はてなキーワード: まなざしとは
一押しはやっぱり「劇光仮面」
山口貴由による本作、山口作品では一番好き。それだけ一般向けである。現代日常を舞台に怪異を描き、それに対抗できるのは特撮オタクサークルだけというのを納得させてくれる物語構成。すごい好き
「住みにごり」は当初引きこもり兄貴への弟の恐怖を描いてたが、第二部となった今は兄貴の人間味と、狂った弟を描くきょうだい漫画となってる。こうした2面性を長々と描けるのが連載漫画のいいとこだよな
でやっぱり今年の新連載が大御所だらけですごい
奥浩哉の「還暦姫」は奥浩哉っぽい弱者男性へのいやらしさがこれでもかと描かれ、弱男の俺としても面白い
「医龍」「夏目アラタの結婚」の乃木坂太郎の「まなざし珠子の自由研究」は、最初なんだこれって思ったけど先が読めないサスペンスになってる
サスペンスならJKが母殺したカルト教団と戦う「KIKI KILL」は初回から引き込まれた
「進め!白鼻進」は戦前戦中の漫画家が主人公の歴史コメディで、はてなのインテリも面白く読めるぞ
他にもはてなでおなじみの「ラーメン西遊記」は鉄板だし、ほのぼの恋愛系や学生青春ものも幅広く揃ってる
他の週刊誌作家が隔週連載ばかりになる中、スペリオールは元から隔週発行だからこれらの漫画がいつでもだいたい載ってるのが嬉しいところ
なお、ぼんやりとしたTwitterにいるタイプの女オタクに向けた文章なので主語がデカいです。申し訳ない。
ぬい活を断った飲食店をめぐって、ぬい活に対してのヘイトが高まっている。正直、ぬいぐるみをずらずらと狭い店内で所狭しと並べて行っているのであれば、店舗側から苦言を呈されてもおかしくない。また、ぬいぐるみを汚損した等余計なトラブルを避けるために断るのも納得がいく。
一方でこれに端を発して、ぬい活をしている人に対して「キモイ」「頭がおかしい」などと心無い一言を浴びせる人が増えている。マナーを守っている人間に対して、やっかみをかけるのはいただけない。
ただ、一点気になったのは「ぬい活は何も悪いことをしていない」と、自分たちの「道徳性」を訴える反応が多かったということだ。
「キモイって言わないで」「ぬい活に文句を言う人のほうが意地悪!」
気持ちはわかる(かくいうわたしもぬい活をするオタクの一人である)ものの、一般人から見れば「変」な人ではあるだろう と思うからである。
それはかつて、アニメTシャツを着ていたオタクが見られていたまなざしと同じだ。プリキュアの映画を見ている大きなお友達と同じだ。
その「変さ」「キモさ」を自覚して生きる昔からのオタクの精神性を、受け継いでいるのかと思っていたが「自分たち気持ち悪いものとして扱うな!」と怒っているのだ。
この件でも思ったのだが、「正しい側」のポジションに自分がいることに固執するオタクが女オタクには非常に多いように感じる。
春泥先生の謝罪文についてもそうである。海外のオタクに指摘されたことは、「未成年に対するグルーミング描写」なのにもかかわらず、
「女性キャラの性的表現をしないこと」について釈明を行った。指摘されていることと、謝罪内容がかみ合っておらず「一見正しそうな位置」に立とうと頑張る仕草にしか見えない。
そもそも、BLは実在しない男性を多かれ少なかれ性的に見て楽しむコンテンツだ。また、性的マイノリティの人に向けた偏見も大いに含まれている。その「加害性」の一面を持っているのにも関わらず、一見「正しく」見える謝罪をすることは、はっきり言って浅はかとしか言い表せない。
また、「チェンソーマンのデンジくんの性欲は正しい性欲だからメロい」についてもそうだ。本編を見れば明らかだが、デンジ君は普通に胸を揉むし、性欲のために裏切るし、「正しい」男ではない。
別にデンジくんが正しくなくてもかわいいじゃん。かわいそうでかわいいじゃん。なんでそれを直接じゃなくて「女性にリスペクトがあって~正しい描写で~」という必要があるんだろうか。正しくなくても、正しいことをアピールしなくても好きでいいじゃないか。
同じように私が好きな男性向けコンテンツを腐す発言をする女オタクはかなり多かった。「こんな服着る女はいない」「童顔なのが気持ち悪い」「こんなの好きなの男だけ」などと言われた。ハッシュタグまで作って、自分の好きなものを否定された。「正しさ」を盾に他人の「好き」を攻撃する仕草をする人が多いのである。
自分の脳の中やフィクションの、実在する人間に影響しない「正しくなさ」を愛そうよ。「キモさ」を愛そうよ。正しい・正しく見えるポジションに固執して、自分の「正しくない欲」を嫌うのは修行僧みたいにメンタルが鍛えられている人しか難しいよ。
男オタクみたいに「俺たち変だろチキンレース」をしろって言ってるんじゃないんだよ。ただ、フィクションや自分の脳内の「正しくなさ」に向き合って、少しだけ愛してみようよ。誰かの迷惑をかけない「キモイこと」「正しくないこと」をほんの少しだけ受け入れてみようよ。
超かぐや姫
しかし、私は全くハマれなかった。
