親は存在している。確か年間30人とか50人とか、数はそのくらいである。
年間何十万という出生数を鑑みれば、なんだ全然少ないじゃんと感じるかもしれない。
だが、その1人に自分が含まれてしまうかどうかは、いざその時を迎えるまでは、医者にもあなた自身にも、誰にも分からないのである。
その上、妊娠中においても、つわりが治まり安定期に入ってしまえばもう安心、とは相成らない。
胎児が大きくなるのに伴い、おのずと内臓は圧迫されるし、ホルモンバランスも変動するので、結局ずっと体調不良は続くからである。
あまつさえ、人によっては、産むまでずっとつわりに苦しまされる場合すらもあるのだ。
それでなくとも、腹の中に数キロもの塊を抱え込んだ、文字通りの身重である。
そんな体で、もし事故や災害、事件に遭遇した時、普段のように素早くその場を離れることが、果たしてできるのだろうか。
また、逆に、あなたは無事だが、バキ童側に万が一の事態が、という場合もある。
妊娠中に夫を亡くしてしまうのも悲しいことだが、まあ、それならまだマシだ。
もし、要介護者となったバキ童の世話をしながら生きることになったら、そこに育児も加わったら、と考えてみてほしい。
あなたにとってバキ童は、それでもいい、と覚悟を決めるに足るだけの男だろうか。
一生後悔しながら不幸な日々を送ることになるかも、と私が冒頭で述べた意味が、きっと理解できるだろう。
それと、これは書くかどうか迷ったけれども、大事なことだと思うのでやはり書く。
私は専門家でも何でもないので、ただの素人判断でしかないけれども。
弟が昔から病的な風呂嫌いで、今は月1でしか入浴しないとか、東京にライブを見に来た父親が、空気の読めない頓珍漢な発言をしていたとかいう話を聞いて、もしかすると、と思った。
そうだとすると、このままバキ童と一緒にいれば、あなたの子供は彼らの特質を受け継ぐことになるかもしれない。
発達障害でも、社会の中で立派に活躍し、家庭を築いて愛される生活をしている人も、たくさんいる。
だが、それはあくまで氷山の一角に過ぎない、ということは、分かっておいた方がいい。
以上のことを踏まえた上で、彼女さん、あなたに改めて申し上げたい。
性交渉とは、女にとっては一生、時には命すらをも左右し得る、重大なリスクを伴う行為である。
あなたにとって、山口大樹は、この人となら将来何があっても、と確かな覚悟を抱くことのできる相手だろうか。
山里亮太と結婚記者会見をしている時の、蒼井優の最高に可愛い顔と同じものを、あなたは、あなたの彼氏の隣で浮かべていられるだろうか。
自信を持って首を縦に振れないのなら、取り返しのつかない事態に陥る前に、そんな男はさっさと捨ててしまいなさい。
努力しなくても手に入る女、などと軽んじられていい女性なんて、この世に1人もいる訳ないということを、どうか忘れないでほしい。
大津綾香氏への中傷「職業はパンパン」立花孝志氏らに賠償命令 東京地裁 - 弁護士ドットコム
東京地裁(澤村智子裁判長)は12月19日、立花氏に33万円(うち2人が連帯して11万円)を大津氏に支払うよう命じる判決を下した。
https://www.youtube.com/watch?v=aVLq953FFi4
本件は、大津綾香氏が原告となり、立花孝志氏およびYouTubeチャンネル「八角部屋」運営者(以下、八角部屋氏)を共同被告として提訴した名誉毀損訴訟に関するものである。被告らの代理人には福永活也弁護士が就任した。
2️⃣「ハメ撮り動画」の存在を示唆し、その公開を望んでいるかのように述べた発言
に集約される。原告はこれらの発言が社会的評価を低下させる名誉毀損にあたるとして、約1100万円の損害賠償を請求している。
いずれの発言も「社会的評価の低下」には該当しないという点に主眼を置いている。
1️⃣「職業パンパン」発言は、敵対関係にある当事者間の文脈における比喩的な悪口であり、視聴者がこれを事実として受け取る可能性は極めて低いと主張。
2️⃣また、「ハメ撮り動画」に関する発言は、一部が意見・推測の表明に過ぎず、動画の存在自体も政治家の資質とは無関係な私的領域の問題であるため、社会的評価を低下させるものではないと反論している。
さらに、大津氏自身が過去に発信してきた言動やイメージを補強材料とし、本件発言が彼女の自己表現の範囲から大きく逸脱するものではないため、評価への影響は限定的であると主張する構えである。
福永弁護士は、本件が名誉毀損一本で争われている点を被告側に有利な要素と見ており、勝訴の可能性は十分にあると分析しているが、発言自体には行き過ぎた点があったことも認めている。
原告側の請求は、立花氏による以下の二つの発言が社会的評価を低下させたとするものである。
