はてなキーワード: 宿泊とは
ああいうのって、まあ業界裏話として漏れ聞こえてくるのは致し方ないとは思うんだけどさ。
一番、聞きたくねえなあ、って思ったそれ系の話でさ、ミュージシャン、バンドとか歌手とかが地方でライブするときの話。
実は地方公演は物販が売れないと儲けが出ないんだよねえ、って話。
いやまあその演者の規模感とかによって全然替わる話なんだと思うんだけどさ。
とりあえず、東京でやるライブは、まあいいらしいんだよ。問題ないと。
でもさ、地方に行くとなると足代とか宿泊費とかさ、そういうのを色んな人にスタッフとかに出さないといけなくなる、と。
そうなってくるとチケットの売上だけだと足りなくなるんだ、だから物販買ってくれみたいな。
まあどこまでホントの話というか、そのバンドとかがどれだけ売れてるか?とかそういう規模感によって全然違う話にはなると思うんだけどさ、でももうそういう話もういいよ、ってさ流石にウンザリしちゃったよ。
なんでさ、こっち(ファン)にそこまで考えさせようとすんだよ。って。
安くもないチケット代をこづかいやりくりしてライブ見に行くだけじゃ応援してることにはならないんだよ、実はね……。知らなかったとは思うんだけどね…。
君たちファン面してるけど、じつは君たちの応援じゃあ、まだまだ足りてないんだよねえ。
とか、そんなもん知らねえよ!!っていうか知りたくもねえよ!!って思うよ、正直。
これを書くことが何のためになるのか、何の意味があるのか全く分からないけど、書いていた方がいいと思ったんだ。
いや、自分だけかもしれないけどさ、送り火と迎え火を全然やってないんだよ。
今更気づいたんだけど、ここ10年やってないんだよ。
実家に菩提も無いのが理由だけどさ、あまりにもやってなくないか…?って。
自分もこれをナツアチチから思い出したこととは到底思えないけどそのまま話すぞ。
でも、そもそも「送り火や迎え火って何だ?」って思った人もいるよな。
俺も母方の家が田舎にあって親戚多めじゃなければ絶対知らなかった。
盆に京都で大文字ってあるだろ。あれが送り火だ。盆に地獄の蓋が開いて、そこからご先祖様が現世にバケーションにやってくるのだけど、ご先祖様の宿泊先は家なんだよな。
それで場所が分からないとおそらくご先祖様が困るから、家の前で火を焚いて「ここだよ~」って教えてあげる必要があるんだよな。
でも「オートロック付きマンションに菩提や仏壇があって、ご先祖様を迎える必要があってもマンション下で迎え火やったら何号室かわからないんじゃないですか?」とか
「そもそもどれも同じ煙で差別化できなくない?そもそも地獄なのに空から見る前提になってない?」とか不安になるよな。
わかる。でも大丈夫らしい。それで盆の初めは迎え入れる迎え火、盆の終わりはさよならを告げる送り火を焚くんだってさ。
でも自分の家に仏壇や菩提がなければ、ご先祖様の宿泊先にはならないから盆に火を焚く必要はないんだよな。
それに、家の宗教が仏教でなければ身近な文化行事じゃないかもしれない。
だから行事的に経験がない人がいて当たり前というか、まあそうだよという部類ではあるんだよ。
あと、世の中的に葬式をあげられることも普通じゃなくなっていることも。CMでも小さなお葬式って流れてくる。
あれもちゃんとパッケージングされてて聞こえがいい。ただ、世の中的には人の死にお金をかけられる余裕がわりと本当に無くなってきているんだろうな。
それなのに街ではキラキラのトラックや壊れたカセットテープかと思うくらい同じメロディーを流すミニトラックが走ったりしててさ。
エピクロス主義をかじった人間がめっちゃ現世利益に講じているんだわ。
焼きが間に合わなくて火葬場の予約が取れない中さ、あのトラックが横を走っていったんだよ。正直笑えたよ。
何なんだろうな、この感じ。
幼い頃に沢山世話にはなった。けれどもどうしても相容れない部分があった。
そうした人間の葬式を執り行う側になった時にすごく難しい気持ちが湧いてきてさ。
これで終わる、という気持ちとついに逝ったか、という気持ち。どっちも同じじゃねーかバカヤロウって思ったけど、絶妙に違うんだよ。
…書けねぇこと書くんじゃねぇよバカヤロウってビートたけしに言われそうだ。
何だか今、どこか死んでいく人間と葬式やそうした文化の間に馴染みを感じられないんだ。
とにかく今、葬式が何だか疎ましいもののように感じているんだ。これはほんとうに必要なものなのかと。
顔を合わせるのが十年ぶりの親戚もいるわけだ。
さらに突っ込んで言えば、親戚筋と最後に出会ったときに、自分は半ば引きこもりだったから、その当時の記憶を持ち合わせている人間に対峙する必要があって、それに骨が折れたというのもある。
社会復帰しました、という体というかこの身で培ってきた能力すべてを差し出す必要があって、それに苦慮するのだ。ほんとうに気苦労した。
だけど絶妙に当事者であるが、ほんとうの当事者ではない立場からの葬式であって、全部飲み込むのが筋だろう。
ほんとうに、ほんとうに身近で世話になった人との別れにはこんな言葉は出てこない。
こんなやわな舐め切った言葉は出てこないのは分かってる。それだけは有り難いと思っている。これはきっと準備をさせていただいているんだろうなと思っているんだよ。
今回は親が喪主を務めて費用負担もした。それだけの経済的負担の能力があるから喪主が務まるんだよなと改めて実感した。
今回の葬られた者は遺産を何一つ残さなかった。死ぬと金がかかって仕方がないものなんだと痛感した。けれども今できることは喪主となってまた数段年を食ってしまったんじゃないかと思う親の肩もみくらいだった。
