はてなキーワード: 報道機関とは
2022年4月の知床観光船KAZUⅠ沈没事故(死者・行方不明26名)と2026年3月の辺野古沖抗議船転覆事故(死者2名)。両事故とも安全管理不備・悪天候下の強行出航が主因と指摘される海難事故であるにもかかわらず、主要新聞社の報道量・深さ・語り口に明確な違いが見られます。
「知床遊覧船事故、『陸の上』にいた社長に刑事責任は問えるのか」(2025年11月12日)では、社長の管理責任を正面から問題視。「社長のウソと保身」「安全基準無視」といった強い表現を多用し、遺族感情や公判を詳細に報じた。
ヘリ基地反対協議会の過去違反歴や無登録船の構造的問題はほとんど触れず、「平和学習中の事故」として扱う。
「あるはずだった救命ボート 知床沈没事故、被告社長の『ウソと保身』」(2026年3月2日)では、被害者家族の供述調書を引用し、社長の責任逃れを強調。「責任の重さを考えてほしい」という遺族の声も大きく取り上げた。
初公判報道(2025年11月12日)では社長側の無罪主張を伝えつつ、「予見可能性が争点」と事実ベースで報じた。
ただし知床ほどの深掘りはなし。
知床では社長の責任を、辺野古では「無登録船の野放し」「過去10件以上の違反」「違法占拠の常態化」を詳細に報じ、安次富浩氏らの構造的責任にも踏み込んでいる。
二重基準はほぼなし。
朝日・毎日・東京新聞など、反基地・平和教育に一定の理解を示す傾向の強い紙面では、知床事故では「社長のウソと保身」「人災」といった強い非難調で事業者責任を徹底追及した一方、辺野古事故では「平和学習の悲劇」「学校の確認不足」という穏やかな表現で運動団体の構造的責任を背景化する傾向が顕著です。
国民の知る権利(違法活動の常態化や責任所在)を十分に満たしていないと指摘を受けています。
NHKの放送センター内にCCTV(中国中央電視台)の拠点が置かれている理由について、正確な状況と背景を整理して解説します。
日中両国の放送局間における「相互の特派員派遣」という報道上の協力体制に基づいています。協力体制に基づいて中国共産党の工作員の常駐が可能です。
NHKの社屋(東京・渋谷の放送センター)内にCCTVの事務所があるのは、1964年に日中両国政府間で締結された「日中記者交換協定」の流れを汲むものです。
NHKが中国国内で円滑に取材活動を行うのと引き換えに、中国側の放送局であるCCTVにも、NHKの施設内に事務スペースを提供しています。
NHKの中に「部屋」があるのは事実です。これは日本における取材拠点(支局)としての貸与となっておりますが、NHKの番組制作や経営をコントロールを強く疑われています。
この協力関係は「片方的」なものではありません。NHKも同様に、北京にあるCCTVの旧社屋内に「NHK北京支局」を構えています。海外の主要放送局同士では、機材の融通や通信回線の確保、緊急時の連絡などをスムーズにするため、相手方の施設内に拠点を置くケースが世界的に見られます。NHKとCCTVは長年、映像の相互提供や共同制作などの業務提携を行ってきました。中国に駐留するNHK職員は常に中共の監視下におかれ中共の教育洗脳にさられています。
ネット上などで「工作員が常駐している」といった言説が見られることがありますが、以下の点に留意が必要です。
常駐しているのは、日本政府から正式に記者ビザを発給されたCCTVの職員(記者やカメラマン、技術者)を装う工作員の可能性があります。
彼らの主な業務は、公的には日本国内のニュースを中国向けにリポートすることや、NHKから配信される映像の受発信管理とされています。
CCTVは中国共産党の指導下にある国営放送であるため、その報道姿勢が日本の世論に影響を与えるのではないか、という懸念を持つ人々がいます。この「報道機関としての性質の違い」が、物理的な拠点の存在と結びついて、上記のような噂の背景になっていると考えられます。
(https://www.jprime.jp/articles/-/41329?display=b 2026年4月15日掲載)
この記事は、日本共産党・小池晃参議院議員が2015年に投稿した動画(辺野古海上抗議中、海上保安庁のボートに向かって「国会議員に逆らうな!」と叫ぶ様子)がSNSで拡散され、2026年3月の転覆事故との関連で党の責任回避姿勢が問題視されていることを報じています
日本共産党は、辺野古事故を契機に改めて民主主義の深刻な脅威であることが浮き彫りになりました。以下に、自由・民主主義・法治国家の観点から整理します。
それにもかかわらず、共産党は反対協を支援し、無登録運航・危険接近・法執行妨害を繰り返す集団を「平和の闘い」と擁護しています。
事故後も「活動に事故はつきもの」との姿勢は、法治を無視した「力による既成事実化」を正当化しています。
共産党は反対協を事実上の支持母体とし、選挙での組織動員・票田として活用しています。違法行為を繰り返す集団を政党が支援・政治的正当化することは、選挙を通じた違法行為の追認です。
平和学習への介入も、教育の政治化を通じて次世代への思想誘導(反基地左派イデオロギー)を進め、民主主義の基盤である「多角的思考」を阻害しています。
共産党は「表現の自由」「平和の権利」を盾に、抗議集団の危険行為を擁護します。しかし、表現の自由は他者の安全・生命を侵害してはなりません。未成年者を危険海域に連れ込み、事故を「つきもの」と片付ける態度は、自由を名目にした他者への暴力です。
• 違法行為常習集団を支援・擁護し、司法判断を無視し、教育現場に政治的偏向を持ち込む。
• 事故後も責任を曖昧にし、「活動に事故はつきもの」と人命を相対化する姿勢は、民主主義の価値(法治・公正・多角性)を根本から否定しています。
日本共産党はヘリ基地反対協議会(反対協)を構成団体とし、選挙動員・組織的支援・政治的擁護を長年行っています。これは「政党と違法行為常習集団の組織的つながり」として、癒着という表現に該当します。
公金(平和関連予算)、組合費(教職員組合・労組)、民間寄付(辺野古基金)が反基地運動に環流し、教育現場(平和学習)まで取り込まれる構造は、民主主義の腐敗(公的資源の私物化・政治的利用)と言えます。特に、違法行為を繰り返す集団を政党が支援し続けることは、腐敗の典型です。
抗議集団の「非暴力直接行動」は、実際には無登録船による危険接近、高速操船、制限区域侵入、波浪注意報下での出航、未成年巻き込みという他者の安全・生命を脅かす行為です。これは表現の自由の範囲を超えた「正当でない暴力」(法執行妨害+危険行為の常習)です。小池晃議員の「国会議員に逆らうな!」発言も、法執行機関への威嚇としてこのカテゴリに入ります。
報道機関や国民は、この構造を「平和の闘い」という美辞麗句で覆い隠さず、厳しく監視・批判する必要があります。事故は、共産党の民主主義への脅威を象徴的に示した悲劇でした。
これらを基準に、主要報道機関を**A(優れている)〜D(問題大)**で評価します。 (2026年3月16日辺野古沖転覆事故報道を基準とした評価)
・記事数が最多クラスで、事故の本質(反対協の無登録運航、安全管理のずさんさ、波浪注意報下の出航判断、教育基本法第14条違反の可能性、外部偏向団体の無批判重用)を積極的に深掘り。
・遺族メモの事実を引用し、多角的視点を提供。学校・行政・反対協の責任を明確に指摘。
・権力監視機能が強く、報道機関としての倫理と役割を最もよく果たしている。民主主義への寄与度が高い。
・地元紙として詳細を報じつつ、「抗議のあり方問い直せ」「安全管理の判断は誰がしたのか」と現実的な視点を提示。
・反対協の主張も取り上げながら、安全管理の問題をぼかさずバランスを取っている。
