はてなキーワード: 絵空事とは
チン騎士「痴漢を無くせば痴漢の誤認逮捕はなくなるんじゃね? 」
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最初から金目的で冤罪をふっかける人が存在するのでなくなりません
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まあ普通の常識がある人間からすれば「バカかこいつ」でしかないんですよね
痴漢ゼロの状態をキープするためには人類全員が絶え間ない努力を永久に維持しないといけない
何十億という人間全員ですよ?24時間365日絶え間なくですよ?それを永久にですよ?
まずこの時点でチン騎士って底抜けのバカなんだなってお分かりいただけると思います
そんな達成不可能な目標を平気で掲げる底抜けのバカであるところのチン騎士くんですが
一部の先鋭化したフェミ女さんも底抜けのバカなので平気でこれを支持しちゃいます
普通ならこんなバカげた絵空事掲げた時点で「こいつひょっとしてバカなのでは?」って不信感が生まれるんですよ
でも底抜けのバカなので「こんな素晴らしい理想を掲げてくれるんだ・・・」ってかえって好感持っちゃうんですよね本当にバカって怖いです
この実現不可能なクソ理想論、これに対して素直に「バカじゃねーの?」と非難すると
「この素晴らしい理想を否定しやがったな!おまえは痴漢を肯定するエロ野郎だ!」と返すんですよね
いや普通の常識からみれば不可能なことをこれは無理だよねって反論するのは当たり前です
「理想を否定された!こいつは敵だ!悪だ!!」って構図が完成しちゃうんですよね
チン騎士くんからしたらこの構図さえ完成すれば自分はガンギマった先鋭化フェミ界隈にとっての聖人君子ポジションを確立できる寸法です
ぶっちゃけ痴漢という概念が消えようが消えまいがチン騎士くんにとってはどうでもいいんです
そのためには掲げる理想が荒唐無稽であるほど常識的な反論が呼び込めます
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
「戦場のリアリズムを描いた」――。富野由悠季監督(84)が手がけたアニメ「機動戦士ガンダム」がテレビ放映されてから46年。これまで70以上のシリーズ作品が生み出され、その原典として今なお、愛され続けています。戦争体験から遠ざかった世代が大多数となった戦後80年、アニメなどフィクションを通して描かれる戦争はどう変わったのか。視聴者の意識は。〝最初のガンダム〟にこめた思いとともに、語りました。
――今年も、最新作「機動戦士ガンダム ジークアクス」が大きな話題を呼びました。富野さん以外が監督したものも含め、映像化されたものだけで70作品以上になります。時代ごとの新しいガンダムシリーズから入ったファンが、1979年放送の初代ガンダムを見るという流れができています。
本当に嫌な言い方なのですが、僕以降のガンダム作品は一切見ていません。作り手が違えば、他人が口をはさむのはよくないからです。ガンダムという作品が商品になってしまい、作家の立場からは何も言えなくなったのです。
ちょっと違うなと思う作品もあるし、逆に、ああ僕には作れないよねと思った作品もある。だから、ガンダム人気を支えてくれるための新作というのは認めるんだけれども、元の作品とは一緒にしてもらっちゃ困るというプライドもあります。
ガンダムは発表当時、人気がなくって、めちゃめちゃにへこんだ時期もあります。それが今、こうして親しまれているのはうれしいものです。
昔は「子どものもの」「絵空事」でしかなかったアニメという媒体を、考える材料として見てくれているというのは、うれしいですよ。だけど、困ったこともある。40年、50年経って、ガンダムというタイトルは残っても、原作者の名前というのは消えていくのも宿命なのです。そういう歴史的なところに足を踏み込んでしまった、というのはちょっと寂しいなとも思います。
――ガンダムで描かれた戦争の描写には、どんな思いを込めましたか?
ものすごく簡単です。子どもたちに、戦闘行為というのは乱暴な行為だからやってはいけませんよっていうことを分からせるということしかないですね。
ただ、当時の観客がそれを理解しているかと言ったら、ほとんど理解していないんです。それはもう仕方ないことで、理解してもらうのに20年、30年、かかるんだという覚悟はしていました。
独裁者をどう止められるのか
――長年のガンダムファンの一人として、かつては「ジオンにもジオンの正義がある」という捉え方が少なくなかったように思います。今、SNSなどを見ると、ジオン公国の独裁や大量殺戮(さつりく)に対して、批判的な見方が増えているように感じます。
僕の立場としては、良かったなと思っています。視聴者の年齢が上がってきて、みんなが勉強してきたんですよ。だってガンダムなんて46年前の話ですよ。かつてのアニメファンが成長して、大人になっていく中での理解が広まっていったのだと思います。
むしろ、僕が今、困ったなと思っているのは、実際問題として想像したときにギレン・ザビ(ジオン公国総帥)のような独裁者をどうすれば止められるのか、ということ。
作中ではザビ家内の権力闘争の結果、妹(キシリア)の手によってギレンが殺され、独裁体制は崩壊しましたが、現実はそう簡単にはいっていないでしょう?
暴力によらない、政治的な手段で独裁者を止めるにはどうすればいいか。その難しさを考えさせられているのが、ガンダムの真骨頂なのです。
――作中で描かれるジオンの設定を見ると、ドイツなど第2次世界大戦の枢軸国のイメージが重なります。設定の意図は?
