はてなキーワード: 食糧生産とは
山が邪魔とのご意見です。以前、中国にもそういうことを言った人がいましたよ。名を愚公といい、自宅近くの山の岩を切り崩しては他所へ移していました。
さて、食糧生産について触れられていますね。食料が増えれば争いはなくなる、または、減るという意見です。このような意見は古来から多くあります。
あまりに切実ですから叶えてやったこともありますが、その結果争いが減ったかというと、なるほど食料が増えた直後は争いは減ることもあります。しかしやがて、どういうわけかきまってまた、食料が足りない、腹が減った、他から奪うしかないと始まるのです。これは私にとっても苦々しい記憶です。
ヒマラヤ山脈を消滅または縮小または移動すれば食料問題、ひいては紛争全体が解決するという意見は、私の経験に照らして考えますと、浅慮と言わざるをえません。争いの根源というのは、飢えとは別に存在し、しかもその全貌は計り知れぬ深いものであると考えられます。したがって、残念ながら今回のヒマラヤ山脈に関する願いを却下いたしました。この決定が覆ることはありません。
頭書で触れた愚公の山ですが、現在はセメント工業の礎として価値が見出されているようです。このように、一見して邪魔なものが、後に意外な価値をもつことは往々にしてあるものです。何かの手がかりになればと思い、思い出話をいたしました。
では、安全に気をつけて。
いつの時代も世界人口の一位が中国、二位がインド(メキシコの時代もあるけど、世界と繋がってないのであえて無視)、それからエジプト。
その経済大国との交易はインド洋貿易とシルクロード、地中海貿易。シリアとアフガニスタンを抑えたものが覇者。
食糧生産は今もバルカン北部からウクライナらへんがヨーロッパを支えてる。そこらを抑えてたトルコイランは常に強い。西ヨーロッパの食料生産効率なんか、砂漠気候のメソポタミアにも遠く及ばなかった。寒い上に種を撒くときに土をかけないから出芽しないとかいう笑い話を1000年以上。
自分が見える範囲、人類の仕事のかなりは、ホントに意味あるんかな?っていうものに見える。
合意形成のために、あんなに時間を使って意味があるんだろうか。
今に始まったわけじゃなく、ずっと昔、今大河の舞台になってる平安時代の頃だって、今より不便だったのに、祈祷やら占いやら呪いやらで大忙し、侍ること、気の利いたことを言うこと、それが特級の仕事だった。
全く生産性がない仕事に思えるけれど、今だってかわりゃしない。占いや祈祷で合意形成ができたように、選挙や議論でみんなの合意が得られるから、そのために時間とお金が使われる。
全くもって不毛だ。
食糧生産が生態系サービスと密接に結びついていることと食べることが好きな人が生態系の保全に興味あることは全く別の話というかむしろ相反さえするよね
土地の生態系が豊かじゃないと魚も育たないし農作物も育てることができなくなる
食糧生産は漁業も農業も生態系サービスと密接に結びついているというのは常識
頭が悪い民度の低い教養が足りてない日本人にはこの2つが結びつかないんですねって言ってるんだよね
もともと核融合は、地球人類史における最後の聖杯みたいなところがある。
人類は実用的なエネルギー源としてまだ化石燃料(ウラン含む)・日射(太陽光・太陽熱・副次効果としての風力含む)・地熱・潮汐力以外を手にしてない。化石系は量的制約があり(ウランですら170年で枯渇すると言われている)、その他の再エネ系は環境要因(たとえば周期的な日射量減少)で利用困難になる。
その点、DT燃料ベースの核融合は、資源量的には約1千万年分の恒久的エネルギー源になる。だから、核融合発電が実用化できたら、人類の生存上の課題(エネルギー・食糧・環境)の多くは解決してしまう。食糧生産もエネルギーを投入すればよいし、環境問題もエネルギーを使って対応すればよい(温暖化期はCO2を分解すればいいし、氷期には熱やGNGを作ればいい)。これらの問題が解決できると、その先には遂にテラフォーミングと宇宙植民というマイルストーンが見えてくる。人類は地球環境変動を経た後も次のステージでゲームプレイを続け、ネゲントロピーを維持することができる。