双方に共通するのは気合の入ったアクションシーンだ。神作画だなんだ言われているけど、私は正直動き回るキャラクターたちをみて「この人たち何やってんの?」と思ってしまった。
たしかに映像はすごかったよ。でも、展開的に必要性を感じられなかったというか、アクションシーンを入れるために脚本を捻じ曲げて無理矢理ぶちこんでいるように感じた。
ライブのためとはいえ、なんで迎え撃つ相手に有利なツクヨミ世界にわざわざ潜りこむんだよ、とかね。
かぐやとの別れという悲劇的なシーンのはずなのに、勝手に不利な世界に飛び込んでよく分からないゲームのシステムで戦って負けて、なぜか現実世界で消滅!涙のお別れ!ってされても全然のめり込めなかったよ。
最初にKASSENが最初に出てきたシーンもそう。ルールがよくわからないので何がどう熱い展開なのか雰囲気で「そういうもんだ」と受け入れるしかない。なんかキラキラ動いてなんか盛り上がってる~ぐらいの感想を抱いて終わる。そしてそのシステムを物語上重要な防衛戦に使っているから、なんでそれがかぐやを守るために使えているのか、どういう状況なら守れていることになるのかよくわからない。
終盤にヤチヨ明かされた情報をもとにヤチヨの心情を想像すると思うところはあるけれど、重要な転換点になる別れのシーンがコレだったので素直に感動できなかった。問題の解決も宣言して過程全カットだったし。
あとハッピーエンドにするって宣言してその場の雰囲気に流されて真っ先に諦めんなよ、かぐや。
そんで責務果たしたらあっさり戻ってこれんのかよ(だからこそ月に戻るの受け止めたのかもしれないけどさ)。
状況が状況とはいえ薙刀振り回すかね。まあこっちは薙刀が物語上重要なファクターになっている分まだ理解できる。
でも、その直後で千鶴の母親はどういう心境でバレエ見に来て温かいまなざし送ってるんだよ。面の厚さが怖いよ。
なんかいい感じに終わったけど終盤も終盤だったのでそれが引っかかってしまって、素直に楽しめなかった。
(この作品に関しては主演3人の演技がよくなかったのもある。驚き方とか笑い方がわざとらしくて最後まで慣れなかった)
ここまで行ってなんだけど、すべての映画でアクションシーン自体が不要とは思っていない。私も見ていて楽しいと思うし、記憶に残るし、わかりやすい宣伝要素にもなる。でもこの2作は脚本の大筋はよかったのにアクションを入れるために歪んだような部分が見受けられて、そこがノイズになってうまく楽しめなかった。特に超かぐや姫は明らかに尺が足りていない展開だったから余計に残念だったな。
アクションシーンを槍玉にあげてしまったけど、この2作品に関してはどちらも脚本の問題だね。
クィアのメディア批評には、どのような表象が生まれても最終的な批判の矛先が「シスヘテロ的欲望」に向けられるシスヘテロの悪魔化が定着しつつある。
問題の核心は、「性的すぎる」批判と「性的でなさすぎる」批判が、まったく逆の現象を対象にしながら、同一の犯人(シスヘテロ的まなざし)を指名する点にある。
アブデラティフ・ケシシュ監督の本作(2013)は、カンヌでパルム・ドールを受賞した一方で、レズビアンコミュニティから激しい批判を受けた。主な論点は、約10分に及ぶ性描写シーンが「実際のレズビアンの経験というより、ヘテロ男性のポルノグラフィー的ファンタジーに近い」というものであり 、監督の男性的なまなざしがレズビアンの身体を対象化・フェチ化しているという指摘だった。
原作コミックの作者であるジュル・マロ自身も、その性描写を「滑稽で過度」と批判した。これは正当な批評である。しかし注目すべきは、批判の着地点が常に「男性視線がレズビアニズムを搾取した」という一点に収束し、その他の解釈——たとえば監督の美学的選択、フランス映画の身体表現の伝統、あるいは原作との差異——がほとんど議論されないことだ。
一方、2018年のハリウッドメジャー初のゲイ主人公ティーン映画『Love, Simon』は、性描写をほぼ排除し、恋愛とカミングアウトの感情的側面を中心に据えた。だがこれもまた批判された——今度は「ストレートに受け入れやすくするため、クィアのセクシュアリティを無害化・消毒している」という理由で。
批評家のジェイコブ・トビアは、「男性的なゲイ男性は魅力的な主人公になれるが、フェミニン・ジェンダーノンコンフォーミングなゲイ男性はコメディリリーフに追いやられる」と指摘した。『Love, Simon』が「ホモノーマティビティ(heteronormative assumptions を内面化したゲイ規範性)」を再生産しているという分析は学術的にも支持されている 。しかしここでも「ストレートへの媚び」という説明図式が優先される。
| 表象の特徴 | 批判の内容 | 帰責先 |
|---|---|---|
| 性描写が露骨・長い | 男性の視線でレズビアンをフェチ化 | シスヘテロ男性の欲望 |
| 性描写がない・少ない | クィアのセクシュアリティを脱性化し、ストレート視聴者に媚びる | シスヘテロ社会への同化欲求 |