正直、ここに書くのも情けない話なんだ。俺も経済的な負担をできる人間であればもっと胸を張っていられたと思う。何というか、すごく恥ずかしかった。それは親戚筋にも、親にも、自分自身にもだった。
最後にあの人について、一つ言わなくてはならないことがある。
それはこの人生という途方もない時間を、自ら降りることなく過ごしたことは何であれ賞賛に値する、ということだ。
望むと望まざるに関わらず人間として有機体を持って生まれ落ちてきたんだ。その時点で滅茶苦茶に暴力的じゃないか。
途方もない時間を過ごしてさ、通説ではいい時と悪い時があるらしいけど、それでもむしろ悪いことの方が圧倒的じゃないかと思わされる現実だよ。
それを身一つで往生したこと、そのことだけはまだ命が残っている者としてちゃんと香を上げるべきだと思うんだ。
自分がもうそちら側に片足を突っ込みはじめているというのに、今更先祖を敬うとかそういうことを再考する必要が出てきてしまった。
嫌なことだね。何もかも昔のまんまだったら、こんなに苦しむこともないのにさ。でも昔のまんまだったらもっと悲惨だったろうな。
府内は高いからブルジョワ以外は宿泊を避けて当然だし、飲食店も値段高いから他県で買ったおにぎりやパンを持ち込むほうが自然
飲食店の値段が高いのは京都民の人格の問題であってガイコクジンは関係ない
続く日本人の「京都離れ」宿泊者数3年連続減少、「所得の伸びより物価が上がっている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4f2c4bcb5cc8937fa0a36bfbec5e4787a6707a04
円安(自国通貨安)は、日本経済に「プラス面」と「マイナス面」の両方を同時にもたらします。特に日本のように資源・食料の多くを輸入に頼り、製造業のグローバル化が進んだ国では、メリットが企業・株主中心に偏り、デメリットが家計や中小企業に広く及ぶ傾向が強いです(2025-2026年現在も同様)。
• 輸出企業・製造業の収益向上 海外売上を円換算すると金額が増える「為替差益」が発生。自動車、電機、機械などの輸出企業で利益が押し上げられ、企業全体の収益を高水準に維持。株価上昇(日経平均の押し上げ要因)にもつながりやすい。
• インバウンド(訪日観光)活性化 外国人が日本で「安く」感じるため、観光・小売・宿泊・飲食業の売上が増加。サービス輸出の黒字拡大に寄与。
• 国内投資・生産回帰の可能性(限定的) 円安で海外生産の相対コストが高まるため、一部で国内回帰や設備投資を促す効果。ただし、グローバルサプライチェーンの定着で近年は弱まっている。
• 対外純資産の円建て価値増加 海外資産を持つ企業・投資家に評価益。第一次所得収支(海外からの配当・利子)の黒字拡大。
• 輸入物価上昇 → 物価高(コストプッシュ型インフレ) 原油、天然ガス、食料品、原材料の輸入コストが増大 → 電気・ガス代、ガソリン、食品、日用品の値上がり。家計の実質購買力低下、実質賃金の目減り(2025年も4年連続マイナス傾向の要因の一つ)。
• 個人消費の抑制 物価高で家計が節約志向に。消費意欲低下、特に低所得層・年金生活者に打撃。経済学者調査では74%が円安を「日本経済にとってマイナス」と回答(家の値段上昇、人材流出懸念も)。
• 輸入依存の中小企業・非輸出企業の負担増 コスト転嫁しにくく、利益圧迫。内需中心企業はマイナス影響が大きい。
• 交易条件の悪化 輸出価格に対し輸入価格が相対的に上昇し、日本全体の「儲け」が減る。実質実効為替レート(BIS基準)で2020=100に対し2026年2月時点で約67まで大幅減価(実質30%超の競争力低下)。
• その他の副作用
• 過度な円安が続くと、企業収益の「為替頼み」が強まり、本来の競争力強化を怠る可能性。
• 企業収益は円安で高止まり・株高だが、家計は実質賃金低迷で「豊かさを実感しにくい」状況。
• 輸出数量自体は過去に比べて伸び悩み(海外生産シフトの影響)。円安の「輸出ブースト効果」が弱まっている。
• 政府・日銀は物価高対策(補助金など)で緩和を図っているが、財政拡大がさらに円安を招く「悪循環」の懸念も指摘されている。
中長期・家計・全体経済視点:デメリットが目立ちやすい(物価高、生活苦、成長の持続性低下)。
過度な円安(例: 150-160円台長期化)は「日本経済の弱さの表れ」と見なされ、基礎的競争力(生産性、賃金上昇力)の向上が本質的な解決策です。適度な円安は成長を後押ししますが、現在の水準は多くのエコノミストが「行き過ぎ」「家計負担が重い」と指摘しています。
特定の分野(例: 家計、企業、株、物価)について詳しく知りたい場合、教えてください! データは市場変動するので、最新ニュースも確認を。
モンゴルにおける「テムジン」は、世界最大の帝国を築いたチンギス・カンの本名(幼名)として、国家の誇りや英雄の象徴となっています。 [1, 2, 3, 4]
モンゴルには、テムジン(チンギス・カン)の生涯を辿る観光スポットが多くあります。
* テムジンが黄金の鞭を拾ったとされる場所に建てられており、像の内部や展望台から草原を一望できます。
* 乗馬体験や「ゲル」への宿泊を通して、当時の遊牧民の暮らしに近い体験ができます。
* ガンダン寺: モンゴル最大のチベット仏教寺院で、歴史的な建造物が多く残っています。 [5, 13, 14, 15, 16]