明確に敵というのは分かりやすく作らなければいけないのですから、皆さんが知っている独裁体制を利用しただけです。
増えすぎた人口を移したスペースコロニーの中で、独裁国家を作る。自分たちは「棄民」である、地球には帰れないらしいという境遇になれば、やはり「反地球」の行動を起こすだろうという設定は見事にできたと思っています。
そうしてフィクションを描いたつもりが、20、30年もしないうちに、次の独裁者の誕生が現実になってしまいました。
ロシアやアメリカの現状や、中南米、アフリカ、中東各国の事例を見ても、今の国際政治は、アニメ以下でしょう。このまま、行き着く先まで問題のある政治家たちを是認していったらどうなるのか。
独裁者のような人間が大国を動かしている21世紀って、すごく変な時代でしょう。まさにポピュリズムが生み出したものだろうと思っています。
――今の世界情勢と、かつての大戦前夜を重ねてみる人もいるようです。
80年前を振り返った時に、ナチスのヒトラーという人も選挙で選ばれたんだという事はよく知るべきです。政治哲学者で思想家のハンナ・アーレントは著書「全体主義の起源」で、一般大衆のことを「群衆」「モッブ」と呼んでいます。独裁というのは、独裁者が1人で起こすわけではないのです。まず、独裁者を生み出す群衆がいて、その上に立って旗振り役ができるやつがトップに立つ。
日本の場合、真珠湾攻撃で開戦したときに著名人を含めて、かなりの人が「これで気が晴れた」みたいな言い方をしている。勢いにのって、国民までもが軍国主義化していた。僕は、これは新興宗教と同じだと思っています。
――朝日新聞を始め当時の新聞も、婦人会や在郷軍人会などの不買運動に屈して、筆を曲げてしまった。そして、戦争を賛美する論調になった新聞はよく売れ、新聞が軍部と一体化してしまったという負の歴史があります。
軍だけでなく、コモンセンスとしてものをしゃべることができるメディアでなくなったのです。昭和16(1941)年の段階で、すでにそうではなくなっていましたよね。一番汚いと思ったのは全滅を「玉砕」と言い換えるような、負け戦だと思わせない言葉づかいですね。戦艦大和を沈められても「世界最大の戦艦だった」と誇るような言葉づかいは、戦後もずーっと残っているのです。
軍事技術者だった父
――富野さんは終戦時3歳。父親は軍事技術者だったそうですね。
化学の技師でした。戦闘機の与圧服の開発などもしたみたいですが、一番は、ゴムを使った雨がっぱみたいなものを作らされていた。風船爆弾の気球を作る仕事もやらされていたようです。
父が戦後、何度か僕に言った言葉があります。国に裏切られた、と。あの戦争にもどこかで光明があるんじゃないかと思っていたらしい。きっと日本は勝つ、とすり込まれていたんですね。
働いていた神奈川県小田原市の工場の近くにも焼夷(しょうい)弾が落ちたことがあったのに、なんで日本が勝てると思ったんだろうか。不思議でしょうがないんだけど、その時代の日本を考えると、父が特別に軽率だったとは思えないですね。
――戦争そのものへの忌避感は持ちながらも、兵器やアニメの戦闘描写をかっこいいと感じるという人は少なくないと思います。私自身もそうです。この矛盾について考えていました。
民衆の支援で軍は成立しているんです。軍装の兵士が正しく起立している姿を見るとかっこいいじゃないですか。「死に装束」なのにかっこいい。戦死という悲劇すら美しく見せるためには、戦死者に対しては、礼を尽くさなければならない。「兵隊さんたちありがとう」と思わせる、そしていざとなった時に民衆が戦力になっていく構造は、有史以前からあったんですよね。
ガンダムでは、地球降下作戦を指揮したジオン軍のガルマ・ザビの戦死を、ギレンが国威発揚に利用するという描写を入れました。だから僕には痛切に分かることなんだけれども、平和時の一般の国民にはなかなか通じません。どうしてか。「アニメの話でしょう?」。それでおしまいなんですが、この感覚もまた当然のことだと思っています。平和なら、ね。
――戦後80年が経ち、「はだしのゲン」など、実際の戦争の被害を題材にした作品の描写が「残酷だ」と敬遠されることが増えています。ガンダムシリーズなどのフィクション作品でも「人が死ぬ描写が重い」と感じる人も多いようです。
ガンダムでは戦場のリアリズムを描きましたから、当然の感想だと思います。
作り手である僕自身も、敵だろうが味方だろうが、人が死ぬカットを作るのはものすごくつらいのです。絵空事だからって、笑っていられない。登場人物が命を落とす場面では、担当する声優の顔が見えるんです。
今のバトル漫画なんかを見ていると、リアリズムでは戦闘していないですよね。死ぬ寸前までいっても絶対死なないような。そういうものを見慣れている世代にとっては、リアルな戦争を描いた作品を見る気にはならないのでしょうね。
――戦争を知る世代がいなくなったとき、映像作品で今までと同じような戦争の描き方はできると思いますか。
架空の戦争としての物語はあるでしょう。でも、リアリズムで作るというきめの細かさを持った作品は出てこないでしょう。戦っているらしくしているだけで、それは戦争ではありません。
エンターテインメントでなければ客を呼べないと考えたとき、リアリズムを持って問いかけることは難しいだろうし、そういう視点を持った映画人がどれだけいるだろうかと。現に、飛んでくる弾丸やミサイルをかわすといった、シューティングゲームやアクション映画のような作品になっているでしょ?