八角部屋氏のYouTube撮影を前提とした場で、立花氏が「あいつパンパンやろ」「職業パンパンや」と発言したこと。
• 「パンパン」とは、戦後直後に在日米軍兵士を相手にした売春婦を指す俗語である。
• 原告は、この発言が自身が売春婦であるとの事実を摘示し、名誉を毀損したと主張している。
立花氏が、大津氏に「ハメ撮り動画」が存在すること、および彼女がその動画の公開を望んでいるかのような発言をしたこと。
• 原告は、このような性的内容の動画の存在を示唆されること自体が、政治家としての清廉性などを損ない、社会的評価を低下させると主張している。
福永弁護士は、いずれの争点においても「社会的評価の低下」は認められないとして、以下の通り反論を展開する方針である。
◦ 立花氏と大津氏は長らく敵対関係にあり、立花氏がこれまでも大津氏に対して様々な揶揄や批判を繰り返してきた経緯がある。
◦ この文脈を理解している一般の視聴者は、当該発言を「大津氏が売春婦である」という事実の告発としてではなく、「悪口の一つ」や比喩的な揶揄として認識するのが自然である。
◦ 「あいつはゴキブリだ」と言っても、その人物が昆虫だと誰も思わないのと同様に、「職業パンパン」という言葉も、あくまで人物像を貶めるための比喩表現に過ぎないと主張。
◦ 立花氏は「職業パンパン」発言の直後に「あいつはいろんな男性から奢ってもらっとる」と続けている。
◦ これにより、発言の真意は文字通りの売春ではなく、「複数の男性から食事をご馳走になっている」といった、いわゆる「港区女子」的な行動様式や「男遊び」を揶揄する趣旨であったと解釈できる。この行為自体は、社会的評価を低下させるものではない。
◦ 「パンパン」という表現自体は品位を欠き、大津氏の感情を害する「名誉感情侵害(侮辱)」に該当する可能性はあり得る。
◦ しかし、本件訴訟は名誉感情侵害ではなく、より立証のハードルが高い「名誉毀損(社会的評価の低下)」で提起されているため、被告側は勝訴の可能性が高いと見ている。
1️⃣ 意見・推測の表明:
◦ 「(動画が)世に公開されて欲しがってる」という部分は、立花氏個人の感想や推測を述べたものに過ぎず、事実の摘示には当たらないため、社会的評価を低下させない。
◦ 仮に「ハメ撮り動画」が存在したとしても、それは特定の個人との間で行われた、違法行為ではない私的な性的趣味の範疇である。
◦ 政治家に求められる「清廉性」とは、金銭問題や政策実行における実直さに関するものであり、個人の性的な嗜好やプライベートな活動とは直接関係がない。したがって、動画の存在自体が社会的評価を低下させるとは言えない。
◦ 万が一、社会的評価の低下が認められる場合に備え、以下の点を主張する。
▪ 真実性: 立花氏は、過去に大津氏本人から対面でそのような話を聞いたと主張しており、法廷で証言する可能性がある。
▪ 真実相当性: 過去の政治家女子48党のYouTube動画内で、大津氏自身が立花氏から「ハメ撮り動画で脅されている」という話を笑いながら語っている場面が存在する。この様子から、発言内容に真実相当性が認められる可能性がある。
• 大津氏はこれまで、自身のSNS等を通じて、性に対して保守的ではないキャラクターを自ら表現してきた。
• 具体例:
◦ バーのイベントで、高額なシャンパンの対価として「えちえちな写真」の送付を特典にしていた。
◦ 「縛り方講座」といった趣旨のインスタグラムストーリーを投稿。
• これらの自己表現に鑑みれば、本件で問題となっている発言は、大津氏が自ら築き上げてきたパブリックイメージから大きくかけ離れたものではなく、社会的評価に与える影響は軽微であると主張する。
• 勝訴の可能性: 全面的に勝訴できる可能性は「半々ぐらい」と評価。特に、原告が「名誉感情侵害」ではなく「名誉毀損」で請求している点が、被告側にとって有利に働くと分析している。
• 損害賠償額の見込み:仮に敗訴した場合でも、請求額の1100万円が認められることはなく、認められるとしても20~30万円程度にとどまると予測している。
• 戦略的評価: 原告側が「名誉感情侵害」で提訴していれば、少額ながらも勝訴の可能性は高かったと推測。社会的評価の低下を一点突破で争う現行の戦略は、被告側に反論の余地を大きく与えている。
• 発言内容への言及: 福永弁護士は、法的な勝算とは別に、立花氏の発言が「言い過ぎ」であり、もっと慎重であるべきだったとの見解も示している。
毀誉褒貶あるかもしれないが、やはり弁護士としては優秀なんだな・・・
まりめっこさんは悪意のある切り抜きを繰り返しているけど、残念ながら
https://x.com/mrmk0120/status/2001961959403753761