なぜなら、人が怖いからだ。もう少し踏み込んで説明すると、「他人に自分の存在を見定められ、価値がないことに気づかれ、人がみんな自分を避けていく」のが死ぬほど耐えられないからだ。とにかく自分の存在を評価されたくない。できることなら、最も人の記憶に残らない、普通で平凡な存在になりたい。排斥されたくないし、自分の価値もつけられたくない。就活や婚活のような、人間を商品のように品評し、見定められ、価値を測定されることはなるべく、いや、絶対されたくない。もしも人間に初期アバターがあれば、その姿で一生生きていたい。自分の存在が他人から全く見えないようになって欲しい。でも、誰かに愛されたい。傲慢だが、そういう根底の欲求だけがあるのが苦しい。産まれた時から、集団に入るたびに虐められ、排斥されてきたから、「人に自分の価値を計られる」ことに非常に強い拒絶反応が起きる。
圧倒的に人間社会で生きるのに向いていない。だが、自殺もできない。自分は子どものころから極度に怖がりで、ジャングルジムも怖くて登れなかった。だが、子どもの頃はまだ人が怖い存在だということに気づいていなかったから、見境なく話しかけては嫌われるを繰り返していた。それを繰り返していくうちに、周りから人が誰もいなくなり、「自分は異常で、人から避けられる存在だ」という学習をした。それからは、集団に適応しようと、自らを嘲笑の対象にしてもらうことで集団に入れてもらっていた。確かにひとりで孤独でいるよりは、どんなにバカにされても集団の中にいることで安心感を得られた。だが、中学に入ってからは、それも通用しなくなり、「完全なる孤独」に突入した。それでも部活は毎日かかさず行っていたが、「一緒に剣道部を見学しにいこう」と言われて、何となく見たことがあるが関わりはほとんどない人たちがいて、「知ってる人がいるから安心だ」と思い、そのうえ、母親から「運動部に入りなさい」と言われていたので、ちょうどいいと思い、剣道部に入ってしまった。剣道部は過酷で、個人競技で順位付けされ、その結果でカーストも決まる、非常に厳しい場所だった。俺は臆病だから大きい声を出すこともできなかったし、人を竹刀で叩くことにもためらいがあった。結局最後まで俺は弱いままで、試合では出して貰えず、後輩が代わりに試合に出ていた。後輩から毎日バカにされ、同級生や上級生は腫れ物扱いで、存在を無視された。一度、同級生に「お前、ウザイんだよ。やる気がないなら部活来るな」と校門の前で言われ、殴られた。それを見ていた誰かが先生に言ったらしく、先生と話し合いをした。それも影響あって腫れ物扱いされていた。週末に色んな学校に練習試合に行かされ、どこの学校の人も野蛮なやつが多く、その上、教師もまるで競馬を見てるおっさんのように試合中の生徒に暴言をぶつけていた。1回宿泊もできる施設で、有名な先生の元で練習ができる機会があったのだけど、「目が悪く、剣道用のメガネも持っていなかったので、どこに行けばわからなく、ウロウロしていたら、その有名な先生に目をつけられ、全員が集まった集団の中で自分とその先生の学校の人、合計2人が立たされ、「面を受ける」という合法的な体罰を受けた。剣道では、面というのは素早く竹刀を動かすため、気持ちのいい音を出すために、できるだけ最小限の力で面を打つのだけど、その時は違った。力いっぱい竹刀で頭を何度も殴られた。非常に痛かったし、集団の前で晒し者にされたことが非常にショックだった。今でも強烈に覚えている。「人間って怖いものなんだな」とその頃に徹底的に記憶に植え付けられた。部活では、定期的に先輩後輩関係なく、練習試合をさせられ、順位もつけられた。いつも自分は負けてばかりで、後輩以下で、いつもバカにされていた。自分の無能さを毎回そこで味わった。後輩に毎日バカにされ、メガネを取られて壊されることもあった。部活外では、いつもひとりだった。中学に入った時に、小学生のころ地域の子どもたちで集まって登校したり、遊びに行ったりしていたんだけど、そのメンバーの女性がいて、「こんにちは」と話しかけられるから、ヘラヘラ笑いながら返事をしていたら、ある時、上級生の友達が「なんであんなやつに挨拶してるの?」と聞き、「挨拶を返す時の顔がえろいこと考えてる顔みたいでキモイから」と言っているのが聞こえてしまい、挨拶されても返さなくなった。そうしていたら、上級生の女性が「いつも挨拶してるのに返されない!あの子は酷い!」と広めたらしく、上級生とすれ違うと「キモイ」とか「宇宙人」とか言われるようになった。親が仲良いので、ディズニーランドのお土産を貰ったんだけど、リトルグリーンメンのストラップを貰った。「宇宙人」というメッセージだと思っている。風呂上がりに、外の風景を窓から見るのが好きだったから、風景を見ていたら、上級生に見られ、「きもちわるっ!なんで裸なの!w」と大声で言われた。小学生の頃に転校生に執拗に「友達になろう」と言ったら「君とだけは友達になれない」とか、仲がいいと勝手に思っていた同級生に嫌われ、エンガチョをされたこともある。
このあとも、学生時代は常にいじめ、もしくは腫れ物扱いの対象となっていたが、人と関わる気力が失われた決定的な時は中学生時代だった。
その後、高校で黒いスーツをきた集団に嫌がらせされてると思ったり、バッグや体操服に体液のようなものが付いていたこともあり、障害が悪化した。手洗いが酷く、「ヤバいやつ」と何度も言われた。高校時代はいつもマスクをしていて、水泳の授業の時に「誰!?」とコソコソ言われたこともある。明らかに異常者として扱われ、全く人が寄ってこなかった。めちゃくちゃ頭が悪かったが、虐められたくなかったので、進学コースを選んだら、なんでこいつが?と何度も言われた。ある先生のことを北朝鮮のスパイだとおもっていた時もあった。Fラン大学に入ってからは、暇が増えたので精神病はある程度良くなった。今日は昔のことを思い出して、疲れた。
