はてなキーワード: お葬式とは
親父が死んだ。
わたしはそれを断り続けていた。
親父に会いたくなかったわけじゃない。
正直、連絡がくる度に悩んでいた。
なにより、母の気持ちを考えると会えなかった。
母は「好きにしていい」と言っていたが
何十年も連絡すらとっていないのだ。
会って何を話せばよかったんだろう。
少なくとも、「会いたい」とは思えなかった。
葬儀で姉と会った。
姉にこれまでのことを謝ると、「いいよいいよ」と言ってくれた。
立派なお葬式をしてくれた。
葬儀に行っても、姉や親戚に「帰れ」と言われるんじゃないかと怖かった。
そう言われたら、大人しく帰ろうと思っていた。
それが当然だと思っていた。
どんな人だったのか思い出せない。
葬儀で集まった親戚から聞く親父の話は、知らない人の話みたいだった。
いま、1人になると涙が出る。
会っておけばよかった、という後悔ではない
なんで、親父の世話をしてくれている姉の力になってあげられなかったんだろうという後悔が止まらない。
きっと思うことはたくさんあったはずなのに
葛藤もあったはずなのに
お姉ちゃんごめんなさい。
遅くなってごめんなさい。
「三大~」「教えて系」「ネタがすぎるやつ」「挙げてけ系」「政治」みたいなのは除外
抜けてるNoは削除されてた投稿
ランキング1位の「あなたが癌になった時に最初に知ってほしい事」が挿入し忘れていたので追加(id:ancvさんコメントありがとう!)
順位をひとつ分変えるのがめんどいので0位とさせてもらいますm(_ _)m
100歳まで生きると言っていた祖父が85歳で亡くなった。
本当に突然のことだった。前日には親戚の集いがあり、祖父も参加していた。もちろん自分も参加した。お酒を飲んで親族と楽しそうに話して、「来年もまたみんなで集まれますように!」と言っていたのにその次の日に亡くなってしまった。
その日は祖母が外出の予定があった。昼過ぎに家を出て、夕方ごろに帰ってきた時には祖父が倒れていて体が冷たかったそう。祖母は倒れていた祖父を見つけて救急車を呼んでくれたけれど、心臓が止まってしまっていて、病院に着いた頃にはダメだと言われた。祖母はショックからか、いつも溌剌としているのに全く元気がなく会っても一言も言葉を発することがなく、そんな祖母を見て心が痛くなった。辛かった。
祖父は私のことを自慢の孫だと何度も何度も褒めてくれた。小学生の時に塾のテストが良かったときも、中高生の時に大会出場してくれた時も、就活で内定をもらえた時も。内定をもらえた時、絶対に祖父母に連絡をしていた。「内定貰えたよ!」と送ると、必ず「さすが!自慢の孫だ!」と返してきてくれた。まだ就活は続くのに、もう内定をもらっても祖父の褒め言葉は聞くことができない。
夏には避暑地にある祖父が所有している別荘へ1ヶ月ほど泊まって過ごすのが毎年恒例になっていた。80を過ぎて免許も返納し、スーパーへ行く足が無くなってしまい困っていたので、免許を取ってスーパーへ連れて行った。一度だけ。来年こそは高速運転もマスターして、ゴールデンウィークに一緒に行く予定だった。「ゴールデンウィークまでに就活終わって行けたらいいね」とよくLINEしてくれていたのに、叶わなくなってしまった。もう、祖父と共に別荘で過ごすこともできない。朝の散歩コースを一緒に歩くこともできない。一緒に選んで買った、最近新しくしたパソコンやスマホだって、もう使う事はない。
祖父は本当にパワフルな人間で、毎朝5時に起きてはラジオ体操をして、毎日一万歩も散歩をしていた。本人は100歳まで生きるつもりだったので、私が20歳の誕生日の時には「〇〇ちゃんに美味しいものを食べさせられるのはあと16年しかないな!」と言っていたのに。本当に元気な人間だったので、親戚みんなが100歳近くまで生きると思っていたし、100歳は無理でも、90歳までは生きると思っていた。本気で思っていた。なのに、こんなにあっけなく天国へ行ってしまった。1番最初の孫で、誰よりも可愛がられてきた自覚があるので、余計に辛かった。でも、60年近くずっと一緒に暮らしていた祖母はもっともっと辛いだろうし、母もずっと泣いているので自分だけ辛くなって泣いてちゃいけないと思いながらも、これを書いて涙を流している。
全てを投げ出して祖父と母を支えてあげたいものだけれど、残酷なことに時間というのは変化なく進んでいく。今日もやらなくてはならないことがあるし明日も明後日もある。祖父に「その企業から内定貰えたのか!すごいな!さすが自慢の孫だ!」と言ってもらえるように明日からの就活を頑張るのがとりあえずの目標である。気合を入れて、なんとか乗り越えていきたい。
明日には海外に住んでいる従姉妹も帰国して駆けつけてくれるらしい。元気な人だったので、最期は病気で苦しむことなく亡くなるだろうと思っていたけれど、その日がこんなに早くくるとは思わず、ふと思い出すと涙が止まらなくなる。最後の最後に親族にたくさん会え、大好きな孫の顔を見れたのはよかったのではないかと思いたい。今日のことを忘れたくないためにここに書き記した。祖父がくれた偉大な愛を、忘れずに生きていく。
※追加(2024.12.25 ※修正 2024.12.27)
祖父に会いに行った。今にも起きて「おう!」と声かけてきそうで、もう生きていないなんて信じられなかった。苦しんでいる表情でもないから、本当にピンピンコロリしたんだと思う。