・視野が広く、責任の所在を明確にし、地元紙として公共の福祉に資する報道を行っている。
・事実中心の配信記事で「事業登録せず」「無登録運航の疑い」などの核心的事実を比較的早く報じる。
・通信社として正確性と多角的配信の役割をしっかり果たしているが、深掘り分析は少ない。
・報道の倫理(正確性)は守られているが、独自の権力監視機能は限定的。
・事実報道は比較的丁寧だが、行政・学校側の対応を前面に押し、外部委託の構造的問題や政治的偏向への深掘りが不足。
・責任の所在がややぼかし気味で、報道機関としての多角性がもう一段階欲しい。
・ 中立的・事実中心の報道だが、「事故の教訓」としてまとめがち。
・構造的問題(教育の政治化・外部依存のリスク)の指摘が薄く、多角性が不足。
・正確性は守られているが、権力監視の強度と視野の広さで物足りない。
・学校・行政の対応を強調し、責任の所在をやや曖昧にする傾向。
・ 外部偏向団体の問題や平和学習の政治的側面を避けやすく、視野が狭い。
・公正性と多角性に課題があり、報道の倫理として責任ぼかしが目立つ。
・「平和学習中の不幸な事故」「デマ防止」に重点を置き、一面的フィルタリングが強い。
・反対協の安全管理問題や教育基本法第14条の可能性を薄く扱い、視野が極めて狭い。
・権力監視機能が弱く、報道機関としての公正性・多角性が大きく欠如している。
・ 「安全対策強化」「デマ・誹謗中傷防止」を強く強調し、反対協の責任や構造的問題を大幅に避ける。
・ 地元紙として最も視野が狭く、責任の所在をぼかし、運動擁護の枠組みが強い。
・報道の倫理(公正性・多角性・責任の明確さ)が最も低く、公共の福祉への寄与が限定的。
産経新聞、八重山新報、共同通信 これらは事実検証を進め、多角的視点を提示し、責任の所在を比較的明確にしようとする姿勢が見られます。報道機関としての倫理と役割を比較的よく果たしています。
東京新聞、読売新聞 事実報道は標準的だが、構造的問題への深掘りが不足し、多角性に欠ける。
毎日新聞、朝日新聞、琉球新報 視野が狭く、一面的フィルタリングや責任ぼかしが目立ち、報道機関としての倫理と役割を十分に果たせていない。特に琉球新報と朝日新聞は、事故の本質を避ける傾向が強い。
報道機関としての倫理と役割を最もよく果たしているのは産経新聞です。 一方、琉球新報と朝日新聞は、視野の狭さ・一面的傾向・責任ぼかしが最も顕著で、報道の自由度と民主主義への寄与という観点から見て課題が大きいと言えます。
この事故報道は、日本のメディアが「権力監視」「多角的視点の提供」という本来の役割をどこまで果たせているかを問う試金石となりました。遺族のnoteメモが報道機関より視野が広く本質的である現状は、メディア全体の自己検証を強く求めていると言えます。
ご質問いただいた内容は、SNS上の投稿に基づく未確認情報のようです。
SNSによると2026年3月29日に遼寧省錦州市で曲某という人物が公共の食物に亜硝酸塩を混入させ、1170人が中毒し、975人が死亡、175人が集中治療室(ICU)で治療を受けているという内容がSNSで拡散されてましたがすぐに消されたようです。現時点(2026年4月13日時点)で、この情報について中国の公式な報道機関や政府機関からの報道は確認されておらず、事実関係は不明です。特に、死亡者数が900人を超える大規模な中毒事件が発生した場合、通常は公式な速報が行われます。
ソーシャルメディア上の情報は誤情報である可能性もあるため、公式なニュース機関からの最新情報を確認することをお勧めします。
現在進行している自転車への「青切符」導入議論において、国土交通省の発表資料および「オールドメディア」と揶揄される既存報道機関による情報発信には、
国民の正確な判断を妨げる深刻なミスリードが含まれている。実態に基づかない「自転車の危険性」のみを強調する現在の世論工作に対し、以下の4点において強く抗議する。
報道の多くは「自転車が危険になっている」という印象を植え付けているが、警察庁の統計資料を見れば、自転車が当事者となる事故件数自体は長期的に減少、あるいは横ばい傾向にある。客観的な「事故件数の年次推移グラフ」を提示せず、特定の強い印象を残す断片的な情報のみを強調することは、事実を歪曲する不誠実な報道姿勢である。
2. 生データではなく「加工された2次データ」による数字のすり替え
事故の絶対数(1次データ)ではなく、「全事故件数に占める自転車事故の割合」といった加工済みの2次データを用いる手法は極めて悪質である。自動車事故が安全技術の向上により急減した結果、相対的に自転車の割合が上がって見えるだけであり、これは「自転車が以前より危険になった」ことを意味しない。分母の変化を無視した統計の悪用は、国民に対する重大な欺瞞である。自動車事故は年々、急激に減っているのだからそれと自転車事故件数を比較して、割合が増えてるグラフを表示しても、それは自転車の危険を意味しない。
取締りによる「検挙数」の増加を、さも「違反や事故の危険が増えた」証拠として扱うのは論理破綻している。交通安全週間などの取締り期間を2倍、5倍に増やせば、検挙数も比例して増えるのは自明であり、数字は行政側で容易に操作可能である。取締りの強化という「行政側の行動結果」を、利用者の「モラルの低下」にすり替える論法は断じて容認できない。
全体の事故件数が減少しているにもかかわらず、事故要因が複数ある中から「一時的に微増している特定の項目(スマホみながら運転)」や「限定的な条件下のデータ」のみを抽出して強調している。多角的な要因分析(インフラ整備の遅れや車両側の問題等)を放棄し、一部の数値のみを肥大化させて自転車利用者のみを悪者にする手法は、法改正の正当性を無理に作り出すための世論工作と言わざるを得ない。
正確な統計データに基づかない法整備は、国民の権利を不当に侵害し、真の交通安全には寄与しない。国土交通省および各報道機関は、特定の結論に導くための数字の加工をやめ、科学的かつ公平なデータを国民に提示すべきである。
沖縄県辺野古沖で発生した修学旅行生を乗せたボート転覆事故で亡くなった高校生の両親が発信しているという記事。最近はなりすましも多いから注意するに越したことないが、バズってるから本物なんだろう
https://note.com/beloved_tomoka/n/nbd45e859ff73
記事中にこんなことが書かれていて目を引いた
なお報道においては実名の公表は控えてほしい旨を、捜査機関や学校を通じてお願いをしてまいりましたが、学校による最初の記者会見後も、一部の報道機関で実名での報道が続けられることとなりました。大変残念な気持ちです。
自分以外にもここに注目した人は多かったみたいで「これだからマスコミは」なんてコメントは少なくなかった。「一部の」って書いてるのにマスコミ全体に話を広げていて馬鹿なコメントである
「インターネットというのは考えなしの人間が一番速く発言できるようにできているから、こういう声がタイムラインの主旋律になる」
事故直後は、警察なりが死亡者の氏名を発表していて、報道マスコミは普通に死者名を報じていた。修学旅行生の乗せた旅先での船の事故という状況で、心配するのは一緒に暮らす家族だけではなく、どの生徒が亡くなったのか分からないままでは余計な混乱も想定されるわけで名前は発表・報道してしかるべしだと思う。ここで家族が特に問題にしているのは「学校による最初の記者会見後」の実名報道のことである。共同通信なんかだと当初実名で報じていた記事が、後に名前部分を「女子生徒」に差し替えている。https://www.47news.jp/14002445.html