https://x.com/cmt1824/status/2001963128998015092
福永さんの口の悪さや倫理観の欠如などは指摘できたとしても、優秀であることは否定できない
何も知らなければ立花さんの大津さんに対する発言は完全アウトだったけれど
大津さん側に隙が大好きすぎた印象がある。
百合好きにウケても売れはしないという発言は残念ながら、これはかなり正しい。
であればどうすれば百合作品が売れるのか、作り手側・売り手側の視点から考えた。
ただ少なくとも百合自体を否定したいわけではなく、私としては百合の商業的価値を信じたいと思っている。
まず百合作品を世に出すという行為が、商業行為であるという認識を持たないといけない。
少なくとも商業作品である以上、「百合だから仕方ない」という言い訳が許されるフェーズはもう終わっている。
まず漫画や小説出版、アニメ化は全て商業的行為であり、資本主義的行為であると言える。
雑に言うと、出版も他の私企業と同じ、資本主義的な投資回収モデルで動いている。
その前提に立った時に、ファンタジーだろうが、アクションだろうが、百合だろうが、
作家としては売れる作品を提供しなければ、その作品は連載継続が出来ない。
では、消費者が支払った対価以上の価値があると思える作品を提供し続ければ売れるのかというと、決してそんなことはない。
仮にパイを取り切り、それでもなおROIが0を下回るような場合、その市場単体には投資価値がない。
それだったら、その分のリソースを他ジャンルに回したほうが合理的だ。
特に熱狂的な「百合だから」という理由だけで購入してくれる層はほぼ取り切り、
今後は微増傾向になるのではないかと思う。
yuriという単語自体が英単語としての意味を持つようになったという事実がある。
10年、20年前と比較して、ROIとしては一応プラスに転じるようになっただろう。
ただそれでもなお、事業として赤が出ないだけであり、
投資案件として見た場合とても百合だからという理由だけでプッシュできるほどジャンルとして強くはない。
パイの規模を維持したまま一人当たりの平均使用金額を一時的に上昇させることは可能だ。
外圧により継続的に分不相応な可処分所得を作成することが不可能である。
従って、この策は結果的に市場の縮小という結果を招くと言える。
つまり、百合市場を拡大するためには、「百合だから買う層」に依存するのではなく、
「百合でも買う層」「気づいたら百合だった層」を商業的に取り込む必要がある。
では、どうすれば「百合でも買う層」「気づいたら百合だった層」を取り込めるのか。
そのためには一旦百合を捨てよう。
わかる、百合作品を売るのに百合を捨てろとはどういうことだと。
文句を言いたくなるのは非常にわかるが、少し待ってほしい。あとで拾うから。
それでもって百合という要素がないと破綻するような作品を書けばいいわけだ。
同時に一部幼なじみによる恋愛的側面や、黒の組織との対決という純少年漫画的要素も持っている。
引きこもりの陰キャが一人で遊園地に行ったところ黒の組織に遭遇し、身体が縮んでしまったとしよう。
そんな彼が強く元の姿に戻ることを望むだろうか?
蘭がいるからコナンは工藤新一に戻る必要があり、戻る必要があるから黒の組織と対決する。
そして読者はそこに期待をし、読み始め、結果として推理パートも楽しんで読むのである。
これからもわかる通り、百合作品において重要なのは「百合を主軸に据えること」ではなく、
「百合がなければ成立しない構造を、百合以外の魅力で包み込むこと」だ。
比較的マイナーなミステリで読まれる続けるために組織との対決があるように、
同じくマイナーな百合を読み続けるためのインセンティブを売り手側が設計し、読者に提供しなければならない。
ではここで、どのような設計であれば売れるのかという問題が発生している。
というか出版社は物語を売るということに特化した企業なのだから、知っていたらすでに自社の利益のために使っている。
ただここまで話してきてそんなもの知りませんじゃ、ここまで読んでくれた方は納得しないだろう。
ここからは、百合作品を設計するうえでの具体的なリスク要因について触れる。
少なくとも純粋な恋愛を前面に出すのはリスクが大きいということだ。
果たして恋愛を出さない百合は百合なのかという指摘があるのは理解している。
「わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)」はどうなるのか?という反論もあるだろう。
まず一つずつ処理をしていこう。
「恋愛を出さない百合は百合なのか」:これに関しては百合の定義が厳密すぎないか?