祖父のスマホを見たところ、親戚のグループLINEに送るためにクリスマスのGIFをたくさん保存していたらしい。本当にかわいい祖父だった。毎回新年の挨拶や誰かの誕生日には1番に祝ってくれて、いろんなGIFを保存して送ってくれていた。それももう、見ることができない。先日第一希望の面接が通過して、それを母に報告したら「祖父にもLINEしといてね!」と言われたけど、返事が返ってこないのがしんどくて送ることができなかった。もう少し心の余裕を取り戻すのに時間がかかりそうである。
いろんな人が会いにきてくれて、たくさんの人がお葬式に参列してくれるらしい。本当に人格者で誰にでも明るい人だったんだなあと思った。祖父は亡くなったら連絡する人リストを作っていたらしく、あまりの丁寧さに感嘆した。さすがの祖父である。祖母もなんとか元気にやってそうで安心した。お葬式までまた何回か会いに行く。
※二十祭のセトリネタバレも含みますので踏みたくない方はお戻りください。
ふとTwitter(と頑なに呼ばせていただく)のおすすめ欄に二十祭のセトリなどのレポが流れてきた。
そこには∞UPPERSの名曲やずっとずっと好きで仕方がなかったYOU CAN SEEなど私が青春を捧げてきたあの頃の曲たちが詰まっていた。
ふと色々な事があったなと回顧してしまったので独り言をここに書きたいと思う。現在の5人を応援しているeighterの方にとっては気持ちのいい話では無いです。
自分はeighterになってからずっと錦戸担で、脱退をきっかけにエイトを降りた人間だ。Y&Jの時代から地方住みではあったがお小遣いやバイト代を握りしめて現場に通い、個別FCが出来た後の会員番号は5桁でちょっとした優越感を覚えたりなんかもした。
脱退当時は「すばるの脱退から1年少々しか経ってないのに早くない?」という気持ちが最初に来た。後々ゆっくり考えたら(自担の贔屓目というのはもちろんあるのだろうけど)明らかにセンターとして引っ張らなくてはという重圧に疲れてしまったのかというのは察せた。
当初はNEWSの脱退時も「でもNEWSというグループが好きだし応援しよう!」と(メンバーの未成年とのあれこれがすっぱ抜かれるまでは)応援していたし、5人になったエイトももちろん応援しよう!と47都道府県ツアーも行く気満々だった。
けれど、そんな勢いで買った「友よ」のセブンイレブン限定版に付属していたぼち夜を見て、私は更新し続けていたFCを流してしまったし、エイトの顔も見たく無くなった時があった。
もう手放してしまったので検証も出来ないのだけれど、ジャニーさんのお葬式で錦戸さんは何を思ったのだろうかと横山さんが呟いた時に、何も考えてないだろと大倉さんが吐き捨てるように言ったこと、記憶が朧気だけれどその後の話もどうにも錦戸さんの欠席裁判をしているようでとても嫌な気持ちになってしまった。
今思えば5人それぞれがいっぱいいっぱいで、そんな限界な中での言葉だったのかもしれないけれど、本人がいないところで悪口めいたことを、しかも「大切な夜」と銘打って限定盤として売り出されるものに収録されていることがとても嫌だった。もちろん自担にだって非はあるだろう(時系列は違うがソロになった後にファンネーム決めるの寒いという発言はかなりいただけなかった)けれど。
しかし私個人としては色々な現場に行くため、オタ活を謳歌するために土日休み+有給の多さで職場を選んでさあこれからガンガン稼いでガンガン楽しむぞというのに、オタ活の対象がそもそもバラバラになっていくような状況を目の当たりにしてしまって正直かなりメンタルにきた。一時期は名前を見るのまで嫌になってしまった。
今は時間が経つにつれて自分も離れてから落ち着いて当時を振り返ったり彼等の当時のインタビューなども見かけるようになり、情報を入れることで大分受け入れられるようになったと思う。改名を余儀なくされたことは辛かったけど、それでもEIGHTという言葉を使い続けてくれたことは素直に嬉しかったし5人で出ていたしゃべくり007は普通にゲラゲラ笑って見た。
まあ何が言いたいのかと言うと、どの立場からと言われるかもしれないけれど、それぞれメンバーがいた時代の名曲も無かったことにしないでくれてありがとう。あの頃の演出も、オタクが求めていたものを形にしてくれてありがとう。
辛い事があっても応援し続けてきた現役eighterの方々も、おめでとうございます。
これからも突っ走り続けてください。
大きさから推測するに、1週間前には心臓が止まってしまっていたそう。
何より心がからっぽだ。
悲しくて泣いてしまった、というものかなぁと思っていたが、不思議と涙は出ない。
昔祖父のお葬式に出たときもこんな感じだったなぁ、と思い出した。
来週手術をする予定だ。
今は育休中で、来年の4月から産休に入る予定だったから、いきなり職場復帰になる。連絡しないと。
保育園の申し込みをしなくてはならない。
もうこっそり報告していた友人にはいつ伝えよう。来週会う時に言わなきゃダメかな。
9週だから、赤ちゃんの遺伝的な要因での流産であるというのは頭では分かっている。
でも、上の子がたくさん激突してきたからかなぁ、とか手足口病をやっちゃったからかなぁ、とか
つわりで毎日吐いていて1.5kg減ってしまったからかなぁ、とかいろいろとよぎる。
アラサーなので1~2割が初期流産をしてしまうということは知っている。
産後の生理が安定していなくて、タイミングをがんばって授かったからまだ準備ができていなかったのかなぁ。
なんとなく7週のときのエコーも子宮?胎嚢?の形が変かな?とか、なんだか上の子のときより胎芽のエコーがぼんやりしているよなぁ、とか思っていた。
いったいいつから分かったのかは分からないし、何が原因なのかも分からないけど、とにかくつらい気持ち。