28歳男性、生活保護、Fラン大学中退、最終学歴高卒、障害者手帳2級、障害基礎年金2級、医者から言われた診断名はASD、ADHD、社交不安障害、強迫性障害、躁鬱傾向あり。クエチアピンやリスペリドンを出されているので、統合失調症もあるのかもしれない。今はクエチアピンがよく効いて、今まで常に不安だったけど、不安が結構ましになった。職歴はFラン大学時代の5年間(留年した)新聞配達、それとB型作業所、A型作業所。A型作業所に適応できなく、鬱や被害妄想が悪化した。具体的に書くと、「呼吸が浅くなる。震える、大勢に指を刺されているような感覚になる、文字が怖くなる、悪意をぶつけられているような感覚になる、音に敏感になり、音が怖くなる、攻撃的なSNSの投稿が怖くなる、布団に入り猫の動画を見ると良くなることがある、デパスを飲むと良くなることがある、リスペリドンは効かない、音がすると怒られそうな気がする、隣の人が怒ってないかがすごく気になる、音が大きく感じる、鳥の鳴き声などが闇の組織の通信音に感じる、周りの人が人間とは思えず、なにか自分に危害を加えたり、悪意をぶつけることしか考えてないように感じる、死んだらこれが収まるなら死にたいと考えてしまう、寝て起きると良くなる、睡眠不足の時が多い、ゲームからも悪意を感じてしまうのでプレイが続行できない、文字の点々が特に怖い、思考してる時に頭に浮かぶ文字も怖い、人が恐ろしくて仕方ない、鬱の時のようななんとなく死にたいではなく、突発的な死にたさしか出なくなる。」という症状が出てきた。仕事を休む日が増え、クビにされたので現在は無職。ここまで書き出せたのはきっとクエチアピンのおかげだと思う。もっと早く出してくれていれば、もう少しはましな人生になっていた気がする。今日は昔のことを思い出しすぎて非常に疲れたので、デパスを飲んで寝るつもりだ。おやすみ
4名(以下、「海田教授ら」)が2名1組になって面談調査をすることを決定し、米澤助手の立ち会いの下で、甲野、A子、B子から話を聞いた[31]。坪内所長を含むセンターの教授らは、海田教授らからの調査結果を聞いて、「矢野は潔白ではないのではないか」という心証を持ったが、「教授会には司法権がなく、本人個人の誠意ある対応を待つしかない」という消極論が大勢を占め、11月20日に米澤助手に対して、「すぐには結論が出ない。しばらく待ってほしい」と答えるに留まった[32]。
人権救済の申立
甲野は、自分が調査に応じたのにセンター側は矢野に対する処分をする様子が全くなかったので、井口弁護士に対処方法を相談した[32]。そして、プライバシーの保護と時効の壁を乗り越えることを考慮して、匿名で人権救済の申し立てをすることを決めた[32]。そして、井口弁護士と他6名の弁護士を代理人として、12月14日に京都弁護士会人権擁護委員会に対し、「甲野乙子」という仮名で人権救済の申し立てを行った[5]。
矢野が12月15日にスウェーデンの出張から帰国した後、自宅に新聞記者が待機しているという情報があったため、自宅に帰らず京都市内のホテルに宿泊した[33]。事態の対処について徳山理事長と相談し、徳山理事長の勧めもあって、教授職を辞任して出家することを決意した[34]。12月17日、高谷教授は、徳山理事長から矢野が辞意を固めていることを電話で聞いた[34]。12月18日、高谷教授は確認のため、古川教授と共に矢野を訪ねたところ、矢野は、よく考えた結果出家することに決めたからできるだけ早く辞めたい旨を語った[34]。高谷教授は、12月19日の朝にセンターへ行って坪内所長らに矢野の決意を報告し、その日の夜に2種類の辞職願書式を矢野に渡した[34]。矢野は縦書きの書式に従って全文自筆の辞職願を書き、坪内所長に届けてほしいことと、センターに保管されている印鑑を辞職願に押印してほしいことを高谷教授に依頼して預けた[34]。12月20日、高谷教授は坪内所長に辞職願を渡し、センター事務局職員によって辞職願に印鑑を押印してもらった[34]。坪内所長は、矢野を訪ね、古川教授が同席する中で、セクハラの事実の有無と辞意の確認をした[34]。その面談において、矢野は、坪内所長宛に辞職の理由を記した書簡と、センター事務長宛に同封の『京都大学を去るにあたって』と題する文書を関係者に配布するように依頼した書簡を渡した[34]。この際、矢野はセクハラの事実について否定した[35]。
矢野は、12月21日に臨済宗東福寺にて居士としての修行生活に入った[32]。12月25日には、『京都新聞』のコラムに『諸縁放下』という文章を寄稿した[36][注釈 5]。
センターでは、12月27日の教授会と協議員会で矢野の辞職が承認され、12月31日付で辞職辞令が発せられた[32]。
1994年(平成6年)1月26日、「セクシュアル・ハラスメント疑惑事件の徹底究明を求める大学教員の会」などの代表が東福寺を訪れ、「矢野を匿うことで事実関係の究明を困難にした」などと追求した[16]。福島慶道東福寺派管長は「軽率だった」とし、矢野は1月29日に東福寺を出ることとなった[16]。2月9日までに朝日新聞に矢野からの釈明の手紙が届き[37][注釈 6]、2月11日には『AERA』のインタビューに応じた[17]。
1994年(平成6年)1月18日、『京都新聞』に野田正彰の『危機状況での判断』というエッセイが掲載された[38]。その中で、矢野のセクハラ疑惑について、次のような趣旨のことを書き記している[39]。「矢野の進めてきた研究は私人の趣味ではなく長い年月と社会的経費が投じられたものであり、辞職するには明確な理由がなくてはならない[38]。研究者個人への中傷で辞めるべきではなく、大学もそのような個人攻撃を容認しないという意思を見せるべきであった[40]。元秘書が矢野を告発したいのであれば、刑事告訴をすべきである[41]」