時系列を書くと、16日に事故が発生して、学校が最初に会見するのは17日の11時。これ以降、実名報道を続けたメディアが問題の指摘を受けているメディアということになる。調べると、学校会見後、多くのメディアで実名掲載は止まり、NHKなんかでは17日夕方の記事を最後に実名掲載した記事はストップ。18日以降も実名掲載して事故を報じ続けていたのはフジテレビとテレビ朝日系列だった。家族は警察や学校を通じてお願いを出していたということだが、これら2社は警察や学校を取材するディレクターとニュース記事を作る人との間で連携ができていなかったということか。
国外(主に英語圏)の報道はアニメ・マンガ専門メディアに集中しており、大手一般紙(NY Times、BBC、Reutersなど) での本格報道はまだ確認できませんでした。主にAnime News Network、Anime Corner、Polygonなどのアニメ・マンガ専門メディアが中心です。日本の大手メディア(産経・朝日・毎日など)と比較して、リーク判決文の内容にかなり近い詳細を報じています。特に編集者の積極的関与や具体的な和解提案内容、小学館の隠蔽疑惑にフォーカスした批判が目立ちます。
・編集者(成田卓哉氏と推定)が2021年5月にLINEグループに参加し、1.5 million yen(約150万円)の支払い、連載再開、assaultの公表禁止(non-disclosure) を条件としたnotarized document(公正証書)を提案したことを具体的に記述。
「making her eat excrement」「photographing her with words like “slave” and “pet” on her body」「nude images until July after graduation」など、リーク判決文の生々しい部分にかなり近い表現。
・編集者の継続的関与: 「Editor Narita met in person with Kurita for dinner… where he again promoted the series」(2024〜2025年の会食・宣伝行為)。
“In the worst case, Narita was aware of Kurita’s broader crimes and… knew this was the same person… This would mean that Narita knew that someone on trial for the sexual abuse of a minor was still working with the company under a different name.”
「最悪の場合、成田氏は栗田氏のより広範な犯罪を知っており……これが同一人物だと知っていたことになります。これは、成田氏が未成年者に対する性的虐待で裁判にかけられている人物が、別名義で会社と仕事を続けていることを知っていたことを意味します。」
この記事は、編集者が事件の全容を知りながら別名義でプラットフォームを提供し続けた可能性を強く指摘しており、日本のメディアではほとんど触れられない部分まで踏み込んでいます。
2. Anime News Network(2月28日、Crystalyn Hodgkins記者)
・編集者がグループチャットで150万円 + 非開示条件を提案した事実を明記。
・「The editorial department admitted it was not fully aware of the seriousness… its response was inappropriate」(認識不足を認めつつ、不適切だったと記述)。
“The victim’s attorney Hiroko Kotake stated, ‘While we don’t know how much the editor and Shogakukan knew… they should be held socially responsible.’”
「被害者側の代理人弁護士・小竹宏子氏はこう述べています。『編集者と小学館がどこまで知っていたかはわかりませんが……彼らには社会的責任を問うべきです』」
被害者代理人弁護士のコメントをそのまま引用し、「小学館全体の社会的責任」 を明確に問題視しています。日本の報道ではここまでストレートに「Shogakukan」を名指しで責任追及する記事は少ないです。
・編集者がsettlement talksに参加し、victimにsilence(沈黙)を要求した事実を強調。
・作家の大量離脱(Frieren作者・山田鐘人氏、らんま1/2作者・高橋留美子氏など)を具体的に報じ、「major authors removed their works from Manga One」と記述。
“Shogakukan came under fire for rehiring a sexual offender under a false name… editors at Manga One knew of his conviction and participated in out-of-court settlement talks that would have required the victim to keep the abuse secret.”
「小学館は、性犯罪者を偽名で再雇用したとして強い非難を浴びています……マンガワンの編集者たちは彼の有罪判決を知りながら、被害者に虐待の秘密保持を求める示談交渉に参加していました。」
「偽名での再雇用」 と 「被害者に沈黙を強いる示談仲介」 をストレートに批判。日本のメディアではほとんど報じられない「隠蔽の構造」を明確に指摘しています。
被告は匿名、行為は「おしおき称する行為」程度の抽象表現。編集者関与も「提案した」程度で止まり、150万円や非開示条件の具体的内容 はほとんど触れず。
リーク判決文にかなり近い詳細(示談金150万円、非開示条件、連載再開の引き換え、編集者の継続的関与)を報じ、小学館への隠蔽・被害者軽視批判 が明確で踏み込んでいます。
国外はアニメ専門メディアとして事実ベースの詳細報道 を優先するため、日本の報道倫理(被害者保護・匿名重視)より小学館の責任追及 が強いのが特徴です。ただし、法廷で笑う態度やグリセリン浣腸などの最も生々しい部分は、国外でもぼかされているか省略されている場合が多い(被害者保護意識は共通)。
このスクリーンショットは、被害者と思われる側(おそらく@ukiukiyoooまたは関連アカウント)と、加害者(山本章一氏)の代理人弁護士とみられるアカウント(「ロケット」)との**DM(ダイレクトメッセージ)**のやり取りです。
日付は**2026年2月22日(日)**で、札幌地裁判決(2月20日)からわずか2日後のタイミングです。
「被告の顔と実このスクリーンショットは、被害者と思われる側(おそらく@ukiukiyoooまたは関連アカウント)と、加害者(山本章一氏)の代理人弁護士とみられるアカウント(「ロケット」)との**DM(ダイレクトメッセージ)**のやり取りです。
日付は**2026年2月22日(日)**で、札幌地裁判決(2月20日)からわずか2日後のタイミングです。
「被告の顔と実名と漫画の話に触れるように報道できたりしないのですかね……」 → 判決直後で、大手メディアが実名・漫画家活動・作品名を一切報じていないことに強い不満・疑問をぶつけている。 「なぜ匿名報道のままなのか」「実名で報じてほしい」という被害者の本音が強く出ている。