まだ少し出ているおなか。
先月思いもよらず多くの方々にお読みいただいたカマキリの話だが、今朝虫かごを覗いてみると地面に横たわって死んでいた。我が家に来てからちょうど1ヶ月半のことになる。
家に来てからのほとんどの期間をハリガネムシの寄生に気を揉んで心配し続けてきたカマキリだったが、おそらく死因は消化不良によって内臓が弱ってしまったことが原因だろうと思う。人間の食べる餌だけではやはり限界があったのだろう。
キッチンペーパーを敷いた虫かごの床に、カマを頭の横に添えて人がすやすやと横寝するような姿勢で倒れていて、見ようによってはかわいらしい仕草の亡骸だった。
先週末に外出先から戻ってみると、とても水分量の多い糞をしていてだいぶ気がかりではあった。天井にぶら下がっていられないのか虫かごの低い位置の壁につかまるようになったり、夜に照明がつくと目に見えて取り乱すようになったり、不調の兆しは確かにあったと思う。
特に昨晩は寝る前にずいぶんと長いこと腹を曲げていて、それを見た娘が心配していた。その仕草は糞をする時のカマキリの一般的な姿勢で、逆さまにぶら下がっている時に自分の糞で体を汚さないための工夫であるらしい旨を調べていた私はそれほど強い心配をしなかったのだが、思えばあれが最期の苦しみであったのかもしれない。
一説によるとハリガネムシはカマキリの羽化から30〜45日ほどで脱出を図ることが多いという。だから私は密かに飼育45日目を節目だと勝手に思っていた。我が家に来る直前にハリガネムシの幼虫が入った餌を食べてしまったとしても、45日を過ぎればもう寄生の心配はしなくていいだろう、あとは寒さや寿命に備えて引き続き長生きを祈ろうと思っていた。冬まで生きれば隙間風の多い極寒の我が家で生き残らせる手段として、私の部屋のこたつの上で生活するこたつカマキリが爆誕するだろうなと思っていた。
我が家に来て少ししてから急に翅が黒ずんできてしまって心配していたのだが、近くで見てみると黒いだけでなく透明にもなっていて、かなり早くから傷んでいたのだろうと思う。前回の増田では前翅と後翅が入れ替わってしまったのではないかと書いたが、つるつるした緑色の部分(前翅?)とざらざらした透明な部分(後翅?)は、着物の合わせのようにはっきりと境目が見えるのにぴったりくっついてうまく分離できなかった。生きていた時は翅を広げたりすればきちんと分かれていたのかもしれない。
本当は、飼育45日を過ぎて元気でいるようなら、近況をまた増田に書こうと思って半月くらい前からずっと下書きを保存していた。そのほとんどが没になってしまった。
10月に入ってから魚肉ソーセージを食べなくなったので普通の肉を週二でやっていた事とか、ちゃんと餌を顔に近づけると自分で持って食べるようになり横着カマキリの汚名を返上していた事とか、一度サーモンの刺身をやってみたら大パニックを起こして煮干し以来の脱走の危機を迎えていた事とか、我が家のベランダにハラビロのメスカマキリまでやってきて天の采配かと大興奮したがすぐにどこかへ行ってしまった事とかをもっと長々と書いていた。こういう形での続報になってしまってとても残念だ。
カマキリの死を知った娘は思いのほかに長くさめざめと泣いて、私はカマキリの死自体よりは、そんな娘がかわいそうで悲しいという気持ちの方が幾分強かった。それでも、この増田を書きながらカマキリの亡骸について記述している際には少々涙が出た。かわいかったなと意識をすると悲しい。
昆虫が平気な親であれば、インターネットでハリガネムシの心配がないなにがしかの幼虫や餌用の活コオロギなどを買い、別に飼育しておいて、もっと長生きさせる手立てはあったかもしれない。残念ながらそこまでする根性がなかった。そういう意味での悔いはあるが、昆虫が怖くて触れない親なりにできることは全てしたと思っている。
前回の増田で我が家のカマキリをかわいいと思ってくださった方々、本当にどうもありがとう。
力も経験も全く足りず、あまり長生きをさせることはできなかった。それでもたくさん甘やかして暮らした。カマキリはどうかわからないが人間は幸せだったと思う。
すぐ埋めるのは嫌だと娘が言うので、少しだけ家に置いておいて、いずれベランダの鉢植えの花を添えて近くの公園の土に埋めに行くつもりだ。
-----------------
死んだ当日はとてもよく晴れて、次の明け方はおそろしく強い風が吹いた。風の音で目を覚まし、一緒に埋めようと思っていた鉢植えの花が吹き飛ばされるのが心配でベランダに出て鉢植えの位置を変えた。
朝再び起きるとカマキリの亡骸はだいぶ茶色く変色してしまっていて、これはもう埋めた方がいいだろうと思われ、娘も嫌々ながら承諾した。カマの部分だけはあまり腐るような中身がないのか、変色が少なく割合きれいな緑色を保っているのが印象的だった。
ほんの少しの間使っていた止まり木についていた木の実と、鉢植えの花をひとつ添えて公園の植え込みの根元に埋めた。
これが最後だからと娘に促すと、怖がって一度もカマキリに触れたことのなかった娘がこわごわと亡骸に触れ、指でつまんで墓穴に入れようとした。
恐る恐るだったので一度手を滑らせてしまって、キッチンペーパーに乗せたカマキリの亡骸がコロリと裏返しに転がり、まるでこちらを向いて最後のお別れでもするかのような姿勢になって、思わずグッと涙を堪えた。それでも娘は亡骸をきちんと墓穴におさめることができた。二人で半べそをかきながら土をかけて葬った。