| 同性カップルを登場させる | 「キスがあるだけ」では不十分、中心的物語として描くべき | シスヘテロ的周縁化 |
この表が示すのは、結論(シスヘテロが悪い)が先にあり、証拠(表象の内容)が後から当てはめられるという推論の倒置だ。「非反証可能な命題」であり、いかなる反例も体制側の隠蔽として吸収できてしまう。
ハリウッドがクィアカップルを描く際の「ハードル上昇」も同様の論理で動いている。米ハリウッド系ケーブル局 Hallmark Channel は2019年、同性カップルのキスシーンを含む広告を一時撤回して批判を受けた。その後方針を転換し同性カップルを番組に登場させたが、今度は「単に登場させるだけでは足りない、物語の主軸として描くべきだ」という要求が生まれた。
注目すべきは、批判の基準が常に現状より一段上に設定され、達成されるたびに次の「不十分さ」が告発されるという無限後退の構造だ。この構造のもとでは、どれほど努力したコンテンツも必ず「ストレートの論理に回収されている」と断罪される余地が生まれる。このお決まりの展開が繰り返されたことに、クィアへの加害欲求など持たないのに敵視され続けたストレートたちは疲れ切っている。
クィアからの要求が累積・エスカレーションするにつれ、シスヘテロ側からの反発もまた組織化・激化してきた。重要なのはこの反発が均質ではなく、正当な批評的懸念・疲労感・政治的操作・むき出しの差別が入り混じった複合体であるという点だ。
最も象徴的な事例がDisneyとスター・ウォーズ・フランチャイズをめぐる論争だ。Disney+ の The Acolyte(2024)はレズビアン監督レスリー・ヘドランドによるスター・ウォーズ初の女性クリエイター主導作品だったが、低視聴率を理由にキャンセルされ、イーロン・マスクは「Go Woke, Go Broke(ウォークになれば潰れる)」と投稿して祝意を示した 。保守派ファン層から「LGBTQアジェンダを押しつけている」という批判が噴出し、あるアンケートでは米国人の52%超が「Disneyはファミリー向けエンタメへのLGBTQ+促進をやめるべきだ」と回答したとも報告されている。
2023年のバドライト=ディラン・マルバニー事件は、二重拘束の地獄を如実に示した事件だ。トランス女性インフルエンサーとのスポンサー契約への保守派ボイコットで、ABインベフの米国売上は10%超下落し、バドライトは20年以上守ってきた「米国最多販売ビール」の座を失った。Kid Rockはバドライトの箱を銃で撃つ動画を投稿し、フロリダ州知事ロン・デサンティスも公式批判した。
同時に、LGBTQ+コミュニティからもバドライトは批判された。今度は「マルバニーへの支持が不十分だった」「声明が曖昧」という理由で。企業がトランスインクルージョンに動けば保守派が離れ、クィア側は生ぬるいと批判する。ブランドは文字通り、どちらに動いても批判される二重拘束に陥った。
問題は、「同性愛の存在そのものへの(宗教的・生理的な)否定」という差別と、「政治的意図が作品の完成度を損なっている」という批判、「クィアをどう表現してもLGBTQ+コミュニティから"まだ足りない"と批判される」という消耗感、クィア側の言説がこの三類型を区別せず、すべてを「シスヘテロ的抑圧」として均質化する傾向があることだ。差別と、正当な美学的批評と、「要求の際限ない上昇に疲れた」という感覚をひとまとめにすることで、本来なら対話可能だった穏健層は「敵」に分類されてしまう。
要求がエスカレートし続け、かつどのような表象も必ず「不十分」か「間違っている」と判定される構造が固定化すると、実際に損するのはクィア当事者自身だ。
「シスヘテロが悪い」という枠組みへの依存は、結果としてクィア表象の場そのものを消耗させるリスクを持っている。DEIへの政治的逆風が強まる中、広告主はLGBTQ+メディアから撤退し始めており、「ゴールドラッシュは終わった」と編集者たちは述べている。この撤退が差別によるものか、要求の非現実的なエスカレーションへの疲労によるものか──個人的には後者の色が濃く──クィアは無駄に敵を増やす愚行で自滅したと私は感じている。そして確信しているのは、今後どれだけLGBTQ+メディアやコミュニティへの逆風が強まろうと、クィアが自分たちのやり方(シスヘテロの悪魔化、ダブルバインド、エスカレーション)が間違っていたのではないか、度が過ぎていたのでは、と反省する可能性は『ゼロ』だということである。悪いのは100%、"悪魔のようなシスヘテロのヘイターども"に決まっているのである。
風が、頁の端をそっとめくる
何かを削りながら進んだ影が
遠くで、揺れ続けている
手のひらには、逃げ場のない温度が残り
名を呼べば壊れてしまいそうな静けさの中で
一頁で終わる物語のような一日を
ほどけぬまま、何度も綴じ直している
それでも、誰かの痛みに手を添える夜
変わりゆく街の匂いの奥で
消えずに残る気配が、風にまぎれて息づき
どこかで、すべてを知るまなざしが