個人的には恋愛に限らず広義の女性同士の関係を百合として定義してしまっていいのではないかと思う。
女性が女性に対して比較的強い感情を向けることを百合とすることで、
そして広がったことにより、ファンタジーが、王道ファンタジー、ダークファンタジー、異世界ファンタジー、などのように
さて、次にわたなれだが、これに関して私が考えるのはゲートウェイとして機能したのは恋愛面ではなくコメディ面ではないかという点だ。
コメディという点から見ると、「魔法少女にあこがれて」も言えるだろう、
もちろんこちらは若干のエロ売りも入ってるわけだが、それを加えても、どちらも百合要素はあるが、それだけに留まっていないのである。
結局のところ百合作品を売るために必要なのは、百合を強調することではない。
百合でなければ成立しない感情構造を、百合以外の魅力で読者の前に差し出す設計なのだ。
この件で一番引っかかるのは、当初は同じ目的を共有していたはずの人たちが、なぜ途中から決定的に対立し、さらには録音や公開、記事化といった強い手段にまで踏み込んだのかという点だ。
一般論として、完全な敵同士よりも、元味方同士の方が深刻な対立に発展しやすい。目的が近く、関係性も近かった分だけ、期待や信頼が裏切られたと感じたときの反動が大きいからだ。社会的意義を持つテーマであればあるほど、感情的な衝突は激しくなりやすい。
まず考えられるのは、映画化を巡る主導権や表現方針の対立だ。ドキュメンタリーや告発性のある作品では、誰の視点で、どこまで踏み込み、何を強調するのかが極めて重要になる。制作者側は作品としての完成度やメッセージ性を重視する一方、当事者側は自分の経験や尊厳がどう扱われるかに強いこだわりを持つ。ここにズレが生じるのは珍しいことではない。
次に、金銭や権利の問題も現実的な要因として考えられる。制作費の扱い、著作権や肖像権、将来的な収益配分などは、最初は理念や信頼関係で曖昧にされがちだが、話が具体化するにつれて避けられない問題になる。ここで不信感が生まれれば、関係が急速に悪化するのは自然な流れだ。
さらに重要なのは、対立に至った側が、結果的に当事者にとって極めて不利になり得る情報、場合によってはセカンドレイプと受け取られかねない内容まで記事や記録として公にしている点だ。これは単なる意見の違いや感情的な行き違いのレベルを超えているように見える。
もし最初から敵対関係であれば、相手に不利な材料を出すこと自体は理解できる。しかし、元々は支援や協力の立場にいた人間が、相手の尊厳を傷つけかねない情報まで出す判断に至るというのは、相当深刻な決裂があったと考えるのが自然だ。そこには、裏切られたという感覚、あるいは自分たちの正当性を社会的に証明しなければならないという強迫観念があった可能性もある。
この段階になると、録音や公開は単なる証拠保全ではなく、相手との関係が完全に破綻したことの表明に近い意味を持つ。つまり、味方ではなくなったどころか、もはや敵として認識するに至った経緯があったのではないか、という疑問が生じる。
重要なのは、こうした構造的な可能性を指摘することが、性被害の訴えそのものを否定することとは別だという点だ。被害の有無や深刻さと、支援者や制作者との関係が崩れた理由は、切り分けて考えなければならない。
しかし現実には、この二つはしばしば混同される。内部対立や不和の背景を考察しただけで、被害を疑っている、被害者を攻撃していると受け取られてしまう空気がある。その結果、なぜ元味方がここまで強硬な行動に出たのかという核心部分が検討されないままになる。
むしろ、セカンドレイプと受け取られかねないリスクを承知の上で情報を公開する判断がなぜ下されたのか、その異常さを含めて考えることこそが重要だと思う。そこには理念だけでは説明できない、人間関係の破綻や利害対立、感情のもつれがあった可能性が高い。
結局のところ、この問題で問うべきなのは、誰が絶対的に正しいかという単純な話ではない。なぜ関係がここまでこじれ、取り返しのつかない形で対立が表面化したのか。その過程を冷静に検討することを許さない空気こそが、問題の本質を見えにくくしているように思える。
思春期真っ盛りに映画の「マトリックス」第1作が公開されて観に行って、まぁメチャクチャ刺さっちやった。
もちろんビジュアルイメージの格好良さがはじめにあって、テレビCMの例の「マトリックス躱し」シーンでピンと来ていたんだけども。
実際に映画を見て印象に残ったのは、モーフィアスがネオに仮想現実の中で言うセリフ。
「マトリックスは社会(システム)だ。社会(システム)は敵だ。その中に入ると何が見える? ビジネスマン、教師、弁護士、大工。それはまさに我々が救おうとしている人々(心)だ。だが今はまだマトリックスの一部で、つまり敵だ。彼らまだ現実を知る準備ができていない。彼らの多くがマトリックスに隷属し、それを守るために戦おうとする。」
これに非常なリアリティを感じたというか、納得を得ていた。自分が日頃感じていた違和感、イラつきに寄り添う言葉だったからだろう。
社会(システム)は敵。それに隷属することは、均一で冷徹な社会のシステムを受け入れ、その一員になり、システムに不満を抱く人間の敵となるということ。
それが自分の将来に対する漠然とした不安や不満と重なり、社会というシステムへ漠然と統合されてなるものか、赤い薬(レッドピル)を飲むべきなんだ、という思春期の反抗心に絶妙にマッチした。
現在では面白いことに、このマトリックス由来の「赤い薬(レッドピル)を飲む」というのは、アメリカの保守・陰謀論界隈で好んで使われているらしい。
本来の文脈では、レッドピルを飲んで目覚めることは、社会システムに敵対し、体制に反旗を翻すことなのだが、「真実に目覚める」という意味だけを引用した慣用句になっているんだろう。
こないだ、子供嫌いで威嚇してくる認知症老人にニコニコ絡んでいった。
悪意に悪意で返すとか、好意に好意で返すとかがなく、ホントに自分がどう感じるかだけで動く。
なにかされても、やり返すこともない。
弟にセーブデータを消されても、大作の工作を壊されても、ほとんど全くやり返すことはなく。
たぶん、「○○のせいで」っていう、誰の責任っていう発想がない。
壊されたのはわかってるけど、あくまで原因と結果っていうだけしか認識してなくて、ペットになにか壊されても、動物に恨みの感情を持ったりしないみたいにな感じなんだと思う。
楽しいか悲しいかとかはあるけど、それより複雑な、対人間の嫉妬とか恨みとか、そっちがまるっきりない。
昔はもっと、怒られてるのすら気づかない、気付いていても自分の感情じゃないって感じだったけど、最近はやっと、すげー怒られると、「こわいよー」って言うようになった。
でも、それ以上でもそれ以下でもなく、付随する人間関係の恐怖、嫌われて辛いとかそういうのが一切ない。
普通あるじゃないですか?
