はてなキーワード: 偽善とは
実は現物を新品で持ってたこともあるんだけど、一時の気の迷いで手放しちゃったんだよね
持ってた時と売る前、トータルで3回くらい読んでて、今回で4回目くらいかな
内容以前にまず見た目がボロボロでまず笑ったwww
自分が持ってたのが運よく新品で買えたやつでめっちゃきれいにしてたからさ・・・
ページがちぎれたりするような、読むのに支障が出るようなレベルではなかったけども
んで中身
以下ネタバレあり
10年くらい前とはいえ、読んだ記憶がかすかにあるからまずプロローグでウっとくるよねえ・・・
この遺書だけ全部パソコンで手打ちしてテキストでどっかに保存してた気がする
ここは瀬戸口の真骨頂というか、スワンソングでも腐るほどやってた人間賛歌 生命賛歌 愛よなあ・・・
どういう人生を歩んだ人間が書いたか、ということを踏まえて読むと、言葉から感じられる重みが変わってくるんだよなあ・・・
ネクロフィリアに悩んでる設定
うーんなんでネクロフィリアになったんだっけ
あーなんか最近まったく別の漫画で、母親が学校の男教師とやってたのをみてホモになったのかもみたいなのを見たけどなんだったっけ
あ、西洋骨董洋菓子店だ、よかったー思い出せて
んで姉の行方を調べたりするんよね
んでその調査結果を読者に説明する体で、原作ゲームのあらすじを一通りさらうんよね
渡会さんはなんかキャリアウーマンっぽくなってたね
ヤンキー女ボスみたいなのは引っ越したけど結局うまくいかずにクソ男にはらまされて実家戻ってきてひどい状態になってた
んで肝心の学とリサよ
いろいろと転々としてたけど、学が謎の伝手で仕事を見つけて、新しい戸籍情報とかも得てこれからやってこう、みたいな感じになってた
※その謎の伝手ってのは学の父親だったってのが最後にわかる。この父親とのやりとりは、自分にとってはクラナドのそれよりも心に響いた気がした
んでなんとかうまくやってこうとしてたんだけど、やっぱり学の精神病がそれを許さなかったんだよね
学が一時退院したとき、リサが子供つくろうとして、それが無理だと知ってどうしようもなく泣いてしまったとき、
リサの弟にも居場所を突き止められて、それがリサの無意識のSOSだと賢く悟ってしまったとき
最後はネクロフィリアの弟が、みいちゃん的なかのじょに 「自分が死んだら自分の死体とえっちしていいよ」と言われて笑って終わるみたいな感じだったと思う
葬式でネクロフィリア的な部分にからめた描写あったっけかなあ・・・あるかなと思って読んだらなかった気がする
読み落としかもしれんけど
そうそう、葬式を見て、死体ってのは死と直結しているから嫌悪感があるものなんだみたいなことにふと気づくみたいなのがあったね確かに
とにかく、そんなギリギリの状態で書いた遺書が、冒頭のプロローグなんよね
そんな状態で書いたにしては、あまりにも偽善と希望と懇願に満ちた内容になってて、それがまた胸をしめつけるんよ・・・
んで有名なあとがきよね
にわとり小屋で卵を割ってしまったら、にわとりが自分の割れた卵を一心不乱に食べるのを見てグロいと思った
という。
はー原作への思い入れありきではあるけど、やっぱり氏の小説はこれが一番な気がするなあ
一応、からべようすけ名義のも、時間の限りプレミア本優先で読んだけど、正直いまいちだった
読んだのは、田淵さん(瀬戸口名義)、死体泥棒、ドッペルゲンガーの恋人、プシュケ。
ちなみにプシュケは発売当時にこれまた新品で買ってたけど
なんか文章から感じる狂気とか生々しさとか若さ、プリミティブさ?がほぼ感じられなくなっちゃってる気がするんだよね
カーニバルでショック受けた後に読んだからなおさらそう感じたのかもだけどさ
初期乙一っぽさがある
それぞれ簡単に
田淵さん(ウィキペディアに載ってない)
恐怖コミケ?みたいなやつに出したらしい
そのギャップにあれこれ起きるってのは簡単に想像できると思うしその通りなんだけど、
途中からちょいちょい不穏な描写があって、実はこの世界自体が・・・みたいな話
実はこの学校は飼育者?みたいなのに飼われてるペットが通う学校で、銀の肌を持った実験体みたいなやつが教師やってるとか
叙述トリックっすね
ただ乙一なら短編にする内容を、無理に引き延ばして長編にした感があって、正直冗長に感じてしまった
大きな展開もほぼないし
まあ瀬戸口に期待するのは内面描写だからってのはそうかもだけどさ
青の炎のような追いつめられるサスペンス感があるわけでもないし
でもかなりSF的な設定と話で、瀬戸口にこういうのは求めてねーんだけどなあとか思っちゃった
オチの部分まではちゃんと読み取れなかったけど、途中まで死んだ恋人とクローンを重ねて、クローンがなんかそれに文句言うみたいな感じだった気がする
本人もクローンだったみたいな美女缶的なやつかなと思ったらやっぱり最後にそういう感じの展開持ってきててやっぱりねとなってしまった
ただなあやっぱりSFだとSF専門家とかではないからどうしてもそこの粗とかが気になって瀬戸口本来の求めてることに対してノイズになっちゃう気がしちゃったな
プシュケ
これは当時読んでなんやこれってなって正直はまれなかったけどもっかい読んでもやっぱりそうだった
総じて小説だと思い入れをするまでの尺が足りないんだよなあと思ってしまった
一人称の男が主人公だと全部同じようなキャラになるのも正直引き出しがないよなあとか
あらかじめ言っておくけど、AI推進派の全員がそうだって言いたいわけじゃないよ。純粋に法的な解釈やテクノロジーの未来について語ってる法の専門家やエンジニアみたいな層もいるし、単にネットでレスバしてマウントを取りたいだけの暇人もいる。
でもさ、X(旧Twitter)とか見てると、明らかに「クリエイター(絵師)という存在そのもの」に対する鬱屈としたコンプレックスをこじらせてるAI推進(というか反・反AI?)のアカウントって結構いるじゃん。
そういう奴に限って、プロフィールには「絵とか創作を適当にやってます」みたいな予防線を張ってるんだよね。自分も創作者の端くれです、みたいなスタンス。でも、肝心の自分の作品は全然上げてないの。毎日やってることと言えば、反AI派の絵師の引用RPをして、相手の矛盾や偽善をチクチクつついて回るだけ。
「BLは女性向けポルノなのに擁護して、男性向けの表現規制には加担するのか、ダブスタだ」
こういうことを、いっつも論理的で冷徹なフリをして長文で語ってるアレね。
あれ、ぶっちゃけ「AI技術の発展」とか「表現の自由を守りたい」から戦ってるんじゃないんだよね。単に、界隈でチヤホヤされてる「絵師様」たちの特権意識や、クリエイターとしてのプライドが鼻について仕方なくて、それを叩き潰すための棍棒としてAI論争を使ってるだけなんだわ。
彼らの根底にあるのって、異常なまでの「クリエイターへの憎悪」なんだよ。
だからそういう奴って、AI論争だけじゃなくて、クリエイターが福祉やセーフティネットに頼ることにも異常に噛み付く。「売れるまで生活保護をもらいながら配信や創作活動をするのはモラルハザードだ」「夢を追うなら人生賭けたギャンブルなんだから自己責任でリスクを負え」とか言って、ガチギレするわけ。
これって結局、何だと思う?