「ニュータイプとは何か」今も
――ガンダムでは、優れた洞察力を持つ人類を指す「ニュータイプ」という概念を提示し、人が分かり合えるかもしれないという希望も描かれました。ファンの間では今でも、「ニュータイプとは何なのか」という話題で盛り上がります。
ニュータイプは、ガンダムの物語をきれいにまとめるための「方便」だったけれど、僕が一番困ったのは、ニュータイプになるための方法を、子どもたちにきちんと示すことができなかったこと。その意味では、敗北感がとても強い。それはまだ続いています。
新しいガンダムを作る気がまだあるかといえば、それは、ある。これだけ気にいらないガンダムがいっぱいあるんだから(笑)。
世界中の人間が一気にニュータイプになるかもしれないという楽しい作品が作れたらいいなと思っているけれど、それはアニメの中で考えるしかないことです。そう簡単に作れるとも思えない。やっぱり、アニメは難しいよ。
https://digital.asahi.com/articles/ASTBR2C33TBRPITB00JM.html
我が家の備蓄、災害対策について整理しがてら書く。身バレ防止に一部フェイクもまじえて。
食料……田畑、米は俵単位で保冷庫保存、倉庫にローリングストック多数(店が遠く来客多いので生協やコストコ等で買いだめしがちである)、鶏(毎朝卵5個ほど、可愛がっているのでつぶしたくはない)
エネルギー……太陽光発電、電気自動車、モバイルソーラーパネルとポタ電、薪数年分
衛生……風呂は主に太陽熱温水器、離れに薪風呂、トイレは合併浄化槽ゆえ管理必要、いざとなったら庭に作れるか?娘の生理用品ストックは増やした(妻は布ナプキン愛用者なのでその手段もあり。トイトレは遠い昔だが子どもたちは布オムツも併用した)。
洗剤は石鹸や重曹など、環境負荷が低く多用途のものを妻が工夫してくれている。消耗品もミツロウラップなどなるたけ使い捨てにならないものを選択。洗濯は手洗いは厳しいか?太陽光はこれに使用?
調理……プロパン、止まったら薪ストーブ、ピザ窯、かまど、バーベキュー台、ロケットストーブ、一応卓上コンロ
東日本大震災をきっかけに、自分たちの暮らしを少しでも消費から創造へシフトしたい、万が一の事態でも生き延びたいと地方移住し、ドシロウトが脱サラ就農して作ってきた我が家の暮らしだ。
当然収入は減ったが手応えのある愉快な日々を送っている。コロナ禍でも子どもたちが友達と野山で遊び、家ではアナログゲーム、映画鑑賞、読書とのびのびと過ごせたときは、つくづくこの環境がありがたかった。
もし資源輸入国のこの国において、政治の失策により原油もレアアースも輸入停止となっても、しばらくは不便なりに生きることはできるだろう。
作物については昨今の気候変動で不安要素も多いが、燃料や化成肥料がなくとも出荷はともかく、自分たちの食い扶持だけならどうにか確保できると踏んでいる。手植え手刈りはぞっとしないし、機械なしの脱穀、籾ずりは未経験だが昔はやれていたわけで、少量ならどうにかなるだろう。自家用精米器はある。
タンパク源が卵、大豆となるのが物足りない。海はやや遠いがたまに釣りに行くべきか。今からでも狩猟免許取得を検討すべきか?ジビエはさほど好まないのだが…。
しかし自家採取の種には限りがあるし、車や発電機の故障には対処できない。もとより自給自足で全てを賄えるわけはない。パスポートは全員所持しているが海外移住はハードルが高すぎる。移民への風当たりの強さを、今実感できない日本人はいるのか。加害者側として。
病気や怪我をしても、薬や石油製品の不足により病院では対応ができないとなってしまったら?家族全員今のところ健康だし、養生には努めてきたが、現代医療にしか救えない事態はあるに決まっている。
それが一番怖いし、何より俺が恐れているのは飢えた人々の醜い争いだ。
自分が、家族を守るために卑怯な嘘をつき、知り合いどころか友人までも裏切らざるをえなくなることだ。この危機感を共有しあえる友人や、日頃からお互い様でやってきた隣人たちとは共助していくにしても。自然と共に生きてきた高齢者の知恵に助けられることも増えるに違いない。
だが、日本のこの方向性を推し進めてきた自民、公明、維新、補完勢力である維新、国民、保守、参政を支持してきた有権者たち、変わらないからと棄権してきた者たちに、俺はこの貴重な生きる糧をニコニコ差し出す気になれるだろうか?
米の値段が高すぎるとこぼし農業は補助金漬けと嘲笑い、投資に血道を上げ、自給率より防衛力と嘯き、ガザには目もくれず大谷にうつつを抜かしていたお前らに?
