ニコニコ大百科に黒死館殺人事件の記事があるのに小栗虫太郎 の記事が出来なかったので、そろそろ記事作成の噂が立ち始めた頃、大百科の編集者は、小栗虫太郎の記事作成を放棄しなければならなくなった。と云うのは、九十年の昔から晦渋としていて、『狂人の解放治療 』以来の奇書と云われる『黒死館殺人事件』の文体を模倣しなければならなかったからであった。その、通称三大奇書と呼ばれる『黒死館』には、いつか必ずこういう読み難 い記事が作られずにはいまいと噂されていた。勿論そういう記事を作成するについては、日本探偵小説 史にただ一つしかないと云われる虫太郎の文体が、明らかに重大な理由の一つとなっているのだった。その難解を極めた衒学趣味 を京極夏彦等で見慣れた今日でさえも、頁を埋める文字の量とドイツ語のルビからくる奇異 な感覚――まるで自分が何を読んでいるのかもわからぬような感じは、いつになっても変らないのである。けれども、令和六年記事作成当初に、本項作成者をしてこの記事の点睛に竜宮の乙姫を描かせたほどの綺びやかな文体は、その後分量の増えるとともに薄らいでしまった。今日では、記事も編集者も、そういう晦渋な文体の模倣ではなくなっているのだ。ちょうど天然の変色が、荒れ寂びれた斑を作りながら石面を蝕んでゆくように、いつとはなく、この記事を包みはじめた狭霧のようなものがあった。そうして、やがては記事全体を難読な長文の塊としか見せなくなったのであるが、その妖気のようなものと云うのは、実を云うと、記事の内部に積り重なっていった文字の数々にあったので、勿論あの虫太郎文体を模したと云われる、記事の分量ではなかったのだ。事実、記事作成以来三度にわたって、怪奇な文章の連鎖を思わせる意味不明の長文があり、それに加えて、本項作成者以外の文章の中に、門外不出の衒学四重奏団 を形成している四人の編集者がいて、その人達が、初版の頃から四年もの永い間、編集画面から外へは一歩も出ずにいると云ったら……、そういう伝え聞きの尾に鰭 が附いて、それがこの記事の本体の前で、鉛色をした蒸気の壁のように立ちはだかってしまうのだった。まったく、編集者も記事も腐朽しきっていて、それが大きな癌 のような形で覗かれたのかもしれない。それであるからして、そういったニコニコ大百科上珍重すべき記事を、編集学の見地から見たとすれば、あるいは奇妙な形をした蕈 のように見えもするだろうし、また、故人小栗虫太郎先生の神秘的な性格から推して、現在の異様な記事内容を考えると、今度は不気味なクソ記事のようにも思われてくるのだった。勿論それ等のどの一つも、臆測が生んだ幻視にすぎないのであろうが、その中にただ一つだけ、今にも秘密の調和を破るものがありそうな、妙に不安定な空気のあることだけは確かだった。その悪疫のような空気は、令和某年に第二の編集事件が起った折から萌 しはじめたもので、それが、十月ほど前に編集者が奇怪な自演を遂げてからというものは――後継編集者がいないのと、また一つには支柱を失ったという観念も手伝ったのであろう――いっそう大きな亀裂になったかのように思われてきた。そして、もし人間の心の中に悪魔が住んでいるものだとしたら、その亀裂の中から、残った人達を編集の底に引き摺り込んででもゆきそうな――思いもつかぬ自壊作用が起りそうな怖れを、世の人達はしだいに濃く感じはじめてきた。けれども、予測に反して、小栗虫太郎の記事の掲示板には沼気ほどの泡一つ立たなかったのだが、恐らくそれと云うのも、その瘴気 のような空気が、未だ飽和点に達しなかったからであろうか。否、その時すでに掲示板では、静穏な記事とは反対に、暗黒の地下流に注ぐ大きな瀑布が始まっていたのだ。そして、その間に鬱積していったものが、突如凄じく吹きしく嵐と化して、編集者の一人一人に編集権を停めてゆこうとした。しかも、その事件には驚くべき深さと神秘とがあって、ニコニコ大百科はそれがために、狡智きわまるサイバー攻撃以外にも、すでにニコニコの世界から去っている人々とも闘わねばならなかったのである。ところで、記事の開幕に当って、編集者は自身の手許に集められている、黒死館についての驚くべき調査資料のことを記さねばならない。それは、中世楽器や福音書写本、それに古代時計に関する虫太郎の偏奇な趣味が端緒となったものであるが、その――恐らく外部からは手を尽し得る限りと思われる集成には、読者が思わず嘆声を発し、唖然となったのも無理ではなかった。しかも、その痩身的な努力をみても、すでに虫太郎自身が、水底の轟 に耳を傾けていた一人だったことは、明らかであると思う。
日本探偵小説三大奇書のひとつ、『黒死館殺人事件』の作者として知られる。
1901年3月14日、東京生まれ。京華中学校卒業後、数年の会社勤めを経て、1922年に亡父の遺産を元手に印刷所を設立。その頃から特に発表のあてもないまま探偵小説を書き始める。1926年に印刷所が閉鎖になってからは、父の骨董類を売って食いつないだ。