死んだ日はよく晴れ、明け方に早く葬ってほしいと言わんばかりの強い風が吹き、埋葬した後には前日に輪をかけてよい快晴に恵まれたので、その話をして「ちゃんとお葬式をしてもらえてよかったと思っているのかもね」と娘に言ったら「天気の子だぁ」と喜んでいた。
今は「早く生まれ変わってまた来てほしい」と言っている。
私は「可愛さを認められて次はネコにでも生まれ変わり、どこかの優しい飼主に一生大事に可愛がられて過ごすといい」と思っている。
我が家は、実家に近い住まいに住んでいるので、季節の変わり目やお盆には、お寺さんが来てくれる。
大体30分から1時間ぐらい。読経して、雑談して、お茶飲んで、だいたい5,000円ぐらい包んでる。(今のところ両親が負担している。)残念ながら宗派は伏せておく。
読経の時間は、瞑想時間に利用している。一定のリズムで詠まれる読経は、瞑想に入るバックグラウンドミュージックとして、とても良い。むしろ大学合唱部レベルの訓練を受けた人の生歌を聴きながら、瞑想できるとは、なんと贅沢なのだろう。
ちゃんとした線香を使えば、心地よい空間が演出できる。個人的な推し線香は白壇である。1,500円ぐらい出せば、ちゃんとした白壇の香りが嗅げるので、スタバのコーヒー3杯分で、100回ぐらい楽しめる。
そう、お寺さんがくる空間というのは、最近のスピリチュアルで推される要素をすべて満たした超良好空間なのである。
そして読経が終わると、お寺さんとの雑談をしている。近所の話題だったり、季節の事柄だったり、仏像の話だったり。
なによりもお伝えしたいのは、お寺さんの傾聴力の高さである。
色んな人と雑談するの仕事みたなものだと思うが、とても柔らかい物腰で聞いてくれる。このレベルの傾聴力があって、仕事できる人は、普通に都内で働いてる人なら、年収1000万クラスは硬いと思う。※某1on1支援企業に勤めている人を知ってるが、その人とくらべても遜色ないどころか普通にレベルはお寺さんの方が上かも。ビジネス的な側面だと1on1企業の方がわかってくれる感はあるだろうけど、一方のお寺さんには、地の利がある点で、わかってくれる感は上にくることがある。
坐禅・瞑想体験は、普通にセミナーに申し込んだら1回5000円~とか。某企業の1on1に申し込んだら普通に1時間数万ぐらいとか。自宅に来てくれた上で、2つセットで受けれるサービスなんで、普通はない。
このライフハックの一番むずかしい点は、接点を持つのが難しいところだ。入会要件が不明だからね。自分もあえて、寺を探そうとはならない。郊外住まいなのだが、いまのお寺さんは、お祖父さんが引っ越しをするタイミングで、本山に相談して紹介してもらったところだそう。
今のお寺さんの先代の人は、読経がうまくなかったので、おばあちゃんから難癖つけられていた。うまく代換わりで、お寺さんガチャに成功しただけかもれない。
お葬式になれば、だいたいちゃんとしたところを紹介してくれるし、変な葬儀会社紹介されてぼったくられるより安心。もし5,000が安すぎると思うなら、そのタイミングで課金すれば良いだけではある。懐事情も相談すれば良い※そういう意味では、お布施の多寡を問わないのは、所得の再分配機能をになっている。とも言える。
自分ひとりの体験では説得力に欠けると思うので、もう一事例を紹介しておく。奥さんの実家はそこそこ田舎なため、高齢化が進んでいる。そういう中で、ちゃんとニーズに合った活動をしていて、エンディングノートをテーマにした講演や、老後の資産活用のセミナーなんかもやっている。お寺で。下手な営業で詐欺に引っかかるよりはまともな人を呼んでくれているので、また信頼感をベースにしたコミュニティが維持されているようだ。
ということで、ライフハックとしてのお寺さんを紹介した。自分はたぶん、このままお寺さんとの関係は続けるだろうし、おそらくどこかでまた代替わりするかもしれない。お寺さんの良さみたいなものが少しでも、伝われば幸いである。
ここには、意識が低いまま右往左往した結果、どこまでなら手を抜けるかの限界チャレンジの記録になります。参考にしてください。
身も蓋も無いんですが、小さなお葬式でも公益社でも良いんで、手配会社に事前に入会しておきましょう。
ちょっとしたTIPS!「俺が死ぬ準備をするのか!」と激昂する親族もいるので、申込時は「自分が死んだとき用に」として、申し込みましょう。
これしとくだけで、格安や最安ではないものの、ボラれる心配なくコースでお出しされるのでお財布と相談して決められます。
あと、自宅の場合はヤバそうなときに即絶対に医者を呼んでください。お前は診断しなくていいから必ず医者を呼べ。死にそうなんですと救急に電話でも良い。
医者に死亡診断書を書いてもらえない場合、もれなく変死扱いで警察が入ってきて検死されてクッソめんどうくさいです。意識低い場合は絶対に避けましょう。面倒くさいです。
意識低いんで、親族が勝手に呼ばない限り、家族葬で押し切りましょう。
あと、香典は香典返しとかお返しとかクッソ面倒なんで、全部一律断りましょう。
断り切れない親族のが来たときは、「うちの地域ではこうなってたはず」という押し出しで一律3千円のカタログギフトを送って終わりにしましょう。手配会社がパンフくれます。
あと、念押しされると思いますが、以下は絶対になくさないように。
まあ、ちゃんと手配会社に連絡ついてれば、ハイハイ言ってるうちに火葬までは終わって無くさないように骨壺に一緒に埋葬許可証までは入れてもらえます。
遺産相続で揉めそうですか?税理士を挟みましょう。第三者入れないと必ずこじれます。40万~100万くらいになるかな?