この文を読んだ小野和子は、匿名でなされた告発は矢野個人への誹謗中傷に過ぎない、と捉えられかねず、現代社会で女性の置かれている状況が理解されていないと考え、以前からセクハラについての原稿を依頼されていたこともあり、1月25日の京都新聞に『学者と人権感覚 矢野元教授問題によせて』と題する手記(以下、「本件手記」)を寄稿した[42][39]。この中で、小野は、女性職員の有志による告発は事実に反する誹謗中傷ではないことを示し、改善委員会による調査において「三件の軽微なセクハラ」と「一人の女性の、レイプに始まるすさまじいまでのセクハラ」の事実(証言)が出てきたことを書き記している[43]。
本件手記の反論として、2月10日の京都新聞に河上倫逸の『もう一つの人権侵害』が掲載された[44]。その中で、「根深い政治的背景をうかがわせる『事件』が、元秘書に対する『セクシュアル・ハラスメント』という問題に矮小化されてしまいつつある」とした上で、次のような趣旨のことを書き記している[45]。「矢野の辞職はセクハラ問題による批判を受け入れたものと明言されておらず、辞職自体が本人の自由意志かどうかすら明らかではない[46]。また、批判者は匿名か伝聞の形を取っており、矢野には反論の機会が与えられておらず、客観的に事実確認がなされていない[46]。矢野が犯罪行為を継続的になしてきたと主張するなら刑事告訴がなされるべきであり、矢野も事実関係で争うなら名誉毀損などで告訴すべきである[47]」
2月20日、京都府婦人センターで開催された「大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別をテーマとする公開シンポジウム」において、小野は自身の作成した『河上倫逸氏に答える セクハラは小事か』と題する文書(以下、「本件文書」)を参加者に配布した[42]。その中で、「セクハラ即ち女性の権利の侵犯は果たして『矮小』なことなのであろうか」「私たちが問うているのは、その『セクハラは小事』とする差別意識である」と訴え、改善委員会は被害者から証言を聞いて確認しており、矢野自身が謝罪の念書を提出しているケースもあることを踏まえ、「決していわゆる『伝聞』ではない」と書き記した[48]。”
“ 判決要旨
原告は、「辞職願」をその内容を理解したうえで作成し、高谷教授を介してセンターへ提出したことを認めながら、「辞職願」を提出して辞職につながるとは思っていなかったとか、「辞職願」作成時はある種の理性を失っていたとか、「辞職願」は正式なものではないかもしれないと半信半疑であったなどと趣旨不明瞭ながら、その主張に一応沿う供述をするが、前記一認定〔註・矢野自筆の辞職願が高谷教授を通じて坪内所長に渡され、教授会と協議員会において辞職の申し出が承認されたことなどを指す。〕のとおり、原告は、「辞職願」作成後も、「京都大学を去るにあたって」と題する文書や退職手続書類を作成し、「辞職願」作成の翌々日には、京大教授としての職務を投げうって、東福寺に入山しているのであって、原告は「辞職願」作成時、京都大学教授を辞職する意志は固く、「辞職願」は原告の本意に基づくものであることは明らかである。従って、原告の「辞職願」不成立及び心裡留保の主張は理由がない。また、本件セクシュアル・ハラスメント問題発生後の経過や前記一認定の原告が「辞職願」を作成・提出するに至った経緯によれば、原告は「辞職願」作成時にその意思能力にかける点は全くないことも明白であるし、原告が主張する詐欺、強迫、錯誤を認めるに足りる証拠は全くない。
— 東京地裁平成8年8月20日判決、平成6年(行ウ)第58号、『辞職承認処分取消請求事件』、労判707号92頁。
原告は、センターが「辞職願」受領後、本人の意思確認の手続を怠ったから、本件辞職承認手続に瑕疵がある旨主張するが、前記のとおり、原告の「辞職願」提出による辞職の意思表示には、全く瑕疵がなく、そもそも「辞職願」の受理とは別に、あえて原告の意思確認手続をしなければ、本件辞職承認処分が違法となるわけではなく、(教育公務員特例法一〇条、国家公務員法七七条、人事院規則八―一二第七三条)、原告の主張は主張自体失当である。なお、本件においては、坪内所長が原告の辞職の意思を確認したこと、原告は、坪内所長の要請に従って、「辞職願」とは別に、センター教授会、協議員会で審議するときの理由書として辞職の理由を記した「京都大学を去るにあたって」と題する文書を作成してセンター事務局に提出したことは前記認定のとおりであって、原告の意思確認手続きは充分なされていたというべきである。
— 東京地裁平成8年8月20日判決、平成6年(行ウ)第58号、『辞職承認処分取消請求事件』、労判707号92頁。”
—— Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
“ 矢野事件(やのじけん)とは、京都大学東南アジア研究センター(現・東南アジア地域研究研究所)所長であった矢野暢(1936-1999)教授が1993年(平成5年)に起こしたセクシャルハラスメント(以下、固有名詞と引用文を除き「セクハラ」で統一する)事件と、それに関連する事件・訴訟の総称である。「京大矢野事件」「京大・矢野事件」「京都大学矢野事件」「矢野セクハラ事件」「京大元教授セクシュアル・ハラスメント事件」とも呼ばれる。