1933年、甲賀三郎の推薦を得て「完全犯罪」を雑誌「新青年」に持ち込む。折しも横溝正史が結核で予定していた原稿が書けなくなったため、その代理原稿として同作が「新青年」7月号に掲載され作家デビュー。舞台が外国で日本人が全く登場しないという内容やその文体から、翻訳だと誤解されたり、大家の変名だと思われたりしたそうな。
1934年、『黒死館殺人事件』を「新青年」4月号から12月号に連載。1935年に新潮社から単行本化された。1936年には第4回直木賞候補になっている(具体的にどの作品で候補になったのかは不明だが、「二十世紀鉄仮面」ではないかと推定されている)。
その後、戦時体制下で探偵小説への締め付けが厳しくなったこともあり、『人外魔境』などの秘境冒険小説が作品の中心となる。1941年には陸軍報道班員としてマレーに赴任したが、軍国主義には迎合することなく、ヒトラー嫌いでも有名であった。
終戦後、長編『悪霊』の執筆に取りかかったが、その矢先に45歳で急死。死因については長らくメチルアルコール中毒と言われていたが、遺族によれば脳溢血だったとのこと。横溝は小栗の急死を受けて、「完全犯罪」での穴埋めの礼として『悪霊』が連載される予定だった雑誌「ロック」に『蝶々殺人事件』を連載している。
没後はしばらく、『黒死館殺人事件』の難解さが探偵小説マニアの間で語り草となる程度で世間的には忘れられた作家になっていたが、1968年、桃源社が戦前の伝奇小説の再評価を目論んだ「大ロマンの復活」シリーズの1冊として『人外魔境』を刊行。これ以降、網羅的な作品集が刊行されるなど再評価が進み、『黒死館殺人事件』が『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』とともに「三大奇書」と規定されたこともあって、戦前の探偵小説を代表する作家のひとりとしての知名度を獲得するに至っている。
本記事冒頭の長文は『黒死館殺人事件』の書き出し部分の改変であるが、難読漢字とルビを駆使した晦渋極まる文体で、探偵小説としては現実には到底実行不可能なトンデモトリックを繰り出し、いったいどこから蒐集したのかわからない膨大な知識(相当量のウソ知識を含む)に基づいた衒学趣味で読者を煙に巻くその作風は、生前から賛否両論の極みにあった。たとえばこれは坂口安吾の評。
その次に、日本の探偵小説は衒学すぎるところがある。ヴァン・ダインの悪影響かと思うが、死んだ小栗虫太郎氏などゝなると、探偵小説本来の素材が貧困で、それを衒学でごまかす、こういう衒学は知性のあべこべのもので、実際は文化的貧困を表明しているものなのである。世間一般にあることだが、独学者に限って語学の知識をひけらかしたがるが、語学などは全然学問でも知識でもなく、語学を通して読まれたテキストの内容だけが学問なのだが、一般に探偵小説界は、まだ知識の語学時代に見うけられる。
しかしこの特異な文体と作風が熱烈な支持者を生んだのもまた事実で、戦地に『黒死館殺人事件』1冊を持ち込んだ兵士もいたとか。60年代末からの再評価も、澁澤龍彦などの支持者の力によるところが大きい。実際、この文体だからこそあのトンデモトリックの数々を「そうはならんやろ」ではなく「そうかな……そうかも……」と受け入れられるような気もする。読み通すのも難儀な作風ではあるが、日本のミステリー史を学ぶ上では避けて通れない作家であることも間違いない。
ちなみに全作品がこんな作風というわけではなく、探偵小説以外では平易な文体で書かれた作品もある。
入門には『黒死館殺人事件』に「完全犯罪」など短編4編を併録した創元推理文庫の『日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集』あたりがオススメ。もうちょっと普通に面白い『人外魔境』あたりでも可。青空文庫で作品の一部(『黒死館殺人事件』を含む)が公開されているので、そちらで試し読みしてみるのもいいだろう。
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掲示板
1 ななしのよっしん
2024/09/05(木) 23:55:09 ID: qSZ1xQkma3
実はいくつかの短編には百合趣味が感じられ、また短編「紅毛傾城」では緑髪のヒロインが登場する(しかも初登場時は全裸)
中編「青い鷺」のヒロイン根々が「黒死館」では考えられないような生き生きしたキャラで大好き
あと超イケメン
2 ななしのよっしん
2024/09/06(金) 12:08:35 ID: NI9R68VsKL
こういう莫大な語彙・知識による修飾が売りの作風って、多くの限界を抱える人間ひとりがやってのけるとカリスマ的な魅力がある分、現代の生成AIだと再現が簡単なタイプなのかなとも思ったりする
(本家からしてハルシネーションも欠点にならないし)
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最終更新:2025/01/09(木) 08:00
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
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