ただ在るままに、見守っているのなら
この小さな灯も――
消えずにいられるだろうかと、問いは風にほどけていく
腐女子界隈において、自浄作用が機能することは構造的に不可能です。
その理由は、問題を起こす個人の特殊なパーソナリティ、内部批判を意に介さない動物的性質に起因しています。
まず、界隈で問題行動を起こす層は、論理的な対話が不可能な特殊な性質、特に先天性の自閉的な性質を持っています。
外部に認知される腐女子は、自身の「逆カプ(好まないカップリング)を見て体調を崩した」といった極度に病的な投稿をしたり、
公式の男女カップリング展開を「同性愛嫌悪による悪意の捻じ曲げ」と決めつけたりする、こだわりと他責他害傾向の強い層です。
彼女たちは、単なる個人の好悪を「ジェンダー課題」や「まなざし」といった社会正義の言葉にすり替えて作者やファンに説教します。
このような層には、思い通りにならないと「癇癪」を起こすなど、典型的な自閉傾向が見て取れます。
こうした問題行動に対し、界隈内部から「自浄」を試みる動きはあっても、それは無駄に終わります。
彼女たちは「地位」で物事を判断する動物的な脳の持ち主であるため、穏健で理性的な注意をナメてかかり、一切聞き入れません。
界隈を良くしようと問題を指摘する同族に対し「名誉男性」とレッテルを貼り、集団でブロックや陰口を叩いて排除します。
これはカードゲーマーが「風呂に入れ」と注意されて「チン騎士」と逆ギレする構造と同じです。撮り鉄もキセルを注意されると逆ギレしますよね。
この層が己の非を理解する時は訪れません。大人しくなるのは、多人数(特に大量の男性)から口汚く罵倒され、恐怖を感じた時だけです。
言葉が通じない「熊」を射殺するほかないのと同じであり、論理ではなく物理的・精神的な「恐怖」による支配しか効果がありません。
外部から「自浄されていない」ように見えるのは、認知のバイアスも影響しています。
「かつら誤謬」とは、不自然なかつらだけを見て「すべてのかつらは偽物だと見破れる」と思い込むバイアスです。
他者の表現を攻撃せず、節度を守っている腐女子は、外部からその属性を認識されません。
結果として、「腐女子=界隈外に常に殴りかかっている異常者」というイメージだけが代表例として固定化されます。
成功した美容整形が「天然」だと思われるのと同様に、社会に馴染んでいる腐女子は「腐女子」としてカウントされないため、腐女子には異常者しかいないように見えてしまいます。
そもそも、「自浄」という概念自体が、下層階級にのみ押し付けられた不条理な要求です。
腐女子、撮り鉄、カードゲーマーなどは社会的な「被差別階級」と見なされており、一部の異常者の行動が「界隈全体の責任」にされます。
一方で、イラストレーターやスポーツ選手といった「上」の階級では、不祥事が起きても「個人の問題」として切断処理されます。
例えば、江口寿史氏が無断トレスを行ったうえにトンチンカンな他者批判を行っていても「これだからイラストレーターは」とはならず、
サッカー選手が強姦事件を起こしても「サッカー」や「スポーツ界全体」のイメージは失墜しません。
文京区で12歳が売春させられていても「さすが文京区」などとは言われません。足立区なら言われていました。これが階級です。
結論として、「言葉の通じない層が暴れ、まともな層は不可視」という構造がある以上、腐女子界隈における自浄作用は期待するだけ無駄であると言えます。
そして自浄が繰り返し求められることそのものが、腐女子、撮り鉄、カードゲーマーなどが「被差別階級(自閉傾向があり容姿が醜い人物が多い界隈ほどこの階級に置かれる可能性が高い)」であることの証明となっています。
女は戦争にいかなくていいし、24Hインフラ整備に駆り出されることもない、働かなくても男に寄生できるし股を開けば金がもらえる職もある(だから女は恵まれてるんだから文句言うな現状維持しとけ)みたいな主張する弱者男性らしき人が増えた気がする。
徴兵もされないしインフラ整備もしてないのに。そりゃあ今後徴兵されるとしたら男が主にされるだろけど、選ばれた特定の女性ではなく女性に生まれて普通に生きてるだけで日常生活で性的なまなざし、ジェンダーロールの押し付け、ケア労働、子産み機械、セクハラ、性被害に遭う可能性があり実際に遭っているこっちからすると、徴兵とかインフラとか選ばれた人しか従事しなくていい分野を持ち出さないとこちらの現実味ある材料には太刀打ちできないのか・・って思う。
女が痴漢、ナンパ、性加害など一方的に侵食されおびやかされ恐怖を感じている時、男はお店に入れてもらえない、女の子に触れない、優しくしてもらえない、男に1人女をあてがうべきだと怒っている。なにこの不均衡。
アイスホッケーのマスメディアの略称はNHK含めて「アイホ」で一致しているが、スポニチと十勝毎日新聞だけ「アイホケ」なのが面白い
◇アイホ女子スマイルジャパン “孫”を見つめるまなざし | NHKニュース | ミラノ・コルティナ オリンピック、フィギュアスケート、スピードスケート