銀行で遺産相続手続き代行みたいなのやってますが、お金持ち以外は利用することないです。結局全部自分で集めてくることになるので。
自分の地域の税理士会のWebサイト→無料電話相談(一般的なことだけ)→税理士紹介して→有料で税理士に依頼
この流れが鉄板です。
ここで税理士に入ってもらえると、良くわからん書類とか全部全部プロに聞けるので、クッソ楽です。
特に、親が死んで兄弟姉妹の仲が悪いとか最悪なので、税理士挟んでください。意識の低さは金で解決だ。
金が無い?それは次で。
もし税理士に頼まなかった場合、(税理士に頼んでもだいたいは)自分でやることになるので
全部。
金にガメツイなら、まあ一日二日の引き落としも我慢ならんのだろうけど、意識低いんだから諦めろ。
税理士に依頼→遺族でもめるだけもめる→遺産分割協議書ができる→遺産相続の手続き開始
銀行とか電話とか新聞とかNHKとかね、別に死んだ後も勝手に引き落としされてても問題ないの。勿体ないけど。
どーせ、メインバンクに連絡して遺産分割協議書送って解約して振り込まれたら、引き落とそうとしても引き落とせなくなってあっちからハガキとか送ってくるから。
カードとか、細々したサブスクとかね、ちゃんとした人なら手順踏んで解約するんだろうけど、銀行解約したらカードも勝手に止まるし、あと手の出しようが無いから。
で、死亡診断書のコピー送り付けたら、たいていそっから先のサブスク代金の引き落としとか無かったことにしてくれるから。
自営業でメインバンクが決まっててデカめの借金があるとかじゃない限り、まあたいてい何とかなるよ。
闇金とか総量規制外の借金は踏み倒したらええねん。もめたら警察を呼べ。
意識低いなら、貯金しておこう。税理士に依頼できるだけでクッソ楽です。
やっぱねー、「おいあの銀行の手続き止まってんぞ、書類に実印押して印鑑登録証明書と一緒にレターパックで送って来いよ」とか、中悪い親族に連絡とか死ぬほどダルイから。
税理士挟んで、督促してもらったり、税理士から言って書類送ってもらったりとかしてもらえ。
もしも自分一人とか、姉妹めっちゃ仲良しでーすとか、書類仕事なら慣れてるんでとかなら、まあ自分でがんばったらええで。
お役所仕事とは言うけど、人間必ずいずれ死ぬんです。そしてそういう人はいっぱいいます。つまり効率化されてるんで、まあ流れ作業でたいていなんとかしてくれます。
税務署の窓口は、電話相談とか、予約相談とか、もりもり相談しましょう。
意識低いんだから相続税納税したいんだけどどうしたら良いっスかって感じで行って邪険にされることは無いです。
準確定申告、相続税の申告と納付、これさえ終わっちゃえば、まああとはのんびり処理したらええのよ。
別に通帳もカードも無くしましたに〇つけて書類出したら処理してもらえるし、保険もまとめて一括で調べてくれるサービスがあってそこに載ってたら、載ってるんすけどで連絡したらあとなんとでもなるから。
マジで、「そこに口座を持ってました」「そこで保険をかけてました」って事実が分かれば、あと故人の持ち物とか一切探さなくて良いから。全部無くしたって言えばなんとでもなるから。
ほんで、口座解約したら引き落とし無効になって、相手側から督促のハガキ来てそこに書いてある連絡先に、この日に死んだんすけど解約してくれや、書類送ってこいや、で、あとチマチマ処理する感じ。
電話の名義変更とか、電気の名義変更とか、ネットの名義変更とか、名義変更系とかは、相手から連絡受けてそれから動いたんで良いから。怒られたりしないし。
家と土地の名義変更は慣れたら一発で自分で出来るんだけど、まあプロに頼んでお金で解決でも良いとは思うよ。
親父の通帳だけで一家全員生活してるとかの場合?普通に引き落として暮らしてたらええがな。落ち着いてから銀行に「いや死にましてん」って言って相続手続き開始したら良いから。
死んだらさー、すぐ連絡してくださいとか凍結されるとかいろいろ言われるけど、手続きが遅れても別に私企業から罰則食らったりしないから。
準確定申告と、相続税の納付だけは、期限内にやっとかないとめんどうなので、それ最優先で。
みんなねー、ちゃんとやりすぎ。手配会社に言われるままにハイハイ言ってれば、パンフもくれれば何したらいいかのリストももらえるから。役所もそういうリストくれるし。
葬祭手配会社に事前に連絡してパンフ貰っとけ。死んだら即そこに連絡しろ24時間繋がるから。
超節約したいとかじゃない限り、税理士に依頼しろ。あとはプロにバンバン聞け。
相続登記は義務化されたけど、3年以内だから。それも税務署に聞いたら(もよりの法務局を)教えてくれるし。
税務署以外の期日は全部無視して好きにしたらええねん。特に罰則もないし、ホントに必要な書類は、マジで埋葬許可証くらいだから。
まあ、年単位でボチボチやったらええねん。頑張ってくれ。
習い事で仲良くなったあの子は、同い年なのにずっと賢くて大人っぽかった。かっけーなーってぼんやり思ってた。大人になってもこれからも、ずーっとぐだぐだしながら定期的にお互いの近況報告とかするんだと思ってた頃、来なくなった。もともと学校も違うし、今年受験だし、忙しいんだろうと思ってた。そしたら共通の友人から「あいつ死んだよ」「そういえばお葬式に来てなかったね」と言われて、目の前が真っ暗になった。まだ17じゃん。なんで?ていうか、なんで私は呼ばれなかったんだ。
自殺だったらしい。らしい、というのは彼女も死因までは教えてもらえなかったが、病気だったら絶対にしないような死に顔だったそうだ。本人が書いた手紙と、お葬式に呼ぶ人間のリストも作られていたそうだ。私はそれから外されていた。
私はあの子にとって友達でもなんでもなかったんだろう。私はバカでデリカシーがなかったから、きっと迷惑をかけたんだろう。嫌いだったんだろう。
お互いの住所も電話番号もわからない。当然お墓もわからない。でも、もしかしたら、死んだなんてのは嘘なんじゃないかな、と思っている。私のことが鬱陶しくて、一芝居打ったんじゃないかと、本当はどこかで幸せに暮らしているんじゃないかと。
吉儀(ガッ・イー)とは何?