言葉通じない赤ん坊でも怒ると理解するのって、親に嫌われる恐怖みたいなのがあって、なんで怒られてるのかわからないけど怒られてることくらいわかるもんで。
基本的に、人間ってサルから進化してるんで、サル山の論理で生きてる。
毛づくろいし合ってコミュニケーションし合った延長が言語で、コミュニケーションとか上下関係とかどれが敵対グループでどれが友好グループで、みたいなのに敏感に感じ取って、マウンティングしたり媚つらったりするのが本能。
文字より動画、動画より対面で話したほうが伝わったりするのは、人間って勢いで押されると、わかった気になったりするから。
国民の1人1人が法律とか会計とか理解しなくても、世の中が回ってるのは、とりあえず右に倣えで空気読んで行動するから。
もちろん、空気よりも理屈ってタイプもいるし、白か黒かじゃなくてグラデーションだ。
たぶん、自分なんかどっちかというと鈍いほう。
それが、うちのASDっ子は突き抜けて鈍い。
だから、滅茶苦茶怒られた直後でも、面白いものをみつけるとすぐキャッキャできる。
反省してないわけじゃない。
怒られたことと関係ないことで楽しくするぶんには、口を出すことじゃないのだけど、もうちょっとシュンとしろよって思ってしまう自分がいる。
文化大革命による停滞期
文化大革命開始
6601型(成都級)をリバースエンジニアリングして、65型フリゲート(前053型/江南級)を建造
033型潜水艦 1番艦 ? 就役 ソ連から提供された633型潜水艦を参考に建造された、中国初の国産潜水艦
ベトナム戦争が泥沼化しニクソン大統領がベトナム戦争からの撤退を公約にして当選、キッシンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢入り
リアリズム(現実主義)に基づく外交政策の擁護者として知られている
力の均衡論者で、イデオロギー的な外交を嫌い、国家間の力の均衡を保つことに腐心した
ソ連と敵対する中国と友好関係を築くことでソ連へ東から圧力をかけることを目的とした
『重要なのは何が真実であるかではなく、何が真実であると認識されるかである。』
『外交政策に道徳的完璧を要求する国は、完璧も安全も達成できない』
『結局のところ、平和は覇権か力の均衡によってのみ達成できるのです。』
『アメリカの敵になることは危険かもしれないが、友人になることは致命的である』(南ベトナムの傀儡政府を見捨て撤退したときの発言)
排水量8,000t以上の大型駆逐艦として構想され艦隊防空能力を備え、外洋での長期作戦における護衛艦隊の中核を占める艦とされたが、当時の技術的限界から未成に終わった
40年後、排水量13,000tの055型駆逐艦として結実する
051型駆逐艦(旅大I型) 1番艦 济南 就役 56型駆逐艦(コトリン型駆逐艦)をモデルに太平洋で行動しうる駆逐艦として建造された、中国が初めて独自開発した水上戦闘艦
★091型原子力潜水艦 1番艦 長征1号 就役 中国初の原子力潜水艦 静粛性と信頼性がきわめて劣悪だった
035型潜水艦 1番艦 232 就役 033型潜水艦の改良版
★西沙諸島の戦い 南ベトナム軍と戦闘を行い、西沙諸島全域を占領
https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2022/3%E6%9C%88/2203_02anami.pdf
1974年1月、解放軍の南海艦隊は、当時南ベトナムが実効支配していたパラセル諸島(中国名:西沙群島)に部隊を派遣し、南ベトナムの守備隊や艦艇との交戦の末に同諸島を占領した。
南ベトナムは、パラセル諸島のみならず中国が領有権を主張するスプラトリ—諸島(中国名:南沙群島)の複数の島嶼・岩礁も実効支配していたため、次はそれらを攻略せねばならないという議論が解放軍内で盛り上がった。
その翌年の5月には、それまで海軍建設に後ろ向きだった毛沢東が海軍を増強するための10年計画にGOサインを出した。
そこに好機を見出した劉華清は、同年9月に毛沢東と鄧小平に宛てて海軍の装備に関する意見書を送った。
この意見書のなかで劉華清は、既存の海軍の装備導入計画を批判しつつ、海軍の装備導入計画のあるべき姿について持論を大胆に展開した。
この時の意見書では、海軍が「帝国主義の海上からの侵略」を粉砕し、「対台湾作戦」の任務を遂行するに足る能力を確保せねばならないという基本認識が示されたうえで、当時の解放軍がそうした水準にはなく、10 年後もそうした水準に達することはないという評価がなされた。
また、50年代にソ連から入手した時代遅れの通常動力型潜水艦のコピー版を大量に生産するという当時の装備導入計画に対し、潜水艦に大きく依存する形で米英の海軍に対抗しようとしたドイツの失敗例などを根拠とした批判がなされた。
そうした批判を踏まえて、劉華清は、今後は、水中、水上、空中の戦力をバランスよく整備していく必要があり、核抑止力を担う原子力潜水艦、水上艦隊の要となるミサイル駆逐艦、艦隊に航空支援を提供できる戦闘行動半径の長い航空機の開発・配備に力をいれるべきだと主張した。
この意見書でさらに注目されるのは、中国の経済発展に伴い海外からの「戦略物資」の輸入が拡大すれば、シーレーン防衛の重要性が増し、中国本土から遠く離れた海域での航空戦力の展開を可能にする航空母艦が必要になると指摘している点である。