逆に実用化できなかったら、人類は次の氷期(ミランコビッチ・サイクルで5万年後)にはエネルギーと食糧の不足によって滅亡するか、それに近い状態まで衰退する。ウラン含む化石燃料や各種資源が枯渇し、日射量が低下した状況で、地熱と潮汐力だけでできることには限界がある。限られたリソースはすべて種の生存に振り向けるしかなくなり、人類の次のステージ=宇宙植民への道は閉ざされる。
核融合をモノにすれば、種としての持続可能性が飛躍的に高まり、モノにできなければ、冷える地球に留まり続けた後に存続を終える。核融合ができるかどうかが人類の命運を分ける。そういう意味での聖杯。シムシティでもそういう位置づけだった。
だから人類という種の未来のことを考えはじめた、エネルギー保存則を理解できる程度には賢い人間は、必然的に核融合の問題に行きつく。AI研究者やテック企業のリーダーが核融合の話をする。老境にさしかかり、死と自分が残せるレガシーについて思いをめぐらす政治家たちも核融合の話をする。資本主義を徹底した先に人類の新たな時代が来ると信じる加速主義者も核融合の話をする。個体としての人間の有限性を認めつつ、種としての人類を生き長らえさせることに希望を見出す人間たちみんなが、この聖杯を追い求めている。
今の核融合ブームは、何か抜本的な技術進歩があって実現性が一気に高まったからというよりも、上のような人達が「人類がこのステージをクリアしてプレイを延長するためには、核融合カードを入手するしかない」という冷徹な事実に気づいた結果であり、その意味では、人間という高等生物なりの叫びと祈りなんだろうなと思う。
ショッピングモールの女性用下着売り場を通り過ぎるたびに思うことがある。街ゆく女の子たちのスカートの中は、こんなにもエッチなパンティー姿なのだろうか? 生地が薄くて素肌が透けて見えそうではないか。こんなエッチな下着を上下揃えて着る必要があるのは、せいぜい風俗営業などでプロの女の子だけだろう。アマチュア(?)の女の子にエッチな下着を着用する必要はないはずだ。
一方、男の私は、黒系統の地味な色の厚手のボクサーブリーフを履くことが多い。しかし、男女それぞれの生殖器の機能を考えるならば、逆であるべきだ。すなわち、下腹部を冷やしてはならない女こそが、厚手のボクサーブリーフを履くべきなのだ。それも、生理やおりもので汚れが目立たないように、色は黒系統がいいだろう。それとは逆に、男こそが男性器(睾丸)の冷却のために、通気性の良い薄手のパンティーを履くべきだ。ただし、男が女性用パンティーを履くべきということではない。女の子が胸の形状に合わせてブラジャーを付けるように、男も男性器の形状に合わせたパンティーを履くべきだ。
かつての日本(昭和初期以前?)では女性はブラジャーを着用せず、和装に合うように胸を押さえつける下着を着用していた。胸の形を自然なままで維持することも、胸をセックスアピールに用いることも、していなかったのだ。しかし、ブラジャーの輸入によって、女性の胸の価値観が変化したことは語るまでもないだろう。それに対して、男性器を覆う衣服はどうだろうか? ふんどしはブリーフに代わり、袴はズボンに代わり、男性器は内側へ押し込んで隠すように変化している。女性の胸が形を維持し強調しアピールにも用いられてきたのとは逆の変化だ。これにより、陰茎の成長を妨げたり陰嚢の放熱を妨げて精子量が減少したりと、男性器に対するデメリットが大きくなったことは言うまでもないことだ。