自分は日陰でやってるのに、ちょっと絵が描けたり配信ができたりする連中が、アイデンティティを盾にして被害者ヅラしたり、制度の隙間をついて甘えた環境で創作を続けようとするのが許せないの。「俺はこんなに我慢してるのに、あいつらずるい!」っていう、相対的なフラストレーションの裏返し。
「論理的で公平な表現の自由戦士」を気取って、他人のダブスタや偽善を論破してるつもりなんだろうけどさ。隙あらば界隈のヒエラルキーを呪って、特別な才能やポジションを持ってる(ように見える)連中を引きずり下ろそうとしてるその姿、マジでコンプレックス丸出しで痛々しいよ。
他人の粗探しして一日中お気持ち表明のレスバしてる暇があるなら、お前も創作をアップして、素直に承認欲求満たせばいいじゃんって思うわ。
三国時代(220-280年)は、確かに戦乱と残虐行為に満ちた時代でした。しかし、そこにはまだ「英雄のドラマ」と「一定の格式」が残っていました。曹操や諸葛亮のように、教養・統率力と残酷さが同居する人物が多く、敵将の降伏を厚遇するケースも少なくありませんでした。
三国時代や唐代以降と比べても、「民族単位での大規模虐殺」「朝廷交代ごとの皇族・名族の根絶やし」「強制移動の頻発」という特徴が極端に目立ち、単なる戦乱を超えた「文明の崩壊と民族対立の泥沼」といった様相を呈しています。
西晋(265-316年)が統一を果たした直後、皇族同士の権力争いである八王の乱が勃発します。 八人の王(皇族)が互いに殺し合い、短期間に大量の皇族が処刑・自殺・暗殺されました。この乱は単なる宮廷内紛ではなく、:「朝廷の交代=皇族絶滅」:という悪しきパターンの始まりでした。
晋は乱の影響で極度に弱体化し、北方の異民族(五胡)を傭兵として大量に呼び込みました。これが後の大混乱の直接的な引き金となります。
後漢は北方の異民族(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など)を「胡人」と呼び、辺境の防衛力不足を補うために積極的に中華域内へ移住させ、兵として動員しました。 特に:西涼(現在の甘粛省・青海省あたり)の軍閥は、:胡人の騎馬戦力を基盤とした強力な勢力として台頭しました(董卓や馬超の西涼軍が典型例です)。
この政策は一時的に国境を安定させましたが、結果として大量の異民族が内地に定住する事態を招きました。三国時代にはまだ抑えられていた民族間の緊張が、西晋の衰退とともに爆発的に表面化したのです。
西晋の崩壊後、北方(華北)は:五胡十六国時代と呼ばれる極端な分裂期に入ります。:匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五つの主要異民族が次々と王朝を建て、漢人王朝も含めて20近い小王朝が乱立しました。
・石勒(後趙、羯族)は漢人を大量に坑殺(生き埋め)する「漢人殲滅政策」を実行。
・冉閔(漢人)はこれに報復し、羯族を民族ごと殲滅しようとしました(数十万人規模の虐殺)。
・各王朝の交代のたびに、勝者側が敗者側の民族・皇族を根こそぎ殺すパターンが繰り返されました。
北方の北朝と南方の南朝に分裂した後も、残虐性は収まりませんでした。
鮮卑族の北魏が華北を統一しましたが、皇族・貴族の粛清が絶えませんでした。:河陰の変(528年)は、:爾朱栄が北魏の王公貴族約2000人を一度に虐殺し、洛水を血で赤く染めました。
宋・斉・梁・陳の各王朝交代のたびに、前王朝の皇族・名族がほぼ全滅する:「禅譲の茶番」が繰り返されました。:幼い皇帝を無理やり即位させて形式的な禅譲を行わせ、用済みになったら即座に殺害するという、偽善的で残酷な手口が常套化しました。
589年に隋が南北を統一し、618年に唐が成立することで、この長い残虐時代はようやく終わりを迎えます。 隋・唐は科挙制度を拡大し、血統ではなく能力による官僚登用を推進することで、門閥貴族の力を弱め、中央集権を強化しました。しかし、唐の成立も北周の関隴貴族(鮮卑系混血が多い)を基盤としたため、完全な「漢人王朝」とは言えない複雑な出自を持っていました。
英雄同士の知的な激突と、一定の格式が残る「名士の戦い」の時代。
民族間の生存競争が激化し、民族単位の虐殺応酬と一族誅滅が常態化。教養と残虐さが分離し、文明の形式すら崩壊した。
科挙による能力主義が広がり、士大夫階級が成立。門閥貴族の血統支配が崩れ、比較的安定した時代へと移行。
後漢後期の胡人移住政策が遠因となり、西晋の自滅が引き金となって始まったこの混乱は、中国史の中でも特に暗く、虚無的な時期と言えます。
ローマ帝国末期が異民族の軍事力に依存し、崩壊の遠因となったのと似た構造を持っています。
この時代は、単なる戦乱ではなく、「出自主義の呪い」と「民族対立の連鎖」がもたらした、人間社会の極限的な暗部を象徴しています。
https://anond.hatelabo.jp/20260423130021
https://anond.hatelabo.jp/20260422180001
南朝宋の順帝(劉準)が、禅譲後に殺される直前、涙を流しながら叫んだ言葉として正史に残っています。
・南朝宋の末期、権臣蕭道成(後の南朝斉の高帝)が実権を握り、幼い順帝(当時11歳)に禅譲を強要。
・順帝は禅譲の儀式を終えた後、宮中から別の宮殿に移されるはずでしたが、実際にはすぐに王敬則らによって殺害されました。
・死の直前、彼は王敬則の手を叩きながら上記の言葉を残し、周囲の家臣たちも皆泣いたと記録されています。
南朝は比較的「文明が残っている方」だったにもかかわらず、朝廷の交代のたびに前王朝の皇族がほぼ根絶やしにされるパターンが繰り返されていました。
三国時代の終わり(蜀・呉の滅亡)は、演義では悲壮感がありながらも、まだ「英雄の物語」として美しくまとめられています。
・劉禅や孫皓は降伏後も比較的穏やかに扱われ(少なくとも演義では)、皆殺しのような極端な粛清は描かれません。
・しかし晋以降、特に南朝では、禅譲 → 即位 → 前王朝皇族のほぼ全滅というサイクルが常態化。 順帝の叫びは、その極端な恐怖と絶望を象徴しています。「帝王の家に生まれること=悲惨な死を待つ運命」という認識が、当時の人々にどれほど深く染みついていたかがわかります。
蕭道成側は形式的に「順帝から帝位を譲り受けます」という儀式を執り行わせます。 順帝は幼いながらも、涙を流しながら禅譲の詔を書かされ、玉璽を渡す。
儀式が終わって宮殿を移る途中で、王敬則らに殺されます。 つまり「禅譲」という「平和的な政権交代の象徴」をわざわざ演じさせておいて、その意味を完全に無にする行為です。
・禅譲をやれば「前の皇帝が自ら譲った」形になり、道義的にマシに見せられる。
・しかし実際には、禅譲が終わった瞬間に前の皇帝を殺すことで、「後顧の憂いを断つ」。
三国時代にはまだこの手の「禅譲後の即時殺害」はほとんど見られませんでした。曹丕が漢の献帝から禅譲を受けた後も、献帝は一応生きており、比較的穏やかに扱われています(演義ではもっと美化されていますが、正史でも即殺ではありません)。
それが晋以降、特に南朝では「禅譲 → 即位 → 前王朝皇族のほぼ全滅」がほぼルール化してしまった。
この「禅譲の茶番」は、南北朝時代を通じて何度も繰り返され、本当に気分が悪くなります。 形式だけは「文明的」なのに、中身は完全に野蛮——そのギャップが、三国志の英雄時代との落差をより残酷にしています。
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結論だけ言うと、その論は「やる偽善」批判としては割とスルドいけど、前提と射程がかなり偏ってる感じです。
要は、「結果としての善」が出ている行為を、わざわざ心のキレイさ勝負に引きずり込む言説(やる偽善/やらない善論争)そのものを茶化してる、って理解でよさそうです。
| 観点 | ポイント |
|---|---|
| 定義の切り分け | 動機と結果をきっちり分けて、「結果は善ならとりあえず善だろ」という立場を取っている点は筋が通っている。 |
| スローガン批判 | 「やらない善」「やる偽善」という言い回し自体が、定義ガバガバなまま雰囲気で流通している問題を突いている。 |
| メタ視点 | 「一般論ぽく振る舞う素人倫理」がネットで大量発生している気持ち悪さを、「二重の馬鹿」とメタ視点で表現している。 |
| 立場 | ざっくり説明 |
|---|---|
| スローガン側 | 「やる偽善 vs やらない善」は、動機重視と結果重視をごちゃっと一言にした雑な標語。 |
| 引用文側 | 心の純度マウンティング自体を「二重の馬鹿」と切って捨てるメタ批判として読むとしっくりくる。 |
| 読み方として | 善行評価を完全客観とみなす前提が強いので、ガチ哲学というより「ネット偽善論争を煽るテキスト」として味わうのがちょうどいい。 |
最近、寄付が趣味になってきた。寄付って言ったらお金持ちが何百万何千万の資産を…みたいなイメージがあるけど、実際のところ1000円とかでも全然できた。
寄付を募ってる団体って、大概誰かの命のために活動してる。直接的にそうでなかったとしても、未来の暮らしをより良くするための研究機関だったりするから、行き着く先は結局誰かの命だ。1000円から救える命があったりする。
1000円って言ったら、外食やコンビニ飯でもう一品買っちゃおうかな…を数回踏みとどまったら捻出できる金額だ。
3000円とかだったら、飲み会一回スキップしたら捻出できそう。その踏みとどまりやスキップで、誰かの命を救った自分になれる。ちょっとしたヒーローじゃん。
自分は孤独を感じたり自分に自信が無くなってきたら、その時目に入ったよさげな活動内容の団体に寄付したりする。