農業を、親戚に言えない恥ずかしい仕事だと、子どもを公立に通わせることを虐待だと罵った(長子は塾なしで地方旧帝に合格したが)東京在住の親たちにすら、非常時には分け与えねばならないだろうことを考えると気が重くなる。だがそのころには既に物流も崩壊しているのかもしれない。
虫も土も触れられず、畑仕事も薪割りもできない老親を呼び寄せて養うしかないのだろうか?あちらも「不潔」な古民家になど住みたくもないだろうが。
なら混乱の中で野垂れ死ねと突き放すほど薄情になれるだろうか。子どもたちの前で。
夜は一緒に寝ている大型犬たちを、畑の見張りに出さなくてはならなくなるのかとまで妄想する(こいつらの餌も贅沢言えなくなるだろうが大丈夫だろうか…)。
俺は想像力過多だろうか?別に悲観的に思い悩んだり、パニックになったりはしていない。自然に頭に浮かび体が動くだけだ。
たしかにハヤカワSFやホラー/パニック映画にに触れすぎたきらいはある。週末は「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を家族で観に行く予定だ。今傍らで末っ子が下巻を読んでいる。
始まりは天災という違いはあれど、あの地球で起こると予想されたことははたして絵空事だろうか?
彼女の専攻は何だった?
大体みなフィクションだけでなく海外ニュースにも無関心すぎる。キューバを見ろ。まさに石油が断たれた国の惨状が、今目の前で繰り広げられているではないか。なんと酷い権力者の所業だろうか。
ここまで恥知らずの外道を平和主義者のトランプさんと持て囃した奴らは見ているか?こんな目に遭わされないようにあいつのケツを舐めろと言うのか?
もちろん俺だってあのときは考えすぎたなと笑いたいよ。全然それで、それこそがいいよ。
夏は久しぶりに家族旅行の計画を立てているんだ。やれやれ取り越し苦労で助かったと備蓄品の祝杯をあげよう。我が家の田舎暮らしは続いていくだけだ。
世界中の人がそうやって平凡でありきたりな日常を送れることこそが幸いだ。
だが万が一最悪の状況が訪れたなら。
不慮の事故や致死的な発病さえなければ…おそらく俺はあんたらより長く生き延びることができるだろう。
だが生きながら地獄を見たくはないのだ。阿鼻叫喚渦巻く中、扉を閉ざして自分たちだけ美味く飯を食い笑って暮らせると思うか?
今からでもできることをしてくれ。
ひっそりと備えを。
そしてどうか、こんな世の中は嫌だと声を上げてくれ。みな自分の生活で手一杯だろうが。そうして政治を語り合うことさえ忌避してきた結果がこれだ。原発事故さえ俺たちの目を覚まさせるには「十分ではなかったのだ」?
そんな冷笑を許すな。今。目を開けろ。これまでも虫ケラのように殺され世界に残酷に見捨てられる人々の苦しみは尽きなかった。目を逸らして踊っていた俺たちの横にもう現実が立っている。
ついに俺たちの番が来た。
いや弱い者から倒れていくのだ。
政府に、君らが担ぎ上げたサナに、アメリカの人殺しにけして加担するな、日本を窮地に陥れるなと抗議してくれ。
飛行機代は正直惜しいが(実家に泊まるのも憂鬱だがここに書いたような話を冷静にせねばなるまい)、3月25日の平和憲法を守るための緊急アクションにはどうにか行けたらと考えている。
近くに住み、時間の余裕がある人はどうか一員となってほしい。手ぶらでいい、意に沿わないならコールもしなくていい。突っ立ってるだけでいいのだ。ただ数となってくれ。
あなたがそこにいることは、このクソまみれの世界がどうか、ほんの少しでも、優しい美しい場所になってほしいという確かな祈りだ。
そう願う人たちと共に立つことはきっと少なからずあなたの心を安らかにするし、ごくわずかでも現実を動かすと信じて実際に動いたこと、生憎その願いがストレートに叶わなくとも、結局無惨に敗れ続けようが…その行動は0に近いかもしれないが、けして0ではない。
我が家の備蓄、災害対策について整理しがてら書く。身バレ防止に一部フェイクもまじえて。
食料……田畑、米は俵単位で保冷庫保存、倉庫にローリングストック多数(店が遠く来客多いので生協やコストコ等で買いだめしがちである)、鶏(毎朝卵5個ほど、可愛がっているのでつぶしたくはない)
エネルギー……太陽光発電、電気自動車、モバイルソーラーパネルとポタ電、薪数年分
衛生……風呂は主に太陽熱温水器、離れに薪風呂、トイレは合併浄化槽ゆえ管理必要、いざとなったら庭に作れるか?娘の生理用品ストックは増やした(妻は布ナプキン愛用者なのでその手段もあり。トイトレは遠い昔だが子どもたちは布オムツも併用した)。
洗剤は石鹸や重曹など、環境負荷が低く多用途のものを妻が工夫してくれている。消耗品もミツロウラップなどなるたけ使い捨てにならないものを選択。洗濯は手洗いは厳しいか?太陽光はこれに使用?