紡績と縫製の技術が進歩してきたのだから、男性用下着もブラジャーのように進化するべきだったのだ。具体的には、男性器を収納するスペースを専用に確保すべきだ。この『はてな匿名ダイアリー』の場なら、『ちんカップ』・『玉カップ』という言葉を用いれば説明は容易だ。『玉袋ゆたか』のプロフィール欄にて、身長や体重などと共に併記されていた属性である。ブラジャーが胸囲(アンダーバスト)だけでなくカップ数で細かく分かれるように、男性用下着も『ちんカップ』・『玉カップ』で細かく分類されるべきだ。男性器の収納方法は、ビガーパンツのように、陰茎と陰嚢を分けて収納できるようにセパレート構造が望ましい。陰茎を覆う生地の先端部分に穴が空いており、そこから亀頭を露出できるので排尿も容易だ。
話が長くなってしまったが、端的に言えば、男の子は薄手の生地のパンティーを履き、その男性器部分は陰茎と陰嚢のそれぞれを独立に収納して、男性器の形状を押さえることなくできるだけそのままの形を維持すべきということだ。昔は伸縮性のある生地など存在しなかったが今は伸縮性のある化学繊維があるので、陰茎の勃起にも生地が伸縮して対処できることだろう。もちろん、通気性のためにズボンではなくスカートを履くべきだ。
私が理想とする世界では、男の子はスカートを履いているのだ。そして、スカートをめくると薄手の生地のパンティーが臀部をぴっちりと覆ってその形状をあらわにしているのだ。それだけでなく、陰嚢も陰茎もその形を崩すことなく、そのままの形で薄手の生地に覆われているのだ。外部に生殖器の形が表れない女性でも、薄手のパンティーとミニスカートを履けばエッチになるのは言うまでもないことだろう。生殖器の形が外部に表れる男の子がそんな恰好をしたら、女の子以上にエッチになってしまうのは想像に難くない。そうなれば、男女交際における性の役割は逆転することだろう。すなわち、男が誘惑する側の性で、女が誘惑される側の性だ。生理周期のある女性と違って男性は24時間365日発情期なので、女から男を誘うのが、合理的な男女交際や性交渉と言えよう。男性側の問題としては男性の性欲や精液貯蔵量だが、それは陰茎の勃起によって判明できるので、男性が薄手のパンティーを履いて勃起を鮮明にすることにメリットがある。具体的には、女の子が男の子のスカートをめくり、男の子が多少嫌がるそぶりをしていても、勃起をしていればOKということだ。逆に言えば、男の子が性交渉に肯定的な態度をとっていても、勃起していなければNGということでもある。そんな世界においては男の子が異性(女の子)に対して自身の性的価値をどのように認識するのだろうかと、思考実験を試みた。思考実験に用いたシミュレーション内容は、上述した架空の世界での男子中学生同士の会話である。以下に内容を述べる。
男子A(以下、A)「おい、お前。なんでスカートを短くしてるんだよ? 女に媚び売ってんのか?」
男子B(以下、B)「ち…違うよ。最近玉カップが蒸れるから通気性のためだよ」
A「それに体育の着替えの時に見たけど、エロいパンティーも履いてるよな?」
B「履きたくて履いてるわけじゃないのに。ジュニア用のショーツを履きたいけど、サイズが合わないから無いの」
B「そんなわけないよ! いつも女の方から一方的にスカートめくりされて、困ってるのに…」
B「勃起してない! ちんカップも大きいから勃起してると勘違いされるの!」
B「好きで、デカちんやってるわけないのに。サイズの合うショーツはなかなか売ってないし、日中うっかり勃起したら目立つし、いいことなんてないよ」
A「やっぱり勃起してんじゃねーかよ!」
B「そっ…それは生理現象だから仕方ないでしょ! でも、クラスの女子相手に勃起するわけないでしょ。クラスの女子なんてまだ幼稚だし。女子から下半身をじろじろと見つめられるたびに、キモさでちんぽが縮こまるよ」
うむ、なんというエッチな世界だ。このまま男子Aと男子Bの組んず解れつのミニスカ・キャットファイトを書いてみたい欲求もあるが、本題とは外れるのでこの辺にしておこう。ちなみにシミュレーションの対象に男子中学生を選んだのは性的成長を強調するためであり、私の趣味とはあまり関係がない。なんなら、ビール腹のおじさん同士の方が『はてな匿名ダイアリー』の場においては受けが良さそうなので、興味のある人は人物設定など属性を変えてシミュレーションすべきだろう。