死んだンゴのビッグウェーブに乗じてがん研に寄付してみたり、献血ってしてみたいけど日常的に薬飲んでるからできないなと思って代わりに赤十字に寄付したり、SNSでバズってた投稿見て、医療ケアが必要なこどもたちを引き取って養育している施設に寄付したり、他にも色々。スマホとクレカがあればオンラインでできるし、5分もあれば完了する。全部大体2000〜3000円くらい。趣味だから。
正直に申し上げて偽善だし自己満足ではある。だって微々たる金額だし。人のためにやってるフリして結局は自分のためだし。でもそんな偽善やら自己満足やらが積み重なったら、いつか誰かの命を救った内の一人になれるな、自分は誰かの命を助けたんだな、って自信がついたりする。社会と繋がってる感覚が湧いてくる。ほらやっぱり自分のためだった。でも同時に誰かのためになってる。それって最高で、みんなハッピーじゃん。だったらもう、偽善でも自己満足でもいいじゃん。
研究室の空気は、日を追うごとに密度を増し、吸い込むだけで肺の奥が重くなるような錯覚を覚えさせていた。そんな折、G子の元に石田教授から一通の簡潔なメールが届く。
『H男くんと同席で、今後の共同研究についてミーティングを行いたい。11時に教授室へ』
G子はその画面を見つめたまま、微かに唇を噛んだ。
彼女の瞳には、すでにA子や壊れていったB子が抱いていたものと同じ、光のない虚無が宿り始めている。
定刻、H男と共に教授室を訪れると、石田はいつものように深く椅子に腰掛け、二人を温厚な微笑で迎えた。ミーティング自体は滞りなく進んだが、G子は終始うつむき、H男が活発に意見を出す傍らで、機械的にメモを取るだけだった。
数時間後、解散したばかりの二人の元に、石田から一通のメールが届く。宛先はH男、そしてCCにはG子の名が入っていた。
件名:極地での指針について
H男くん、先ほどの議論の補足だが、ふと思い出した「謎かけ」を一つ。
『極地方において、磁気嵐や吹雪で方角を完全に見失った時、探検家はどうやって進むべき道を見つけると思うかね?』
H男はスマホの画面をスクロールし、首を捻った。最近急にG子の化粧が濃くなったけれど、何かこのことと関係あるのかしらん。彼は極めて真面目で研究熱心だが、石田のこうした「哲学的な余談」に隠された真意を読み解くほど、海千山千の男ではない。彼はすぐに返信を打った。
彼には少しの茶目っ気があるのだ。
『正解は「氷の空(アイス・ブリンク)」と「水の空(ウォーター・スカイ)」を見分けることだ。
氷に覆われた大地の上空は白く光り輝くが、海面の上は氷がないため、太陽光の反射率が極端に低くなる。その結果、遠くの空に「暗い影」が映し出される。それを目印に海、つまり開けた場所を探すのだ。
……もっとも、これは私が物の本で読んだだけの知識だがね。我々の研究も、このようなものだ』
H男はそのメールを読み終え、
「なるほど、流石は先生だ。Wikipediaを編集するだけのことはある」
と感心したように独り言を漏らすふりをした。彼は、石田が自分に「進むべき道を見失うな」という教育的なメタファーを与えてくれたのだと、好意的に解釈した。性質のまっすぐな、根が良い男なのだ。
しかし、CCでその文面を受け取っていたG子の指は、激しく震えていた。
H男は知る由もなかった。
このメールが届く数日前、すでにG子は石田の「餌食」となっていた。閉ざされた教授室で、逃げ場のない言葉の暴力と、拒絶すればキャリアが死ぬという無言の圧力。彼女にとって、石田が語る「暗く見える海面」とは、希望の光などではない。
それは、真っ白な偽善(アイス・ブリンク)に覆われたこの研究室の中で、唯一、自分が引きずり込まれた「底なしの暗渠」そのものを指していた。
「物の本で読んだだけ」という石田の免罪符のような一言。それは、G子の身に起きている凄惨な現実を、あたかも「どこか遠い世界で起きている客観的な事象」として処理し、責任を回避する石田の不気味なシグナリズムだった。
H男が「勉強になりました」と能天気に返信を打っているその裏で、G子は確信していた。
石田は今、H男という「何も知らない第三者」を証人として介在させることで、自分とG子の間に横たわる歪な関係を、より強固な、誰にも暴けない密室へと変貌させたのだ。
白く輝く氷原の向こうに、暗く濁った空が見える。
これは日米の優劣を断定する記事ではない。
「寄付額の多さ」をそのまま「親切さ」とみなしていいのかを考えるための、問題提起である。
よく知られた比較として、アメリカの寄付総額は日本の26倍、人口一人あたりでも大きな差があると言われる。
この数字だけを見ると、「アメリカ人の方が親切で、日本人は冷たい」という結論に飛びつきたくなる。
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寄付の理由としては「社会の役に立ちたい」という説明がよく挙がる。これはもちろん本当だと思う。
ただ、それだけでは説明しきれない。
困っている人を目にしたとき、何もしない自分に居心地の悪さを感じる。
その不快感を解消する最も分かりやすい行為の一つが、寄付になる。
ここで重要なのは、寄付を「善意か偽善か」で切り分けることではない。
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「アメリカ人の性格が特別に優しいから」で片付けると、構造が見えなくなる。
寄付行動は、個人心理だけでなく制度と環境によって押し上げられる。
人間関係が流動的な社会では、長年の付き合いで信頼を積み上げるより、短期で伝わるシグナルが効きやすい。
寄付はそのシグナルとして非常に強い。金額も実績も可視化しやすいからだ。
「自分は社会に責任を持つ人間だ」というメッセージを、短時間で伝えられる。
税制上の優遇がある社会では、寄付しないことは経済的な機会損失に見えやすい。
さらに、寄付を当然視する文化があると、社会的評価の不安も重なる。
結果として、
こうした可視化は、寄付した人には正当化を、寄付していない人には焦りを生む。
その循環が続くと、寄付は「立派な行為」から「しておくべき行為」に変わる。
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日本で寄付が相対的に少ないとして、それは即「不親切」を意味するだろうか。
日本では「寄付しない不安」よりも、「参加しない不安」「役割を果たさない不安」が強く働く場面が多い。
この違いを無視して「寄付額だけ」で親切を比較すると、見えているものは文化差ではなく、測定方法の偏りかもしれない。
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SNS投稿、企業キャンペーン、寄付をめぐる評価の共有などを通じて、「見える親切」が広がっている。
ただ、「見える親切だけが親切」という空気になったとき、これまでの無数の不可視な親切が過小評価される。
そのとき人は、「本当は十分やっているのに、まだ足りない」と感じ始める。
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「アメリカの寄付は日本の26倍」という事実が示すのは、単純な親切度の差ではない。
むしろ、ある社会が制度と文化によって、どれだけ人々の行動を寄付に集約できるか、という構造の差である。
だから問い直したい。
私たちが日々担っている、見えない責任や関係の維持は、どこに数えられているのか。
寄付を増やすべきかどうか以前に、まず「何を親切と呼ぶのか」を自分たちで決める必要がある。
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昨日の朝このまとめを見て、とても重く沈んだ気持ちになった。
仕事も手につかず、この人のことを考えていた。
「思想強いと思われるのが怖い」
とても理解できる。
現代日本を生きる我々にとって他人にどう思われるかはとても重要なことだ。
そんな中で、それでも勇気を出して平和を維持するため、反戦を訴えるために何をするべきか考え、行動を起こしたこと
そこだけ見ればそれは素晴らしいことのはず。
私がここで名前を隠して、やんやと誰かを吊し上げるようなことしかしてないのに比べたら。
やらない善よりやる偽善。行動に移したこの人の方が、反戦に寄与しているのかもしれない。
この人は悪いことはしてないし、悪気なんかもちろんなく、自分が正しいと思う背景も理解できる。
誰のことも責めることはできない。
多分もう、「その時代」が巡ってくることは避けられないんだろうな。
なんとなくそんな気はしていたが、その現実味を見せられてしまった。
この人が反戦活動をする理由は、「平和が大好き」で「今の生活が続いてほしい」からだそうだ。
あたかも、アイスクリームでも選ぶかのような、手に入って当たり前のものを選ぶような。
この人にとって平和はそこあって当たり前のもので、なんなら好きとか嫌いとか、こちらが値踏みする対象となるものなんだ。
そしてその傲慢さに一切気付いていないような、イラストの周りに並び立つ呑気な言葉たち。
「パンがないならケーキを食べればいい」を天然でやってるようなもの。
どんなに平和に暮らしたいと願っても、逃れられずに戦火の中死んでいく人たちがいる。
今この瞬間にも。
その人たちはきっと、夢が叶わなくたっていい、好きなゲームができなくたって、美味しいものが食べられなくてもいい
ただ生きたい、友達が、パパがママが、幼い我が子が、妹が、生き延びてほしいと、願ったはずだ。
でもそれは、そのひとの最善を尽くしたって叶わず、死んでいる。
そんな状況にいる人たちがこのコマをみたらどう思うだろうか?