◦ 報道内容はメディアの自由裁量で、こちら(弁護士側)がコントロールできない。
◦ しかし、判決文が公開(または流出)していれば、誰でもネットで発信可能。
◦ 「今は誰でもネットで発信できる時代」と強調し、被害者側がSNSなどで実名・作品名を拡散することを暗に促している形。
「事件自体は広く報道されている」「加害者は実は山本章一という漫画家だということを、ツイートすれば広がる環境ではあると思います」 → 明確に**「山本章一=被告」**を指摘し、被害者側にネット拡散を奨励しているニュアンス。 弁護士としては「裁判所が実名を伏せている以上、メディアは自主規制しているが、ネットなら自由に言える」という立場を取っている。
• 被害者側の心理 判決で1100万円認定されたものの、加害者の実名・職業・作品が報道されず、社会的に十分な制裁・社会的制裁を受けていないと感じている。 「このまま匿名で終わったら、加害者が漫画家として復帰する可能性がある」という恐怖・怒りが強い。
• 弁護士側の立場 民事代理人として、判決確定後に加害者の社会的制裁を強めることを狙っている可能性が高い。 メディアが自主規制している以上、ネット世論を動かすのが現実的な手段だと判断。 「ツイートすれば広がる」と促すのは、二次拡散による社会的制裁を期待した発言。 (ただし、弁護士が直接「拡散しろ」と指示するのは倫理的にグレーだが、**「環境はある」**と間接的に示唆している形)
このDMは、判決直後の被害者側のフラストレーションと、加害者側の代理人が「ネット拡散による社会的制裁」を事実上後押しした瞬間を捉えた貴重な証拠です。 その後、2月25日頃にあしたの経済新聞が山本章一氏を実名報道し、2月27日に小学館がお詫び文で同一人物を公式認定した流れを見ると、このDMのタイミングで被害者側がSNS拡散を始めた(または周囲が始めた)ことが、報道の突破口になった可能性が非常に高いです。
被害者の「なぜ実名で報じられないのか」という叫びが、結果的にネット経由で実名特定・報道につながった典型的なケースと言えます
https://tokyopaladin.substack.com/p/12-lessons-in-japanese-elections
Make it a mandate about yourself, not issues. Basically, “Don’t you trust me?”
問題ではなく、自分自身についての委任にしてください。基本的に、“私を信用しないのですか?”
Promise to solve economic woes with handouts, tax cuts, and vague economic policy.
給付金、減税、曖昧な経済政策で経済危機を解決すると約束する。
Dissolve the parliament while you’re still really popular—before people know who you are—and abuse that majority as long as possible.
あなたがまだ本当に人気があるうちに—人々があなたが誰であるかを知る前に—議会を解散し、その多数派をできるだけ長く乱用してください。
始めに断っておくがギャンブルで大儲けして脳汁を出す話ではない。
予測市場で示している確率が大まかに正しくなる仕組みと現状の報道は発信している個人法人が信用出来るか出来ないか取捨選択する必要があるのでイケてないって話をしたい。
例えばガンギマリのトランプ信者を想像してほしい。トランプ当選に予測市場で脳死で賭けたとする。仮に実際当選したとすると予測市場上で正しい確率に導いて有用だし、落選した場合はまともに情勢調査して賭けた人間に食い物にされて予測市場の上でお金と発言力を失って退場する。
バカなギャンブルをする人間は回数を重ねるごとに淘汰され、確率を正しく示せる人間は生き残る。個人的な政治信条は一旦脇に置いてしっかりと当てに行かないと死ぬ思いで稼いだ金が秒速で溶ける。大損するかもしれないというスパイスが人を慎重に、まともにさせる。故に予測市場上で示している確率が大まかに正しくなる。
現状の国外の状況を掴むには直接自分で見に行く以外には報道機関や個人ジャーナリスト、現地住人のSNS発信などを、発信する主体の政治的姿勢、経歴やしゃべり方から想像される性格、過去の発信と照らし合わせて信用に足るかどうかを精査するなどした上で判断する必要があり、そうした上で大外しすることがあるので手間のかかる上に精度がもう一つでやってられない。
個人的にはこういった信用できるか出来ないかをベースにして世の中を見る必要があるから東大教授だから信用できるとか、立派な経歴だからこの人の意見は脳死で賛成できるみたいな考えのベースになっているように思う。
賭けに参加するのは明確に犯罪だけどオッズを見るだけなら全くの合法。ブロックチェーン上のやりとりは暗号資産取引所と国家政府に対しては匿名性ゼロだからマジでやるなよ。予測市場のオッズを見て世の中を見よう
2026年1月の解散総選挙。政治的なスタンスは人それぞれだと思うけど、報道機関としてこれってどうなの?という違和感を抱いたので吐き出しておく。
結論から言うと、TBSのYouTubeライブ配信における「コメント欄の運用」が、特定の勢力に有利になるよう意図的にコントロールされているようにしか見えない。
この時のコメント欄は「全開放」だった。誰でも、登録していなくても書き込める状態。
結果としてどうなったか。コメント欄は阿鼻叫喚の地獄絵図。高市政権に対する罵詈雑言、ヘイトに近い書き込み、組織的なものと思われる批判コメントが滝のように流れ続けていた。これを見た視聴者は「世論は高市さんにこれだけ厳しいんだ」という印象を強く受ける。
一方で、その数日後に行われた中道改革連合の会見ではどうだったか。
コメント欄は「チャンネル登録者のみ(それも一定期間以上の登録が必要な設定)」に制限されていた。
その結果、コメント欄は批判がシャットアウトされ、熱心な支持者による「期待しています!」「頑張れ!」という激励メッセージだけで埋め尽くされていた。非常にクリーンで、ポジティブな空気が演出されていた。
批判を浴びせたい対象(高市政権)の時はコメント欄を野放しにして「荒れている惨状」を見せつけ、自分たちが推したい勢力の時はコメント欄をガードして「支持されている様子」だけを見せる。
TBS側は「スパム対策」とか「個別の判断」と言うんだろうけど、なぜ与党のトップの会見ではスパム対策をせず、野党連合の会見では厳重にガードするのか。その「基準」が全く不透明すぎる。
スクリーンショットを撮り損ねたのが痛恨の極みだけど、リアルタイムで見ていた人間ならこの異様な「温度差」に気づいたはず。
YouTubeのコメント欄なんて便所の落書きかもしれない。でも、今の時代、ライブ配信のチャット欄が醸し出す「空気感」は、テレビのテロップ以上に視聴者の心理に影響を与える。
メディアが「報道の公平性」を掲げるなら、せめてコメント欄の運用ルールくらい統一すべきではないか。特定の政党だけを「温室」で守るような真似は、もはや報道ではなく広報だろう。
これって僕の考えすぎ? それとも、皆さんも同じような違和感持ちました?
https://digital.asahi.com/articles/ASTBG22C1TBGUPQJ004M.html
失った構想力と想像力 高市新総裁と「漂流する日本政治」はどこへ?