日本におけるセクハラ問題化のメルクマールとなった事件とされ[1][2]、これ以降、大学でのセクハラに対する文部省(現・文部科学省)の取り組みも始まったとされる[3]。
1993年(平成5年)、京都大学東南アジア研究センター(以下、「センター」)所長である矢野暢が、あるセンター職員の妹を秘書として雇いたいと申し出た。矢野は面接と称してホテルのラウンジに呼び出し、「秘書の仕事には添い寝も含まれる」など発言し、断ったら姉を辞めさせると脅した。姉であるそのセンター職員からの抗議により、矢野は謝罪の念書を書いたが、その後も秘書などに対してセクハラ行為を繰り返し、次々に秘書が辞めていく事態となった。そのうち1人の非常勤職員は、センター事務長に「矢野からセクハラを受けたので退職したい」と訴えた。
上記の事情を知ったセンター助手がセンターに質問状を提出することなどによって、セクハラ疑惑として表沙汰となった。その頃、センター助手に、学生時代に自分も矢野から性暴力に遭っていたという女性から電話がかかってきた。
センターは、改善委員会を設置し、矢野のセンター所長辞任をもって解決を図ろうとするが、具体的なペナルティもなく事件がうやむやにされるのを恐れた被害者女性が、井口博弁護士と相談の上、弁護士名義で文部大臣宛に質問状を提出したり、「甲野乙子」名義で京都弁護士会人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行ったりした。矢野は、12月31日付で京都大学を辞職した[4]。
1994年(平成6年)1月18日の京都新聞に、この事件に関する野田正彰の文章が掲載された。これを読み、現状が理解されていないと感じた小野和子が、1月25日の京都新聞に『学者と人権感覚 矢野元教授問題によせて』を寄稿した。これに反論する河上倫逸の文章が2月10日の京都新聞に掲載され、小野は2月20日の「大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別をテーマとする公開シンポジウム」において、『河上倫逸氏に答える セクハラは小事か』と題する文書を配布した。
矢野は、文部大臣に対する辞職承認処分の取り消しを求めた行政訴訟と、虚偽の事実が新聞に公表されたことなどにより名誉を傷つけられたなどとして甲野乙子、井口博、小野和子に対する3件の慰謝料請求の民事訴訟を起こしたが、いずれの判決も矢野の請求を棄却した。
事件の経緯
甲野乙子事件
1982年(昭和57年)1月末、大学3年生であった甲野乙子(仮名[注釈 1])は、甲野の通う大学の非常勤講師であった矢野暢[注釈 2]の特別講義に出席した[7]。その講義の終了後、甲野は大学内の学生食堂で矢野と話す機会を得て、東南アジア研究の話を中心に会話が弾み、自分が将来は研究者になりたい旨を伝え、甲野は矢野に自分の住所と電話番号を教えて再会を約束した[8]。三度目の面会の際、大阪市内のホテルの地下街で夕食などを共にした後、矢野は「今日は疲れているから部屋で話の続きがしたい」と切り出し、自分がチェックインしている同ホテルの部屋まで来るように申し向け、甲野はそれに応じて部屋に入った[8]。
部屋に入ってからも東南アジアの話が続いたが、突然、矢野が椅子から立ち上がり、甲野の手を握ったので、甲野は矢野の手を振り払った[8]。すると、矢野は「何で振り放った」と怒鳴り、甲野が「男の人からいきなり手を握られたら振りほどいて当然である」と答えると、甲野を平手で数回殴り、罵倒し始めた[8]。甲野は泣きながら反論したが、矢野に罵倒と殴打を繰り返され、反論も止め、手を握られるままとなった[8]。矢野は甲野の手を握りながら説得し始め、甲野の肩を抱こうとし、甲野がそれを拒もうとすると再び罵倒と殴打を繰り返した[9]。また、矢野は甲野をベッドに座らせ、自ら着衣を脱ぎ、「君も裸にならないと対等ではない」と着衣を脱ぐように求め、甲野が裸になると矢野は性交渉に及んだ[9]。矢野は「性行為は対等な人間同士がやることであり、君と僕が性的関係を持ったことは東南アジア研究を目指す者同士の同志的連帯の証である」などと言い、研究者になるために日常生活に到るまで指導することの同意を求めた[9]。甲野は黙り込んでいたが、矢野が詰問してきたために同意をした[9]。翌日、次に会う約束の日時を決めて別れた[9]。
この日以降、甲野は、矢野に殴られた跡の治療にも行かず、矢野と会う約束以外では人目を避けて寮の自室に籠りがちになり、大学の授業に出ないことも多くなった[9]。また、矢野と性的関係を持ったことには誰にも口外しなかった[9]。
甲野は、矢野の勧めに従い、4月からアルバイトとして、卒業後は事務補佐員として矢野の研究室に勤務した[9]。この間、何度か辞めたい旨を申し入れたが、その度に矢野が激怒し、殴るなどして撤回させられた[10]。また、矢野との性的関係も継続させられ、甲野が婚姻した後も続いた[11]。1988年(昭和63年)、甲野は他のアルバイトも矢野から性的関係を求められていたことや、第一秘書が自分と矢野との関係を認識していたことを知り、自分に対する対応が研究室ぐるみで行われていたと認識し、夫に対して告白するとともに、研究室への出勤を拒み、そのまま3月末に退職扱いとなった[11]。その後、甲野は大学院に進学したが、矢野や関係者との接触を避けるために東南アジア研究の道を選択しなかった[11]。
A子事件