ニコニコでピースして、「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」とか書いてあるこのコマを。
かつて広島で戦争に巻き込まれ、大火傷を負って、家族を失った人に時を超えて会えたとして、
「私は平和が大好き!だってごはんにおふとんにしぜんにマンガにゲームが大好きだから!」なんて言えるのか?
「平和は尊い」とは平和教育でよく言われる言葉だ。でもそんな言葉はもはや形骸化しているのか。
「ごはん」も「おふとん」も「休日」も「旅行」も「しぜん」も「マンガ」も「アニメ」も「ゲーム」も全部失ったとしても得難いもの、
それが平和ではないのか。
でもわかってる。そうじゃないんだよね?そこまで考えてないんだよね?
でもさ。
考えすぎてしまう性なら是非それを発揮して考えて欲しい。
どうして過去に、そんな犠牲を出してまでも戦争をしたのか、そうなるまで続けてしまったのか?
どうして今世界に、戦火に巻き込まれて無念の死を遂げなければならない人がいるのか?
どうして今日本に住む我々は、戦火に巻き込まれず豊かに自由に、「続いてほしい」と思える暮らしができているのか?
あなたの言う「反戦」は、自分の周りだけの話なのか?世界中の全ての人に平和に生きてほしいと思ってるのか?
前者なら、じゃあ、自分の平和が脅かされ、「今の生活」が脅かされた場合、それを維持するために「自分の周り以外」が平和を失うことはOKなのか?
日本人が全員死んで、そこに住めるようになったら得する人はたくさんいる。
そうでなくても、私たちから「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」を奪う(例えば日本語を禁じるとか文化を奪うとか)ことで得する人はいる。
でもその人たちは、80年、それを大々的にしてくることはなかった。
なぜか?
それをした場合のデメリットがメリットを上回るように調整維持することで、日本は今平和を維持している。
私たちの平和は、ただそこにあるのではなく、断続的な努力により維持してきたものだ。
他の大抵の国も同じ。他国に「攻める < 攻めない」と思われるように立ち回っている。
その方法は、例えば「攻めてきたらこっちも攻め返しますからね、わたし結構強いですよ」と軍事力アピールするとかだ。
でもそのバランスが崩れた時、「攻める >= 攻めない」になった時に戦争は起きる。
日本の場合も、「攻める < 攻めない」を維持してきたという点では同じ。
「攻めない方がいいだろう」と思われるようにうまいこと立ち回ってきた。
で、そのように立ち回ってきたのはたとえば、選挙で選ばれた政治家たちであり、
そのバランスを守るためにどうしたらいいのか?
もしくは、そのようなバランスによる危うい平和を根本から覆す方法はないのか?
一生懸命考えて、それに見合う行動をする。
デモに参加するのもいいと思う。でもそこに持っていくイデオロギーが、「平和大好きだから戦争反対」では全く足りてない。
そんなのみんなわかってる。親もわかってる。
でも親は、虫歯が進行するよりは歯医者に行く方がマシだと判断し、「虫歯になったら歯医者行くからね」と言う。
それに対して「歯医者反対デモ」として、歯科治療をやめろと言っても何も解決しない。
したくないのは誰だって同じ。
そうじゃなくて、どうすればせずに済むか考えることだ。虫歯予防を頑張ることだ。
言いたいのは「それ(歯医者に行く/戦争をする)をした方がいい状況を作らない努力」として何を訴えるのか?だ。
私の意見としては、そもそも平和なんてこの世には存在していない。
日本の平和な生活だって、突き詰めれば誰かに銃口を向けた結果であり、睨み合いの上に成立している。
そんなふうに維持している平和を、無邪気に「大好き」などと言ってるのを見ればまあ鳥肌どころではない。
そういう緊張関係以外の平和の実現方法を、たくさんの哲学者たちが考えてきた。
(例えばカントは「永遠平和のために」で「公平性」、均等にするのが全員にとっての益となる形式を作っていくことの重要性を説いた。)
でも結局この世では、緊張関係が平和な国の平和を維持している。
日本の平和教育は「平和の尊さ」と言いつつそこまで考えさせないことが多い。
歯医者で言えば、「歯医者に行ったらどんな悲惨な目に遭うか」というところばかり教える。
それも大事ではあるが、
なぜ虫歯になるのか?予防するにはどうしたらいいのか?の部分は重視されない。
だからこの人がただ「歯医者反対!」にしか思い至らないのも、責めることはできない。
私はたまたま大学で取った授業で、こういうことを考えるきっかけを得た。あれがなかったら私もこうだっただろう。
そして日本の平和教育がそうなってしまっていることも、複雑な事情が絡んでのことだろう。だからそれも責められない。
なるようになっただけ。
ここからが割と本題なんだけど、
どんなに頑張って予防していたって、虫歯になってしまう時はある。
戦争も同じ。
私が思うに、戦争はもう、自然災害みたいなもんなのかなと思う。
(ロジェ・カイヨワの「戦争論」でそう思ったので、興味あったら読んでみてください)
誰もやりたくないとしても、止めることなんかできない。
だから、自然災害と同じで、それに備えて心の準備をしておくしかないんだ。
自分はどうするか?
何を選択するか?優先するか?
何を守るか?