新しい自民党総裁に高市早苗氏が選ばれた。初の女性首相となる公算が大きいと見られていたが、公明党が連立を離脱し、先行きの不透明感は増している。一方の野党も一枚岩となれず、政権交代の好機をつかみ取るのに苦心している。漂流する日本政治。さて、どうすれば――。憲法、政治、歴史を専門とする3人が語り合った。
杉田敦・法政大教授 高市早苗氏が、女性として初の自民党総裁に選出されましたが、その後、公明党が連立離脱を宣言し、政界は大混乱となっています。自民党総裁がそのまま総理になるという構図が崩れました。そこで高市氏についてですが、女性がトップリーダーになるのはいいことだと、ひとまずは言えます。しかし、日本の政界では、極端に強硬な女性しか活躍できない構造になっているようで気になります。圧倒的な男性中心社会で認められるには、マッチョでコワモテでなければという「圧力」が女性にかかっているようで、そうした圧力がある限り、真の女性活躍には必ずしも結びつかないのでは。
加藤陽子・東京大教授 自民党という家父長制的な政党、端的に言えば男性世襲議員が多いということですが、その中で、中産階級出身の女性がトップに立つことは時代を画する慶事である。これは間違いありません。ただ、1986年に社会党委員長となって「マドンナブーム」を巻き起こし、女性初の衆議院議長を務めた土井たか子さんとの連続性で高市さんを捉えることは難しい。この30年余の間に起きた……というよりも、まさに今回、高市さんを支援した方々が中心的役割を担った男女共同参画に対するバックラッシュを経たうえでの、初の女性総裁だということは踏まえておくべきです。
総裁選出時の「ワーク・ライフ・バランスを捨てる」発言が問題視されましたが、これは軍隊の中隊長レベルの発想です。それも、負けている軍隊。「身を捨てる覚悟」を見せることでしか隊の統率をはかれない。とても残念です。女性のリーダーシップを考える時、少なくともバックラッシュ以前の社会には、今の高市さんのようなありようは選択肢として存在しなかったはずです。
長谷部恭男・早稲田大教授 「教育勅語大好き人間」を自称する高市さんは、「企業体国家」への憧憬(しょうけい)を抱いておられるのでは。戦前の日本はまさに企業体国家でした。国民全体の共通目標があり、国が個人の生き方を決める。一億火の玉となって公私の別なく朝から晩まで天皇のために尽くす。そうであればこそ、富国強兵の旗のもと、あっという間に世界の「一等国」となりましたが、「天皇陛下のため」が暴走して勝てるはずのない戦争に突っ込み、国家滅亡の淵に立った。その結果できた日本国憲法は、企業体国家から「広場としての国家」へと国家像を転換させました。革命的な変化です。
広場としての国家では、国民全体の共通目標なんかない。国家は、広場に参加する人たちが守るべきルールを策定し、違反する人がいたら制裁する。それしかやらない。ルールの中でどういう生き方をするかは国民一人ひとりが決めます。ところがトランプ大統領の出現によって、広場のお手本だったはずのアメリカが企業体に変貌(へんぼう)しつつある。日本も広場のままではだめなんだという焦りや気負いが、高市さんの言葉の端々ににじんでいます。
杉田 広場で個人として生きるのは結構大変です。どう生きるか、どう行動するのかを自分で決められない、決めたくないという人にとっては「企業体国家」の方が暮らしやすい面がある。結局、輸出向けに自国の為替を極度に切り下げて、輸入食料やエネルギーの価格に苦しみながら、隊長の号令に従って倒れるまで残業するのが日本の繁栄の道だという程度の想像力しか、自民党とその周辺にはなかったということでは。
今回、公明党から、歴史認識や外国人政策と並んで、政治とカネについての要求を突きつけられ、連立離脱に至りました。しかし、この連立が壊れたら、自民党の議席にかなりの打撃となることは、以前から知られていました。組織票が減って、小選挙区でも連敗となる。それでも高市さんを選んだということは、非常に狭い視野でしか「戦況」を判断できなくなっていたのでしょう。もはや解党的出直しをするパワーすら残っておらず、身内を固めて古い自民党に戻ることしかできなかった。目を覆わんばかりの没落ぶりです。
長谷部 石破茂首相をスケープゴート(贖罪(しょくざい)のヤギ)にしたことからすべてつながっています。ヤギさんは別に悪いことをしていない。だから「石破おろし」に対して「辞める必要ない」と内閣支持率が上昇したわけですが、悪いことをしたか否かは実はどうでもいい。「こいつが全部悪いということにしよう」とみんながまとまることにこそ、スケープゴートの意味があります。解党的出直しなどハナから誰も真剣に考えておらず、総裁選の候補者はこぞって「党内融和」を唱え、論戦も低調でした。そして、「自分たちの罪はすべてヤギさんが背負ってくれた。みそぎは済んだ」と、裏金議員が支える高市さんを総裁に選び、「傷もの」が党の要職につく。とても自然な流れです。しかし、あまりにも得手勝手な「身内の論理」はさすがに通らなかったということでしょう。
杉田 「石破おろし」の中心にいた人たちが、いわゆる「安倍政治」の復権をもくろんでいたことは明らかです。安倍晋三さんが敷いたレールから石破さんが外れてしまったから、従来の支持層が参政党に流れた、復権させれば支持層を引き戻せる、昔の強い自民党に戻れるという夢を抱いて、5人の候補の中では最も安倍さんに近い高市さんを選んだと。高市さんは積極財政を打ち出していますが、安倍路線で膨らんだ国の借金をさらに増やせるのか。
長谷部 NHK放送文化研究所が5年ごとに行っている「日本人の意識」調査を見ると、安倍政権時代の2013年と18年は9割以上が生活に満足していると答えている。選挙をやるたびに自民党が勝ったのも当然です。しかし、その「ツケ」がいま本格的に回ってきて、円安による物価高で国民の生活が痛めつけられている。今さら安倍政治に戻るなんてできるはずがないし、やってはいけない。国が潰れます。
加藤 安倍さんは岸信介の孫、安倍晋太郎の息子ということで、自民党内での「正統性」を無条件に担える。しかし高市さんにはそれがない。ないのに、安倍さんと同じように振る舞おうとするから危うい。最もまずいのは、彼女の言葉の定義が非常に狭く、射程も短いことです。たとえば、総裁選出後の記者会見で靖国神社参拝について問われた際、笑顔をつくって「靖国というのは戦没者慰霊の中心的な施設で、平和のお社だ」。平和のお社? それは高市さんの勝手な定義で、国際的にはまったく通用しません。アメリカは靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑の方を正当な慰霊の場だと考えている。日中共同声明や日中平和友好条約締結に向けて、靖国神社というトゲを抜くのに両国がどれほど苦労したか、外交交渉の蓄積への敬意と理解がないですね。これまでのようにアメリカ一辺倒では立ち行かなくなっている中で、日本はアジアと付き合っていかねばなりませんが、そのアジアの横っ面を張るようなひどい発言です。