一般的に喪主が香典袋(不祝儀袋)もしくは、供花(献花)をいただくのですが、その喪主からのお返しとして参列された方には吉儀(ガッ・イー)が渡されます。日本でいう所謂、お香典返しです。吉儀(ガッ・イー)は基本的に涙を拭くためにティッシュ1枚と悲しく苦い状態から少し甘味を与えてくれる飴ちゃん1つ、そして昔ならば、バスやMTRの片道にちょうど良い1ドル(この場に戻ってこないような意味で)が入ってます。今ではその1ドルを寄付することが多いです。
葬儀の参列者は、故人の(八字バッ・ジー)所謂四柱推命での命式が合わない人は参列しないほうが良いとされています。例えば、午(うま)年の人は、子(ねずみ)年のお葬式に出ない方がいいという考えです。
葬儀が終わったら、遺族に対して【再見ジョイ・ギン】と言わないように。
【再見ジョイ・ギン】日本に訳すとさよならという意味もあり、もっと掘り下げると「またね!」や「また会いましょう!」という意味なので、縁起が悪いです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/dailyportalz.jp/kiji/Mayday-study
このエントリのブコメ見て初めてはっきり認識したんだけど、自分って航空機事故遺族なんだよなあ
なんか、あ、そうだったなって
今初めて腑に落ちた感じになってる
当時小学校低学年だったからはっきり覚えてなくてすべてが大人の伝聞で、事故の連絡が来てからの大人たちの慌ただしさと情報のなさと、夜中にきょうだいと二人で家で待ちながら不安になったことと、「重体」ってだってまだ生きてるってことだから助かる可能性あるんでしょ?って一人だけ勘違いしてて楽観的で場違いなことを言っちゃったことと、たびたび、ついこの間もかっこいい車でマックに連れて行ってくれた人が死ぬのかもしれないという不思議さとどこか詰め所に移動してからやっぱりきょうだいと身を寄せ合って読んだ「燃える!お兄さん」がこんなときでも面白くて二人で同じとこで噴き出しちゃって気まずくなったこととか、そんなことだけ覚えている
結局亡くなったあとのお葬式で、その人のお母さんがほら目を開けた!開けた!って棺の中の人に縋りついて泣いててお葬式って本当にこうなんだなって思った
しかしこれらの記憶ももう正確かどうかわからないくらいの時間が経った
自分は喪主になった人の家族でその苦しんだ人も突然の病で数年前に看取って、あのときのことを話したり泣いたりはっきり覚えている人もだんだんこの世に少なくなってきた
遺族同士で連絡を取り合うでもない、誰かに実は自分の家族は…と積極的に話したいことでもない
みんな多分意識的に黙っていたのだ
しかし航空事故なので詳細な事故調報告も裁判記録も今でもネット上にはっきりこと細かに残っている
数年前初めて意識して検索してそれを見つけたとき、やっとなにがあったのか初めてわかった気がした
本当に大変な事故だったんだよな、その後のことも
その後あの人もあの人もあの人も自分も本当によく生きてきたものだ
こんなの大人になってからしかわからないよ本当には、そして大人だって決して体験したくなかったに違いない、という類の重たいもので自分の体験は意識的に上書きされた
かつての実際上の体験としては風化しているものがテキストではつまびらかに入ってきてあのときより生々しく感じられた
それでも自分が遺族って気分じゃなかったけど、なんか昨日なぜかストンと納得した
嫌だなあという気持ちも悲しいなという気持ちもない、他人ごとではないけど、ただそうなんだったなって把握があった
あくまで自分にとってはだけど、こういう体験ってごく個人的なものになってしまっているということだろう
もちろん個別のその事故を面白おかしく扱われれば腹も立ったり困惑したりもするのだろうけど
なんていうか、遺族って結構そこらじゅうにいて珍しくない人たちだと思う
不謹慎かそうでないか論戦もきっと茫洋としながら黙って見ているだけだ
なんとなくそのことだけわかっていてはほしいとは思った
ごめん、あまり詳しくは書けない
書きたかったことは最後の何行かの部分で事故の詳細そのものじゃないから
かなりぼんやりさせたつもりだけど、このお葬式や詰め所の書き方でもその場にいた人や自分のきょうだいが覚えていればあああの事故だな、書いたのはあの子かなってわかってしまうと思う
(自分にとっては書いておく必要があった)個人の雑感だとしてもこうして書き残すことを快く思わない関係者の人もいるだろうし、そういう人たちに悲しい思いをさせたいわけじゃない
なら書くなって話だけどさ……
私たちは三人で出かけたりご飯を食べたりすることも多く、仲が良かった。
しかし、Bは若くして亡くなった。
でもAは全く泣いていなかった。
悲しくないはずはないのに。私はAとBが仲良しであるのを知っているし、仲睦まじい姿を何度も、何度も何度も本当に見てきたのだから。
そんなBがお葬式では最後まで、涙ひとつ見せることはなかった。
だから彼女はきっと、悲しみに強い人間なんだと、そう思っていた。
少し前に、Aの家に遊びに行ったことがあった。
大ヒット作品なだけあり、私もAも一度は見たことがある作品だ。
Aがまた見たくなったからと私を誘い、こうして二人での上映会が始まった。
見たのは多少前とはいえ結構覚えていて、それでも迫力のある戦闘シーンなんかは今に見ても抜群に面白い!