しかしながら、現実の世界は、なぜ私が理想とした世界とは異なるのだろうか。具体的にいうなれば、なぜ男の子は機能性も装飾性も低い下着を今もなお履き続けているのだろうか。おそらくだが、男の子が女の子以上にエッチな文明は過去にあったかもしれないが、現在は滅びてしまったのだろう。
文明はなぜ滅びるのか。文明の黎明期においては自然環境の影響が大きかっただろう。自然災害や悪天候がそのまま食糧生産に直結するからだ。では、食糧供給が安定した状況では、文明や国家はどのようにして滅びるのだろうか。戦争や革命による文明や国家の打破が考えられるが、その根底にあるのは資源・経済・科学技術・文化など様々な要素から成る組織力の優劣である。中国(チャイナ)地方は、広大で肥沃な土地がもたらす豊富な資源によって、王朝を何度も変えながらも長年にわたって皇帝が国家を支配していた。しかし、アヘンによって王朝は途絶えてしまった。また、中国由来の娯楽に麻雀があるが、麻雀は『亡国の遊戯』と呼ばれていた。麻雀があまりにも面白くて国民がみな麻雀に熱中してしまい、国力を衰えさせてしまうからだという。中国において麻雀の発祥時期が定かでないのは、麻雀の勃興と権力者による歴史からの抹消を繰り返してきたからだろう。
エッチな男の子も、アヘンや麻雀に匹敵するほどの亡国的な魅力を秘めているのだろう。考えてみてほしい。性欲の絶頂期にある男子中学生が煽情的なミニスカートを履き、その内では男性器の形をそのままに模した薄手のパンティー姿でいるのだ。陰嚢の圧迫や勃起の阻害も無く性的成長した男子中学生を前にして、国家は健全なままでいられるとはとても思えない。経済・科学技術・文化のハッテン発展は妨げられてしまうので、国力が衰えるのは間違いないだろう。男の子のエッチさを抑制して、代わりに国家を発展させたのが人類の英知だったのだ。生地の薄いパンティーをあえて女の子に履かせているのは、文明の存続のために仕方がないことなのだ。
無理無理
日本がいつまでも政治無関心、汚職だらけ、女性蔑視外国人差別で人権後進国という地獄をやってたせいで、今の日本は水面下で大きく変貌してる
令和世代は、中流家庭はあまり子供を産まなくなった。一方で田舎のDQNやヤンキーは勉強もしないでポコポコ子供を産んでるから、ヤンキーとDQNの割合がどんどん高くなって文化資本が失われてる
それに拍車をかけるように優秀な女性や研究者は続々と海外に移住しており、海外の優秀な研究者は旅行にはきても定住はしない。賃金が低すぎるしブラックな上に女性蔑視も酷くて、とても家族で住めないから
多分20〜30年もしたら日本の人工分布は、大量の何もできないけど年功序列の結果偉くなっただけのおじさん、大量のご老人、大量のヤンキーとDQN、元ニート子供部屋老人、少ない上流家庭、少ない中流家庭、
ということになる
長く外貨獲得に貢献してきた自動車産業は30年もあれば他国に追いつけなくなる。
長年の乱獲の結果、漁獲量減少があらゆる魚種で進み、漁業・農業・畜産も大打撃を受ける。
外貨がないため輸入もままならず、食糧生産・畜産業はほぼ瀕死になり、外食産業も共倒れ
まあ、もう見る影もないだろうね。
院卒の上級国民はこの段階でも何ら躊躇無く早々と結婚して子供を作っているんだよねえと思い知らされた
そんなんどう考えても100%理解してるだろうな。でも少子化対策って行っても底辺の子供がたくさん生まれられてもそれはそれで困るというのが実際のところなんだよ。
大量の底辺の子供が底辺の大人になって大した生産活動もできず老いて福祉の世話になりまくって崩壊してるのが今現在なわけじゃん。そういう老人を支えるために沢山子供が必要なんですというのは事実だけど、仮に沢山子供がいたとしてその子供が老いたらそいつらの面倒を見るためにさらに沢山の子供が必要になるよね。人口1億人で将来の老人を支えるためにさらに子供を増やしたら2億人になってさらにその人たちが老いたときのために…と永久にやっていくのかという話だ。