何を選んだら、一番マシなのか
今のうちに考えて、決めておこうと思ってる。
そのあと
(たとえばすぐにでも)
死ぬとして
その瞬間に
どの選択なのか
今のうちによく考えて、決めておこうと思ってる。
なんというか、「善意の可視化」ってここまで洗練されると、ほとんど芸術作品だなと思う。ザ・ギビング・プレッジ。億万長者たちが「資産の大半を寄付します」と誓う、あの取り組み。名前だけ聞くと、倫理の教科書の最終章みたいな響きがあるし、実際に登場人物も絵に描いたような成功者ばかりで、いかにも人類の進歩っぽい空気が漂っている。
ただ、少しだけ中身を覗いてみると、あれ、これ思ってたのと違うな、という感触がじわじわ来る。まず、この誓い、法的拘束力がない。つまり「やります」と言っているだけで、やらなくても特にペナルティはない。いやまあ、道義的責任とか評判とかはあるんだろうけど、それって言ってしまえば各自のセルフマネジメントの問題であって、仕組みとして担保されているわけではない。
しかも「資産の大半を寄付する」というのも、いつやるのかは基本的に自由。生前に配るのか、死後に回すのか、あるいは財団に積んでおいてゆっくり配分するのか。そのあたりの裁量が広すぎて、「誓った」という事実以上の具体性があまり見えてこない。極端な話、本人が亡くなった後にどう処理されるかなんて、外からは検証しづらい。
さらに言うと、寄付の行き先もかなり自由だ。自分の設立した財団に入れて、そこから自分の関心のある分野に配る、という形が多い。もちろんそれ自体は悪いことではないし、公共性のある活動も多いのだけど、「社会に還元する」というよりは「自分の価値観で資源配分を続ける」という側面も否定できない。税制との絡みも考えると、純粋な自己犠牲というより、かなり合理的な選択でもある。
こう書くと、じゃあ全部偽善なのかというと、さすがにそこまで単純でもない。実際に巨額の資金が慈善活動に流れているのは事実だし、その恩恵を受けている人も確実にいる。ただ、そのインパクトが「誓い」というフォーマットにどれだけ依存しているのか、という点になると、ちょっと怪しい。もともと寄付する人はするし、しない人はしない、という身も蓋もない現実が透けて見える。
結局のところ、この取り組みの一番の成果は、寄付そのものよりも「寄付することがかっこいい」という物語を富裕層のあいだに広めたことなんじゃないか、という気がする。社会的ステータスとしてのフィランソロピー。その演出としては非常によくできているし、メディア的にも扱いやすい。でも、制度としての実効性を問われると、途端にふわっとする。
なんとなく、「いい話」であること自体が目的化している感じがある。批判すると野暮っぽく見えるし、称賛すると少し乗せられている気もする。その微妙な居心地の悪さを含めて、現代的な取り組みだな、と思ってしまうあたり、こちらもだいぶ冷笑的になっているのかもしれない。
コーパス(小納言)だと「頭の中がお花畑」という用例が2005にある
一方で、国会図書館デジタルコレクションで揶揄する意味の「お花畑」の用例は、1990~2026の範囲で探した限りこれが最古だった。(追記メモ:「最古」って表現が後から読み返したとき誤った印象を生む?調べ始めるとっかかりとして最新から眺め、2000の用例を見つけ1990まで遡り手応えが全然ないので検索打ち切り、その範囲でもっとも時代が古いくらいの含意)
これが一番典型的な用例か
樋口, 直人 (2015-09-25)
。ネット右翼が「お花畑」56という表現で二分法に対する懐疑を揶揄するの…えてりゃいいやっていう、そういう時代じゃない。平和ボケっていわれる人たちがね、何とか気づいて
「平和ボケ お花畑」「右翼 お花畑」「左翼 お花畑」「学生運動 お花畑」で検索した (そう、学生運動付近の出来事を指して「お花畑」と言及する検索結果が見当たらないのよな、だから語彙として新しい?という予断になっている)
どうしても本物のお花畑とか「高山植物の群生地」が混ざるから捗らない
しかし、どうにも「のんきな」みたいな、小馬鹿に……と言うと明らかに言いすぎなのだが……するようなニュアンスと解釈できなくもない用例もまれにあったんだよなあ
成人男性に対して「少女趣味」というような感じというか、ちょっと違うか どれだったかな、メモっておけばよかった、また検索結果を舐めなきゃ
真面目にやるなら
「お花畑だ」「お花畑な人」「お花畑に行った」「頭の中がお花畑」のように前後の構文まるごと確認して分類分けとかしなきゃいけないのだろう
まあ真剣にやると疲れるんでね……
偽善の爆発 (ラッコブックス. 初級人間学講座 : 時事問題講義 ; 1)
関連があるかどうかはわからないが、この文脈、ニュアンスが合流した可能性も今は否定できない もっとしっかり調べないと
青空文庫は軽く探したが手ごたえなしだったのでしっかり舐めて見ていない
この検索結果を見るに
・2000~2005年の間にネットスラングとして一般化していそう
・遅くとも2015年には政治的なニュアンスが付与されていそう
今となっては個人ブログ、まとめブログなどから探す手法が現実的か
なにかの漫画とかアニメとか小説とかドラマとか、あるいは有名人の発言とかがきっかけで一気に普及した可能性も否定できない
嘘、しない
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「お花畑」の検索結果(2,902件) - はてな匿名ダイアリー - 146ページ
匿名はてなダイアリーだと2007-01-07が最古
2007年1月のいくつかの投稿を見るとすでに揶揄としての「お花畑」が定着していることがわかる
しかし今2026と微妙に構文が異なる気がしないでもない 興味深い
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mixiだと2005年に「電波お花畑」のような表現を拾えた……そうか、「電波」かあ
新しい検索キーワードに気付いたとき『都市伝説解体センター』みたいだなと思い少し笑う
1990~2000頃だけ使われた示準化石めいた死語があれば検索に便利なのだけれど
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2chにそのものずばり「電波・お花畑板」ってのがあったのか!
ずいぶん遠回りしてしまった
無知による恥の感情を今感じているが、必要経費 むしろ倒錯的に「私は無知です!だから今調べてます!学び!」という電子的露出狂めいた感情に昇華していく
しかし、1999年時点で板の名前になる程度にはスラングとして成立していたということ?
1990~くらいのサブカル?スピリチュアル?とか、そこらへんに源流があるのだろうか
「サブカル」が曖昧な言葉、具体的に何を指すか分解した方がいいはず
これまでまったく触れてこなかった領域だな この時期の情報はインターネットに表れにくいので文献など資料にあたる必要が出てくる
なんだろう、宝島とか、ムーとか、と学会とかそこらへん?全然詳しくない、一旦この時期のサブカル文化を説明した本とかに目を通して全容を把握できると嬉しいのだけれど
知っている人は知っているというか、ここらへんの事情に詳しい生き字引が普通にどこかにいそうな気もするわね
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「「現実を直視しない/都合のいい解釈をする人」を指す侮辱・嘲笑語の歴史」を追いかけているのと同じだな、これ……「平和ボケ」「電波」「お花畑」
そういえばある時期のサブカル文化はめちゃくちゃ露悪を是としていた、みたいな話を聞いたことがあるような そこに接続するのか? 延々と掘れるなこの話 面白い
「鬼畜系」ね
露悪な趣味の文化圏にいる人が露悪でないモノを指すときにもっぱら多用していたワード、というものがあるのでは……という勘
この勘に拘泥せず違うっぽいとなれば即棄却すること
『ゴーマニズム宣言』を通読したら「お花畑」という言葉選び登場しそうな気もするのだけど(やりたくないなあ) 『SPA!』とか『朝まで生テレビ!』とかそういうのに登場しそうな言葉でもある
うーん調査打ち切ろうかな、深追いしたら悪意に触れすぎて精神の健康に影響を及ぼすかも とりあえずデジコレで追えるぶんだけ追ってみるか 『週刊現代』だとスラングの「お花畑」の用例無かったがなあ
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頭の中に咲くイメージと頭の外とか上とかに咲くイメージとでズレ、シフトがある 面白い
漫画的表現で頭の上に一輪〜数輪、花が生えてる描写は確かにある←「直系」と考えてよい?どうやればそれを評価できる?なんか類似の話を探す グーグルスカラーとかで
ビジュアルイメージの検索はデジコレでは出来ない、探す場所を変える必要あり←どこ?