https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015057861000#:~:text=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9B
【アイホケ】米国が先制点!46年ぶり金メダルへ 10度目頂点目指すカナダは反撃なるか 男子決勝 - スポニチ Sponichi Annex スポーツ
アイホケジャパンセレクトでカナダ遠征へ | 十勝毎日新聞電子版-Tokachi Mainichi News Web
https://kachimai.jp/article/index.php?no=625424#:~:text=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9B%E3%82%B1
三音で止めるか、四音にするか
なぜそこで「ケ」を足すのか
部屋の隅で、まだ湯気の立つ急須をそっと置き、
何気なく回しておく。
満員電車の中、吊り革につかまったまま、
読まないように視線を少しだけぼかす。
見ようと思えば読める距離なのに、
「知らない」という礼儀を選ぶ。
知らないふりをして、その人の一日が、
少しだけ守られる気がするから。
誰にも褒められないまなざしのそらし方に、
静かな自尊心が宿る。
細やかな思いやりの一つだろう。
その問いは時に、
「もし、あとでしんどくなったら言ってね」
と一度だけ言い、後は黙って隣に座っている。
その沈黙の中で、
余白をあけておく。
平安の女房たちが、
言いすぎない言葉を贈ったように。
細やかな気遣いとは、
気づいたことをすべて手当てすることではなく、
「ここはあえて触れない」
その人のかたちとしてそっと受け入れる。
そのうえで、
カップの向きを直し、
視線をそらし、
一度だけ声をかける。
誰の名にも残らない、
ようやく気遣いと呼ばれてきた何かの、
ほんとうの正体なのだと思う。
画像のテキストは、ある本のページからの抜粋で、サルトルの哲学を引用・解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキストを自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像のテキスト順に沿って進めます。サルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Être et le Néant, 1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由の関係を議論した箇所です。画像のテキストはサルトルのアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。
#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人の人生を凝視している間は、自分の人生を生きていないということになります。」
#### 2. 「フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」
#### 3. 「『憂鬱とは、他人の人生を凝視しすぎた結果である。解決策は、他人の人生を凝視しないことだ。』」
#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」
#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分が飛び降りる自由を持っていることを認識したからだ。」
#### 7. 「つまり、他人の人生を凝視しすぎると、自分の自由を直視できなくなり、憂鬱になる。」
#### 8. 「だから、他人の人生を凝視せず、自分の人生を生きろ、というわけです。」
#### 9. 「本当の成功者たちは、そんな他人の人生なんて気にしない。自分の人生を全力で生きている。だから、憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」
全体として、このテキストはサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人の凝視」という独自の解釈を加えており、原典から大きく逸脱しています。サルトルの本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈が自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。
火の匂いが、風に乗って流れてきた瞬間、胸の奥が締めつけられた。赤く揺れる炎の前で、縛られた中村は唇をかみ、何かを言おうとしていた。だが声はもう、群衆のざわめきにかき消されている。
「やめろ!」