日本は国土も狭く山がちで食糧生産に向いておらず、自然に賄えるのは6000万人とかがせいぜいだろう。現在その2倍いるわけだ。高度成長期〜バブル期に調子に乗って子供を産みまくってやり過ぎた結果が今なんだよね。当時はなかった環境汚染や食糧生産の現実的な限界も見えている中で、やり過ぎをカバーするためにさらにやり過ぎるという選択肢は取れないんだろう。
国民皆婚で誰でも結婚して子供を持つのが当たり前という価値観は「やり過ぎていた時代」の価値観だ。今からさらにやり過ぎることは出来ない以上、同じ価値観をとらせることは出来ない。他の方法でどうにかしないといけないんだろうね。
大豆・塩・水のみを原材料にした赤味噌こそがほんものの味噌だ。
日本において味噌の起源は中国からの伝来であり、わざわざ「赤」味噌などと「赤」の文字をいれずとも味噌とは赤味噌のことだった。
しかしながら、時代が過ぎるとともに豆の使用量をケチって米や麦でかさ増しした味噌が登場することになった。
それが白味噌だ。
白味噌の登場により、従来の味噌は赤味噌もしくは豆味噌と不名誉な再命名(レトロニム)を受けることになった。
勘違いしないでほしいが、「美味い(うまい)」ではなく「旨い(うまい)」だ。
すなわち旨味の成分であるアミノ酸の多さによる比較で、赤味噌の方が秀でているということだ。
米や麦はたんぱく質含有量で大豆に劣るから、味噌を醸造する際のアミノ酸生成量も必然的に少なくなってしまう。
だから、大豆の使用量をケチった(あるいは全く使用していない)白味噌は赤味噌に比べて旨くないのだ。
赤味噌がすでに存在していたにもかかわらず旨味に劣る白味噌をわざわざ発明したのは、日本の歴史を鑑みるに致し方のないことだと考える。
明治時代以前の日本は常に飢饉と隣り合わせの生活を送ってきた。
凶作・不作は死活問題であり、政争や反乱の主要な原因は食糧難だったことは想像に難くない。
江戸時代(徳川幕府)は三百年近く続く長期政権となったが、それとて飢饉による一揆を武力で押さえ続けてきただけのことだ。
そうした時代においては、食糧生産は生産効率やカロリー効率の観点から米や麦の生産に注力していただろう。
それに比べて大豆は米や麦に比べて高価になるので、味噌づくりにおいて高価な大豆の使用を削減しようと白味噌を発明したことは、日本の歴史の必然であったといえよう。
高価な大豆の使用を削減して米や麦で味噌を醸造しようとしてきたことと醸造した白味噌を料理に適用させて新たな食文化を作り上げてきたことには、不断の努力があったことは想像に堪えない。
そうした先人の努力が現在の食文化を育んできたことを想像すれば、白味噌に携わってきた人に対して感謝の念は耐えない。
白味噌の存在そのものはもちろんとして、白味噌を発明した人も醸造してきた人にも罪はない。
製造コストにおいても赤味噌と白味噌とで大きく差が出る訳でもない。
江戸時代から続く老舗であり、かつては宮内省御用達(※)だったカクキューの八丁味噌でも、スーパーで他の味噌と同程度の価格で売られているのだ。[※ 宮内庁ではなく宮内省である。GHQ占領前は宮内省だった。]
八丁という名が示す通り、岡崎城から西に8丁(約870m)の距離にある愛知県岡崎市八帖町で製造された味噌のことであり、製造業者は「まるや八丁味噌」と「カクキュー」の2社である。
しかし、残念なことに八帖町以外の場所で作られた豆味噌でも八丁の商標を名乗る商品がいくつかあるのだ。
しかも、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度によって、八帖町以外で作られた味噌でも八丁味噌を名乗れるように行政が推進しているという政治問題をも内包している。
こうした八丁味噌の不遇についても熱く語りたいが、本題ではないので赤味噌(豆味噌)一般に話を戻す。
今でこそ味噌は数ある調味料の一つだが、明治時代以前の食卓においては味噌汁として飲むだけでなく、小鉢に盛り付けておかずとしてそのまま食べることも多かったという。