調理……プロパン、止まったら薪ストーブ、ピザ窯、かまど、バーベキュー台、ロケットストーブ、一応卓上コンロ
東日本大震災をきっかけに、自分たちの暮らしを少しでも消費から創造へシフトしたい、万が一の事態でも生き延びたいと地方移住し、ドシロウトが脱サラ就農して作ってきた我が家の暮らしだ。
当然収入は減ったが手応えのある愉快な日々を送っている。コロナ禍でも子どもたちが友達と野山で遊び、家ではアナログゲーム、映画鑑賞、読書とのびのびと過ごせたときは、つくづくこの環境がありがたかった。
もし資源輸入国のこの国において、政治の失策により原油もレアアースも輸入停止となっても、しばらくは不便なりに生きることはできるだろう。
作物については昨今の気候変動で不安要素も多いが、燃料や化成肥料がなくとも出荷はともかく、自分たちの食い扶持だけならどうにか確保できると踏んでいる。手植え手刈りはぞっとしないし、機械なしの脱穀、籾ずりは未経験だが昔はやれていたわけで、少量ならどうにかなるだろう。自家用精米器はある。
タンパク源が卵、大豆となるのが物足りない。海はやや遠いがたまに釣りに行くべきか。今からでも狩猟免許取得を検討すべきか?ジビエはさほど好まないのだが…。
しかし自家採取の種には限りがあるし、車や発電機の故障には対処できない。もとより自給自足で全てを賄えるわけはない。パスポートは全員所持しているが海外移住はハードルが高すぎる。移民への風当たりの強さを、今実感できない日本人はいるのか。加害者側として。
病気や怪我をしても、薬や石油製品の不足により病院では対応ができないとなってしまったら?家族全員今のところ健康だし、養生には努めてきたが、現代医療にしか救えない事態はあるに決まっている。
それが一番怖いし、何より俺が恐れているのは飢えた人々の醜い争いだ。
自分が、家族を守るために卑怯な嘘をつき、知り合いどころか友人までも裏切らざるをえなくなることだ。この危機感を共有しあえる友人や、日頃からお互い様でやってきた隣人たちとは共助していくにしても。自然と共に生きてきた高齢者の知恵に助けられることも増えるに違いない。
だが、日本のこの方向性を推し進めてきた自民、公明、維新、補完勢力である維新、国民、保守、参政を支持してきた有権者たち、変わらないからと棄権してきた者たちに、俺はこの貴重な生きる糧をニコニコ差し出す気になれるだろうか?
米の値段が高すぎるとこぼし農業は補助金漬けと嘲笑い、投資に血道を上げ、自給率より防衛力と嘯き、ガザには目もくれず大谷にうつつを抜かしていたお前らに?
農業を、親戚に言えない恥ずかしい仕事だと、子どもを公立に通わせることを虐待だと罵った(長子は塾なしで地方旧帝に合格したが)東京在住の親たちにすら、非常時には分け与えねばならないだろうことを考えると気が重くなる。だがそのころには既に物流も崩壊しているのかもしれない。
虫も土も触れられず、畑仕事も薪割りもできない老親を呼び寄せて養うしかないのだろうか?あちらも「不潔」な古民家になど住みたくもないだろうが。
なら混乱の中で野垂れ死ねと突き放すほど薄情になれるだろうか。子どもたちの前で。
夜は一緒に寝ている大型犬たちを、畑の見張りに出さなくてはならなくなるのかとまで妄想する(こいつらの餌も贅沢言えなくなるだろうが大丈夫だろうか…)。
俺は想像力過多だろうか?別に悲観的に思い悩んだり、パニックになったりはしていない。自然に頭に浮かび体が動くだけだ。
たしかにハヤカワSFやホラー/パニック映画にに触れすぎたきらいはある。週末は「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を家族で観に行く予定だ。今傍らで末っ子が下巻を読んでいる。
始まりは天災という違いはあれど、あの地球で起こると予想されたことははたして絵空事だろうか?
彼女の専攻は何だった?
大体みなフィクションだけでなく海外ニュースにも無関心すぎる。キューバを見ろ。まさに石油が断たれた国の惨状が、今目の前で繰り広げられているではないか。なんと酷い権力者の所業だろうか。
ここまで恥知らずの外道を平和主義者のトランプさんと持て囃した奴らは見ているか?こんな目に遭わされないようにあいつのケツを舐めろと言うのか?
もちろん俺だってあのときは考えすぎたなと笑いたいよ。全然それで、それこそがいいよ。
夏は久しぶりに家族旅行の計画を立てているんだ。やれやれ取り越し苦労で助かったと備蓄品の祝杯をあげよう。我が家の田舎暮らしは続いていくだけだ。
世界中の人がそうやって平凡でありきたりな日常を送れることこそが幸いだ。
だが万が一最悪の状況が訪れたなら。
不慮の事故や致死的な発病さえなければ…おそらく俺はあんたらより長く生き延びることができるだろう。
だが生きながら地獄を見たくはないのだ。阿鼻叫喚渦巻く中、扉を閉ざして自分たちだけ美味く飯を食い笑って暮らせると思うか?
今からでもできることをしてくれ。
ひっそりと備えを。
そしてどうか、こんな世の中は嫌だと声を上げてくれ。みな自分の生活で手一杯だろうが。そうして政治を語り合うことさえ忌避してきた結果がこれだ。原発事故さえ俺たちの目を覚まさせるには「十分ではなかったのだ」?