つまり、劉華清は、1975 年の時点で中国の対外貿易が今後盛んになるという未来予測にたってシーレーン防衛について論じたわけだが、当時遠洋航海の経験が皆無だったうえに中国沿岸海域での作戦すら満足に遂行できないようなレベルにあった解放軍の海軍のなかで、このような議論は異色のものだったといえる。
(一)「覇権主義」や「帝国主義」による海上からの侵略に備える、
(四)核戦力の残存性を高めることに貢献する、ことであった。
053K型フリゲート(江東型フリゲート)1番艦 鷹潭 就役 65型の発展型、中国海軍初の艦対空ミサイル搭載艦、しかし国産ミサイルの性能が貧弱だったため2隻目で建造打ち切り
イギリスのロールスロイス・スペイ ターボファンエンジンをライセンス生産
★文化大革命終了
上海にある江南造船廠が三菱重工業社長の古賀繁一(元長崎造船所所長、戦艦武蔵の設計に関わる)の直接指導で再建される
053H型フリゲート(江滬I型フリゲート) 1番艦 常徳 就役 艦対空ミサイル搭載艦である053K型と共に行動する艦対艦ミサイル搭載艦として設計された、しかしレーダー等電子機器の性能は不足し全天候戦闘能力もなかった
053H1型フリゲート(江滬II型フリゲート) 1番艦 台州 就役 053H型フリゲートの改良型
051DT型駆逐艦(旅大III型) 1番艦 開封 就役 フランス製クロタル8MS個艦防空ミサイル・システム、フランス製DRBV-15対空レーダー、スウェーデン製機関砲を搭載
アメリカからCFM56-3ターボファンエンジンを入手、後のWS-10ターボファンエンジンの基礎となる
劉華清の主導で中国人民解放軍海軍装備実証研究センター(現在の中国人民解放軍海軍装備研究所)が成立
★053H1Q型フリゲート(江滬IV型) 西側の対潜技術を学ぶための技術検証艦 フランス製のAS 365N ドーファン・ヘリコプターをライセンス生産したZ-9、光学射撃指揮装置、ソナーシステム、水中攻撃指揮装置、イタリア製短魚雷などが搭載された
★092型原子力潜水艦 1番艦 406号 就役 中国初の原子力弾道ミサイル潜水艦
就役後も長い間航行することはなくアメリカ軍からは「not operational」と判断された
091型と同様に静粛性と信頼性が非常に劣っていた
UH-60ブラックホークをアメリカから購入、後のZ-20中型多用途ヘリコプターの基礎となる
アメリカから入手したCFM56-3ターボファンエンジンを参考に、WS-10エンジンの開発が始まる
★053H2型フリゲート(江滬III型フリゲート) 1番艦 黄石 就役 053H1型フリゲートの改良型、イギリス製の戦術情報処理装置(CTC-1629のコピーZKJ-3)とイタリア製の電子戦装置を搭載し大幅に能力が向上した
フランスよりクロタル個艦防空ミサイル・システムとともに、トムソンCSF社(現在のタレス)の戦術情報処理装置であるTAVITAC(旧称 Vega III)を輸入、リバースエンジニアリングによってZKJ-4を完成させる
ペレストロイカ開始
ゾンビ映画好きはこんなもん何本あってもいいんですけどねって感じだと思うけど、おんなじ映画何本見せられる年と思うタイプにはたぶん退屈だと思う。俺は後者だったのでだいぶいつものやつだなぁって感じだった。
時はスペイン内戦時、将軍派の主人公はとあるミスの挽回のためにある手紙を遠地の基地に届けに行くことに。途中で墜落したイタリア機のパイロットを助けに行ったことで政府軍と衝突。しかしゾンビ化したイタリア軍パイロットが襲い掛かってきたため一時休戦し共同戦線を張ることに。途中で隠れていた将軍派とも合流し原因究明と脱出のため、全員で基地に向かうことに。
で、ゾンビを作ってたのはナチでしたっていういつものやーつになるんだけど。
スペイン産のゾンビ映画ということで、我々ニッポニーズにはあんまりなじみのないスペイン内戦が舞台となっており、登場人物はスペイン内戦の縮図となっている。
将軍派は特権階級のエリート、修道女、モロッコ人、ごく普通の市民。
スペイン内戦が根付いている国ではニヤリとできるんだろうと思う。
それぞれが思想の違いで対立しながらもナチが持ち込んだゾンビという「悪(Malnasidos)」に対抗するために結束していく。というのがスペイン内戦~第二次世界大戦を風刺しているものと思われる。
また冒頭で結婚式をあげている村に将軍派(のドイツ人)がやってきてバカにされた彼らが虐殺を行いその村で実験を開始しそれがゾンビ爆誕のトリガーになっているというのもガルシア=ロルカの殺害を風刺しているのかもしれないしそうでないかもしれない。
ということがわかった上で見てもごくごく普通のゾンビ映画なので特筆すべきことは少ない。
まぁ今回はほとんどが軍人およびそれに類する人なのであんまバカがいないのはよい。機関銃乱射するシーンが結構あるんだけど、あんだけ撃ったら何発かは脳天直撃するだろと思うんだがビックリするくらい頭にだけ当たらないのはご都合主義的すぎるかな。
あとは最後はゾンビに襲撃された基地で大乱闘スマッシュブラザーズする展開になるんだけど、敵も味方もゾンビも大量にいて予算感が出ていてよかった。っぱいっぱい出てきてなんぼなんよ。ただ、軍の基地で軍人ゾンビもいっぱいでてくるのに弾切れだ!ってなっちゃう展開は、さすがにどうかと思う。みんな持ってるよ、銃。しっかりして!