あーやっぱりすごい映画だなぁーって思って見ていたら横から鼻をすするような音が目立ち始めて、え?なに?とAのことを見ると彼女は泣いていた。
鼻水も出ていて、それをティッシュで包み込もうとしていたところだった。それからティッシュを追加して目元に持って行くと開いた口から声を上げてわぁーんわぁーんと泣き声を上げ始めた。
いい大人がアニメ見て慟哭みたいに泣くとか…とそれを見て思わず、正直ちょっと引いてた。
煉獄さんが死にそうになりながらもぐっと堪えて戦うところとか、乗客の安否をずっと気にしているところとか、あと炭治郎たちのことずっと気にかけてくれていて、そういったところがもう全部すべてエモくて感動するから
とAは八矢継ぎ早に語り、最後の煉獄さんが尽きるシーンに対してはボロボロと涙を流しながらそのシーンをじっと見つめていた。
その時、Aは何を考えていたのだろうかと私は思う。私は今でも覚えている。
なのにAはBのお葬式では涙を一滴も垂らさず、鬼滅の無限列車編の映画では何度も何度も涙を流した。
というか、これだけじゃないかった。
別の日でも、今日発売の週刊〇〇読んだら推しのキャラが死んだ…といって横に座るとすぐに泣き出してしまうこともあった。
そうして私はAの涙を何度も見かけることはあった。でも涙の理由は漫画やアニメのキャラクターが死んだり、別れたりとか、そういうことでだった。
片や彼女は現実の友達の死には涙を見せない。取り乱したりもしないのだ。
はっきりいって、私は怖くなった。現実の友達には涙を流さないのに、アニメや漫画の存在しない、虚構に過ぎないキャラクターたちの生死には一喜一憂し、死ねば涙まで流して本気で悲しむ。
おかしいと思った。現実をおざなりにさせて、アニメや漫画の中のことでリアルに悲しんだり喜んだりするのって、どう考えたっておかしい。健全じゃないのは確かだ。
気持ち悪いって、本心ではそう思ってしまった。Aのあのような態度を見ていると、私は漫画を読みたいとは思えず、アニメも見たいと思えない。
でもたぶん、今の現実社会ではAのような子がたくさいん居てしまうんじゃないかと思ってしまう。
別にアニメやゲームで感動するなっていう話じゃない。でもそうした感情や慈しみは、少しでも現実の社会に向けてくれると嬉しい。
Aという友人がいた。
彼女は美人で聡明。周りに気遣いの出来る子で、優しくて、中学からの友人で親友だった。
その彼女が若くして亡くなった。癌だった。
彼女が病気であるのを知った時には本当に悲しかったし、お葬式ではずっと泣いてしまった。
Aは最後まで健気で周りに当たることもなく、最後まで聖人のように優しい子だった。
Aと私の共通の友人でCという子がいる。
彼女も中学からの友人で、私たちは三人でよく遊んだりしていて仲が良かった。
CもAのことが大好きだったし、だからAが亡くなった時には私と一緒にわんわん泣いた。
は?って思った。
信じられない。いや、信じたくない。
私の親友が若くして亡くなって、まだ悲しみが癒えないのに、その旦那と結婚したなんて。
泣きながらも、心の中では「このイケメン旦那を自分のものにしよう」って考えてたの?そう思うと鳥肌が立つほど気持ち悪い。
あの涙の裏には何が隠されていたんだろうか?もう心の中で彼のことを狙っていたの?Aの死を利用して、自分の欲望を満たす計画を立てていたの?
Cの報告を受けて、頭が真っ白になった。
なんで、どうして、そんなことができるの?私たちが彼女を失って悲しんでいるのを見て、同じ痛みを共有していると思っていたのに、裏でそんなことを考えていたなんて信じられない。本当に裏切れた気分で居る。
まるで彼女の死が二人の出会いのためにあったみたいに、そんな風に見えるのが本当に嫌だ。
Aは本当に旦那さんを愛していたのでAが生きていたらそんなこと絶対に許さなかったはずだ。
今でも信じられない。彼女が亡くなってまだ二年も経っていないのに、もう再婚の準備をしていたのかと思うとAの思いを踏みにじっているとしか思えない。
Aが亡くなってから私たちは友人同士で彼女の思い出を大切にしようと集まることもあった。思い返せばそんな中でCが彼のことを話題に出すことがあって、なんだか違和感を感じていた。
ある日みんなで集まった時に、Cが「〇〇さん(Aの旦那)とこの前映画を見に行ったの」と言い出した。みんな一瞬、凍りついた。Aのことを忘れたかのように普通に彼とデートしてるなんて。Aは映画が好きだった。
彼女が愛した映画館で、彼女の席に座っているCを想像するだけで、本当に吐き気がした。
それだけじゃない。CはAの好きだったカフェにもAの旦那と一緒に行っていた。彼女が亡くなった後、Cはまるで彼と一緒にいることが自然であるかのように振る舞っていた。Aが大切にしていた場所が、今やCと彼のデートスポットになってしまったなんて、考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
最もショックだったのは、CがAの誕生日に彼と一緒に過ごしていたこと。私たちはAを偲んで集まり、彼女の思い出を語り合っていたのに、Cは彼とディナーを楽しんでいたらしい。そのことを知ったとき、私は怒りで手が震えた。私たちがAのために用意した誕生日ケーキの前でAのことを偲んでいた時に、Cが彼とワインを飲んでいる光景を想像すると、どれだけAのことを考えずに行動しているかがよくわかる。
他の友人たちとも話してみたけど、皆同じ気持ちだ。あの旦那がイケメンだからって、そんなことをしていいわけがない。Aがどれだけ彼を愛していたか、私たちは知っている。Aの死をこんな形で利用するなんて本当に許せない。Cが何を考えているのか理解できないし、理解したくもない。
彼女が見ているかもしれない天国から、この状況をどう思っているのか考えるだけで胸が痛む。
Aという友人がいた。
彼女は美人で聡明。周りに気遣いの出来る子で、優しくて、中学からの友人で親友だった。
その彼女が若くして亡くなった。癌だった。
彼女が病気であるのを知った時には本当に悲しかったし、お葬式ではずっと泣いてしまった。
Aは最後まで健気で周りに当たることもなく、最後まで聖人のように優しい子だった。
Aと私の共通の友人でCという子がいる。
彼女も中学からの友人で、私たちは三人でよく遊んだりしていて仲が良かった。
CもAのことが大好きだったし、だからAが亡くなった時には私と一緒にわんわん泣いた。
は?って思った。
信じられない。いや、信じたくない。
私の親友が若くして亡くなって、まだ悲しみが癒えないのに、その旦那と結婚したなんて。
泣きながらも、心の中では「このイケメン旦那を自分のものにしよう」って考えてたの?そう思うと鳥肌が立つほど気持ち悪い。
あの涙の裏には何が隠されていたんだろうか?もう心の中で彼のことを狙っていたの?Aの死を利用して、自分の欲望を満たす計画を立てていたの?