デジコレにしろコーパスにしろ検索対象のデータの偏りは意識すること
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お花畑 | ブログ | 小林よしのり全宇宙(漫画家小林よしのり公式サイト)
例えば「憲法9条があれば、他国は日本に攻めてこない!」といったような、極めて現実味に欠けた定番の左寄り思考を指す「お花畑」という表現はすっかり定着しています。
「すっかり定着」という言葉選びから「昔は定着していなかった」というニュアンスに読み取れる
なんというかいかにもこういう言葉が飛び交いそうな世界にいるであろう人がその認識なら、スラングとしての成立は比較的新しそうにみえる、という予断を補強する内容ではある←ブログ著者に詳しくない、あとで調べよ 「大須賀淳」……参画は比較的最近? 情報として弱くなったか
『危険な思想家』の呉智英もそうだが登場人物の名前で調べると同じ名前が関連項目に登場しがちというか、「界隈」がありそうというか この感覚は予断か
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「頭に花が生える」という漫画的表現の初出を調べるなら以下を参考に行うこと
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - posfie
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そういえば「お花畑」で調べていたが「花畑」で調べるのを忘れてた これは重大な見落とし 後で調べる この検索結果によっては方針が大きく変わるかも
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NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 単行本(ソフトカバー) – 2014/10/9
宮沢 章夫 (著, 編集), NHK「ニッポン戦後サブカルチャー史」制作班 (著, 編集)
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あっそうだ
『花』が“夢見がち・非現実的”というニュアンスを帯びる用例がいつ頃から見られるか?について調べる……とすればいいのでは?
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インターネット普及後の時代だと「コーパス/デジコレに載らない類の情報はある」というのはイメージできるのだけど
「コーパス/デジコレに収録されるような文献に記載されない戦後〜インターネット普及以前に使われた語彙」とは何?をしっかり自分がイメージできていないのかもしれないな
それをしっかり言語化して、どこを探せばいいかを認識して、場合によっては草の根をかきわけるような調査をしないといけない、ということかも……か
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解消のため一旦塩漬けにして全然別の別のこと考えよう 保留にしていた「日本の江戸、明治、大正、昭和(戦前、戦後)で「静電気」という概念がどのように変化していったのか」とか 途中まで調べてて読むべき論文が沢山出てきたから中断したんだったな メモをまとめるのにObsidian使ってみるか WIP
偽善も善なら偽愛も愛。79点。
エキセントリック自己中女の松たか子の夫が離婚届を出しに行く当日、線路に落ちた赤ん坊を助けようとしてうっかり電車事故に巻き込まれて死亡してしまう。いろいろあって仕事の帰り道、トンネルを通過するとトンネルが崩落。気が付くと松たか子は15年前の2人の出会いの日にタイムリープしていた。そこで若き日の夫に出会った松たか子はこの現象を狙って起こせることを知り、あの悲劇を回避するため作戦を開始する。
みたいな話。
はじまって松たか子めちゃめちゃおばさんやないか!と思って見てたら、ちゃんとオシャレしたら美人になってて、タイムリープ後に出てくる15年前の松たか子はマジで15年前こんな感じだった!って感じだったので女優さんってすごいなぁと思いましたよ。
で、まぁタイムリープラブストーリーなんだけど、個人的に松たか子の空気読めない自己中女っぷりが全然好きになれないし「いかにも女性に好かれそうな物静かで気弱そうな学者系イケメン陰キャ」の若き日の夫にも全然感情移入できなくて、タイムリープしてきた松たか子と若き日の夫が恋し直す展開はま~じで興味ないわ~と思って見ていたのでたぶん想定された視聴者層ではないんだろうと思う。
それでもタイムリープを活かしてなんとか現在、未来を改変しようとあれやこれやと手を尽くすエンタメ的な工夫も面凝らされてるし、失敗の仕方もリアルで愉快だし、完璧な回避法を思いついた!と思ったら現実ではさらに大惨事になっていてあか~んってなるのもよい。若き日の夫に「あんまりドキドキさせないでください」って言われたのがメロすぎて5回くらいそのセリフ聞くためだけにタイムリープして最終的にスマホで録音するところとかは流石に笑ったし、タイムリープものとしての強度は非常に高くてよくできてる。
つーか、同じ場所にしか戻れないバタフライエフェクト(映画)なんだよなぁこれと思って見てたら、最終的に主人公は「私と結婚せんかったら助かるんちゃうか」ってなって、時間制限もあってループを断ち切ることを決心する。この展開もバタフライエフェクトやなぁと思いつつ、ええこと思いついた!これで完璧やん!ってウキウキして家を出る前にふと「これでよかったんだっけ」って感じで無言で振り返って逡巡した後、それでも家を出る松たか子には胸をギューッとさせられた。
そしてそこから話は急展開してついにそのループで松たか子が未来から来ていて夫の死を回避するためだったことが本人にバレてしまう。そこで若き日の夫と現在の松たか子の2人で離婚に至ったのはどっちが悪いのかバトルを再現するのは愉快だし、そこで夫の「まだ起きてないことで僕を責めるのはおかしい!」という反論に松たか子の「それはそう」ってのは笑う。なんだかんだ台詞がいいんだよなぁ。
そして死を回避するためには私たちは結婚しない方がいいと松たか子が告げ、夫は「諦めるの早いよ」と返す。そこで松たか子がなんか言おうとしてぎゅっと耐える。で、何度も何度もやり直したポラロイドを出してこんなにやってもダメだったって見せるんだけど、一方で2人の冷え切ってしまった結婚生活を思い返して「諦めるのが早かったんじゃないか」と後悔してたんじゃないかなって思うんだよな。
で、未来でずっと松たか子が引っかかっていた「なんで私を大事にしてくれなかったのに知らん赤ちゃん助けて死ぬんだよ」を若き日の夫にぶつけるんだけど、夫はそれでも、松たか子がそれで傷ついてるのを知ってもそれでも助けるって言うんだよね。松たか子はそれが夫という人間だったということを知る。
そして夫は赤ちゃん助けて死ぬんだったらそれはもうしょうがない、それでも今の若き日の君と結婚したら15年後の君にまた会えるんだよね?と死と未来と今の松たか子を肯定し、2人は再び出会い直し、結婚し、今度は2人で幸せな家庭を築き15年後、離婚届は手にせずいい夫婦のまま夫は家を出て死亡する。
ここが序盤のどんどん冷え切っていく家庭の過程の鏡写しのようになっててさすがに胸が熱くなる。
最初思ったんだよな。若き日の松たか子は若き日の夫が「15年後の松たか子に出会うため」に自分を愛している「ふり」をされてるんだよな。それって偽善、欺瞞じゃないかって。でもさ、結婚して目の前のその人を幸せにすること、し続けると誓うことって未来のその人と結婚することと同意じゃないか?と思って、まぁ、いい話やなって。
愛が冷え切っていたはずの松たか子が自分の知らない間に何度も何度も過去に戻って、何度も何度も自分の死を確認しなおして、そうして最後には自分を諦める決断までして、そうしてそれを知ったからこそ、今度は自分が何も知らない松たか子のために何度も何度も「今日死んだ未来から帰ってきたと思って」愛そうって思ったんじゃないかなって。
この非対称で双方向の愛はさすがに美しいと言わざるを得ない。
2人の間で何度も話に出るハルキゲニアが表だと思ってたのが裏だったし前と思ってたのが後ろだったっていうのも、愛してないと思ってたけど愛してたし、愛してない未来から来たことで愛してる未来が訪れる、本当のことはその場ではわからないというこの作品を表していてよかった。あとは演技プラン、ディレクションがよくて途中でも話したこれでよかったんだっけ?の逡巡もそうだし、最後に夫の死後、カレンダーから手紙が出てきて「なんやこれ」と思って開けてみたら夫からの手紙だってわかったときにパッと手紙を閉じちゃうちょっとした演技もよかった。