めちゃくちゃ童貞いじりされる運転手の気弱な青年が最後、噛まれている自分を圧して手りゅう弾をもって基地に特攻するシーンで最終的に侵入できずに撃ち殺されるんだけど、そこからゾンビになって復活してさらに特攻を繰り返し会心の一撃を与える展開はちょっとエモかった。
政府軍と敵対していたシスターが政府軍の軍曹を逃がすために自ら鉄格子に鍵をかけるシーンもこれこれ!って感じで、ゾンビ映画で見たい勘所はしっかり押さえてはいる。心優しいマッチョはちゃんと序盤で気弱な童貞を救って死ぬし。
なもんで、スペイン内戦ていう日本ではあんまメジャーじゃない戦争をお勉強するつもりで、ちゃんとしたある程度予算かけたゾンビ映画見たいなって人にはある程度おすすめ。ネットフリックスで見れます。
続き
2012年公開、劇場版「[前編]始まりの物語」「[後編]永遠の物語」を全11話のTVシリーズとして再編成したもの。
副音声はまさかの狩野英孝。アニメの皮をかぶったバラエティ番組かな。
このアニメを見ると3.11を思い出してしまう人もいるかもしれませんが、英孝ちゃんの実況で笑ってください。
全11話。副音声が面白かった。狩野英孝の考察というか感想で、作品への理解がより深まるところがよかった。また是非やって欲しい。
前シーズンでいう『勇者パーティーを追放された白魔導師、Sランク冒険者に(略)』がダメだった人はダメだろう・・
全12話。続きがありそうな終わり方だったがどうだろうなー。嫌いじゃなかったですよ。
いつか異世界に行けることを信じ過ごしていた痛い女の子が、例によってトラックにひかれ異世界転生。
その転生先は自らの黒歴史ノートに書き綴った物語の悪女キャラだった。
最近ので例えると村井の恋。それに近いくらい絵はギャグ絵に落とし込んで、間やテンポもギャグマンガ的に倒してる感はある。
全12話。続きあってもよさそうな感じね。
EDが特殊。1話は葵、2話は大旦那、3話はそのミックスだったり。結局特殊なのは2話と3話だけだったか。
全12話。おぅ、ここで終わりなのか。3期があるだろうな。
最近でいうと「男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)」くらい面倒くさい恋愛アニメ・・・と思ってたけど
3話でやってること終始ドン引きだったんだけど。ちょっと受け入れられないなこれ。
まぁサブタイに「俺だけがウザい」とあったが。それにしてもだ。
OPアニメーション、ほぼ全てパロディネタ。さて、君はどれくらい元ネタを知っているかな?