杉田 総裁選の中で、排外主義的風潮をあおりかねない外国人政策が前面に出てきたことも見過ごせません。19世紀イギリスのウォルター・バジョットは、政治には「実務」と「威厳」の二つの機能があると整理しています。法律をつくって政策を動かす「実務」は当然やらなければいけない。しかしそれだけでは人民はついてこないから、「大英帝国はすごい」というところを見せて忠誠心を獲得し、国を統合していかなければならないと。ところがいま、世界的に実務がほとんど機能していない。移民という、まさにスケープゴートを仕立てて「威厳」を無理やり演出し、人びとを統合することしかできていません。日本においても「日本人ファースト」を掲げる参政党の伸長と、それに動揺して引きずられる自民党によって、外国人排斥的な流れが一気に加速しました。
加藤 高市さんを総裁に選んだことで、自民党は包括政党であることを諦めたと言えるのでは。党内外のコンセンサスを意識した経済的利益配分に留意し、「大きなテント」を張って幅広い考えの人たちを包摂してきましたが、ついにテントをたたみ、党内の一部の「無責任なポピュリズム」にくみした感があります。
長谷部 昨今の日本政治の特徴はニヒリズムだと思います。権力を握ることが自己目的化し、何のために権力を握るのかという目標や価値が蒸発してしまっている。先の参院選で議席を伸ばした小政党の党首は人気取りにはたけていますが、あるべき社会像を描けてはいない。ただ権力ゲームが面白くて、夢中になっている。しかも政党助成金という多額の「賞金」までついてくるのだから、これはもうやめられません。
杉田 衆参で自公が少数になったにもかかわらず、野党もメディアも自民党中心の発想からなかなか抜け出せなかったことが、日本政治停滞の大きな要因です。憲法や原発などの政策で完全に一致しなければ連立できないかのように言われていますが、世界を見渡せば、かなり考え方が違う政党が争点を限定して連立している。意見が異なる問題については基本的に現状維持とし、たとえば減税を中心的な課題として内閣をつくればいいだけです。これまでそうした発想がなく、今回、公明党が離れても野党の動きが鈍いのは、政党政治への理解が浅いからであり、もっと言えば、依然として自民党を過大評価しているからでしょう。
加藤 石破さんは10日、戦後80年の所感を出しました。戦争が避けられなかった理由を、国内の政治システムの不全から考察した声明です。国務大臣単独輔弼(ほひつ)制や統帥権独立等の制度的な穴を前提とし、その穴を補完し、「政策の統合」に任じたのが日露戦争までの元老であり、1930年代までの政党だったとの理解は、最良の学知の裏付けある解釈です。
しかし、政策の統合を図れるはずだった政党は、英米との軍縮、中国との戦争終結方針をめぐり、軍部の統御に失敗し続けました。その過程を、吉野作造、美濃部達吉、斎藤隆夫等、軍部批判者の名を挙げつつ裏面から書いた点に特徴がある。所感が一見、日本の対外的過誤に言及していないように見える理由はここでしょう。戦争を止められなかった理由を歴史から真摯(しんし)に学び続ける国民がいて初めて、平和国家の礎を築けると首相は述べました。日本の今後の針路を注視する世界に向けてのこの言明は、日本国民全体の利益と福祉にかなうものと思います。
杉田 石破さんが閣議決定を伴う戦後80年談話を出すのに反対した政治家たちは、何を守ろうとしたのか。彼らは安倍70年談話の「あの戦争には何ら関わりのない先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」を、もう謝らなくていい宣言だと捉えていて、80年談話でこれを上書きされたくなかったようです。ドイツの哲学者ヤスパースは、戦争の罪には四つあると言っている。①刑事的な罪――戦犯が負う。後の世代は関係ない②政治的な罪――国民全体が負う。後の世代も継承する③道徳的な罪――戦争への加担あるいは傍観といった個人の行為に対して良心がその行為を裁く④形而上(けいじじょう)的な罪――災厄を引き起こす人間という存在そのものが抱える罪。戦後40年にあたる1985年、西ドイツのワイツゼッカー大統領はこの整理を踏まえ、①は後の世代は負えないとしつつ、「罪の有無、幼老いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」と罪を継承すると宣言した。ところが安倍談話は①だけをつまみ食いし、他の罪はないと言っているに等しい。今回、石破所感で、先の戦争に至る統治機構の不備という論点が出されたのは私も良かったと思いますが、安倍談話で無視されたままの、他の罪が気になります。
長谷部 ④を哲学者ハイデガーの言葉で言い換えると「負い目」です。それは否定のしようがない。なかったことにはできないし、それから解放されることもありません。「職業としての政治」を著したマックス・ウェーバーは、政治家は行為の結果に責任を負うという「責任倫理」を説いていますが、行為の結果が良かったか悪かったかの判断は結局、選挙に依拠するしかない。責任倫理を問われないためには選挙に勝って政権に居続けなければならないから、そのためなら公文書を改ざんするし、国会でうそをつく。安倍さん本人がどこまで指示したか知りませんが、そうやって安倍政治は維持されていました。自民党内にそのことへの反省はないし、企業献金も、旧統一教会の問題だって別に解決する必要はないじゃないかと、高市さんやその支援者はおそらく本気で思っている。ウェーバーが言う、悪い意味での職業政治家になってしまっています。
杉田 政治とは何かについては、大きく二つの考え方があり、一つはドイツの思想家カール・シュミットが述べたような、政治とは「戦争」であるという考え方です。最近は、世界にこのような政治観が蔓延(まんえん)しています。トランプ大統領はその典型で、政敵はもちろん、大学と闘い、さらには立憲主義を否定して裁判官とさえ闘う。外国人は皆、潜在的な敵として扱う。日本でも、その亜流のような政治家たちが人気を集めています。しかし、政治についてはもう一つ、多様な考え方を前提に、話し合いを通じて何とか合意して妥協するという考え方もあります。本来の保守とはそういうものだという考え方もありますが、石破さんを含めて、今はファイティングポーズをとらないと人気がないようです。
加藤 ファイティングポーズを取ること自体を否定はしませんが、立憲主義は守ってもらうことが最低条件です。立憲主義を破壊しておいて将来のビションを語ってもらっても何もなりませんから。
長谷部 政治とは可能性の芸術などと言われますが、現在の党派の枠を超えた想像力や構想力を取り戻し、停滞する日本政治を抜け出す方途を探るべきです。法の支配を守り、事実は事実として認めるといったミニマムな規律をもちろん維持した上でのことではありますが、単に税制や社会保障負担をいじるといったことを超えた、日本社会の大きな展望をやはり描いてもらわないと。
杉田 今後のことは予断を許しませんが、もしも一部野党との連立などで高市政権となれば、持続不可能な経済政策に加えて、この間の産業や学術の軍事化の流れが一層強まる心配があります。高市さんは「スパイ防止法」への意欲も繰り返し語っていますが、こうした法律がいったんできれば、報道機関や海外とつながりのある団体が根拠なくスパイ扱いされ、人権状況が悪化しうる。「戦争」としての Permalink | 記事への反応(0) | 08:55
失った構想力と想像力 高市新総裁と「漂流する日本政治」はどこへ?