そんな冷笑を許すな。今。目を開けろ。これまでも虫ケラのように殺され世界に残酷に見捨てられる人々の苦しみは尽きなかった。目を逸らして踊っていた俺たちの横にもう現実が立っている。
ついに俺たちの番が来た。
いや弱い者から倒れていくのだ。
政府に、君らが担ぎ上げたサナに、アメリカの人殺しにけして加担するな、日本を窮地に陥れるなと抗議してくれ。
飛行機代は正直惜しいが(実家に泊まるのも憂鬱だがここに書いたような話を冷静にせねばなるまい)、3月25日の国会前アクションにはどうにか行けたらと考えている。
近くに住み、時間の余裕がある人はどうか一員となってほしい。手ぶらでいい、意に沿わないならコールもしなくていい。突っ立ってるだけでいいのだ。ただ数となってくれ。
あなたがそこにいることは、このクソまみれの世界がどうか、ほんの少しでも、優しい美しい場所になってほしいという確かな祈りだ。
そう願う人たちと共に立つことはきっと少なからずあなたの心を安らかにするし、ごくわずかでも現実を動かすと信じて実際に動いたこと、生憎その願いがストレートに叶わなくとも、結局無惨に敗れ続けようが…その行動は0に近いかもしれないが、けして0ではない。
アガサ・クリスティの「春にして君を離れ」を読んだ。
……びっくりする程刺さらなかった。
この小説、20年前せめて10年前に読みたかったな。そしたら作者の思惑通り、主人公が毒親で酷い!と思えて満足できたかも。
今見るとあまりにも古い。
儲かる仕事よりも本当にやりたい仕事だの、安定よりも挑戦だの、他人から見て惨めな人生でも当人は幸せだっただの、あまりにも甘っちょろくて全然響かない。所詮は恵まれてるから言える絵空事だよね…
現実は衣食足りて礼節を知るだし、貧すれば鈍する。精神的な幸せはあくまで物質的に満たされて初めて言えるもの。
すっかり中学受験が一般化し、東京以外で子育てするのは虐待だとの考えに社会的合意が得られ、子供の交友関係もコントロールして間違った道に進ませないのが大事だという
令和の日本では高い学歴高収入の仕事社会的地位ある配偶者や友達といった型に嵌った生き方だけが人生の全てだし、子供にそういう人生を提供できるのが「良い母親」って風潮だものな。
ただ、この主人公は今後も破滅する事なく幸せな奥様のまま物質的に満ち足りた生活を送るんだろうし、そう思うとやはりムカつくクソ女ではある。
同じようなクソ女主人公の叙述トリックとして有名な「烏に単は似合わない」の主人公も、発行当時はなんて恐ろしい女だと嫌悪されてたけれど、
日本の日常を形成してるものは、実際は反日害人がつくっています。
反日の自作自演なのでエセ左翼の中にも右翼的なおかしなのがいます。
問題は反日政府がバビロンの悪魔の血筋を優遇し、日本人を虐待している事。
これは本当の話です。そして、大本営発表で排外主義者とされている
そもそもこの構造をつくった偽ユダヤは目が細く、中東人ではありえません。
イタリアのメディチ家もオーストリアやドイツのハプスブルク家もフン族であり
もっと大きなくくりで言えば、テュルク系もモンゴル系と同じウラル=アルタイ系です。
それが権力者です。その手下が特に済州島出身の在日朝鮮人です。
済州島は香港・マカオ・ルソン島などスペインやイギリスの植民地となった
朝鮮半島から見ると流刑地であるため、半島にいる人々からは嫌われています。
ほとんどやっておらず、実際は真正ユダヤだけ殺す方針だったと思われますが
「日本人の戦争犯罪」を捏造した。「大日本帝国」は日本人を迫害していた。
憲法改悪すればまたあらゆる犯罪をやらかすでしょう。そういう事を
平気でやらかすのが反日害人=右翼=エセ左翼というのは事実です。
私はB型の男は信用しません。橋下徹、小沢一郎などが該当する他、
他人の不幸を喜び嘲笑したがる2ちゃんねらーみたいなのは一発アウトで
害人認定でよい。あなたのパートナーがそうかどうかは知りません。
男の場合はAB型でもB型に近くなちがちで、女性だと、特に美人(A型顔)
の場合はA型に近くなりがちです。おそらく強姦されて無理やり混血させられた方
の子孫の女性はA型に近くなるけれど男は強姦した側の転生だったりもするの
「先天的な性格の差などあるはずない!」などというのは絵空事です。
自己中心主義者が都合のよい説に飛びついた所で、周りからみると
おかしい奴はおかしい。まぁ、自己中心主義者から見ると不都合な写実主義者が
悪く見えるかも知れませんが、それは主観・偏見であって事実ではない。
ありとあらゆるナチス的なものが跳梁跋扈しています。それもこれも全て
政府が反日だからであり、その構造を作ったのが偽ユダヤで、特に済州島出身の
在日が手先という事です。彼らはバビロニア人など(B型)の同胞で
「渡来人すごい!ユダヤの末裔だ!」というのも偽ユダヤが流しているデマですが
朝鮮人の中にはそれを盲信してるのも多いです。自己中心主義者は
https://www.youtube.com/watch?v=sC69oKpsH2E
https://www.youtube.com/watch?v=0A0hfswlACM
羊を食べる騎馬民族が
https://www.youtube.com/watch?v=x4LPA4zJykI&t=690s