全12話。最後はEDじゃなくてウザいOPで終了。うーん、演劇部乗っ取りじゃん。あれで成果が出てもいかんでしょ。
現代だし、一応フシが望んだ?世界になったわけだし、みんなが生き返って集合したし、
今までのシーズンとは違ったテイストでスタート。3話目で狂ってきた。やっぱりこうじゃなくっちゃ。
オフィスラブ&サスペンス。ある日ビルの4階から転落し、記憶の一部を無くす。
その後、暗い性格も180度かわり、自分に自信があり、強く前向きで周囲の人も元気にさせるような性格になる。
これで人生も180度変わるのかな?それにしてもビルから転落した原因ははたして・・。
見た目に反してサスペンス要素がある。2022年にドラマ化したが、ドラマ版はサスペンス要素が取り除かれている。
10話は泣いたなぁ。
放送直前SP+全12話。ええーーこんな終わり方なんですか。事件の真相まだ分からんし、最終話Cパートで新キャラ出るし、続きやらないと困る。
異世界メシアニメ。料理趣味のサラリーマンが異世界召喚。元世界のネット通販で商品を取り寄せ、
美味しい料理を作って様々な人や魔獣の胃袋をつかむ。約3年ぶりの2期。
企業協力にイオンリテール、エスビー、エバラ、六花亭などあり、実在する調味料やお菓子が登場する。
スイに食器や剣を作ってもらいスイが3Dプリンター状態に・・・・っていうかスイ便利すぎんよ
メシの作画がいいのよねー。これ見てるとツマミ作って酒飲みたくなる。
転校生の石川さんは吸血鬼。妖怪、幽霊、その他怪異と人間が共存する世界。
ミステリアスでクール、完璧でかっこいいとクラスで評判なんだけど、その実は血を吸うのが下手な吸血鬼さん。
血を吸う時、というか感情が高ぶってる時?体が小さくなるらしい。奇面組でもこんな表現あったなー
主人公の男の子、普段は鼻と口が描かれていないので、なんだかFF5っぽい。
座席は主人公席です。ちょっと表現が大げさな感じがして、そんな所にあざとさを感じちゃって私にはあわないかなー
人間以外がいる世界観の割にはその他妖怪、幽霊があまり登場しないし、理由がわからないけど凄いお金持ちだし、設定がしっくりこないというのもある。
全12話。最終話を含め、やることが(あくまで私の中で)大袈裟であわなかった。
おお、今回は慎重勇者も加わるのか。久しぶりだなー
オバロ、このすば、リゼロ、幼女戦記、盾の勇者、陰の実力者、慎重。もはやカルテットじゃない。慎重勇者の登場は1話だけだけど。
過去2作と比べて変化が生じている。特にリゼロは変化が大きい。
6年半ぶりの2期。ガロウが怪人側に拉致され、サイタマがムカデ長老をワンパンで倒した後の話。
流石に覚えてなかったので振り返り放送があってくれて助かった。
OPはJAM Project feat.BABYMETAL。BABYMETALってJAM Projectともやってるのね。
EDのビブラートのクセよ。全13話(#25-#36)中途半端な終わり方だったな
ケモナー向け?ラブコメ。時は20XX年。人と獣人がいる世界。
獣人は大昔の実験で生まれ、埼玉の一角で監視され生活をしている希少種らしい。
そんな獣人がクラスにやってきた。まだまだ世間は獣人に差別的な人も多い。
それでも種族の壁を超えてそれはやがて恋になる・・?表情や手の動きとかの表現が細かい
ベタな展開が多いけどベタは嫌いじゃないので。なんかニヤニヤしちゃうな
下着が見えたり裸になったりするより、こっちの表現の方がエッチだよね。
座席は主人公席。OPはCHiCO with HoneyWorks
全12話。いい終わり方だった。これは獣人と人間の話だけど、日本もついこの前(50年くらい前)までは外国籍の人と手を繋いで歩いてると変な目で見られたもんだけど、今や普通だもんなー
9話くらいまで見てお腹いっぱいになってそれ以降見てないです。ごめんね。
説明いらんよね。一応小説が原作になるのかな。人気作を学園パロディギャグアニメにするケースはよくあるよね。
私はあまりこの流れ好きじゃないのよね(人気が出ると学園モノにする流れ。銀魂自体のノリは好きです)
全12話
主人公は政界征服を目論む組織の戦闘員、磯部。この組織は正義のヒーローホープマンと敵対関係にある。
この作品は戦闘とかよりも、サラリーマン戦闘員のリアル臭い日常を語る感じ。
声優にはダイアン津田や見取り図リリー、マユリカ阪本などの吉本芸人が参加している。
韓国の学習漫画が原作。昨年10月から今年の3月にかけて2クール分放送していた。
それの第2シリーズ。まさかのOPとED変らず。(OPの絵は少しだけ変わってる)
また、サブタイトルが以前は「その1」だったのが、「その1(全3話)」と分かりやすくなっている。
さて、今回はお詫びと訂正なしで完走できるだろうか。
テーマは水不足、巨大地震、干潟。巨大地震回においては冒頭に震災に伴うPTSDに配慮したメッセージが入る。
9話の干潟のサバイバルが終わった後は第1シリーズの再放送になった。
第3期のTV放送は初だった気がする。前作ファンが多い作品ですが、私はノイエも好きですよ。
・今期お好み焼き多くない?
以前からあるにはあるので(例えば前期だと「ブスに花束を。」)別に珍しいものじゃないけど
「野原ひろしの昼メシ流儀」「ちゃんと吸えない吸血鬼ちゃん」「とんでもスキルで異世界放浪メシ」と3つあった。
どれも関西の焼き方。
EPISODE1 となるところが EPISPDE1 になっていた。2話以降は修正されている。
ジャンルがアニメではなくドラマになっていた。2話以降は修正されている。
・「デン!!」
「妃教育から逃げたい私」以降なのか?バラエティで使われる「デン!」がよく使われてる気がする
(私が知らないだけでそれ以前から多用されてたのかもしれないが)
今期では
とんでもスキルで異世界メシ2 1話、2話、5話、8話、9話、10話、11話
デブとラブと過ちと! 2話