Cの報告を受けて、頭が真っ白になった。
なんで、どうして、そんなことができるの?私たちが彼女を失って悲しんでいるのを見て、同じ痛みを共有していると思っていたのに、裏でそんなことを考えていたなんて信じられない。本当に裏切れた気分で居る。
まるで彼女の死が二人の出会いのためにあったみたいに、そんな風に見えるのが本当に嫌だ。
Aは本当に旦那さんを愛していたのでAが生きていたらそんなこと絶対に許さなかったはずだ。
今でも信じられない。彼女が亡くなってまだ二年も経っていないのに、もう再婚の準備をしていたのかと思うとAの思いを踏みにじっているとしか思えない。
Aが亡くなってから私たちは友人同士で彼女の思い出を大切にしようと集まることもあった。思い返せばそんな中でCが彼のことを話題に出すことがあって、なんだか違和感を感じていた。
ある日みんなで集まった時に、Cが「〇〇さん(Aの旦那)とこの前映画を見に行ったの」と言い出した。みんな一瞬、凍りついた。Aのことを忘れたかのように普通に彼とデートしてるなんて。Aは映画が好きだった。
彼女が愛した映画館で、彼女の席に座っているCを想像するだけで、本当に吐き気がした。
それだけじゃない。CはAの好きだったカフェにもAの旦那と一緒に行っていた。彼女が亡くなった後、Cはまるで彼と一緒にいることが自然であるかのように振る舞っていた。Aが大切にしていた場所が、今やCと彼のデートスポットになってしまったなんて、考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
最もショックだったのは、CがAの誕生日に彼と一緒に過ごしていたこと。私たちはAを偲んで集まり、彼女の思い出を語り合っていたのに、Cは彼とディナーを楽しんでいたらしい。そのことを知ったとき、私は怒りで手が震えた。私たちがAのために用意した誕生日ケーキの前でAのことを偲んでいた時に、Cが彼とワインを飲んでいる光景を想像すると、どれだけAのことを考えずに行動しているかがよくわかる。
他の友人たちとも話してみたけど、皆同じ気持ちだ。あの旦那がイケメンだからって、そんなことをしていいわけがない。Aがどれだけ彼を愛していたか、私たちは知っている。Aの死をこんな形で利用するなんて本当に許せない。Cが何を考えているのか理解できないし、理解したくもない。
彼女が見ているかもしれない天国から、この状況をどう思っているのか考えるだけで胸が痛む。
仕事柄、人の死をよく見る。
大往生だったと少し涙ぐみながらも笑うご家族を見る。それより十歳くらい年上の方が亡くなったときに泣き崩れる家族もいた。
そんなとき、いつも思う。
死んでもいいと周りが、本人が思えるのはいくつなんだろう。
幼い頃にずいぶん若い人が立て続けに亡くなった年があった。全員40を迎えることなく亡くなったはずだ。仏壇にランドセルが供えられているような歳の子まで。
別に何か災害があったわけでもなく、本当にその年だけ若い人が立て続けに。理由もバラバラだった。
私自身も幼く、曽祖母の葬式に幼稚園の頃に出たのが最初で最後くらいお葬式と無縁の年齢だった。曾祖母のお葬式は記憶にないが、100歳だかで亡くなった大往生だったので割と明るい雰囲気のお式だったらしい。
そういうわけで、記憶にあるお葬式はずいぶんと若い方が亡くなるものが最初だった。棺に故人のご母堂がすがりつき大泣きし、周りも早すぎる、どうして、と啜り泣いた。ご友人だかがたくさんいらっしゃって皆さん泣いていた。私もとてもよくしてもらってた方なのでもう会えないのだとわんわん泣いた。
だから、お葬式とはこれほどに苦しくて悲しくて辛いものなのだと思った。
次のお葬式はほんの一、二カ月後。
まだ十歳にもなってない友人のお葬式。
正直もっと悲惨だった。理解ができない年齢の子もいっぱいいた。家族ぐるみのお付き合いがあったので控室に母や他の友人の母たちが集まって、なんとかお式には出れるようにとその子の母親を立たせていた。
逆に少しも涙が出なかったのを覚えている。受容できていなかったのだと思う。
お葬式後、まだ幼かった下の兄弟に「明日になったら○○と遊べる?」と聞かれて、もう出来ないんだよと言ったときに初めて涙が出た。
その後も若い人が年内に亡くなった。どれも苦しいお式だった。
知り合いが若くして死に続けた年は後にも先にもこの年だけだ。あとはもう寿命だねと笑い合えるようなお式にしか行っていない。
がんで亡くなった祖父は闘病も長かったので家族も覚悟していたから、お疲れ様とみんなで話すことができた。
突然ぽっくりと、朝起きてこなかった方のお式はちょっと戸惑いが見受けられた。
いくつ、ではなく受容過程があったか、なのかもしれないと考えられるようになったのは今の職についてから。
でも、やっぱりそれだけでもない。若くしてがんなんかで長い間闘病の末の死ではやっぱり死を惜しむ。受容する期間はあったはずだけど。
だからいつも、いくつなのかなあ、と考えながら人の死を看取る。