日常の感覚からかけ離れた話ばかり書くと思われるかも知れませんが
こうした事実を知っておけば右翼=エセ左翼が何をやらかしてるのか
それは今だとどうしても小説より漫画の達成が目覚ましいと思う。そして自分はどうやら「己の持ち場と思い定めた場所で戦う人間の話」が好きなのだろう。客観的に過酷なシチュエーションかどうかに関わらず。人は只管打坐して思惟に耽るのでなく実際に手を動かして泥を掴まなければ何もわからないと思うからだ。
しかしリアリズム至上主義を信奉するわけではない。素朴な実感主義は容易にそれっぽいだけの絵空事に堕してしまう。幻想文学こそが手を伸ばしていける領域はあると思う。
そう言えばひところブームだったラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」というやつもどうも感心しなかったのだ。小手先の技巧のような気がして。
それこそ楳図かずおの漫画みたいな、作者がどこまで計算してるのかわからないシュール極まりない作品こそ幻想文学の正嫡と言うべきではという気もする。
偉業を行って死んだ人間と、何も成さずに死んだ人間との間に違いはない
どっちも同じ、すでに死んだ人間だ
偉業を成した人間は、偉業を成した人間にしか見えない風景を見、偉業を成した人間だけが感じる喜びや達成感を感じる
何も成さなかったゴミクズのような人間は、ゴミクズのように生きた人間にしか見えない風景を見、ゴミクズのように生きた人間だけが抱く葛藤や絶望を感じる
人間の存在の意味というのは、根本的には「そんなものはない」なのだが、もしあると仮定するのなら、それは「経験する主体であること」になる
どのように生き、何を手に入れ、何を手に入れなかったにしろ、その過程を主体として経験したということは唯一無二なのである
誰にも代わることができない
そして経験という名の一瞬のニューロンの発火以外の全てのことは大体のことが大いなる茶番で、飾りで、枝葉で、空虚なフィクションみたいなものだ
ノーベル賞を獲った学者も、推し活に明け暮れる腐女子も、大統領も、競馬ですっからかんになったじじいも、統合失調症の妄想の中で生きる人も
本物なのはその時内面に起こった反応だけで、現実の世界で誰が何を発見しようが、尊敬されようがされまいが、いくら儲けようが一文無しだろうが、同じなのである
百年経ったら誰も生きていない
みんな等しく死んでいる
それだけが事実であるのに、「その存在が人類文明に貢献した」だの「生産性のある人間だった」だの「女にもてた」「事業に成功した」「後世に名前が残った」だの、どれほどの意味があるというのか
われわれが経験できるのは、生きている今この一瞬だけなのであり、それが死ぬ寸前まで続き、死んだら終わる、それだけなのである
皮肉にも、ああ死にたい、もう何もかも嫌になった、という感覚を経験することさえ、今私が生きているために発生している唯一無二のものなのだ
気になりつつ未読だった作品がアプリで無料だったのでこれは読まねばと。
読んだのだが、先に言っておくとダメだった。
数々の戦記にあるように、勝つためとかじゃなくただ今この時の喉の渇きのために命を散らせていく若者たち。
でも終盤になっての怒涛の絵空事展開に一気に白けてしまった。あー筆が乗って来ちゃったのねえ。
別に「実録物」としてあれが違うこれが違うという考証オタク的ダメ出しがしたいのではない。(そういう意味で変な点も結構あるのだが)
どんなドキュメンタリーも事実そのものに追いつくことはない。だからむしろ絵空事によって真実の尻尾を掴もうとする試みはアリだ。
でも本作は実録ものふうに始まって、あるところからスリルとサスペンスありドンデン返しありの「戦場秘話もの」になっている。
それがどうしてダメかというと、そんなもんは腐るほどあったんだよ。昭和には。作者は読んでないんだろうね。触れてたら更に自分も劣化コピーを書きたいとは思わないだろう。
そして多くの読者は当然ながら「何だこんな、いまさら“戦場秘話モノ”のまねっこになんの意味が」というスレた反応ではなく「こんな事があったんだ。忘れてはいけないと思いました」と、素朴に「実録物」として受け止めている。
戦争経験者が普通にいた昨日の世界では「戦記風フィクション」というのは幼稚な娯楽だったのだが、“あの戦争”がすっかり歴史になったいまや戦記と戦記風フィクションは区別されない。
11巻完結のあとも一旦ノってしまった作者の筆は止まらず、“外伝”としてショートストーリーのオムニバス連作を数巻分書いている。
これはさすがにアホらしすぎて読んでいられなかった。次々エピソード思いついちゃって本編に組み込めずにもったいなかったんだろうけど、そういうのいらないんだよ。
戦後世代がガンダムを通じてしか戦争を語れないのはいびつな政治状況による抑圧のせいだろうと思っていたが、ある意味ではそれは知的誠実さの顕れだったのかもしれない。
80年前に南洋で弾雨の下あんなことこんなことがあったかもとノリノリで陳腐なエピソード案ずるよりは宇宙世紀〇〇年でやっとけよ。
積極財政が正義だの、緊縮が正義だの、毎度この国の議論は温度管理できてないボイラーみたいに暴発しては沈黙し、挙げ句に誰も責任取らないまま「まあ何とかなるっしょ」で自己放尿される。