主人公の叫びは、自分でも驚くほどかすれていた。喉が裂けそうになるまで声を張り上げても、誰一人としてこちらを振り返らない。人々の目は、炎だけを見ていた。正義だとか、罰だとか、そういう言葉が空気を満たしていたが、そのどれもが空虚に思えた。
中村と初めて会った日のことが、なぜか鮮明によみがえる。取り立てて立派でも、悪人でもない、どこにでもいる男だった。ただ流され、選択を誤り、ここに立たされている。それだけのことだったはずだ。
火が近づくにつれ、中村の表情から恐怖が消え、代わりに諦めに似た静けさが宿った。その目が一瞬、主人公を捉える。責めるでも、助けを乞うでもない。ただ「見ているか」と問いかけるような、奇妙なまなざしだった。
「やめろ、まだ話せる、まだ——」
言葉は最後まで届かなかった。炎が大きくうねり、視界を覆う。熱に押し返され、一歩後ずさる。群衆の歓声とも悲鳴ともつかぬ声が重なり、世界が遠のいていく。
やがて火は静まり、そこには黒く焦げた柱だけが残った。中村の姿は、もうどこにもない。主人公は膝に手をつき、荒い息をついた。叫んだ事実だけが、胸の中で虚しく反響していた。
正しかったのは誰だったのか。間違っていたのは誰だったのか。その答えを知る者は、炎と共に消えてしまった。ただ一つ確かなのは、「やめろ」と叫んだ声が、二度と過去を変えることはない、ということだけだった。
そして、相変わらず特にやることがない いい歳をして恥ずかしい限りである
読みかけの小説を片付けるのもいいが、平日の隙間時間に出来ることを休日にやるのもな・・・・
なので美術館に行くことにする。徒歩で。
出かけるのを決めたのは良いが、なかなか億劫だ。トロトロと支度をする
古い日記を歌ってた中学生、良かったな エレカシの大学生も良かったぞ。彼は不合格だったみたいだけど
推理小説の書評が載っていた タイトルはダサいと思ったが、内容は面白そうだ
いつか読むかもしれない。いや、多分読まない
このコンビニは雑誌類が充実しているので、末永く続いて欲しい。
ニュートンとかここでしか読んだことない。パラパラめくる程度だけど
だいたいは親子連れとかが遊んでいるが、今日は誰も居なかった。
せっかくなので、鉄棒で懸垂をしてみる。
割と本気を出してみたが、一度も顎まで体を持ち上げることが出来なかった。中学生の頃から変わっていない
悔しかったが、無理をしたら腕を痛めそうなので諦める。
そもそも自分の年代で、適正な懸垂の回数っていくつなんだ?0回で正解の可能性も無きにしも非ず
こちらは結構、賑わっていた 凧揚げしてる人を久々に観た気がする
広場の奥では、七五三なのか、ウェディングフォトなのかよくわからんが、
盛装した夫婦とお子さんが、プロっぽい人たちに写真を撮られていた
2人の会話が聞こえてきたが、旦那さんの相槌があまりにやる気が無くて面白かった
1400円って高ぇな、といまだに思っている
が、物価が何もかも値上がりしているのに今のところ据え置きであることを考えると、
実質値下げしてくれているのかもしれない。今のところはだけど。
企画展は「中村宏展 アナクロニズム(時代錯誤)のその先へ」らしい。
入場して早々に、かなり後悔する。
やたらと暗く、陰鬱な画が並んでいる。辛い。
おい、中吊り広告のポスターと大分印象が違うぞ。騙しやがったな
奥をチラ見すると、多少は明るい色調が見えていたので変わってくると信じて観ていく
解説を読むと、ルポルタージュがどうのこうので、文学の手法を絵画に応用したとかどうとか。
うん、興味ない。つまらん。
「いっそ、便器がいくつ出てくるか数えてみようか」と頭を過ったが、辛すぎるのでやめておく
「お、ようやく陰鬱な画が終わるのか?」と思ったが、描かれているのは真っ赤な便器だった。
解説の文章に「セーラー服と蒸気機関車」みたいな文言があって、明らかに「セーラー服と機関銃」を意識してるよな・・・・と思ったが、どうなのだろう
しかし、こいつはまともに人物を描きやがらねぇ 一つ目だったり、首が伸びたり。何なんだ
セーラー服のマネキンが現れたのはちょっと面白かった。絵画じゃなくて、立体のマネキンが絵を眺める構図で置いてある。
あのマネキン、目元に何か文字が書かれていたんだけど、双眼鏡を装着しているせいで何が書かれているのかわからなかった。気になる。
それと覚えているのは、漫画やら動画やらの表現を取り入れた作品だったか。
ズームを表した連作?は時間も経過しているのかと間違い探しをしてみたが見つからなかった。つまんねぇぞヒロシ
途中、土方巽とやらの舞台の映像があったけど、退屈というか不快だったのでチラ見して通り過ぎる
ヒロシの作品は観終わったので、もう一つのおまけの企画展?を見ていく
デカくてカラフルで、ヒロシとは対照的なヤツが多かった気がする
なんか観たことあるなーと思ったやつは、石田徹也なる人の奴だった
ついでに常設展の地獄の門を観に行く。何度も観ているので通り過ぎるだけ。
掲示を観てみると、何やらVtuberが絡んだイベントなのか、音声解説なのかをやってるらしい。その関係か?