1992年(平成4年)12月、京都府庁でアルバイトをしていたA子は、センターに勤務している姉を通じて矢野[注釈 3]から秘書として採用したいという申し出があった[11]。1993年(平成5年)1月8日に京都市内のホテルにあるフランス料理店にて、A子とA子の姉、矢野、矢野の所長秘書の4人で面接を兼ねた会食を行った[11]。その際、矢野は、あと数回会ってから採否を決めること、次の面接については姉を通じて後日連絡することを伝えた[11]。
次の面接日である1月12日、出張から戻ってきた矢野と駅で再会し、矢野が疲労を訴え、話し相手になってほしい旨を述べたため、A子は「私でよかったら話し相手になります」と応じた[11]。その後、会食で利用したホテルの地下にあるバーに向かい、階段を降りる途中で、矢野は「私がこういう風に疲れた時は、『先生、今日は一緒に飲みに行きましょう』とか、『先生、今日は添い寝をしてさしあげましょう』とか言わなければいけない。それが秘書の役割だ」と言った[12]。A子はバーに入った後、秘書の仕事は自分には負担が大きいので辞退する旨を述べた[12]。すると、矢野はA子に対し、「秘書としての事務処理の能力で雇うんではない。ハートの付き合いをしてもらうために雇うのである」などと怒鳴り始めた[12]。A子は「私には恋人がいるから、先生とはハートの付き合いができない」と言うと、「男がいるような妹を紹介したお姉さんもお姉さんだ。お姉さんと所長秘書には責任をとってもらう。私は所長だから辞めさせることは簡単なんだ」と畳み掛けた[12]。A子は、これらの発言を聞いて秘書採用の最終的な返答について保留し、矢野から次の休日頃に再度会いたいから予定を開けておくようにと言われて別れた[12]。
A子が帰宅後に自室で泣いていることから事情を察したA子の母がA子の姉に電話をし、A子は電話口でその日の経緯についてA子の姉に説明した[12]。A子の姉は話を聞いて憤激し、翌日、所長秘書に事情を説明し、A子の秘書採用を断り、自分も責任を取って辞職する旨を申し出た[12]。A子は、前田教授にも事情を説明した[12]。前田教授から事情を聞いた高谷教授は、A子の姉に対して、矢野に謝罪させる旨を電話で伝えた[12]。
2月25日、同ホテルにおいて、前田教授、高谷教授、所長秘書、A子の姉の立ち会いの下に、矢野はA子と会い、二度と同じようなことはしない旨を書き記した念書を渡し、「意志の疎通がうまく行かず、誤解が生じたのを深くお詫び致します」と謝罪した[12]。A子は、念書に「セクハラ」の文言を入れてほしいと思ったが受け入れられず、A子に対する言動の詳細については「あなたの心を傷付けた」という抽象的表現に留まった[13][14]。
3月8日、この事件を告発する匿名の文書が、文部大臣と文部省記者クラブに届いた[15][16]。矢野は、この事件を全面否定する釈明書を提出した[17]。
1993年(平成5年)4月中旬、矢野は出張先の東京のホテルの自分の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書のB子に抱きつき着衣を脱がそうとしたが拒まれた[18]。B子は直ちに帰宅し、以後出勤することなく4月30日付で退職した[18]。
C子事件
矢野は、前述のB子とのトラブルがあった1週間後に、出張先の東京のホテルの自分の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書のC子に抱きつき着衣を脱がそうとしたが拒まれた[18]。
D子事件
1993年(平成5年)6月10日、矢野は京都市内のホテルのエレベーター内で非常勤職員D子に抱きついた[18]。6月14日、D子は「矢野からセクハラを受けましたので辞めさせてください」「愛人にはなれません。報復が怖いから一身上の都合ということで辞表を出します」などと言って辞職願を出した[18]。
1993年(平成5年)6月14日、D子がセンター事務長とセンター庶務掛長に対し、矢野からセクハラを受けたので退職したい旨を訴えて辞職願を提出したことをセンター職員らが目撃した[19]。6月15日には、矢野の研究室の私設秘書全員が辞職願を提出した[19]。
A子の事情を知っていた米澤真理子センター助手(以下、「米澤助手」)は、上記の事情も知り、もはや矢野の個人的問題では済まないと考え、他の女性センター職員10名と共に6月21日付で事件の真相を究明し断固たる処置を取ってほしいという旨の質問状を「センター女性職員有志一同」名義で所長代理、副所長、各部門長、各部門主任宛に提出した[19][20]。
この質問状を受領したセンター教授らは、部門長会議及び拡大部門長会議で対応を検討し、改善委員会を設置し、矢野以外の全センター教授で構成することを決定した[19]。これらの経緯を知った矢野は、7月15日に開催された臨時の教授会において所長を辞任したい旨を申し出て承認された[21]。改善委員会委員長である高谷教授は、個人の良識に解決を委ねるべきであると考え、矢野に謝罪等の条件を実行させ、所長を辞任することで事態を収拾しようとした[22]。米澤助手は、高谷教授の報告の中にセクハラについて触れていないことを不満として、再び7月26日付で改善委員会の全委員宛に調査の継続の有無と辞任理由とセクハラの責任の関係について回答を求める趣旨の質問状を提出した[22]。
質問状を受けて、7月30日に所員会議を開き、改善委員会委員長は、センターの全所員に対し、7月29日の協議員会でも矢野の辞任が承認されたこと[注釈 4]、矢野の辞任の理由は他の公務が多忙であることとセンター内が混乱していることの責任を認めてのことであるとし、改善委員会はこれ以上の調査をしないことを伝えた[22]。その一方で、女性職員に対し、今後は非公式に懇談を続けていくことを提案した[22]。米澤助手は、非公式の懇談を続けるという提案を受け、8月中に2度の懇談を持った[22]。また、米澤助手らは、井口博弁護士(以下、「井口弁護士」)と相談し、8月20日付で、セクハラの事実を認めて被害者に謝罪するか、責任の取り方として全ての公職を辞職するつもりがあるか、という趣旨の矢野個人に対する質問書を送付した[25]。