おかずとして食べる味噌は、なめ味噌という形で今もその文化を残しており、有名なものに金山寺味噌がある。
しかし、食事全体のバランスや水分補給という面を考えると「一汁三菜」という言葉にある通りに(たとえ「一汁一菜」だとしても)「汁」は欠かせないものであり、それはやはり味噌汁だというのが日本の食文化において汎用的なありかたといえよう。
やっと味噌汁の話にたどり着けたが、タイトルで書いた通り味噌汁に使う味噌は赤味噌であるべきだ。
単に赤味噌の方が旨いというだけが理由ではなく、米飯との相性においても赤味噌の方が秀でている。
米と大豆のそれぞれが互いを生かし合って、口内で一つになるのが日本食の基本にして究極といえよう。
米は最上の主食であり貨幣でもあり神でもあり、さまざまに変化をする文化でもある。
かつて白米ばかりを食べていた江戸の町人は江戸わずらいに罹ったという。
江戸わずらいとはビタミンB1欠乏症のことであり、いわゆる脚気である。
カロリー摂取だけに主眼を置いた食糧需給向上において生まれた社会の歪みが健康を蝕むことになったのだ。
似たような例は海外にもあり、19世紀のアイルランドではジャガイモの不作が飢饉となるほどに食糧をジャガイモに依存していたので、国民病と呼べるほどに脚気が蔓延していたという。
では、ジャガイモを主食とする南アメリカ大陸でも脚気が蔓延していたのかというとそうでもなく、ジャガイモと一緒に豆料理も食べるのが伝統的な食文化なので、脚気になることはなかったという。
摂取カロリーのみを目的として食糧をジャガイモに依存した近世の北欧は、さながら白米の生産や流通を高度化して脚気患者を蔓延させた江戸時代の日本に近しいものがあったのだろう。
ちなみに、野菜や穀物を栽培することのできない地域に住むイヌイットは、発酵食品によりビタミンを摂取している。
イヌイットの伝統的な発酵食品にキビヤックがあることは有名だ。
アザラシの腹に海鳥を詰めて発酵させたキビヤックは悪臭の強い珍味として紹介されることも多いが、地元民にとっては貴重なビタミン摂取源だ。
南米やイヌイットの例から、伝統ある食文化には食糧生産やカロリー摂取の効率性だけではなく栄養にも一目を置いているといえよう。
もちろん、食糧生産の効率性向上によって生まれた白味噌なんかではなく、豆味噌たる赤味噌だ。
それにしても、白味噌や白味噌文化を否定するつもりはないが、白味噌の味噌汁は白米の飯に合わないだろう。
米を発酵させて作った白味噌で白米を食べるなんて、まるでライスとライスを組み合わせたライス定食ではないか。
そのような脚気的精神の産物である白味噌ではなく、やはり味噌汁には赤味噌を用いるべきだと断言できる。
米は甘く、大豆は旨い。
それは食糧生産力です。
たとえば百人の内で一人の大工が生きていけるようにするには残りの九十九人で百人分の食糧を生産する必要があります。
(実際には農閑期に別の仕事をするなどの兼業があるのでそう単純ではありませんが。)
専門家が活動するためにはそれを支える様々な人々やインフラが必要だということです。
ロシアに住む圧倒的多数は無辜の人々であり、多くの企業が撤退してしまうのは非人道的ではないかという論があります。
確かに人道的とは言えません。
人道的とは言えませんけども、生産活動とはいえない軍事行動を支えているのはロシアの (無辜な) 人々なのです。
工業に携わる人がいて、工業に携わる人に食料を提供するのも衣服を提供するのも兵站の一種です。
ロシアにおける生産活動でロシアの軍事行動に寄与しないものごとなどありはしないのです。
もちろんこれは極論です。
大きな影響力をもつ生産も (事実上無いと言えるほど) 小さな影響しかない生産もあります。
ここで述べたいことは、軍事行動に対するカウンターと人道とのバランスにおいて線を引く必要があるということです。
グラデーションの中で線を決めなければならないという話であって、悪意がなければ許されるというわけではないし、被害を止めるために何をしてもよいというわけでもありません。