よし、満足した。帰ろう。
絶筆がどうのこうのと言っている。死にそうなのか?ヒロシ。元気そうだし、もっと頑張れよ。
たい焼きを買いたくなるが、我慢する。代わりに、スーパーで今川焼を買おう。
――つまるところ治安維持法は、なぜ日本社会であれほどの猛威をふるったのでしょうか。
「猛威の震源にあったのは国体の存在だと思います。()当局は、天皇中心の国を壊そうとする『不逞(ふてい)の輩(やから)』がいたとする負のレッテル貼りをし、新聞も扇動的に報じました。その結果、国体変革を図った者への最高刑はその年、死刑に引きあげられています」
「拷問による取り調べの印象が強い治安維持法ですが、実は国内で特高警察に検挙されたうちの約9割は、警察限りで放免となっていました。それでもその多くは『非国民だ』という排除のまなざしを向けられて、退学や退職を迫られたり地域で白眼視されたりしています」
「つまり、権力による処罰とは別に、世間を舞台にした道義的・倫理的な観点からの『社会的制裁』が機能していたのです。非国民との認定を受けた人を周囲の国民が誰に命令をされたわけでもないのに排除していく。国体が生み出すこの魔力を、当時の治安関係者は『強制的道徳律』と呼んで、効率的な治安管理に利用しました」
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「スパイの問題を考えるならば、神谷氏が松山市で参院選中におこなった別の演説にも目を向けるべきです。日本の公務員を念頭に、極左の考え方を持った人たちが社会の中枢にがっぷり入っているので洗い出して辞めてもらわないといけない、と述べました。『これを洗い出すのがスパイ防止法です』とも」
――スパイ対策は、外国人だけを取り締まるものではないのですね。
「ええ。たとえば戦前の日本にあった代表的なスパイ防止法は、明治期に作られた軍機保護法でした。近づく日露間の戦争を前に、軍事機密の流出を防ぐ目的で制定されました」
――日露戦争下のそうした熱狂的なスパイ問題への関心は戦争終了後には実は低下していた、と指摘していますね。
「摘発の件数が減り、議会では軍機保護法を廃止しようという議論まで起きました。息を吹き返したのは、次の戦争が始まったときです。37年に日中戦争が始まった直後、軍機保護法は全面改正されました」
「日本はスパイ天国だとアピールする当局の情報操作もあり、最高刑が死刑に引き上げられる厳罰化が実現しました。何が守られるべき機密にあたるのかを決める政府の裁量も広げられ、報道機関の取材にも一層の萎縮をもたらしています」
「国民から見れば、どの情報が軍事機密であるのか、何がスパイ行為に問われるのかが、より見えにくくなりました。摘発されてしまうことを恐れ、戦争や軍事に関することは見ないでおこう/触れないでおこう/話さないでおこうという姿勢が広がりました。軍機保護法は、有権者が現実を直視しなくなる結果も生みだしたのです」
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――日本の政界では今、参政党だけではなく、国民民主党や日本維新の会もスパイ防止法の制定に前向きな姿勢を示しています。自民党総裁に先日なった高市早苗氏も、総裁選で同法制定の必要性を訴えました。
「スパイ活動防止を目的の一つにした特定秘密保護法が2014年に施行され、経済分野での機密保全も確保するための関連法も昨年すでに成立しています。高市氏を中心にした自民党メンバーが今年5月に提言した、『諸外国と同水準のスパイ防止法』の導入検討を求める提言書も読んでみましたが、このうえなぜスパイ防止法が必要なのかは理解できませんでした」
はじめに:その「尊さ」に馴染めない
男性キャラクター同士の関係性(ブロマンス、BL、あるいは悪友関係)を消費する際、よく使われる言葉がある。
彼らが必死にプライドを賭けて戦ったり、くだらないことでマウンティングし合ったり、性欲や嫉妬でぐちゃぐちゃになっている姿を見て、私が抱く感情は「尊い(崇拝)」ではない。
「こいつら人間のくせにめちゃめちゃ動物ムーブしてる! わかりやすい! 単純! よしよし、愚かでかわいいね」
これは動物園の柵の外から、じゃれ合う動物たちの生態を眺めている時の感覚に酷似している。
本稿は、この「ホモソーシャルを動物の生態として檻の外から観察する快楽」について、あえて露悪的に、しかし大真面目に言語化する試みである。
これまでの議論において、女性が男性同士の関係を好む理由は、大きく二つの派閥で説明されてきた。