この行き当たりばったり文化そのものが、マネーの価値を平然と蒸発させてきた元凶なんだよ。
お前ら、いい加減、積極財政バラマキなのか、日本版DOGE緊縮なのかはっきりしろよ。
国家運営の舵取りが、酔っ払いのハンドル操作みたいに左右フラフラしてるんだから、通貨の信認が溶けないほうが奇跡だ。
マネーの価値ってのは信頼の凝縮物であって、政府の気分と人気取りのスケジュール帳で勝手に増減させていいもんじゃないのに、毎年自己放尿みたいな意味不明な政策転換を浴び続けてる。
しかも悪いことに、緊縮と積極を同時に名乗るダブルバインド体質だからまともな評価基準すら作れない。
まさに事業仕分けと財政出動のダブル放尿だよ。どっちも方向が逆だから地面に落ちる前に蒸発して、国民の懐と未来だけが自己放尿でびしょ濡れになる。
俺が言いたいのは単純だ。マネーの価値を守るというのは、美辞麗句で国民を安心させることでも、政治家が胸を張って絵空事を叫ぶことでもなく、インフレを抑えたいなら通貨供給と財政を統制しろ、成長を取りたいなら目的と期間を明示して必要な投資に限って財政を動かせ、ってことだ。
だが今の政策運営は、目的関数が毎年変わり、指標はその場しのぎ、説明責任はゼロ、そして失敗コストはすべて一般国民に押しつけるという、最悪の構造的リスクを生み続けて自己放尿している。
この国の通貨の価値が下がるのは、外部環境のせいでも国際情勢のせいでもなく、国家運営という内部の愚が原因だ。
積極なのか、緊縮なのか、どちらを選ぶにせよ、まずは自分の足で立って、自分が何を守りたいのか明瞭に数式化し、その上で責任を負う覚悟を示せ。
Cloudflare が海賊版運営サイトについて停止するようにと訴訟が起きてるんだってな。
詳しいことはわざわざ調べて無いが海賊版とインターネットについてちょっと思うことがあったんで垂れ流してスッキリしようと思う。
ISP と契約してインターネットを使えるようになるし、サイトを作りたい人間は自分のサーバーでも借りたサーバーでもホームページを構えることができる。
それで海賊版サイトを作った人が現れても ISP は滅多に訴えられない。 すぐに責任を取るべき人に責任を取らせられるからで、今回では身元を隠したままサイトを運営している人に対してどうやって責任を取らせるのか。
そんなところで Cloudflare が訴えられたんじゃないかなと記事をちらっと読んで感じたのが今さっき、『もう話題にするのおせーよ(笑)』ってのはナシで。
それで結局何を感じて何をこれから書こうとしているのかと言えば、作品の価値の感じ方を変えるべきなんじゃないかというある種の諦念を吐き散らして行こうと思っている。
インターネットがない頃、普及してない頃にもコピー機というのは存在していて、漫画も写真も複製出来て精度は悪いだろうがやろうと思えば出来たことで、当然それを流布すれば然るべき所に送られるだろう。
現実に目に見えるものだから今まで対策が出来たのではないか、対策が出来てなかろうと対処は出来ていたのではないか。
そういうのは当たり前に誰もが思ってる事かもしれないが、インターネット上で似たことをする輩のせいで不利益を被っているのが現状だと理解している。
今回では、母数が増えまくった事によってどうにも対処が出来なくなってしまったので Cloudflare へ矛先が向いたのだろう。
ああいう類のサイトが Cloudfront を利用していたら Amazon が訴訟されていただろうと思う。
こういうのはモグラ叩きのように事が発生次第対処しなければならないが、CDN などの基盤側がいちいちサイトの内容を確認する責任はないと思われていたのがこれまでの価値観だったと思う。
ただ、そのためのリソースを割くのは創作を行う側も、ただ web ページの負担を軽減させるサービスも大変だろう。
さて本題で、こういった問題について考え方を改める事で対抗出来ないかと妄想しているのが今回の文章だ。
作品そのものではなく、作品を所有することを制作者から認められている事について有難がる事で、海賊版の価値を無いものに出来ないかと思い浮かぶ。
『あの人が好きだからあの人の作品が好き』『この作品が好きだから作り手も尊敬する』というのは普遍的な感情で、ポジティブなベクトルなら素敵な心持ちにもなる。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎しを避けるなら、作品そのものを提供する側から見たい作品を見せてもらっている事について有難がると良いだろう。
物質への感情の矛先を正当な仲介者へ向ける事で間接的に作品へ感情を向けつつ、不当な流布の価値を限りなく下げられる。
そうすればその価値観の枠組みの中でなら正当な仲介者以外が流布する作品は無意味となり、立派な対抗になり得るだろう。
これを強制させる枠組みを考えるなら、その権利を買えるようにすることにあると思う。 ただ、消費者も権利を買っているという認識をしなければ無意味だ。
そういったものをシステム化するなら NFT のような所有権を分散ネットワークに記録できるものが流用出来ると考えている。