矢野は、8月31日に正式にセンター所長を辞任した[26]。9月1日、矢野の後任として坪内良博センター教授(以下、「坪内所長」)がセンター所長に就任し、改善委員会委員長も兼務することになった[26]。9月9日、矢野は、所員会議において、所長辞任の挨拶をし、センター内に混乱が生じたことについて、遺憾の意を表した[26]。矢野は、岡本道雄元京都大学総長(以下、「岡本元総長」)、徳山詳直瓜生山学園理事長(以下、「徳山理事長」)、高谷教授、古川教授と、自分の今後の対処の仕方について相談した[26]。
同僚からの手紙で上記のような内部告発が行われていることを知った甲野は、9月24日にセンター編集室に電話し、米澤助手に自分と矢野との性的関係などの事情を告白した[27][28]。この告白を踏まえ、米澤助手は、同日の小懇談会において、矢野のセクハラの事実の有無について調査したいと申し出た[29][30]。
米澤助手らは、8月に送付した質問書について、質問書に記載した期限を過ぎても返答がなかったため、文部大臣宛に9月27日付で井口弁護士を代理人として質問書を送った[26]。10月1日、文部省は京都大学に照会し回答を求めた[29]。坪内所長は、高谷教授、前田教授の立ち会いの下、矢野に対し事実関係を問い質したが、矢野は事実関係は存在しない旨の弁明をした[29]。10月4日、坪内所長は、事実関係を調査したいと申し出た米澤助手に対し、事実関係の調査を所長の責任で公的なものとすることを決めたので、調査結果をまとめて提出してほしい旨の説明をした[29]。
米澤助手は、甲野らに公的な調査が開始されるので協力してほしい旨を伝え、甲野らから陳述書を入手した[29]。それに聴取書や証言メモを作成し、これらに基づいて作成した調査報告書と陳述書等を11月8日に坪内所長に提出した[29]。11月11日、坪内所長は改善委員会を開き、被害者とされる女性の実在と証言の自発性を確認するため、海田教授、土屋教授、前田教授、福井 Permalink | 記事への反応(1) | 19:43
60歳の母が末期の膵臓がんになった。昨年の12月末のことだ。
膵臓がんは最もたちが悪い悪いがんらしく、自覚症状が出るのは大抵ステージ4の末期で、1年の生存率は30%前後で5年生存率は10%前後。
「黄疸が出たから病院に行った」とLINEが来て、検査したら緊急入院になってがんだと判明した。
俺の家は貧乏で家族旅行はほとんど行けなかった。小学生の頃に駄々をこねて一度行ったのが最後だった。
周りの友人は毎年家族旅行に行くのが当然のような金銭的に余裕がある人ばかりで、羨ましくも妬ましくもあった。
その負のモチベーションもあって、やりたいことはやりつつちゃんと稼げるようになりたいと思っていた。貧乏だから塾も行けなかったし、浪人したけど予備校なんて行けなかった。それで泣く泣く自宅浪人したところ奇跡的に合格してしまい、第一種奨学金を貰い授業料全額免除になり、大学院まで行き、大企業に入って同世代の平均以上の収入を得るようになった。そこは親孝行したと思う。
自分が稼げるようになったら、自分がほとんどできなかった家族旅行を両親にプレゼントするのが夢だった。ちょうど母が60になり、父はすでに定年を迎えていたからこれまでの感謝も込めてそろそろ家族旅行をプレゼントしようと思っていた。
母が膵臓がんになったのは、そう思ってた矢先のことだった。
母は妹の影響もあって嵐が好きだった。妹がダメもとで応募したらなんと2人ともラストコンサートのチケットが当たった。 膵臓がんだと判明する前の話である。
当たったのが名古屋会場で宿泊費も高いし、ちょうど俺が愛知に住んでいるから、独身の俺の家に転がり込んで3人泊まりこもうかとか笑ってLINEをしあっていた。ものすごい久々の家族旅行だねって。そんな中で母が膵臓ガンになった連絡がきた。
それでも、母は名古屋に行きたいと言った。言ってくれた
地元のがん相談支援センターに相談したらぜひ行ってくださいと言う。末期がんの患者に治療を施すのは完治を目指すものではない、余命をできるだけ延ばして残された時間を有意義に過ごしてもらうのが目的だという。その時間を有効活用するならむしろ良い、まだ寝たきりになっていないから出来るだけ早くいった方が良い、とのことだ。もちろん、医師の同意も得られた
余命や体力的に最後の旅行になるだろう。移動の負担を最低限にするために新幹線は横になれるよう多目的スペースを予約し、名古屋市内の移動は介護タクシーを貸切にし、田舎もんだからベタだけど高級ホテルとしてヒルトンにした。緊急時にすぐに駆け付けるよう2部屋が内側のドアで繋がっているコネクティングルームを予約した
明日、鹿児島から来る家族をホテルで迎える。母の体力は極力負担を減らすよう、今のところコンサートに行くことだけを最低限のラインにするつもりだ。余裕があれば介護タクシーで市内周れればと思う。
でもダメだったときは?ホテルの一室で、動くより寝ている方が良い母とずっと静かに過ごすのか?もちろん、一緒にただ時間を共有するだけでも十分と見聞きするし、相手に喜んで過ごしてほしいと期待するのは自分のエゴでしかない。でも、この最後の残された時間、後悔ないように過ごしたい。