【聖域(サンクチュアリ)派】
「彼らの絆は美しい」。現実のしがらみから切り離された、高潔で純粋な魂の交流への憧れ。
【憑依(同一化)派】
「彼らのようになりたい」。女性という役割を脱ぎ捨て、自由な少年たちの世界に自分を重ね合わせる没入感。
私が提唱したいのは、このどちらでもない第三の視点――【ホモソーシャル動物園の鑑賞者派】だ。
ここにあるのは、徹底した「他者化」だ。
彼らは私とは異なる原理(本能・序列・性衝動)で動く「霊長類ヒト科のオス」であり、私はそれを檻の外の安全圏から一方的に鑑賞する「観察者」である。
崇めもしない、なりたくもない。ただ「面白い生態」として愛でたいのだ。
2. 「愚かかわいい」という無害化処理
なぜ私は、彼らが高潔な騎士道精神を発揮する場面よりも、本能丸出しで自爆する場面に「萌え」を感じるのか。
それは、男性性が「動物的な愚かさ」へと還元された瞬間、彼らが「無害化」されるからだ。
現実社会において、男性の「権力性」「暴力性」「性衝動」は、女性にとってしばしば恐怖や抑圧の対象となる。
しかしフィクションの中で、彼らの行動原理を「理性」から「本能」へと引きずり下ろして解釈した瞬間、意味合いは反転する。
・社会的な面子やプライド → 「群れの中での威嚇ディスプレイ」
脅威だったはずの牙や爪は、現実から切り離されたガラス越しの展示物となる。
このハック(認識の書き換え)こそが、私が彼らを愛でるための生存戦略なのだ。
社会学者の上野千鶴子氏らが指摘するように、歴史的に「見る/見られる」という構造には権力が宿る。
これまでは常に、男が「見る主体」であり、女は「見られる客体」として値踏みされてきた。
私のホモソ萌えは、この構造に対する精神的なリベンジ(復讐)の側面を持つ。
フィクションという檻の中に男性たちを閉じ込め、彼らの尊厳や理性を剥ぎ取り、「愚かかわいい動物」というコードに変換して消費する。
私は、現実では得られない「圧倒的な優位者としての視線」を貪っているのだ。
「男ってなんか社会の権力握って偉そうにしてるけど、やってることは動物じゃん! かわいいね!」
しかし、この権力勾配の逆転はあくまでも見せかけのものであり、実際の構造を変えることにはなんら寄与しない。ただの溜飲下げであり、ガス抜きである。
つまり、これは男性優位社会の中で私たち女性が精神的にサバイブするための、ひとつの生存戦略なのである。
ここまでの話を聞くと、「なんと傲慢で、男性を蔑視した見方だろう」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
私は決して、独自の偏見で彼らを動物扱いしているわけではない。
むしろ、この社会(男性社会)が発信している価値観を、誰よりも「素直」に受け入れた結果なのだ。
男性たちはしばしば、自らの加害性や未熟さを正当化するために、こう弁解する。
「男なんてバカな生き物だから」「本能には逆らえないから」「男には闘争本能があるから」。
私はその言葉を、一切の疑いを持たずに、文字通り「真に受けて」いるだけだ。
「なるほど、あなた達は理性的な人間ではなく、本能で動く動物なんですね。わかりました」
彼らが「免罪符」として使う「男ってバカだから(笑)」という内輪の甘えを、私たちは「男はバカだからしょうがないね(笑)」と許してやるのではなく、肯定する。
真に受けたうえで、あくまで許さず、肯定し、そのうえで「かわいい」と消費するのだ。
「そう! あなた達の言う通り! だからキャンキャン吠えて威嚇し合ってるんだね! かわいい!」
むしろ「過剰な肯定」によって、そのグロテスクさと滑稽さを暴き出す、鏡合わせの愛なのだ。
私たち「ホモソーシャル動物園の鑑賞者」は、家父長制的な価値観を内面化しているがゆえにホモソーシャルに対して「愚かかわいい」という感情を抱いてしまう哀しきモンスターなのである。
おわりに
誤解のないように言っておくが、私は彼らを嫌っているわけではない。むしろ、このフィルターを通すことでしか、これほど深く男性キャラを愛せなかっただろう。
彼らが「人間としての高潔さ」や「男としての威厳」という着ぐるみを着て、必死に人間ごっこをしている姿。
その隙間から、隠しきれない「動物的本能」がチラリと見えた瞬間、私はどうしようもない愛おしさを感じる。
この「ホモソ動物園」の開園時間だけは、私たちは安全な柵の外から、愛を込めて彼らを「愚かだねえ」と笑い飛ばすことができるのだ。
(※本稿は特定のファン心理の分析であり、すべての作品やファンにあてはまるものではありません)