ただ、夫の恋敵が夫の死後の松たか子のもとに「お前はクズ嫁。夫がかわいそう」みたいなことを言いに来るんだけどさすがに畜生すぎるし、それを受けて「せや!私とじゃなくてこいつとくっつければええんや!」ってなるのはさすがに意味が分からな過ぎて???ってなった。
そんな感じかな。
タイムリープしなければならない作劇上の理由がきちんと作品内にテーマとして昇華されていてそれだけで高評価。登場人物がマジでなんかヘンな感じの奴ばっかりなのでそこが引っ掛かりすぎる人にはちょっと難しいし、いや映画といえばアクションやろ!って人にはさすがに難しいけど、ドラマ系、恋愛系が好きな人には普通にオススメできる。
また自己放尿してるのか。落ち着いて鏡を見ろと言いたいところだな。
貴様の主張は要するにこうだ。「人間はみんな差別したいと思っている。だから差別を否定する奴は偽善だ」。
だがこれは論理でも観察でもなく、ただの心理投影だ。自分の頭の中にある衝動を、そのまま人類全体の本性として拡大コピーして自己放尿しているだけだ。
心理学ではこれを投影とか偽の合意効果と呼ぶ。自分がそう思うから、みんなもそう思うはずだと錯覚する。人間の認知バグの典型的自己放尿だ。
それに、差別を嫌う理由は「いい子ぶりたいから」だけではない。
もっと単純な話だ。差別は社会の取引コストを上げる。信用を壊す。協力を壊す。
市場でも組織でも、能力より属性で人を切り分け始めると効率が落ちる。
つまり合理性の観点から見ても雑な行動だ。歴史教育や道徳教育が扱うのは、その雑な行動が実際にどれだけ社会を壊してきたかという経験則だ。
バカバカしいと切り捨てるのは簡単だが、経験データを無視して「俺の気分が人類の真理だ」と言い出した瞬間、議論としては自己放尿の完成だ。
「みんな本当は差別したいんだろ?」という言い方にはもう一つトリックがある。
これは反証不能な構造だ。否定されても「ほら、本音を隠してる」と言えば済む。
科学でも議論でも、このタイプの自己放尿は扱えない。どんな証拠が出ても自分が勝つようにルールを作っているからだ。
要するにゲーム盤をひっくり返して「俺の勝ち」と言っているだけ。子どもの将棋だな。
現実の人間はもっと退屈で複雑だ。差別的衝動を持つ人もいるし、持たない人もいる。状況で変わることもある。
衝動をそのまま垂れ流すと集団が壊れる。文明というのは、衝動を全部肯定する装置ではないんだよ。
つまり貴様の話は、「人間は本能がある。だから本能に従え」というレベルの雑な自己放尿だ。
人間に本能があるのは当たり前だが、それをどう扱うかが社会の問題になる。そこを丸ごと省略して「どうせみんな同じだろ」と言い出すのは、議論ではなく自己放尿だ。
祈るとは何か
「戦火で苦しむ人が減りますように」と強く願う、望む……のような行為だろか
祈る/願う/望むなど「強くそうであれと思う」行為の辞書的な意味の違いは今は注目しない
ここで私が落ち着かないのは、「祈る」という行為は暗に何かに祈っているのではないかという点
「何か私が祈っている対象よ、なんとかしてください」というわけだ
何かとは……一番わかりやすいのは神仏だよなあ
しかし私は神など霊的な存在、特に現世に影響……つまり奇跡……を及ぼす類のそれの実在を信じない
対象が存在しないので「祈り」の効果は不発、「祈り」は墓地に送られます……のようなTCG的比喩
①「サイコロを振った時に6が出ろと思うように幸運、確率、運で私に都合の良い結果が出ろと念じるようなものだ」……という解釈はどうか
②「現実に存在する特定の人物、団体などに対して「なんとかしてくれ」と祈っているのだ」……という解釈はどうか
③「祈るという行為は心の整理、言語化、マインドセット、瞑想的な行為であり、なんとかなれと他力本願的に思う行為ではない」……という解釈はどうか
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「辞書的な意味の違いは今は注目しない」と書いたが考えを改め、やはり祈るとは何か、祈るとはどのようなこと、私が祈った時、別の言葉で言い換えるとそれはどのような行為をしていたと言えるのか、をはっきりさせたほうがいいかもしれない
どうにも宗教儀礼、信仰行為としての祈りと日常用語としての祈りを混同して考えているきらいがある
前者は黙禱とかも含む……みんなで揃って行うこともある……つまり「そうあれかし」という価値観の表明、連帯
また、もちろん神などへの要望も前者
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なーんだ、じゃあ超自然的な存在や現象を認めないスタンスなのに神の存在を暗に認め祈っていたわけじゃなかったんだ、よかった~
とはならない
いったん「広義の無神論者が祈るとき、それはどのような行為を指すのか」の話は終わり、ここからは別の話
じゃあ具体的な「なんとかしよう」とすればいいじゃないか なぜ私はそうしないのか
いや、実際には飛躍がある 「なんとかなってほしい」が即「じゃあなんとかしないといけない」とはならない
わたしは善く生きたいのだよな、そのような価値観を内面化しているので 「なんとかしたい」なのだよな
しかし私一人個人だけならいいのだが、配偶者を私の自己満足的善に巻き込むのは本意ではないのがつらい所
その寄付金はどの財布から出るのか?身近の手の届く範囲で善を為し、身近の手の届く範囲を守ればよろしい、家族と美味しいものでも食べに行くといい、食洗器を買いたいと話していたじゃないか
なぜ今気に病むのか?これまでも世界各地で戦争紛争はあった……ロシアウクライナの件で自分は何もしなかったというのに
しかし、せめて何か…… 偽善でも何でもいいのだ 何とかしてくれる「何か」の存在を認めない以上、心の安寧は自分が何とかしないと訪れない
割けるリソースが限られているので与したい対象を選ばなければならない、犯罪者の更生支援とかにも募金したさがある せめてちょっとだけでも……
選ばなかった対象には祈りだけか与えられる、そんな悲しいことがあるかよという気持ちがある
また「祈る」を混同しているな……言語に思考が縛られているのかも 結局自分独自定義の「祈り」なのだ
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疑似問題だったな 問いが違う
「無神論者が祈るとき祈る対象がいない、であれば何の意味があるのか」
で、それぞれに「祈るという言葉の定義問題であり、倫理的姿勢の表明にすぎない」「私にとっては意味がない、行動を伴わせよう、しかしリソースは有限のため、選ばれなかった悲劇には祈りだけとなり、それは意味がない」と答えた
いや、この後者の回答はラディカルなんだよな 祈りに意味はあるよ 姿勢の表明結構なことじゃないか、即効性はなくとも世界を変革しうる
また、他人に「私と同じ価値観を内面化せよ」とはとてもじゃないが言えない
だが恐ろしいことに私には幼い子がいる
教育の名を借りて私の価値観を我が子に植え付けてしまうかもしれない
なんと恐ろしいことか
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まただらだらととっ散らかった駄文を書き捨てて…… ため息が文章の形をとった、みたいなもんだな
ここまで書いておいてなんだが「せめて祈りだけでも」という気持ちもある お花畑とか理想主義とか言われようとも何もできなくともせめて祈りだけでも……
なんで理想主的考えを揶揄する比喩として「お花畑」というんだろう?これは今度調べよう 急激な思考の向き先の変化 調べものをしているときは心が安らぐ
基本的にブルマーは無くなってよかったと思っているんだけれど、女子全員が不快だと感じていたという意見を聞くと「本当だろうか?」と疑ってしまう。歴史に興味がある人にとって、あるいは聞きかじりであっても学問に関心がある人にとって、「全か無か」の発想を聞くと、本能的に疑いの念が兆す。
以下、ブルマーに肯定的な意見をピックアップしておく。ただし、少数派なのは間違いないだろうし、このリストをもってブルマーを肯定しようとするのは、チェリーピッキングに他ならないだろう。
「窓際のトットちゃん」で黒柳徹子が、先生がブルマー姿で演技をすると太腿が震えて大人っぽくて、それに憧れたという記述があった。ただし、時代を考えるとどう考えても提灯ブルマーであり、ショーツ型ブルマーではありえない。
また、これは本人が着用した記録ではない。
https://mainichigahakken.net/essay/article/post-4986.php
40歳になっても夏はブルマ、冬はルーズソックス! 四半世紀以上前のファッションがやめられない理由