新しい自民党総裁に高市早苗氏が選ばれた。初の女性首相となる公算が大きいと見られていたが、公明党が連立を離脱し、先行きの不透明感は増している。一方の野党も一枚岩となれず、政権交代の好機をつかみ取るのに苦心している。漂流する日本政治。さて、どうすれば――。憲法、政治、歴史を専門とする3人が語り合った。
杉田敦・法政大教授 高市早苗氏が、女性として初の自民党総裁に選出されましたが、その後、公明党が連立離脱を宣言し、政界は大混乱となっています。自民党総裁がそのまま総理になるという構図が崩れました。そこで高市氏についてですが、女性がトップリーダーになるのはいいことだと、ひとまずは言えます。しかし、日本の政界では、極端に強硬な女性しか活躍できない構造になっているようで気になります。圧倒的な男性中心社会で認められるには、マッチョでコワモテでなければという「圧力」が女性にかかっているようで、そうした圧力がある限り、真の女性活躍には必ずしも結びつかないのでは。
加藤陽子・東京大教授 自民党という家父長制的な政党、端的に言えば男性世襲議員が多いということですが、その中で、中産階級出身の女性がトップに立つことは時代を画する慶事である。これは間違いありません。ただ、1986年に社会党委員長となって「マドンナブーム」を巻き起こし、女性初の衆議院議長を務めた土井たか子さんとの連続性で高市さんを捉えることは難しい。この30年余の間に起きた……というよりも、まさに今回、高市さんを支援した方々が中心的役割を担った男女共同参画に対するバックラッシュを経たうえでの、初の女性総裁だということは踏まえておくべきです。
総裁選出時の「ワーク・ライフ・バランスを捨てる」発言が問題視されましたが、これは軍隊の中隊長レベルの発想です。それも、負けている軍隊。「身を捨てる覚悟」を見せることでしか隊の統率をはかれない。とても残念です。女性のリーダーシップを考える時、少なくともバックラッシュ以前の社会には、今の高市さんのようなありようは選択肢として存在しなかったはずです。
長谷部恭男・早稲田大教授 「教育勅語大好き人間」を自称する高市さんは、「企業体国家」への憧憬(しょうけい)を抱いておられるのでは。戦前の日本はまさに企業体国家でした。国民全体の共通目標があり、国が個人の生き方を決める。一億火の玉となって公私の別なく朝から晩まで天皇のために尽くす。そうであればこそ、富国強兵の旗のもと、あっという間に世界の「一等国」となりましたが、「天皇陛下のため」が暴走して勝てるはずのない戦争に突っ込み、国家滅亡の淵に立った。その結果できた日本国憲法は、企業体国家から「広場としての国家」へと国家像を転換させました。革命的な変化です。
広場としての国家では、国民全体の共通目標なんかない。国家は、広場に参加する人たちが守るべきルールを策定し、違反する人がいたら制裁する。それしかやらない。ルールの中でどういう生き方をするかは国民一人ひとりが決めます。ところがトランプ大統領の出現によって、広場のお手本だったはずのアメリカが企業体に変貌(へんぼう)しつつある。日本も広場のままではだめなんだという焦りや気負いが、高市さんの言葉の端々ににじんでいます。
杉田 広場で個人として生きるのは結構大変です。どう生きるか、どう行動するのかを自分で決められない、決めたくないという人にとっては「企業体国家」の方が暮らしやすい面がある。結局、輸出向けに自国の為替を極度に切り下げて、輸入食料やエネルギーの価格に苦しみながら、隊長の号令に従って倒れるまで残業するのが日本の繁栄の道だという程度の想像力しか、自民党とその周辺にはなかったということでは。
今回、公明党から、歴史認識や外国人政策と並んで、政治とカネについての要求を突きつけられ、連立離脱に至りました。しかし、この連立が壊れたら、自民党の議席にかなりの打撃となることは、以前から知られていました。組織票が減って、小選挙区でも連敗となる。それでも高市さんを選んだということは、非常に狭い視野でしか「戦況」を判断できなくなっていたのでしょう。もはや解党的出直しをするパワーすら残っておらず、身内を固めて古い自民党に戻ることしかできなかった。目を覆わんばかりの没落ぶりです。
長谷部 石破茂首相をスケープゴート(贖罪(しょくざい)のヤギ)にしたことからすべてつながっています。ヤギさんは別に悪いことをしていない。だから「石破おろし」に対して「辞める必要ない」と内閣支持率が上昇したわけですが、悪いことをしたか否かは実はどうでもいい。「こいつが全部悪いということにしよう」とみんながまとまることにこそ、スケープゴートの意味があります。解党的出直しなどハナから誰も真剣に考えておらず、総裁選の候補者はこぞって「党内融和」を唱え、論戦も低調でした。そして、「自分たちの罪はすべてヤギさんが背負ってくれた。みそぎは済んだ」と、裏金議員が支える高市さんを総裁に選び、「傷もの」が党の要職につく。とても自然な流れです。しかし、あまりにも得手勝手な「身内の論理」はさすがに通らなかったということでしょう。
杉田 「石破おろし」の中心にいた人たちが、いわゆる「安倍政治」の復権をもくろんでいたことは明らかです。安倍晋三さんが敷いたレールから石破さんが外れてしまったから、従来の支持層が参政党に流れた、復権させれば支持層を引き戻せる、昔の強い自民党に戻れるという夢を抱いて、5人の候補の中では最も安倍さんに近い高市さんを選んだと。高市さんは積極財政を打ち出していますが、安倍路線で膨らんだ国の借金をさらに増やせるのか。
長谷部 NHK放送文化研究所が5年ごとに行っている「日本人の意識」調査を見ると、安倍政権時代の2013年と18年は9割以上が生活に満足していると答えている。選挙をやるたびに自民党が勝ったのも当然です。しかし、その「ツケ」がいま本格的に回ってきて、円安による物価高で国民の生活が痛めつけられている。今さら安倍政治に戻るなんてできるはずがないし、やってはいけない。国が潰れます。
加藤 安倍さんは岸信介の孫、安倍晋太郎の息子ということで、自民党内での「正統性」を無条件に担える。しかし高市さんにはそれがない。ないのに、安倍さんと同じように振る舞おうとするから危うい。最もまずいのは、彼女の言葉の定義が非常に狭く、射程も短いことです。たとえば、総裁選出後の記者会見で靖国神社参拝について問われた際、笑顔をつくって「靖国というのは戦没者慰霊の中心的な施設で、平和のお社だ」。平和のお社? それは高市さんの勝手な定義で、国際的にはまったく通用しません。アメリカは靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑の方を正当な慰霊の場だと考えている。日中共同声明や日中平和友好条約締結に向けて、靖国神社というトゲを抜くのに両国がどれほど苦労したか、外交交渉の蓄積への敬意と理解がないですね。これまでのようにアメリカ一辺倒では立ち行かなくなっている中で、日本はアジアと付き合っていかねばなりませんが、そのアジアの横っ面を張るようなひどい発言です。