こちらはコロナ禍下でジムも閉鎖され、家で運動をしていた女性が、膝関節や股関節の自由を求めてブルマーを身に着けた経緯が書かれている。
そして冬はルーズソックスを追加している。ハイレグレオタードにレッグウオーマーってなんで普通にジャージでやらないんだと思っていたが、それなりに合理性はあったんだろうな。
https://mainichigahakken.net/essay/article/post-75711153.php
https://sketch.pixiv.net/tags/%E3%82%AC%E3%83%81%E3%83%96%E3%83%AB
こちらは同級生のぴったりしたブルマーに憧れていたという体験談。
ブルマーというよりは、すっきりした体型への憧れかもしれない。
あとは「かつみさゆり」のさゆりが五十代でブルマー姿で鉄棒をしている動画もあったりする。
https://www.instagram.com/reels/CgB1bHZhrpD/
https://www.instagram.com/reels/CuwchdYuXkD/
https://www.instagram.com/reels/DMIG7OoyrV0/
ただ、注意しなければならないのは、ここである程度ブルマーを肯定的に身に着けているのは、ほとんどが、①成人しており、誰からも強制されていない、②屋内であるケースが多く、不特定多数の目に触れない、③インフルエンサーなどが水着ほど露出の多くないコスプレとして採用している(最近はブルマー姿でヨガをしている姫すずがお気に入り)、④場合によっては懐かしさやウケ狙いの要素がある、といった状況である。
geminiにブルマーについての肯定的な意見のある書籍をリストアップするように命じると、
「ブルマーの謎」に「(以前の提灯型に比べて)今の密着型のほうが足が長く見えるし、動きやすくてかっこいい」という声があった、と出力してきた。また酒井順子がエッセイで、提灯ブルマーからナイロン製ブルマーへ変わった際、それが「アスリートっぽくて、シュッとしていて、かっこよくなった」という声を紹介している、とも出てくる。しかも、「セブンティーン」などの女性誌に「新しいハイレグカットのブルマーは足が細く見えるから好き」「スポーツブランド(アシックスやミズノなど)のロゴが入っているのがおしゃれで憧れる」という声がある、とまで出てきた。
まったくもって疑わしい。だが、何度AIに反問しても、著者名を変えたり、出典を揺らがせながら、同じような答えを返してくる。そもそも、著作権のある文章を学習させたはずがなく、かなり怪しい。
これは典型的なハルシネーションだと思うが(実際、AIは英米文学以外の出典探しをAIは苦手としている)、念のため関連書籍にそのうち当たるつもりだ。
これがハルシネーションではないかと疑っているもう一つの理由は、他のAIで試したところ、一切これらの書籍が言及されなかったことだ。
【参考】
https://www.youtube.com/watch?v=LEZY_1smtw8
海外の方にはわかりづらいだろうと、ハッシュタグが #bikinifitnessなのが興味深い。ブルマーはビキニではない。
テレビに写すと画質の良さにびっくりする。
なお、これは全くの余談であるが、若いインフルエンサーやコスプレイヤーがたまに身に着けている、短パンの両脇がえぐれて、ベルトとハイレグブルマーが一緒になった謎の衣装がブルマーと呼ばれていたりするが、伝統ってこうやって変質していくんだなって複雑な気持ちだ。
https://www.qoo10.jp/gmkt.inc/Mobile/Goods/Goods.aspx?goodscode=1101792239
正直、中途半端な短パンやドルフィンパンツをブルマーと混同しているのを見ると納得いかない。世界の解像度が荒い。そっちの方がセクシーだと思う人の感覚は尊重したいので、どうか検索したときに混ざって出てこないよう、誰か適切な名前を考えてくれないか。おねショタとショタおね、寝取りと寝取られが混同されているのが嫌なのと同じだよ。
【参考】
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%84
あと、さらに脱線するけれど、グーグルでいつの間にか「おねショタ」が画像検索できなくなるようサイレントで仕様変更がされているの怖くない? 「地味子 水着」が出なかったし(「地味子 ヌード」はOKだった)、「幼馴染 イチャラブ」もダメ。「幼馴染 ラブラブ」はOK。こういう基準がはっきりしない、理由も説明しない恣意的なルールって、正しい方向だとは思っても、すっきりしないんだよな。
もっとすっきりしないのは広告やサムネイルで「死」「殺」の文字を一律で伏字にする態度だ。
なんというか、shitとは言っちゃだめだけどshootならいいみたいな偽善性や、とりあえず修正に従っておきましたっていう上っ面の態度を感じる。特にモヤモヤしたのが医療系漫画の広告で「性病」の「性」を伏字にしたことだ。たしか「コウノドリ」だったと思う。話の肝心な主題を伏せてどうするんだ。その癖、過激な漫画の広告はどんどん増えている。首尾一貫しないし、「自主規制したから罰しないでくださ~い」みたいな意図が透けて見える。性病について堂々と語られる空気がなければ、性病の蔓延と戦うのは難しい。
なぜアダルトビデオ業界のように、性病防止キャンペーンみたいな堂々としたことができないんだろ。
以上。
80年代後半からゼロ年代までは、「露悪(ホンネっぽいホンネの優遇)の時代」だった。
この「人間の本性は悪」として、それを公言する「露悪の時代(≒冷笑の時代)」には、
マトモな言動は「ネクラ」「ぶりっ子」「点数稼ぎ」「偽善者」として非難された。
イマ・ココを正直に生きていない、自分の心を偽った「ダサい時代遅れ」として嘲笑・冷笑された。
「露悪」だけが「正しいホンネ(本心)」で、それ以外は嘘くさい「偽善(偽りの本心)」とされた。
自分たちだけが真っ当(王道、中心)で、自分たち以外は「極右」か「極左」だという
「続くタンゴ」
観察者らは、緊張が沈静化した場合、あるいは沈静化すると、以前よりも高いレベルで落ち着く可能性が高いことに同意している。
リン氏とゴベラ氏は分析の中で、今回は双方が緊張を緩和する可能性は低いと指摘した。中国は現在、はるかに強力な大国であり、「台湾は中国の中核的利益の中核であり、これは中国政府が過去のエピソードよりも強硬な立場を取る可能性が高いことを意味する」。
「北京も高市氏を深く疑っており、発言を明確に撤回せずに緊張を緩和しようとする彼女の試みは偽善的、あるいはさらに悪いことに戦略的に欺瞞的であると見なす可能性が高い」と付け加えた。
一方、日本は特に高市氏の選挙での大勝利に対して毅然とした態度をとる意欲が高まっており、「彼女はこれを中国に対する自身の立場の正当性を証明するものとみなすだろう」とウォード氏は述べた。
ゴベラ氏はBBCに対し、高市氏は自身の勝利を「政治資本」として利用し、日本の立場を強化する防衛 経済政策を推進する可能性が高いと語った。
高市氏は、日本の防衛関連支出を予定より2年早くGDPの2%に引き上げ、今年末までに主要な安全保障戦略の改訂を完了し、間もなく景気刺激策を開始すると約束した。
一方、中国は「高市氏がかなり強力な指導者であり、圧力キャンペーンによって国内で高一氏がさらに強くなるだけだとみており、[したがって]圧力はあまり強まらないかもしれない」と日本の専門家でショーレンスタインアジア太平洋研究所(スタンフォード大学)所長の筒井清輝氏は述べた。
ワイルドカードとなるのは、ドナルド・トランプ米大統領がこれまで高市氏への強力な支持を約束し、解散総選挙に向けて異例の支持を表明しているということかもしれない。
しかし筒井氏は、トランプ大統領と中国の習近平国家主席との会談が4月の米国大統領の北京公式訪問を含め数回予定されており、今年は米中関係がさらに温まると多くの人が予想していると指摘した。
また、これまでの事件と比較すると、今回の口論に対する米国の対応は「これまでのところ控えめであり、中国を勇気づける可能性がある」とリン氏とゴベラ氏は述べた。
「日本人は習近平国家主席とトランプ大統領の間で何らかの大きな取引が行われるのではないかと恐れている」とウォード氏は語った。
週末、米国と日本はミュンヘン安全保障会議の傍ら、マルコ・ルビオ米国務長官と茂木敏光日本国務長官との会談で両国の関係を確認した。
高市氏はまた、トランプ大統領の中国訪問に先立ち、3月にワシントンDCを訪問する際に再びトランプ大統領に会う予定だ。
中国が圧力を強め続ける中、日本は米国と共有する防衛負担をさらに「倍増」させ、「米国が地域への関心を失ってしまうことのないよう、より緊密に協力する」だろうとウォード氏は述べた。