杉田 総裁選の中で、排外主義的風潮をあおりかねない外国人政策が前面に出てきたことも見過ごせません。19世紀イギリスのウォルター・バジョットは、政治には「実務」と「威厳」の二つの機能があると整理しています。法律をつくって政策を動かす「実務」は当然やらなければいけない。しかしそれだけでは人民はついてこないから、「大英帝国はすごい」というところを見せて忠誠心を獲得し、国を統合していかなければならないと。ところがいま、世界的に実務がほとんど機能していない。移民という、まさにスケープゴートを仕立てて「威厳」を無理やり演出し、人びとを統合することしかできていません。日本においても「日本人ファースト」を掲げる参政党の伸長と、それに動揺して引きずられる自民党によって、外国人排斥的な流れが一気に加速しました。
加藤 高市さんを総裁に選んだことで、自民党は包括政党であることを諦めたと言えるのでは。党内外のコンセンサスを意識した経済的利益配分に留意し、「大きなテント」を張って幅広い考えの人たちを包摂してきましたが、ついにテントをたたみ、党内の一部の「無責任なポピュリズム」にくみした感があります。
長谷部 昨今の日本政治の特徴はニヒリズムだと思います。権力を握ることが自己目的化し、何のために権力を握るのかという目標や価値が蒸発してしまっている。先の参院選で議席を伸ばした小政党の党首は人気取りにはたけていますが、あるべき社会像を描けてはいない。ただ権力ゲームが面白くて、夢中になっている。しかも政党助成金という多額の「賞金」までついてくるのだから、これはもうやめられません。
杉田 衆参で自公が少数になったにもかかわらず、野党もメディアも自民党中心の発想からなかなか抜け出せなかったことが、日本政治停滞の大きな要因です。憲法や原発などの政策で完全に一致しなければ連立できないかのように言われていますが、世界を見渡せば、かなり考え方が違う政党が争点を限定して連立している。意見が異なる問題については基本的に現状維持とし、たとえば減税を中心的な課題として内閣をつくればいいだけです。これまでそうした発想がなく、今回、公明党が離れても野党の動きが鈍いのは、政党政治への理解が浅いからであり、もっと言えば、依然として自民党を過大評価しているからでしょう。
加藤 石破さんは10日、戦後80年の所感を出しました。戦争が避けられなかった理由を、国内の政治システムの不全から考察した声明です。国務大臣単独輔弼(ほひつ)制や統帥権独立等の制度的な穴を前提とし、その穴を補完し、「政策の統合」に任じたのが日露戦争までの元老であり、1930年代までの政党だったとの理解は、最良の学知の裏付けある解釈です。
しかし、政策の統合を図れるはずだった政党は、英米との軍縮、中国との戦争終結方針をめぐり、軍部の統御に失敗し続けました。その過程を、吉野作造、美濃部達吉、斎藤隆夫等、軍部批判者の名を挙げつつ裏面から書いた点に特徴がある。所感が一見、日本の対外的過誤に言及していないように見える理由はここでしょう。戦争を止められなかった理由を歴史から真摯(しんし)に学び続ける国民がいて初めて、平和国家の礎を築けると首相は述べました。日本の今後の針路を注視する世界に向けてのこの言明は、日本国民全体の利益と福祉にかなうものと思います。
杉田 石破さんが閣議決定を伴う戦後80年談話を出すのに反対した政治家たちは、何を守ろうとしたのか。彼らは安倍70年談話の「あの戦争には何ら関わりのない先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」を、もう謝らなくていい宣言だと捉えていて、80年談話でこれを上書きされたくなかったようです。ドイツの哲学者ヤスパースは、戦争の罪には四つあると言っている。①刑事的な罪――戦犯が負う。後の世代は関係ない②政治的な罪――国民全体が負う。後の世代も継承する③道徳的な罪――戦争への加担あるいは傍観といった個人の行為に対して良心がその行為を裁く④形而上(けいじじょう)的な罪――災厄を引き起こす人間という存在そのものが抱える罪。戦後40年にあたる1985年、西ドイツのワイツゼッカー大統領はこの整理を踏まえ、①は後の世代は負えないとしつつ、「罪の有無、幼老いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」と罪を継承すると宣言した。ところが安倍談話は①だけをつまみ食いし、他の罪はないと言っているに等しい。今回、石破所感で、先の戦争に至る統治機構の不備という論点が出されたのは私も良かったと思いますが、安倍談話で無視されたままの、他の罪が気になります。
長谷部 ④を哲学者ハイデガーの言葉で言い換えると「負い目」です。それは否定のしようがない。なかったことにはできないし、それから解放されることもありません。「職業としての政治」を著したマックス・ウェーバーは、政治家は行為の結果に責任を負うという「責任倫理」を説いていますが、行為の結果が良かったか悪かったかの判断は結局、選挙に依拠するしかない。責任倫理を問われないためには選挙に勝って政権に居続けなければならないから、そのためなら公文書を改ざんするし、国会でうそをつく。安倍さん本人がどこまで指示したか知りませんが、そうやって安倍政治は維持されていました。自民党内にそのことへの反省はないし、企業献金も、旧統一教会の問題だって別に解決する必要はないじゃないかと、高市さんやその支援者はおそらく本気で思っている。ウェーバーが言う、悪い意味での職業政治家になってしまっています。
杉田 政治とは何かについては、大きく二つの考え方があり、一つはドイツの思想家カール・シュミットが述べたような、政治とは「戦争」であるという考え方です。最近は、世界にこのような政治観が蔓延(まんえん)しています。トランプ大統領はその典型で、政敵はもちろん、大学と闘い、さらには立憲主義を否定して裁判官とさえ闘う。外国人は皆、潜在的な敵として扱う。日本でも、その亜流のような政治家たちが人気を集めています。しかし、政治についてはもう一つ、多様な考え方を前提に、話し合いを通じて何とか合意して妥協するという考え方もあります。本来の保守とはそういうものだという考え方もありますが、石破さんを含めて、今はファイティングポーズをとらないと人気がないようです。
加藤 ファイティングポーズを取ること自体を否定はしませんが、立憲主義は守ってもらうことが最低条件です。立憲主義を破壊しておいて将来のビションを語ってもらっても何もなりませんから。
長谷部 政治とは可能性の芸術などと言われますが、現在の党派の枠を超えた想像力や構想力を取り戻し、停滞する日本政治を抜け出す方途を探るべきです。法の支配を守り、事実は事実として認めるといったミニマムな規律をもちろん維持した上でのことではありますが、単に税制や社会保障負担をいじるといったことを超えた、日本社会の大きな展望をやはり描いてもらわないと。
杉田 今後のことは予断を許しませんが、もしも一部野党との連立などで高市政権となれば、持続不可能な経済政策に加えて、この間の産業や学術の軍事化の流れが一層強まる心配があります。高市さんは「スパイ防止法」への意欲も繰り返し語っていますが、こうした法律がいったんできれば、報道機関や海外とつながりのある団体が根拠なくスパイ扱いされ、人権状況が悪化しうる。「戦争」としての政治観に一気にかじを切ることになりかねません。 Permalink | 記事への反応(2) | 08:48